日本刀の歴史

新刀

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安土桃山時代末期から江戸時代中期にあたる、1596年(慶長元年)~1763年(宝暦13年)までに制作された日本刀が「新刀」(しんとう)です。それ以前の「古刀」(ことう)から新刀へ移行する期間、すなわち1596年に始まる慶長年間に作刀された作品を、別に「慶長新刀」(けいちょうしんとう)と呼ぶこともあります。 新刀という名称の由来は、江戸時代中期の講釈師「神田白龍子」(かんだはくりゅうし)の著作、1721年(享保6年)出版の「新刃銘尽」(あらみめいづくし)と、1729年(享保14年)出版の「続新刃銘尽」(ぞくあらみめいづくし)の中で、1596年(慶長元年)に作刀された日本刀を新刀、または「新刃」(あらみ)と表記されたことが始まりです。それが流行して新刀の呼び名が定着しました。 ここでは、新刀の特徴と、新刀期を前期、中期、後期の3つに分け、それぞれの時代背景や、代表的な刀工についてご紹介します。

「新刀の刀工」をはじめ、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。

美濃の刀工が各地へ移り、新刀作りの礎に

刀工界の大きな転機となった出来事が、古刀期の終わりに起こりました。1590年(天正18年)8月、吉井川(岡山県東部)の大氾濫により、長く盛隆を極めた「備前長船派」(びぜんおさふねは)が壊滅状態に陥り、備前鍛冶の活動が一時休止してしまったのです。

このため、新刀期に入る頃には、各地の大名は、量産する能力の高い美濃(現在の岐阜県)の刀工をこぞって召し抱えるようになりました。美濃が選ばれたのは、交通の要衝でもあり、高い需要に応える体制を発展させてきたためです。

そして美濃の刀工達は、主君となった大名の転封(てんぽう:大名の領地を他へ移すこと。国替え)に付き従い、全国の城下町へ移住しました。美濃の「志津」(しづ)を規範とし、また、相州の「正宗」などの伝法を取り入れながら新天地で研鑽(けんさん)を積み、単なる模倣にはおさまらない個性を打ち出したところに美濃鍛冶の特色があります。

新刀全体の大きな特徴としては、刀身反りが浅く、地鉄は整っていて精緻、刃文は大胆にして華美。とりわけ、地鉄には古刀との違いが顕著に現れています。古刀期には、全国それぞれの地方で鋼(はがね)を生産していたため、地方色が強く出ていたのですが、「豊臣秀吉」が天下統一を果たして世の中が落ち着いたことにより、全国的に均質な鋼が流通するようになって、新刀では地域による地鉄の差がなくなったのです。

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新刀前期 1596年(慶長元年)~1652年(慶安5年)頃

美濃伝が刀工界の主流に

安土桃山時代末期から江戸時代初期。古刀期に繁栄した「五箇伝」(ごかでん)の中で中心的な役割を担っていた備前鍛冶が衰退したこともあり、都に近い美濃国から多くの刀工達が京都、近江、越前、尾張、大坂などへ移住しました。

特に、関(岐阜県)から京都へ上った「兼道」(かねみち)の一族は、「三品派」(みしなは)を立ち上げると共に、京都堀川に居を構える「堀川国広」(ほりかわくにひろ)一派の「堀川派」との技術交流を深め、新刀期における技術的基礎を築いたと言われています。各地の刀工達は、三品派、堀川派のいずれかに属し、学んだ作刀技術を全国へ伝えていきました。

また、「徳川家康」に仕えた「越前康継」(えちぜんやすつぐ)も、美濃伝を受け継ぐ名刀工であり、新刀初期には名実共に美濃伝が主流となったのです。

和泉守国貞(いずみのかみくにさだ)

初代「国貞」は、三品派を興した新刀の祖・堀川国広の門人であり、堀川国広亡きあとは、その高弟であった「越後守国儔」(えちごのかみくにとも)に師事します。独立後は大坂に移住し、1623年(元和9年)に「和泉守」を受領。

作風は幅広く、多彩な乱れ刃を焼き、鍛えも良く巧みであったと伝えられています。

刀 銘 和泉守国貞
刀 銘 和泉守国貞
和泉守国貞
鑑定区分
重要刀剣
刃長
69.6
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

越前康継(えちぜんやすつぐ)

越前康継は、1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」の年に、徳川家康の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)に召し抱えられました。

