新撰組とは、江戸時代に京都の治安を守るために活動していた組織のこと。隊士たちの活躍は、大河ドラマや映画のなかで多く語られてきました。局長の近藤勇や副局長の土方歳三、一番隊隊長の沖田総司など、有名な戦士も数多く存在します。 そんな新撰組についての様々な情報をまとめました。新撰組についての基礎知識、新撰組誕生から解体されるまでの歴史、「池田屋事件」をはじめとする新撰組にまつわる事件などがご覧頂けます。さらに主な隊士を一人ひとり紹介しているので、好きな隊士を深堀りすることも可能。どの記事も分かりやすく詳しい解説となっているので、新撰組初心者の方も楽しく知識が身に付きます。

目次

新撰組とは

121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)が、強烈な攘夷論(じょういろん:外国を撃退して排除しようとする思想)の論者であり、「開国やむなし」路線の江戸幕府と真っ向から対立したことから、幕末期の日本では、政局の中心が江戸から京都に移ります。京都では、江戸幕府の政治に反感を募らせていた、尊王攘夷(そんのうじょうい)派の志士達が暴発を繰り返し、治安は極度に悪化していました。 こうした幕末の京都にあって、治安回復、及び維持の任務に奔走したのが「新撰組」(しんせんぐみ)です。幕末の京都で抜群の存在感を放ち、現在も多くの愛好家がいる新撰組。その組織の誕生や隊士数の変遷、訓練、服装など、新撰組の基本についてご紹介します。

段階を踏んで誕生した新撰組

最初は「浪士組」の一員

徳川家茂

徳川家茂

新撰組は、最初からこの名前で発足したわけではありません。江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が上洛する際、その警護を目的に募集した「浪士組」(ろうしぐみ)に端を発します。

幕末期の京都では、尊王攘夷派の志士達による、「天誅」(てんちゅう)と称したテロが横行していました。江戸幕府は、正式な武士でない浪士達を、京都に先遣隊(せんけんたい)として派遣することで、徳川家茂の上洛前に、京都の治安を回復させようとしたのです。

この浪士組には、天然理心流(てんねんりしんりゅう)道場「試衛館」(しえいかん)を経営する、同派4代宗家「近藤勇」(こんどういさみ)と、試衛館の門人も加わりました。1863年(文久3年)、浪士組234名は、中山道(なかせんどう)を通り、京都に向かって旅立ちます。

この当時の記録である「東西紀聞」(とうざいきぶん)には、「異類異形、上州辺博徒(じょうしゅうあたりのばくと)も交り居る」とあり、浪士組は、志願すれば誰でも参加できる組織でした。

しかし、京都に到着したのも束の間、浪士組は、江戸幕府から江戸へ帰るよう命じられます。それは、浪士組を企画した「清河八郎」(きよかわはちろう)が、同組を江戸幕府ではなく、朝廷直属の組織にしようと企てていたためでした。このとき、「芹沢鴨」(せりざわかも)や近藤勇ら24人の浪士が江戸幕府に願い出て、京都守護職を務める会津藩(現在の福島県)お預かりでの京都残留を許されます。

そして、壬生村(現在の京都市中京区)を屯所(とんしょ)とした彼らは、「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を名乗るようになりました。

壬生浪士組から新撰組へ

壬生浪士組の初仕事は1863年(文久3年)8月18日に行った京都御所の警備です。

京都御所ではこの日、「八月十八日の政変」が起こり、薩摩藩(現在の鹿児島県)、及び会津藩の合力によって、京都御所内から反江戸幕府派の公家と、長州藩(現在の山口県)勢力を追い落していました。長州の動きが読めない中、薩摩と会津の両藩は、京都御所の守りを強化。これに壬生浪士組も動員されたのです。

この働きが認められた壬生浪士組は、新撰組の名を賜ります。読んで字のごとく、「新しく選ばれた組」という意味であり、ここに新撰組が正式に発足するのです。

隊員数の変遷

壬生浪士組として再出発した当初、隊士はわずかに24名でした。その内訳は、近藤勇を頭とする「試衛館派」が9名、芹沢鴨を頭とする「水戸派」が7名、「どちらにも属さない派」が8名です。このうち、どちらにも属さない派であった隊士達は、早々に壊滅に追い込まれ、隊士数は大幅に減ってしまいます。

これを受けて壬生浪士組は、隊士の募集を実施し、隊士数は36名となりました。隊士募集は京都や大坂などで随時行われ、新撰組に改称した翌年、1864年(文久4年/元治元年)6月に起きた「池田屋事件」(別称[池田屋騒動])の際には、50人近くの隊士がいたとされています。京都における治安維持の任務は激務であるうえ、新撰組は、脱走や病気で、常時人手不足でした。そのため、余程の無能でない限り、応募すれば採用されていたのです。

