日本刀の歴史

新々刀

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1781年(天明元年)の江戸後期から明治維新後の1876年(明治9年)までの期間に鍛造された新々刀。新々刀が生まれた背景やその後の経緯など、新々刀の知識を掘り下げて、その魅力に迫ります。

「新々刀の刀工」をはじめ、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。

新々刀が生まれた背景とその後の経緯

新々刀期以前

徳川吉宗

徳川吉宗

1603年(慶長8年)の江戸幕府開設以来、長い泰平の世が続くと、日本刀は本来の用途である武器として使われる機会を失っていきました。

すぐれた日本刀を求める人が減れば、必然的に作刀の技を競う職人の需要もなくなるため、日本刀と刀工にとっては「冬の時代」と言えます。

この傾向に変化のきざしが見えたのが、江戸時代後期。1716年(享保元年)に「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が江戸幕府第8代将軍となったことが転機です。

徳川吉宗は、近年の時代劇ドラマの影響で「暴れん坊将軍」と呼ばれていますが、実際にも火事が起これば江戸城(現在の東京都千代田区)にある御殿の屋根に登って状況を観察するなど、型破りな行動力で周囲を驚かせました。

質素倹約、質実剛健を信条とする徳川吉宗が打ち出したのが、「享保の改革」による「尚武」(しょうぶ)路線です。「武を尚ぶ」(ぶをたっとぶ)とは、平和の時代に失われた勇武の精神を取り戻すために、武芸を奨励することを指し、日本刀が再び注目される時代が巡ってきたと言えます。

しかし、幕府が尚武に舵を切ったため、その反動として「公」である朝廷の権威が脚光を浴びることにもつながりました。

思想家の「山県大弐」(やまがただいに)が「柳子新論」(りゅうししんろん)を著すなど、「尊皇攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外国勢力を退ける)の思想が、この頃から盛んとなります。

さらに、1765年(明和2年)には、関東で農民20万人による大一揆が起きるなど、飢饉が連続したため世情は不安に覆われ、1768年(明和5年)には、「お伊勢参り」が大流行しました。

1778年(安永7年)、ロシア人が蝦夷地(現在の北海道)に現れ、通商を求めてきたのも人々に動揺をもたらします。

尊皇思想による幕府の威信低下、飢饉による治安の悪化、外国勢力に対する危機意識。様々な不安が、新々刀を生み出す条件を整えていきました。

新々刀前期

光格天皇

光格天皇

1781年(天明元年)に「光格天皇」(こうかくてんのう)が即位。光格天皇は、朝廷の儀式や権威を復活させることに熱心だったこともあり、復古志向が一段と強まっていきます。

また、1782年(天明2年)から発生した「天明の大飢饉」、1783年(天明3年)の浅間山大噴火といった大災害が連続すると、その影響で幕府老中「田沼意次」(たぬまおきつぐ)の政治が行き詰まり、1786年(天明6年)に失脚。

国内は食糧不足に見舞われ、1787年(天明7年)に江戸や大坂で起きた、米屋が襲われる大規模な打ちこわしや、各地の一揆の頻発につながったのです。

また、1792年(寛政4年)のロシア使節「アダム・ラクスマン」の来航に続き、1808年(文化5年)にはイギリス船が長崎に入港した責任を取って長崎奉行が切腹。日本はまさに内憂外患(ないゆうがいかん)状態となり、人々は深刻な不安に陥りました。

こうしたなか、治安の維持と強化のために、脚光を浴びたのが日本刀です。

泰平の時代には顧みられなくなり、単なる飾りとなっていた日本刀が、本来の武器として再び注目されたのでした。

新々刀後期

大塩平八郎

大塩平八郎

新々刀が一世を風靡するなか、1804~1830年(文化元年~文政13年)頃も、飢饉や一揆は相変わらず続き、ついに1837年(天保8年)には大坂で「大塩平八郎の乱」が発生します。

旗本だった「大塩平八郎」(おおしおへいはちろう)が幕府に反旗を翻したことは、日本中に大きな衝撃を与えました。

清(現在の中国)では、イギリスとの間に「アヘン戦争」が起き、いよいよ内外の緊張が高まるなかで、復古志向からだけではなく、実用面でも必要性が出てきた日本刀は、武器として返り咲いたのです。

江戸時代末期になると、「勤王刀」(きんのうとう)と呼ばれる刀身も長い日本刀や、反対に軍隊の近代化の影響で、洋装でも差しやすく、体を動かせる、短く細い刀身の日本刀が出てきました。いかにも混乱の時代の日本刀と言えます。

しかし、明治維新を経た1870年(明治3年)に庶民の帯刀禁止、翌年には華族(かつての公家・大名)、士族(かつての武士)の廃刀許可、1876年(明治9年)には全面的な帯刀禁止(軍人・警官は除く)と続く「文明開化」の気運のなかで、日本刀は無用の長物とみなされ、新々刀の時代も終わりを告げました。

