日本刀の歴史
江戸時代~明治時代
日本刀の歴史
江戸時代~明治時代

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日本刀(刀剣)は、1596年をもって古刀から新刀へと分類が変化します。新刀になって以降、江戸時代に入り戦が減っていくことで、日本刀(刀剣)はまた独自の進化を遂げていくのです。そんな中での、江戸時代以降における日本刀(刀剣)の変遷についてご紹介します。

江戸時代

江戸時代以前、日本刀(刀剣)は原料の鉄を入手できる限られた地域で作刀をしていましたが、天下が太平し流通が発達すると全国のどこでも入手が可能に。そのため、流派による地域的特徴は薄れていき、刀工個人の個性が評価されるようになったのです。日本刀史上においては、1596年(慶長元年)~1614年(慶長19年)の慶長年間以後の物を「新刀」と言います。

その中でも、江戸時代初期の日本刀(刀剣)を「慶長新刀」(けいちょうしんとう)、中期の物を「寛文新刀」(かんぶんしんとう)、「元禄新刀」(げんろくしんとう)、後期(幕末)の物を「新々刀」と区別。日本刀(刀剣)は実用から象徴へと変化します。

江戸時代初期の主な戦い

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が病死したことにより、優勢だった「朝鮮出兵」から全軍が撤退。この件で、くすぶっていた諸大名達の対立が表面化します。それは、実際に朝鮮現地で戦っていた「武断派」の加藤清正福島正則対日本で政務を執っていた「文治派」の石田三成徳川家康は、この加藤清正・福島正則を味方に付け、石田三成と激しく対立することに。これが天下分け目の戦いと呼ばれる1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」です。

この結果、武断派の東軍が勝利。文治派の西軍、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は処刑され、西軍に味方した他の者は改易(武士の身分を剥奪、領地を没収される刑罰)、減封(領地の一部を没収、石高が削減される刑罰)を与えられることになりました。そして、ついに1603年(慶長8年)徳川家康は、征夷大将軍に任じられ「江戸幕府」を開くのです。

このとき、家康は62歳。1605年(慶長10年)に将軍職を三男・秀忠に譲ると、1615年(元和元年)に豊臣秀吉の子・秀頼との関係を絶つため、「大坂の役」(大坂冬の陣・夏の陣)を起こし、豊臣家を滅亡させます。大坂城は全焼。豊臣秀吉ゆかりの名刀のほとんどが焼失してしまい、徳川家はもはや無敵となるのです。

鎖国

鎖国

しかし、22年後の1637年(寛永14年)、史上最大の一揆「島原の乱」が起こります。これは過酷な税とキリスト教弾圧に対抗した農民による一揆でした。キリシタン・天草四郎時貞を首領とする30,000人の農民に対して、幕府は120,000人の兵を動員してようやく鎮圧。

これによりキリスト教の布教に脅威を感じた幕府は、当時世界を侵略していたスペイン・ポルトガルの謀略を察知し、外国人を追放、外国船の来航を禁止することになります。以降、200年余りの間「鎖国」を行なうことになるのです。

江戸時代初期の日本刀

関ヶ原の戦いにおける主な武器は、槍と鉄砲でした。大坂の役で家康はイギリスから「大砲」を購入し、豊臣側は度肝を抜かれたと語られています。このことから、日本刀(刀剣)は武器としては補助的な存在だったと言えますが、各武将は自らのアイデンティティ・ステータスとして、好んで日本刀(刀剣)を身に着けました。

そして、徳川家康が江戸に幕府を開くと、多くの刀鍛冶が江戸に集まるようになり、大坂・京都・陸奥などの諸国の大名も、各自の城下町に刀鍛冶を招聘したため、鍛刀は全国へと広がります。慶長年間に作られた日本刀(刀剣)は、慶長新刀と言います。豪華で雄大な桃山文化の影響を受け、力強く覇気あふれる豪壮な作風。大鋒/大切先で沸(にえ)の強い派手な刃文も流行します。鎌倉・南北朝時代の太刀を理想とし、古名刀の磨上げも盛んに行なわれました。