池田屋事件で新撰組の名が一躍天下に広まると、新撰組の首脳陣は、組織拡大を行います。これによって、「伊東甲子太郎」(いとうかしたろう)などの新規入隊者があり、1864年(文久4年/元治元年)12月には、隊士数が69名にまで増加。壬生村の屯所は手狭になったため、1865年(元治2年/慶応元年)2月、屯所を西本願寺(京都市下京区)に移します。

さらに同年4月、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)は、伊東甲子太郎や斎藤一(さいとうはじめ)らを伴って、江戸で新撰組隊士募集を実施し、54名の新規隊士を獲得。このあとも頻繁に募集をかけ、9月の段階で隊士総数は、193名にまで上りました。

旗本や御家人など、正規の武士によって構成された「京都見廻り組」における、同時期の隊士数がおよそ200名。新撰組は、京都見廻り組とほぼ同規模にまで成長を遂げたのです。

しかし、1867年(慶応3年)3月20日、伊東甲子太郎が同志11名を率いて新撰組を離脱。その後、残った新撰組の隊士は6月10日、江戸幕府の直参(じきさん:旗本や御家人など、将軍直属の家臣)に取り立てられますが、やがて「旧幕府軍」と「新政府軍」が争う「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)へと突入し、新撰組は一気に解体へ向かいました。

新撰組の訓練と戦法

壬生屯所(八木邸)

壬生屯所(八木邸)

新撰組の局長・近藤勇は、常に文武両道を心掛けていた人物。そのため、1863年(文久3年)9月頃には、壬生屯所(八木邸)内に「文武場」(ぶんぶじょう)と称する道場を設け、新撰組の隊士達に、「撃剣」(げっけん:刀や竹刀、木刀などで相手を打ち、護身するための武術や剣術)や「文学」を学ばせ始めます。

これには、京都の治安維持任務に必要な剣術の腕を磨くことに加え、隊士の資質向上という目的がありました。さらに1865年(元治2年/慶応元年)2月、屯所を西本願寺に移した際には、前述した撃剣と文学の他に、「柔術」や「槍術」、「馬術」、「砲術」といった各分野において、それぞれの師範役を新たに設けます。

各師範による稽古は非常に厳しく、特に剣術は、隊務遂行に不可欠であったことから過酷を極め、「子母澤寛」(しもざわかん)の著した「新撰組始末記」によれば、撃剣師範に任じられた幹部隊士は、夜中に突然、平隊士達に招集をかけることがありました。そして、刃引きした真剣を使って、闇夜の中で試合をさせたり、平隊士の就寝中、いきなり切り込んだりしたと言います。

そして、新撰組隊士の武術や軍事訓練場は、壬生屯所から西本覚寺を経て、「壬生寺」(京都市中京区)に移されました。これだけの鍛錬をしていた新撰組隊士は、治安維持任務で実力行使をする際、必ず相手を上回る人数で当たっていたのです。

いっせいに切りかかる、ひとりが敵の気を引きつつ、もうひとりが別方向から切り込むなど、様々な手法を用いています。新撰組は、「先制攻撃」や「待ち伏せ攻撃」といった、奇襲戦法を基本としていました。

新撰組の隊服の変遷

会津藩士「鈴木丹下」(すずきたんげ)の「騒擾日記」(そうじょうにっき)には、前述した「八月十八日の政変」の際、新撰組隊士(当時は壬生浪士組)の服装について、「一様に支度し、浅黄麻[あさぎあさ]へ袖口のところばかり白く山形を抜き候羽織」を着ていた旨が記されています。

これが、新撰組の代名詞とも言うべき「だんだら模様」の隊服です。京都残留を決めた近藤勇や芹沢鴨らが、大坂で幕府御用を務める豪商、「平野屋五兵衛」(ひらのやごへえ)から、100両(現在の800~1,000万円)を借りて作らせた着物でした。

この隊服を作る際には、歌舞伎の「忠臣蔵」(ちゅうしんぐら)で用いられる衣装を意識したと伝えられています。しかし、だんだら模様の隊服は、「目立ちすぎる」という点から不評であり、やがて変わることに。変更した明確な時期は不明ですが、1867年(慶応3年)、新撰組に襲われた大村藩(現在の長崎県大村市)の藩士「渡辺昇」(わたなべのぼる)が、「黒衣、黒袴、問わずして、その新撰組たるを知る」と証言しており、同年には、黒装束が隊服であったことが分かります。なお、公務では隊服を着用していましたが、非番時の服装は自由。

「隊中美男五人衆」(たいちゅうびなんごにんしゅう)に数えられた「山野八十八」(やまのやそはち)などは、黒い着物に白い小倉袴をまとい、高下駄を履くという粋な姿で出かけていました。