新々刀の名工と名刀

水心子正秀

多くの刀工が新々刀を代表して活躍しましたが、最初に挙げるべき名刀工が「水心子正秀」(すいしんしまさひで)です。

出羽国(現在の山形県秋田県)出身で、山形藩秋元家のお抱え刀工となった水心子正秀は、新刀時代の「津田助広」(つだすけひろ)の作風に、鎌倉時代以来の「相州伝」と呼ばれる刀身が長く幅広で、武骨かつ豪快な作りの「正宗」(まさむね)流を加え、さらに南北朝時代の「備前長船兼光」(びぜんおさふねかねみつ)以来の豪壮な「備前伝」も取り入れました。

古刀」(ことう)への回帰を唱えた刀工・水心子正秀は、「刀 銘 水心子正秀」や「天秀」(あまひで)など、生涯で369振もの名刀を世に送り出しています。

また、1826年(文政9年)に刊行した「刀剣武用論」で、「斬り合いになると、(なかご)が短い日本刀は柄で折れてしまう」として、鎌倉・南北朝時代の長く丈夫な刀身を持つ日本刀が良いと説き、古刀に倣った新々刀を世に広める役割も果たしました。

刀剣ワールド財団所蔵で、「水心子正秀」の銘がある1振は、差表に「倶利伽羅」(くりから:不動明王の化身である、剣に巻き付いた竜)の彫刻が施された精緻な作品です。

添名があることから、水心子正秀自身の手で彫刻されたと分かります。

刀 銘 水心子正秀 天明五年二月日彫同作
刀 銘 水心子正秀 天明五年二月日彫同作
水心子正秀 天明五年二月日彫同作
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
69.4
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

源清麿

信濃国(現在の長野県)出身で、信濃上田藩松平家のお抱え刀工「河村寿隆」(かわむらとしたか)に入門した兄「真雄」(さねお)から作刀を学び、のちに自らも河村寿隆の弟子となった「源清麿」(みなもときよまろ/すがまろ)。

本名は「山浦環正行」(やまうらたまきまさゆき)です。源清麿は江戸へ出ると、剣術家で幕臣の「窪田清音」(くぼたすがね)に師事し、相州伝を身に付けて新々刀の第一人者となります。

恩師である窪田清音に贈った「為窪田清音君」という表銘のある作品は、通常より10cm近く長い2尺6寸(約78.78cm)の豪壮な作りが特徴です。

また、「山浦環正行」の銘が切られた1振は、江戸町奉行、勘定奉行、外国奉行を務めた幕末の幕府高官「小栗上野介忠順」(おぐりこうずけのすけただまさ)の家に伝来しました。地刃の出来栄えが優れた、1839年(天保10年)頃作の名刀です。

広く腕前を認められた源清麿は、江戸の四谷に住んだため、「四谷正宗」などとも異称されました。

刀 銘 山浦環正行
刀 銘 山浦環正行
山浦環正行
鑑定区分
重要刀剣
刃長
75.6
所蔵・伝来
小栗家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

大慶直胤

出羽国出身の「大慶直胤」(たいけいなおたね)は、鎌や日本刀を作っていた父「安光」(やすみつ)に作刀を学んだあと、江戸で水心子正秀に入門。

大慶直胤の作風は、古式な備前伝が特徴で、反りが比較的少ない傾向があり、「喜翁」の表銘が切られた優美な姿が印象的な1854年(嘉永7年)作の1振など、数多くの名刀を残しています。

その腕は師匠の水心子正秀を凌ぐとさえ言われ、のちに水心子正秀から独立すると、1804年(文化元年)頃、水心子正秀と同じ山形藩秋元家のお抱え刀工となりました。

この大慶直胤と、水心子正秀、源清麿は、新々刀期の「江戸三作」と呼ばれています。

大慶直胤は、脇差でも傑作を残しました。

「直胤」の花押(かおう:署名代わりの記号や符号)が切られた1振には、欄間透彫(らんますかしぼり)で倶利伽羅が施されており、この彫刻は、大慶直胤の作品としては唯一と言われています。

脇差 銘 直胤(花押)
脇差 銘 直胤(花押)
直胤(花押)
鑑定区分
保存刀剣
刃長
37.4
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

伊地知伯耆守正幸

「伊地知伯耆守正幸」(いじちほうきのかみまさゆき/まさよし)は、薩摩藩(現在の鹿児島県)島津家の刀工の家に生まれ、若い頃から抜群の技量を見せました。相州伝の影響を受けた、刀身の幅が広くのびやかな作風で知られ、新々刀時代のさきがけとなります。

1791年(寛政3年)作の表銘に「神在此口」(たましいこのくちにあり)と切られた作品や、1811年(文化8年)頃の表銘「伯耆守平朝臣正幸」(ほうのきのかみたいらあそんまさゆき/まさよし)の1振など、やや反りが高い姿が特徴的です。

山村綱廣

「山村綱廣」(やまむらつなひろ)は、相模国(現在の神奈川県)鎌倉で活躍した正宗の末裔を名乗る相州伝の名門・山村家の18代目とされ、江戸で水心子正秀に師事しました。