のちに、越前康継の刀工としての腕を高く評価した結城秀康により、徳川家康と2代将軍「徳川秀忠」に推挙。江戸で作刀に携わることになり、徳川家康にも認められた越前康継は、「康」の一文字を賜ると共に、「葵の御紋」を自らの作品の(なかご)に切ることを許されたのです。

刀  銘 (葵紋)於武州江戸越前康継 以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
刀 銘 (葵紋)於武州江戸越前康継 以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
於武州
江戸越前康継
以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
鑑定区分
重要美術品
刃長
72.6
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

新刀中期 1652年(承応元年)~1704年(元禄17年)頃

江戸時代に入り、徳川幕府の政治体制が安定すると、武士の大小差し、すなわち打刀(うちがたな)と脇差(わきざし)の差し料(さしりょう:自分が腰に差すための日本刀[刀剣])の寸法と、町人などの差し料の寸法が決められました。

このため、特に武士からの新たな需要が増え、1661~1673年の寛文年間から1673~1681年の延宝年間にかけて、それまで鍛刀が盛んであった美濃や京都、越前だけでなく、全国各地の刀鍛冶が繁栄し、技術的にも向上。幕府のお膝元である江戸での鍛刀も盛んになります。

この時期の代表的な刀工としては、江戸の3代越前康継や、備前鍛冶の末裔(まつえい)とされる「石堂是一」(いしどうこれかず:初代、二代)、京都の三品一派、堀川一派、大坂の「津田助広」(つだすけひろ)、「井上真改」(いのうえしんかい)など。新刀の中でも、江戸の刀工の作品を「江戸新刀」、大坂の刀工の作品を「大坂新刀」と呼び、特に区別しています。

地方では、肥前(現在の佐賀県)の「肥前忠吉」(ひぜんただよし)一派などが栄えました。

陸奥守忠吉(むつのかみただよし)

「陸奥守忠吉」は、忠吉一派の3代目で、1658~1661年(万治年間)頃に活躍。「新刀最上作」(しんとうさいじょうさく)及び「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に列せられた名工です。

「肥前国住陸奥守忠吉」とを切られた作品は、陸奥守忠吉の最上傑作品との呼び声も高く、佐賀藩(さがはん:現在の佐賀県佐賀市。肥前藩とも)藩主の鍋島家に伝来しました。

刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉
刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉
肥前国住
陸奥守忠吉
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
76.35
所蔵・伝来
鍋島家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

新刀後期 1704(宝永元年)~1763年(宝暦13年)頃

1688~1704年の元禄年間以降、泰平の世が続いたため、新たな日本刀の需要が減り、刀鍛冶も衰退していくこととなります。なかには、武士が自らの流派に見合った刀を注文して鍛えさせることがあったとのことですが、ごく少数でした。

そのような状況でも、「粟田口忠綱」(あわたぐちただつな)の子「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)が手掛けた日本刀は、刀身の出来栄え、彫物共に優れ、現代に伝えられています。

一方、鍔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、(こうがい)などの刀装具の装飾は発展しました。これは、刀装具が時代の流行によって変化したため、作り変える機会が多かったためと言われています。

一竿子忠綱(いっかんしただつな)

鎌倉時代に京で活躍した刀工「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)の末裔であり、父「粟田口忠綱」と同じく近江守を受領。父子共に銘を「粟田口近江守忠綱」と切りました。

「彫りのない一竿子は買うな」と言われるほどの彫物の名人でもあり、伝統的な「剣巻龍」(けんまきりゅう)だけでなく、「梅倶利伽羅」(うめくりから)や「鯉の滝登り」など、元禄文化の華やかさを感じさせる精密な彫物のある作品が多くあります。

刀身に彫物がある場合は、茎に「彫同作」、または「彫物同作」と銘を添えました。

刀 銘 一竿子粟田口忠綱 彫同作
刀 銘 一竿子粟田口忠綱 彫同作
一竿子
粟田口忠綱
彫同作
鑑定区分
重要刀剣
刃長
64.8
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

その後、衰退した作刀がふたたび盛んに行なわれるようになるのは、1804~1830年の文化・文政年間の頃です。「水心子正秀」(すいしんしまさひで)ら意欲的な刀工が登場し、「刀剣復古論」を提唱。古い時代の日本刀を研究して、鎌倉・南北朝時代の作品を再現しました。これらは「新々刀」(しんしんとう)と呼ばれ、作刀は新たな時代を迎えます。

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