新撰組の組織

「新撰組」(しんせんぐみ)が、尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇を敬い、外国を排除する思想)の志士達に恐れられていたのは、剣術の腕だけではありません。組織として強固な体制を築いていたことが、京都における治安維持任務の遂行に大きく役立っていました。隊士の増減や時代の趨勢(すうせい:社会などにおける、全体の流れや勢い)に合わせて、柔軟に組織編成を行っていたのも、特徴のひとつです。ここでは、新撰組の組織作りや、特に充実していた時期についてご紹介すると共に、各役職の役割などについても掘り下げていきます。

局長から平隊士までの枠組み

発足当初から隊の基本形は不変

幕末期において、新撰組ほど改編を何度も行っている組織は、他に見当たりません。これは、大々的な隊士募集を繰り返していたことに加え、隊内での粛清や隊士の屯所脱走により、隊士数が流動的だったことが原因です。また、江戸幕府による「長州征伐」に動員される可能性を考慮して、組織改編が行われたことも影響しています。

しかし、組織の基本形は、新撰組の前身であった「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)の時代から、さほど変わりませんでした。まず、組織のトップに置かれていたのは、「組長」ではなく「局長」。

近藤勇

近藤勇

これは新撰組が、「会津藩お預かり」の組織だったことと関係があります。会津藩(現在の福島県)では、傭兵部隊(ようへいぶたい)とでも形容すべき新撰組を、「会津藩における一部局」と捉えていたのです。そのため、新撰組のトップには、局長という名称が用いられました。

新撰組の局長は、結成当初、「芹沢鴨」(せりざわかも)と「近藤勇」(こんどういさみ)の2名が務め、芹沢鴨の一派である「新見錦」(にいみにしき)が、局長格として肩を並べていました。

しかし新見錦は、ほどなく副長に降格。それからしばらくは、近藤勇と芹沢鴨の2名が局長職にありましたが、1863年(文久3年)9月18日に芹沢鴨が暗殺されて以降、新撰組局長は、近藤勇だけが務めました。

この体制は、1868年(慶応4年/明治元年)に勃発した「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)により、新撰組が解散するまで変わりません。

副長から平隊士への命令系統

局長と常に直結する関係にあったのが、「副長」です。副長は、「局長助」(きょくちょうじょ)という名称でも呼ばれ、新撰組の結成当初は、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)と「山南敬助」(やまなみけいすけ)が、同職に就いていました。

しかし、局長格から降格された「新見錦」(にいみにしき)が加わり、3人体制となります。その後、芹沢鴨暗殺に先立って新見錦が粛清されると2名体制に戻りますが、山南敬助の「総長」への格上げによって、副長職は土方歳三のみとなりました。

ちなみに副長は、「副長助勤」(ふくちょうじょきん)と呼ばれる幹部隊士を束ねていました。これは、明治時代以降の軍制で言えば「士官」に当たり、局長から副長を経て下された命令を即座に実行に移す、実働部隊の長に相当します。

新撰組隊士の中でも、非常に能力のある剣の使い手が配属された役職であり、「沖田総司」(おきたそうじ)や「永倉新八」(ながくらしんぱち)、「斎藤一」(さいとうはじめ)など、そうそうたる面々が同職に任命されたのです。

この副長助勤達の下に配属されたのが、「伍長」(ごちょう)です。これは、現代の軍制で言えば「下士官」(かしかん)に当たり、この下には、役職のない「平隊士」(ひらたいし)がいました。新撰組では、組織の多様な改変はありましたが、局長、副長、副長助勤、伍長、平隊士の枠組みは、最後まで変わることがなかったのです。

新撰組が組織として最も充実していた時期

新撰組の組織が最も大きくなり、かつ充実していたのは、「第二次長州征伐」の前年に当たる、1865年(元治2年/慶応元年)、夏から秋にかけての時期でした。新撰組では、同合戦への従軍を見据えて、大規模な組織改編が行われています。

局長の近藤勇、副長の土方歳三は変わりませんでしたが、その補佐役として「参謀」(さんぼう)と称する役職を設置。就任したのは、1864年(文久4年/元治元年)10月、江戸から新規に参入した「伊東甲子太郎」(いとうかしたろう)です。

そして、副長助勤は組長という名称に変更され、新撰組は、全部で10部隊に分けられました。このほかにも、「諸士取調役兼監察」(しょしとりしらべやくけんかんさつ)や「勘定方」、「取締役」、「書記」などの役職が設けられ、後方支援と軍需物資の補給を担う「小荷駄」(こにだ)と称する役職も、新たに設置されました。