江戸時代初期の日本刀の特徴

年代 1603~1643年 中~大鋒 身幅
刃長 2尺4~5寸
(72.7~75.8cm)
反り 重ね
  • 鋒/切先(きっさき)…日本刀(刀剣)の先端部分。
  • 身幅(みはば)…棟(むね:刀身における刃の反対側に当たる背の部分)から刃先までの長さ。
  • 刃長(はちょう)…棟区(むねまち:上身と茎の境目で、棟の側にある部分)から鋒/切先までの長さ。
  • 反り(そり)…棟区から鋒/切先までを直線で結んだときに、棟と最も離れている部分の長さ。
  • 重ね(かさね)…刀身の厚さのこと。

江戸時代前期の主な戦い

明暦の大火

明暦の大火

3代将軍・家光の時代には「武断政治」(武力を発動して圧伏させる政治手法)が確立し、幕府の権力が強まります。ただし、武家諸法度違反などで多くの大名が改易となり、浪人が続出。1651年(慶安4年)に4代将軍・家綱が11歳で将軍職に就くと、倒幕を企てる軍学者・由井正雪は、不満を持った多くの浪人を従えて「慶安の変」(由井正雪の乱)を起こそうとします。けれども、未然に計画が発覚して失敗。正雪は自害します。

しかし、家綱政権はこの事件を教訓として、それまでの政策を見直します。「文治政治」(武力によらず、儒教・法令などによって世を治める政治手法)に改め、浪人対策にも尽力。幕藩支配体制は安定の方向へと進んだのです。

ところが、1657年(明暦3年)に「明暦の大火」が起こります。死者100,000人、江戸の街を焼き尽くす前代未聞の大火事。日本刀史上においてもとても不幸な大事件で、江戸城や大名家の蔵にあった古名刀が大量に焼失されてしまったのです。

江戸時代前期の日本刀

明暦の大火により大量の古名刀が焼失したことから、数万規模の日本刀需要が起こります。この頃、日本刀(刀剣)は実戦で使用されることが全くなくなりますが、武士は本道である武芸に励むことが推奨され、剣術が流行するようになりました。竹刀や木刀による稽古に合わせて、日本刀(刀剣)も反りのない両手で扱う打刀が主流になります。また、焼刃は簾(すだれ)をイメージした「簾刃」(すだれば)、打ち寄せる波をイメージした「濤乱刃」(とうらんば)等、装飾性の強い物が流行。寛文・延宝の年代を中心に作られたことから、寛文新刀と呼ばれます。

寛文新刀

寛文新刀

武士は帯刀、大小2本差しを義務付けられ、また町人も脇差を1本だけ差すことが許されたため、裕福な商人はこぞって脇差を注文。その脇差に合わせて、大金を投じて贅沢な刀装「拵」(こしらえ)も作りました。拵に携わる職人達は技術を磨き、刀装を芸術の域にまで高めるのです。

江戸時代前期の日本刀の特徴

年代 1644~1680年 小鋒 身幅 普通
刃長 2尺3寸(69.7cm) 反り 重ね
  • 鋒/切先(きっさき)…日本刀(刀剣)の先端部分。
  • 身幅(みはば)…棟(むね:刀身における刃の反対側に当たる背の部分)から刃先までの長さ。
  • 刃長(はちょう)…棟区(むねまち:上身と茎の境目で、棟の側にある部分)から鋒/切先までの長さ。
  • 反り(そり)…棟区から鋒/切先までを直線で結んだときに、棟と最も離れている部分の長さ。
  • 重ね(かさね)…刀身の厚さのこと。

江戸時代中期の主な戦い

江戸時代中期には、主な戦はありません。ただし、1683年(天和3年)に「天和の飢饉」、1691年(元禄4年)に「元禄の飢饉」、1732年(享保17年)には「享保の大飢饉」、1753年(宝暦3年)に「宝暦の飢饉」と飢饉が酷く続きます。