1793年(寛政5年)作の裏銘に「応永膚需」と切られた脇差や、1804年(文化元年)頃の無銘の日本刀など、その作品は反りが高く、相州伝の特徴である大鋒/大切先(おおきっさき)がすっきりとした印象を与えてくれます。

月山貞一

1836年(天保7年)生まれの「月山貞一」(がっさんさだかず)は、近江国(現在の滋賀県)の出身。刀工「月山貞吉」(がっさんさだよし)の養子に迎えられて早くからその才能を発揮し、古刀期の出羽国月山鍛冶による「月山伝」の特徴だった「綾杉肌」(あやすぎはだ)の復元に取り組みました。

綾杉肌とは、柾目(まさめ:杉板に似た肌目)模様のうねりが、独特の美を生み出す刀身の地肌のこと。

月山貞一の鍛えた日本刀は、「明治天皇」をはじめ、多くの人々に愛され、「帝室技芸員」(すぐれた芸術家を顕彰する制度によって宮内省が指名。現在の重要無形文化財にあたる)に任じられましたが、帯刀禁止令によって新々刀最後の大物となってしまったのが惜しまれます。

1865年(元治2年)作の表銘「月山源貞一」の短刀は、板目の地肌に綾杉風の模様が浮いており、若い時代の逸品です。また、1869年(明治2年)の表銘「月山雲龍子貞一造」(がっさんうんりゅうしさだかずぞう)の日本刀は、密度の高い綾杉肌に規則的で美しい刃文が浮き、やや低い反りによってすらりとした印象を与えてくれます。

月山貞一が78歳のときに手がけた作品も、若い頃に勝るとも劣らない名刀です。ゆるやかにうねる波のような刃文「刃」(のたれば)が美しく、茎に刻まれた「菊水紋」も目を惹きます。

この他、水心子正秀とともに刀剣復古運動を提唱した山城国(現在の京都府)の「南海太郎朝尊」(なんかいたろうちょうそん)や、備前伝の第一人者として脚光を浴びた出羽国米沢の「長運斎綱俊」(ちょううんさいつなとし)ら、各地に新々刀の名工が現れ、人気を集めました。

刀 銘 帝室技芸員月山貞一作(花押) (菊水紋)大正三年八月
刀 銘 帝室技芸員月山貞一作(花押) (菊水紋)大正三年八月
帝室技芸員
月山貞一作
(花押)(菊水紋)
大正三年八月
鑑定区分
保存刀剣
刃長
68
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

新々刀の特徴

新々刀は、古刀への回帰を謳ったことでも分かるように、古い時代の刀工の技法である「五箇伝」(ごかでん)の特徴を様々に織り交ぜて新たな表現を見付けることに力が注がれたのです。

そのため刀工には、五箇伝を完全に修得し、理解する力量が求められました。

五箇伝とは、日本各地に伝わる古刀の流派を言います。

山城伝」は、山城国の「三条小鍛治宗近」(さんじょうこかじむねちか)が流祖。「大和伝」は、大和国(現在の奈良県)の伝法。

相州伝は、相模国鎌倉の「正宗」が流祖。備前伝は、備前国(現在の岡山県)「古備前友成」(こびぜんともなり)が流祖。「美濃伝」は、美濃国(現在の岐阜県南部)関(せき)の「志津兼氏」(しづかねうじ)が流祖です。この5つの流派が五箇伝と呼ばれ、全国に広まっていきました。

このうち、刃文が粗い粒子状の「」(にえ)を特徴とするのが山城伝、大和伝、相州伝で、同じくほんのり曇ったように見える細かい粒子状の「匂い」を特徴とするのが備前伝、美濃伝です。

刀身の地肌では、山城伝が梨の皮に似た粒子状の「梨子地」(なしじ)、大和伝は「柾目」、相州伝は木を縦に切ったような「板目」、備前伝は年輪のような「杢目」(もくめ)、美濃伝は杢目と柾目の混合。

その他、彫刻の仕方にも各流派で違いがありますが、新々刀の名工達はそれらを自分の作刀に取り入れていったのです。

また新々刀の時代は、各地の刀工達が良質の日本刀を求める人々の需要に応え、古刀期の名刀のように後世にまで伝わる作品を残すべく競って腕を磨きました。

高品質の鋼(はがね)を惜しみなく使い、刀身の幅が豊かでしかも強靱、切れ味も鋭い、見事な日本刀を多く作り出したのです。

全体から観ると、長大で豪壮な作りは変わりませんが、前期は反りが深く、後期になると「大段平」(おおだんびら)と呼ばれるような反りの浅い作品が多くなります。

この他に短刀も数多く作られました。

  • 五箇伝の名工
    日本刀の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。
  • 現代刀の名工・名匠
    現代の日本刀を代表する作品を生み出し、突出した技術を持っている刀匠をご紹介致します。

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新刀

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