まさに戦場での合戦を想定した機動的な編成です。京都治安維持専門部隊であった新撰組を、一段上の軍隊へと格上げさせたいとする意図が垣間見えます。

しかし、新撰組の第二次長州征伐への従軍は、実現しませんでした。この時、近藤勇は、組長制を副長助勤制に戻し、京都治安維持の任務にふさわしい部隊編成に戻しています。

一番隊組長 沖田総司(おきたそうじ)
二番隊組長 永倉新八(ながくらしんぱち)
三番隊組長 斎藤一(さいとうはじめ)
四番隊組長 松原忠司(まつばらちゅうじ)
五番隊組長 武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)
六番隊組長 井上源三郎(いのうえげんざぶろう)
七番隊組長 谷三十郎(たにさんじゅうろう)
八番隊組長 藤堂平助(とうどうへいすけ)
九番隊組長 三木三郎(みきさぶろう)
十番隊組長 原田左之助(はらださのすけ)

各役職の役割

最も重要な役職は副長

土方歳三

土方歳三

新撰組における個々の役職のうち、命令系統で最も重要な地位を占めていたのは「副長」です。

組織のトップであった局長は、組の統率と同時に、外部との折衝(せっしょう)に当たるのが任務。実質的に組織運営の舵取りをしていたのは、その下に置かれた副長だったのです。

副長は、多忙を極める局長を補佐しつつ、局長命令を隊士に直接伝える役割を担いました。つまり、新撰組が解散するまで、副長の座に就いていた土方歳三こそ、新撰組という組織の強固さを象徴する核であったと言えます。

副長の上には一時期、前述した通り、総長と称される役職が置かれたことがあり、山南敬助が同職にありました。格で言えば副長より上位ですが、言わば「局長付きのスタッフ」という位置付けにあり、指揮権限は持っていませんでした。のちに山南敬助は、脱走の罪で切腹して果てますが、その背景には、総長の役職にも一因があったと考えられています。

あらゆる役職が副長に通じていた

副長の権限を語る上で重要な役割を占めていたのが、新撰組内に、間者(かんじゃ:敵方の動向や様子を密かに探る者)がいないかどうかを監視する「諸士調役」(しょししらべやく)でした。

隊士に問題行動があった際には、その誤りを正して副長に報告する役職であり、局長への報告は、必ず副長を通じて行われました。なお、新撰組内外の情報を収集する「監察」という役職も、諸士調役が兼任。多種多様な情報にまつわる権限は、副長が握っていたのです。

また、実働部隊の指揮官であり、副長の補佐役を務めていた副長助勤や、長州征伐への動員を想定した作戦立案部門の参謀、さらには、新撰組の金庫番を担っていた勘定方は、いずれも副長の管轄下にありました。局長命令を副長が素早く各部署に発し、各部署から上がってきた報告を、副長が迅速に局長に知らせるという方式が、新撰組の伝達系統だったのです。

このように、役職間の繋がりを考えてみると、副長であった土方歳三の組織管理能力こそが、新撰組の活躍を支えていたことが見えてきます。

新撰組の関連情報

新撰組とは、簡単に言うと、幕末に尊王攘夷派の志士らの弾圧を行っていた組織。「新撰組」の関連情報では、新撰組の歴史や主な戦士と愛刀、新撰組に関連する討幕派・明治維新の中心人物についてご紹介しています。

新撰組の歴史

大河ドラマや映画などで話題になる新撰組は、波乱万丈の歴史をたどっていました。その結成から解散まで、「池田屋事件」「禁門の変」「戊辰戦争」といった歴史的なできごとに触れながら詳しく解説していきます。

当初は浪士の寄せ集めに過ぎなかった集団が、やがて京都中の過激派志士を震え上がらせる武闘派組織にまで発展を遂げた「新撰組」。結成の経緯や「池田屋事件」をはじめとする歴戦、そして戊辰戦争への突入から新撰組解体に至るまで、新撰組の栄枯盛衰を時系列でご紹介します。
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新撰組は、幕末時代に尊皇攘夷(そんのうじょうい)の志士達によるテロが横行する中、京都の治安維持任務にあたった組織です。「浪士組」や「壬生浪士組」を経て結成され、身分は「会津藩お預り」。組織名も会津藩軍制中の部局名から付けられました。ここでは、「新撰組」が誕生するまでの道のりや当初の任務などをご紹介します。
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新撰組と「池田屋事件」、「禁門の変」

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近日公開
新撰組は、規律を乱した隊士に対して極めて厳しい組織でした。「規律を乱す」とは、裏切り、私闘、勝手な金策、脱走、敵前逃亡など、いわゆる「局中法度」(きょくちゅうはっと)の規律に背いた場合のこと。いずれも切腹や粛清の対象です。この最たる例が「伊東甲子太郎」(いとうかしたろう)とその一党に対する粛清、いわゆる「油小路の変」(あぶらこうじのへん)。これにより新撰組は分裂し、大きく力を削がれることになります。
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大政奉還という奇策に出た「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)に対して、薩摩・長州両藩を中心とする武力倒幕派勢力は「王政復古の大号令」を下し、徳川氏を除外した新政府を樹立することで対抗します。さらに徳川慶喜に「辞官納地」(じかんのうち:官位と納地を返上すること)を要求することで旧幕府勢力を挑発。鳥羽伏見における軍事衝突に到りました。新撰組も鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争の荒波に容赦なく呑み込まれていきます。 ここでは、新撰組の解散や「近藤勇」の死、そして「土方歳三」らの戊辰戦争での活躍を軸に、戦いの足跡をたどっていきます。
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新撰組の主な戦士と愛刀