原因は、冷夏などの異常気象。特に享保の大飢饉は、江戸時代の3大飢饉のひとつと言われ、近畿地方、中国地方、四国地方、九州地方で250,000人が飢えで苦しみ、餓死者は12,000人にものぼったと言われています。(諸説では、さらに多くの餓死者が出たとも言われています。)

江戸時代中期の日本刀

1680年(延宝8年)5代将軍・綱吉が誕生。政治の安定と経済の発展を背景に、元禄文化と呼ばれる華やかな文化が開花します。幕府財政は初期には富裕であったものの、明暦の大火で焼失した江戸城や江戸市街の復興に多額の費用を要し、貯えがほとんどなくなります。それでも綱吉は贅沢な生活を送り、仏教への信仰から多くの寺院の造営を行なうなど、幕府の財政は悪化。1687年(貞享4年)「生類憐れみの令」を発令し、天下の悪政と揶揄され天災による飢饉にも苦しみます。諸藩も参勤交代や江戸藩邸での支出が嵩んで財政難に苦しみ、武士は貧窮。日本刀(刀剣)は需要を失くしてしまうのです。

しかし、1716 年(享保元年)8代将軍・吉宗の時代になると、吉宗は幕政の改革を進めます。武芸を奨励し、浜離宮の御前にて刀工に鍛刀させたり、本阿弥光忠に天下の名物刀の調査を命じ「享保名物帳」を書かせたり、刀工の地位回復に努めることも。このときに生まれたのが、元禄新刀です。元禄新刀は、元禄文化の華美をそのまま表現した優しい姿が特徴。絵画的装飾がエスカレートし、菊の花が描かれた「菊水刃」、富士山が描かれた「富士見西行」などが生まれました。

元禄新刀

元禄新刀

しかし、つまらない技巧的な代物だと、賛否両論。日本刀(刀剣)は、大名家間での贈答品として重宝される他に需要がなく、刀工不遇の時代となります。さらに享保の大飢饉という社会的な苦難も重なり、刀鍛冶は、剃刀・鉄・包丁を作る職人へと転職をやむなくされていくのです。

江戸時代中期の日本刀の特徴

年代 1681~1763年 中鋒 身幅
刃長 2尺3寸(67cm) 反り やや深 重ね
  • 鋒/切先(きっさき)…日本刀(刀剣)の先端部分。
  • 身幅(みはば)…棟(むね:刀身における刃の反対側に当たる背の部分)から刃先までの長さ。
  • 刃長(はちょう)…棟区(むねまち:上身と茎の境目で、棟の側にある部分)から鋒/切先までの長さ。
  • 反り(そり)…棟区から鋒/切先までを直線で結んだときに、棟と最も離れている部分の長さ。
  • 重ね(かさね)…刀身の厚さのこと。

江戸時代後期(幕末)の主な戦い

安政の大獄

1853年(嘉永6年)、アメリカのペリーが浦賀に来航すると、人々は混乱します。それは、アメリカの黒船があまりにも大きく立派で、脅威だったからです。大老・井伊直弼は勅許を得ないまま、1858年(安政5年)「日米修好通商条約」を締結。孝明天皇の怒りを買うことになります。そして「開国しようとする江戸幕府は軟弱。外国人を排斥し、天皇を敬う」という「尊王攘夷」(そんのうじょうい)運動が活発化。しかし大老・井伊直弼は、断固として強靱な態度を取って朝廷を押さえ、反対派の吉田松陰ら、大名・藩士を死刑に処します。これが「安政の大獄」と呼ばれる事件です。

このような弾圧に憤慨した水戸脱藩の志士達は、1860年(安政7年)に「桜田門外の変」と呼ばれる、井伊直弼を暗殺する事件を起こします。直弼の死後、あとを引き受けた安藤信正は、朝廷との融和を図って反幕府勢力を抑えるため、14代将軍・家茂(いえもち)と孝明天皇の妹・和宮を結婚させる「公武合体」を決行。これを尊王攘夷論者から非難され、1862年(文久2年)に「坂下門外の変」と呼ばれる襲撃事件に遭い、信正は負傷、失脚します。そんな中、家茂が急死し、15代将軍・慶喜が生まれます。