新撰組のなかには、新撰組組織図の中心となっていた局長の近藤勇や副長の土方歳三、新撰組最強とも称された沖田総司、新撰組の生き残り・永倉新八らがいました。彼らを含む新撰組の主要メンバーと愛刀について説明しています。

「芹沢鴨」(せりざわかも)は、筆頭局長として草創期の新撰組を牽引した人物です。京都での破天荒な振る舞いや、同志に暗殺されるという非業の死を迎えたことで、その名を知られていますが、江戸幕府が京都の治安維持のために募集した、「浪士組」(ろうしぐみ)参加以前の前半生は、謎に包まれています。また、剣術の腕前は相当な人物だったとも言われ、「近藤勇」(こんどういさみ)と「土方歳三」(ひじかたとしぞう)も、芹沢鴨の暗殺に際しては、周到な策を講じました。 酒乱や自制心の欠如など、致命的とも言える短所が、命取りとなった芹沢鴨。その破天荒な生涯を、愛刀の逸話と共にご紹介します。
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幕末期、新たな政局の中心となりつつあった京都では、尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇を敬い、外敵を排除する思想)を掲げた過激派による、「天誅」(てんちゅう)と称するテロが横行し、治安は極度に乱れていました。この治安回復のために新設されたのが、会津藩(現在の福島県)が務めることになる「京都守護職」。さらには、会津藩による支配のもと、実働部隊として「新選組」が新設されます。この新選組に局長として君臨し、並み居る猛者達を束ねたのが、「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)宗家4代の「近藤勇」(こんどういさみ)でした。ここでは、近藤勇の足跡や愛刀、そして天然理心流剣術などについてご紹介します。
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「新選組」(しんせんぐみ)草創期における中心人物の中でも、「新見錦」(にいみにしき)ほど、謎に満ちた存在はいません。水戸藩(現在の茨城県)脱藩を自称しておきながら、水戸藩の史料には名前が確認できず、一時期は局長格、次いで副長の地位にあったとは伝えられていますが、確たる活動が分かっておらず、判明しているのは、剣の腕前が確かであったことのみです。 新選組二番隊組長を務めた「永倉新八」(ながくらしんぱち)の回顧録「浪士文久報国記事」(ろうしぶんきゅうほうこくきじ)、幕末の「西本願寺」(京都市下京区)において、侍臣(じしん:主君のそば近くに仕える者)を務めていた、「西村兼文」(にしむらかねふみ)の手による「新撰組始末記」など、同時代にまつわる史料に基づき、謎めいた新選組の隊士・新見錦の姿に迫ります。
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土方歳三(ひじかたとしぞう)は、幕末に京都の治安維持のために結成された「新撰組」の副長。新撰組を盤石な組織にするために、規律を破る者は容赦なく切腹させたため、土方歳三は「鬼の副長」と呼ばれていました。様々なドラマや小説、漫画やゲームなどの登場人物としても取り上げられた土方歳三は、没後100年経っても愛されています。土方歳三が出会った数々の人物とのエピソードや、土方歳三の愛刀が持つ逸話とともに、土方歳三の生涯についてご紹介します。
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新撰組結成当初の中心メンバーであり、のちに「総長」を務めた「山南敬助」(やまなみ/さんなんけいすけ)。「局長」の「近藤勇」(こんどういさみ)、「副長」の「土方歳三」(ひじかたとしぞう)から一目置かれた存在でありながら、晩年、屯所脱走による罪で、切腹を余儀なくされました。 不可解な脱走を企てた理由は、今も解明されていません。しかし、山南敬助の愛刀「摂州住人赤心沖光」(せっしゅうじゅうにんせきしんおきみつ)に、屯所脱走の鍵が隠されているという説もあります。 ここでは、山南敬助が愛用していたこの刀にまつわる逸話や、その生涯についてご紹介すると共に、切腹の引き金となった、屯所脱走の謎にも迫ります。