慶喜は幕府の立て直しを図りますが、連合していた薩長両藩と衝突。土佐藩藩士の後藤象二郎と坂本竜馬が間に入り、「大政奉還」が進められますが、結局は倒幕してしまい天皇を中心とする新政府が樹立するのです。

江戸時代後期(幕末)の日本刀

このように物騒な世の中になり、途絶えていた日本刀(刀剣)は注文が増えはじめます。

新々刀

新々刀

この時代の日本刀(刀剣)を、新々刀と言います。簡素化した新刀の鍛刀法に不満を持ち、水心子正秀(すいしんしまさひで)をはじめとする優秀な刀工が「刀剣復古論」(刀剣はすべからく鎌倉時代に復古することが必要である)を提唱。鎌倉・南北朝時代の日本刀(刀剣)を研究、再現を試みます。ほとんどの刀工が賛同し、古い時代の日本刀(刀剣)の模倣をこぞって行なうことになったのです。

江戸時代後期(幕末)の日本刀の特徴

地鉄が無地風。身幅が広く、重ねが厚く、長寸、大鋒/大切先。刃文は、評判の良い相州物や大坂の助廣を写した華やかな物が流行します。しかし、いずれも表面的な模倣に過ぎず、鎌倉・南北朝時代とは一線を画す代物でした。

年代 1764~1867年 大鋒 身幅
刃長 2尺5~6寸
(94.7~98.5cm)
反り 重ね
  • 鋒/切先(きっさき)…日本刀(刀剣)の先端部分。
  • 身幅(みはば)…棟(むね:刀身における刃の反対側に当たる背の部分)から刃先までの長さ。
  • 刃長(はちょう)…棟区(むねまち:上身と茎の境目で、棟の側にある部分)から鋒/切先までの長さ。
  • 反り(そり)…棟区から鋒/切先までを直線で結んだときに、棟と最も離れている部分の長さ。
  • 重ね(かさね)…刀身の厚さのこと。

明治時代

1868年(明治元年)明治天皇が即位し、明治政府が誕生。江戸を「東京」と改め、首都を東京に移します。明治政府が行なった主な政策は「廃藩置県」、「四民平等」、「地租改正」、「徴兵規則」、「学制の導入」そして「廃刀令」。武士の特権が悉く廃止され、これによって数々の内紛も勃発します。

明治新政府は欧米列強を模範として、武器として小銃を採用。日本刀(刀剣)は需要を失くし、軍刀としてサーベルやサーベル用地金を使用した「村田刀」を採用するのです。この1876年(明治9年)の廃刀令から現在までの日本刀(刀剣)を「現代刀」と言います。

明治時代の主な戦い

戊辰戦争

戊辰戦争

1868年(明治元年)「鳥羽・伏見の戦い」が起こります。これは、旧江戸幕府軍(徳川慶喜)が新政府(薩摩藩・長州藩)に反発して起こした戦いです。結局旧幕府軍が敗北し、慶喜は助命と引き換えに江戸城を明け渡して静岡に移封します。

しかし再度、旧幕府軍の奥羽藩・北越藩は連合を組んで奥羽越列藩同盟を結び「奥羽・北陸戦争」、続いて会津藩が「会津戦争」、そして旧幕府・海軍副総裁の榎本武揚らが「箱館戦争」を起こしますが、すべて新政府が勝利。この一連の戦いを「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)と言います。この内戦の結果、旧幕府体制は根底から崩壊し、明治絶対主義国家確立の道が開かれることになったのです。

西南戦争

西南戦争

また、1873年(明治6年)に「征韓論」が起こることで、数々の内紛が発生します。征韓論とは、日本が朝鮮に修好を求めたけれど朝鮮は鎖国で交渉を拒絶。政府はこれを国辱として、朝鮮へ出兵するべきという派(西郷隆盛、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平)に対して、時期尚早とする派(岩倉具視、大久保利通、木戸孝充)の間で行なわれた論争のことです。これにより出兵派(西郷に同調した政府官僚・軍人・政治家600人余り)が一斉に辞職することになりました。怒った江藤新平は、1874年(明治7年)に「佐賀の乱」を起こしますが失敗し、さらし首に処せられます。