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「沖田総司」(おきたそうじ)は、江戸時代末期の武士で、幕末の京都の警察組織である「新選組」(しんせんぐみ)最強の剣豪です。 若くして天然理心流道場「試衛館」(しえいかん)に入門し、近藤周助(新選組局長・近藤勇の養父)の内弟子となりました。 沖田総司は、近藤勇・土方歳三とともに「新選組一番隊組長」として活躍していましたが、労咳(ろうがい:結核)により病床に伏します。 療養の甲斐なく夭折(ようせつ)した天才剣士という沖田総司の悲劇的な生涯は、小説や映画などの世界で「薄幸の美青年」と脚色されて描かれてきました。 ここでは、沖田総司の生涯と、沖田総司の愛刀についてご紹介します。
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「永倉新八」(ながくらしんぱち)は、「新撰組」(しんせんぐみ)の二番隊組長を務めた人物。「池田屋事件(池田屋騒動)」をはじめ、新撰組の隊士の中でも、第一線で活躍を続けた、同組きっての剣豪です。明治維新後は、新撰組の記録作成に専念し、「浪士文久報国記事」(ろうしぶんきゅうほうこくきじ)や、「同志連名控」(どうしれんめいひかえ)などの著書に記録を残しました。これらは、新撰組や、その往時を知る貴重な史料として、現在も重要視されています。つまり永倉新八は、歴史的な貢献度も高い新撰組隊士とも言えるのです。愛刀「播州住手柄山氏繁」(ばんしゅうじゅうてがらやまうじしげ)を手に戦い、幕末期を駆け抜けた姿や、晩年の著作活動に焦点を当て、永倉新八の実像に迫ります。
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「新撰組」(しんせんぐみ)の「三番隊組長」を務めた「斎藤一」(さいとうはじめ)は、「溝口派一刀流」(みぞぐちはいっとうりゅう)と、「聖徳太子流」の剣術を修めた剣客です。「沖田総司」(おきたそうじ)や「永倉新八」(ながくらしんぱち)らと並ぶ、新撰組屈指の腕前であったと評されています。 そんな斎藤一は、業物(わざもの:切れ味の良い刀)として名高い名工、「鬼神丸国重」(きじんまるくにしげ)が鍛えた日本刀を手に、京都の治安を乱す志士達を始め、新撰組内に潜入した間者(かんじゃ:敵方に潜み、その動向や様子を探る者)から裏切り者まで、次々と始末した人物でした。 明治維新後は警視庁に奉職(ほうしょく:公職に就くこと)し、東京の治安維持に尽力。1877年(明治10年)に起こった「西南戦争」では、「警視隊」として従軍するなど、後年にも剣の実力を発揮。幾度もの修羅場を経験しながらも天寿を全うした齋藤一。その生涯を、愛刀にまつわる逸話と共にご紹介します。
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「新撰組」(しんせんぐみ)にその草創期から参加し、「八番隊組長」を務めた「藤堂平助」(とうどうへいすけ)。「池田屋事件」(池田屋騒動)などでも活躍した新撰組きっての剣客でありながら、のちに新撰組を離れ、同組の参謀であった「伊東甲子太郎」(いとうかしたろう)が結成した、「御陵衛士」(ごりょうえじ)に参加。その後、「油小路の変」(あぶらのこうじのへん)において、非業(ひごう)の最期を遂げました。 藤堂平助の新撰組への参加から離脱までの経緯、そして、愛刀「上総介兼重」(かずさのすけかねしげ)にまつわる逸話を軸に、その数奇な生涯を辿ります。
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「新選組」(しんせんぐみ)の「十番隊組長」であった「原田左之助」(はらださのすけ)は、直情径行(自分の感情をそのまま言動に表すこと)の快男児として知られている人物です。「池田屋事件」(池田屋騒動)での働きなど、武闘派としての側面が取り上げられがちですが、「長州征討」(ちょうしゅうせいとう)に際して、「兵站」(へいたん)と呼ばれる主要な後方支援の任務を託されるなど実務処理能力も高く、新選組内でも希有な人材でした。 晩年は「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)で転戦を続け、「上野戦争」で戦死したとされていますが、生き延びて中国の馬賊(ばぞく:騎馬を駆使する武装集団)になった伝説も残っているのです。ここでは、破天荒な原田左之助の人物像について、愛刀の逸話などを交えて掘り下げていきます。
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新撰組の美男五人衆

新撰組には、土方歳三をはじめとする剣術に優れた人物として有名な人物はもちろん、いわゆる「イケメン」だったメンバーも存在していました。作家・子母澤寛が世に知らしめた美少年たち「美男五人衆」をご紹介します。