そんな矢先、1875年(明治8年)に「江華島事件」が起こります。これは、朝鮮半島の西沿岸で日本艦が朝鮮に砲撃された事件。これを機に朝鮮に開国させ、不平等条約「日朝修好条規」を結ばせることに成功します。それでも、征韓論に敗れて廃刀令など士族のプライドを傷付けられた西郷隆盛は、1877年(明治10年)に「西南戦争」を発起。鎮圧され、西郷は自害するという結果になるのです。

日清戦争

日清戦争

1882年(明治15年)には「壬午事変」(じんごじへん)が起こります。これは親日で日朝修好条規を結んだ閔妃(ミンビ)政権に反対して、大院君が軍隊を動かした事件。朝鮮の首都ソウルで日本人軍事教官殺害、日本大使館焼き討ち事件に発展します。閔妃は清国に助けを求め、結局大院君は敗北。日本は朝鮮に賠償を請求し、「済物浦条約」(さいもっぽじょうやく)を締結。こうして賠償金、駐兵権を獲得し、開港場の権益も拡大させるのです。

一方、清国も朝鮮支配を強化。朝鮮は清国からの独立を目指し、1884年(明治17年)「甲申事変」(こうしんじへん)が起こります。これが1894年(明治27年)の「日清戦争」へと発展することになるのです。日清戦争とは、日本と清国が朝鮮の支配権を争った戦いです。結果は日本が勝利し、「日清講和条約」が結ばれました。しかし、条約から6日後にロシア・イギリス・フランスの「三国干渉」が行なわれ、戦利した遼東半島の放棄を求められ、日本は仕方なく了承。ロシアを恨むようになります。朝鮮は清国からの独立が認められ、国号を大韓帝国と改名します。

さらに、1904年(明治37年)「日露戦争」が勃発。これは日本とロシアによる、朝鮮・満州の支配権をめぐる対立です。これも、日本が勝利。ポーツマス条約を結び、朝鮮の支配権、遼東半島、満州の租借権を獲得し、サハリン島南部を領土とします。そして、1910年(明治43年)韓国併合が行なわれ、日本はついに大韓帝国を完全な植民地として支配します。

明治時代の日本刀

1876年(明治9年)の廃刀令をはじめ、武士の様々な特権は廃止されます。日本刀(刀剣)の需要はほとんどなくなり、多くの刀工が職を失くすことに。

1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発令されると、通称として国号を「大日本帝国」と呼ぶようになり、日本軍は軍装品として軍刀を採用します。

当初の軍刀は、欧米列強を模範としたため、刀身・拵とも西洋風のサーベルでした。しかし、西南戦争時においての抜刀隊の活躍から、日本刀(刀剣)が再評価されることに。次第にサーベルの拵に、日本刀(刀剣)の刀身や村田刀(裁断した日本刀とゾーリンゲン鋼をもととして考案された廉価な日本刀(刀剣)等を佩用することが通例となるのです。

軍刀には、陸軍で採用された「明治19年制式将校准士官刀」、「三十二年式軍刀」、海軍で採用された長剣、短剣等があります。

明治時代の日本刀の特徴

年代 1868~1911年 小鋒 身幅
刃長 約2尺2寸(66cm) 反り 重ね
  • 鋒/切先(きっさき)…日本刀(刀剣)の先端部分。
  • 身幅(みはば)…棟(むね:刀身における刃の反対側に当たる背の部分)から刃先までの長さ。
  • 刃長(はちょう)…棟区(むねまち:上身と茎の境目で、棟の側にある部分)から鋒/切先までの長さ。
  • 反り(そり)…棟区から鋒/切先までを直線で結んだときに、棟と最も離れている部分の長さ。
  • 重ね(かさね)…刀身の厚さのこと。

江戸時代~明治時代

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