「新撰組」は、現在で言う察のように、幕末の京都において、規律を重んじる治安維持組織です。また、反幕府勢力を取り締まる武装集団として名を轟かせていたため、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)や「永倉新八」(ながくらしんぱち)といった、剣術に優れた隊士達が注目されています。そんな新撰組の中で、剣の腕前よりも、美男であったことで注目される若手剣士が少なからず在隊していたのです。特に、京の娘達から注目を集めていたのが「隊中美男五人衆」(たいちゅうびなんごにんしゅう)と呼ばれた若手剣士達。「子母澤寛」(しもざわかん)が著した「新撰組物語」によって最初に喧伝されて以来、現在も多くの新撰組愛好家の心を捉えています。隊中美男五人衆に挙げられている、5名の若手剣士達について、経歴や人となりをご紹介。素顔や逸話なども交えて掘り下げていきます。
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討幕派・明治維新の中心人物

新撰組が存在した幕末は激動の時代であり、多くの志士がそれぞれの思いを胸に活躍していました。西郷隆盛ら薩摩藩の人物、高杉晋作や吉田松陰といった長州藩士などの生涯・エピソードをご紹介しています。

2018年(平成30年)にNHK大河ドラマ「西郷どん」が放送され、再び脚光を浴びることになった西郷隆盛。日本人であれば、一度は西郷隆盛の名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。 東京都の上野公園や鹿児島市の鹿児島市立美術館、鹿児島県霧島市の西郷公園など、いろいろな場所に西郷隆盛の銅像が建てられており、西郷隆盛は、誰もが認める偉人である一方、「西郷さん」などと親しみを持って呼ばれています。 そんな西郷隆盛の詳しい生涯や人物像、それにまつわるエピソードについて、まとめました。 また、少年時代に喧嘩の仲裁に入った際に、右腕に負った傷の影響で刀剣をうまく握れなくなってしまったにもかかわらず、趣味としていた刀剣収集についてもご紹介します。
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「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「木戸孝允」(きどたかよし)と共に、幕末維新期の「三傑」のひとりに数えられる「大久保利通」(おおくぼとしみち)。幕末期は薩摩藩(現在の鹿児島県西部)の指導者として武力討幕を推進。明治初期には明治政府の全権を有して日本を牽引しました。その指導力と先見性を考慮すると、大久保利通なくして日本の近代化はなかったと言えます。 武芸や日本刀に関するエピソードは伝えられていませんが、切れ味抜群の頭脳こそ大久保利通の最大の武器でした。逸話と共に、偉業や人となりを追っていきます。
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多士済々たる幕末維新期の群像にあって、「大村益次郎」(おおむらますじろう)は異色中の異色です。長州藩領の村医者の家に生まれ、最初は蘭方医として名を成しますが、やがて兵学者として著名な存在に。さらに明治政府が樹立されると、軍事の専門家として出仕します。このような生涯を歩んだ人物は日本史上でもまれです。蘭方医だった大村益次郎が、いかにして兵学者や軍人の道を歩むことになったのかを探りつつ、その生涯をご紹介していきます。
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幕末期の長州藩(現在の山口県)にあって、討幕派を牽引した「高杉晋作」(たかすぎしんさく)。抜群の決断力、行動力、度胸の持ち主であり、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評された疾風迅雷の如き人物でした。高杉晋作がいたからこそ、長州藩は「第一次長州征伐」で幕府に降伏しつつも、藩論を武力討幕に転換させることができたのです。剣術に関しても「柳生新陰流」(やぎゅうしんかげりゅう)の免許皆伝という腕前。幕末期に彗星の如く出現し、29年の生涯を駆け抜けた高杉晋作についてご紹介します。
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幕末の志士として人気の高い「坂本龍馬」。 小説をはじめ、ドラマ・映画で何度も取り上げられ、好きな偉人や尊敬する歴史上の人物といったアンケートでも、坂本龍馬は必ず上位にランクインしています。 江戸で勝海舟と出会い、外国に負けない海軍を創設して対等に渡り合っていきたいと考えた坂本龍馬。坂本龍馬が書いた手紙に記載された「日本を今一度洗濯したい」という名言は有名です。 享年31歳で暗殺されるまでの坂本龍馬の生涯と、坂本龍馬という人物について、坂本龍馬の愛刀とともにご紹介します。
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「吉田松陰」(よしだしょういん)は、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)や「伊藤博文」(いとうひろぶみ)など、数多の俊英を輩出した私塾「松下村塾」(しょうかそんじゅく)の指導者として知られる人物です。しかし、指導にあたった期間はわずか2年。「安政の大獄」により捕縛されてしまい、29歳という若さで死罪に処されます。しかし志は塾生達に引き継がれ、討幕や維新の原動力となるのです。吉田松陰の人物像や思想、そして松下村塾での指導法などに着目し、その生涯を紐解いていきます。
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幕末期は長州藩を主導して国事に奔走し、明治初期は新政府内にあって日本の近代化を推し進めた「桂小五郎」(かつらこごろう)こと「木戸孝允」(きどたかよし)。この人物なくして長州藩の武力討幕はなく、明治政府による国家経営の刷新もありえませんでした。 現在、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)と共に「維新三傑」の一員に数えられていますが、この2人と大きく異なる点は、桂小五郎が剣豪であったことです。愛刀や剣豪たるゆえんを踏まえて、その生涯をご紹介します。
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明治時代に入ると政府のやり方に不満を抱く士族達の反乱が相次ぎました。その先駆けとなったのが1874年(明治7年)に起こった「佐賀の乱」です。佐賀の不平士族を指揮したのは「江藤新平」(えとうしんぺい)。明治新政府において司法省の長官である司法卿を務め、日本の司法制度の礎を築いた人物です。ここでは、京都を拠点とした「新撰組」と同じ時代を生き、人権問題などに奔走しながらも、非業の最期を迎えた江藤新平の生涯についてご紹介します。
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下級公家出身でありながら、江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)と皇女「和宮」(かずのみや)の婚姻を成功させるなど、優れた政治手腕を発揮して朝廷内を操った「岩倉具視」(いわくらともみ)。1867年(慶応3年)には、長年の悲願だった「王政復古」を成し遂げ、新政府樹立の立役者となりました。天性の策士とも称される岩倉具視の生涯を、数々の知略や逸話と共にご紹介します。
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新撰組ゆかりの地

大河ドラマや小説、ゲームの題材として人気の新撰組には、数々のゆかりの地があります。こちらでは、屯所としていた西本願寺、有名な池田屋事件の跡地などをご紹介。新選組ゆかりの地巡りをしたい方におすすめです。

幕末期の京都において、治安維持任務を遂行する武闘派集団として活躍した新撰組。その中心人物である「近藤勇」(こんどういさみ)や「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうじ)は、武蔵国(現在の埼玉県・東京都23区・神奈川県の一部)の多摩地方に生まれた百姓や浪人でした。各隊士の墓の他、資料館や史跡を併せて見学できる場所もある、多摩地方や京都各所に点在する新撰組ゆかりの寺社をご紹介します。
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新撰組の前身「浪士組」(ろうしぐみ)が結成されてから「池田屋事件」でその名をとどろかすまで、初期の新撰組は、地元郷士の邸宅を間借りしながら活動の幅を広げていきました。屯所を置いた邸宅跡や新撰組が飛躍するきっかけとなった池田屋事件の旅籠(はたご)跡、そして局長「近藤勇」(こんどういさみ)の生家など、「邸宅」に注目。新撰組の名残を今に伝える貴重な建物など、ゆかりの施設をご紹介します。
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「新撰組」について、深く知りたいときに便利なのが、歴史資料館です。貴重な遺品の数々を観ることで新撰組隊士達を身近に感じられるだけでなく、パネル展示などで基礎知識や通史を学ぶことができます。特に、東京都日野市には新撰組ゆかりの資料館が多く、展示も多彩。東京都日野市の新撰組にまつわる歴史資料館や、京都の動乱を象徴するスポットも合わせてご紹介します。
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新撰組を題材にした作品

幕末という激動の時代を生き抜いた剣客集団「新選組」。その生きざまは、映画や大河ドラマなど、今でも数多く描かれ続けています。ここでは、新撰組を題材にした作品をご紹介します。

2021年(令和3年)10月に公開され、大きな話題を呼んでいる映画「燃えよ剣」。この作品は、「岡田准一」(おかだじゅんいち)さんが演じる「新撰組」の副長「土方歳三」(ひじかたとしぞう)の生涯を描き、国民的ベストセラーになった「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)の同題小説が原作です。映画 燃えよ剣のあらすじやキャストなど、基本情報についてご紹介すると共に、その見どころなどについても解説します。
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武将・歴史人の日本刀
武将・歴史人のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。
Web歴史小説刀剣三十六遣使(江戸時代)
史実およびゲームアプリ「武神刀剣ワールド」をもと描かれたWeb歴史小説を公開。江戸時代編は「新撰組」の人物が登場します。
歴女向け歴史ガイド
歴女に人気のある戦国武将ゆかりの史跡や神社などについてご紹介します。

刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」は、美術的に価値の高い刀剣や甲冑に関するコンテンツを公開しています。
大河ドラマや映画などにも登場する「新撰組」についての幅広い情報をご紹介。 組織の仕組みや新撰組誕生からの歴史、主な隊士などを解説しています。新撰組について詳しく知りたい方におすすめです。
刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」の掲載内容は、刀剣・甲冑(鎧兜)の基礎知識をはじめ、日本刀の歴史や雑学、日本刀にまつわる歴史人や合戦、名刀を生み出した名工達の紹介など盛りだくさん。日本刀に関する各種アプリゲーム、刀剣・お城川柳、四文字熟語といった楽しむコンテンツも充実。刀剣や甲冑に関する様々な情報を、あらゆる角度からバーチャルの世界でお楽しみ頂けます。

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