日本刀の姿は、室町時代以降も「戦」(いくさ)の発生に応じて変化していきます。合戦の戦術が変化することによって、日本刀も室町時代や安土桃山時代に合わせて変化していくのです。引き続き、各時代の戦と日本刀の特徴についてご紹介します。
金閣寺
室町時代前期には、主な戦はありません。3代将軍・足利義満が南北朝の統一を実現すると、政権が安定し武器は不要となり、文化が花開きます。義満は京都北山に「金閣寺」を、また6代将軍・義政は東山に「銀閣寺」を建立。前者を「北山文化」、後者を「東山文化」と呼び、伝統的な公家文化と禅宗の影響を受けた武家文化を折衷した、独特の雅な文化が築かれるのです。
将軍のまわりには、花道・茶道・作庭師など、身分は低くても芸能に秀でた者が多く集められ、この時代の文化を盛り上げました。また、民衆の地位が向上し、民衆の楽しむ文化、能、狂言、盆踊りなども姿を現します。
応仁の乱
ところが、室町時代後期になると、1467年(応仁元年)、「応仁の乱」が起こります。これは、8代将軍・足利義政の後継者(義政の弟・義視VS義政の妻・日野富子の推す息子・義尚)の争いが原因です。幕府の実権を握ろうと争っていた、細川勝元(東軍・義視側/24ヵ国/16万人)と山名宗全(西軍・義尚側/20ヵ国/11万人)が加勢して、争いはさらに激化。この戦いは、京都を主戦場としたため、街は戦火に焼かれて荒廃します。
結局翌年に、戦いに疲れた両軍の間に和議が結ばれて終結。9代将軍・義尚が誕生しますが、将軍の権威は大きく失墜し、幕府は弱体化したのです。争乱は地方へと広がり、この結果出自よりも、自らの実力で分国を作り上げる戦国大名が出現します。牢人からは、北条早雲。国人からは毛利元就。また、守護代の家からは織田信長、上杉謙信、武田信玄、今川義元、伊達政宗が、戦国大名の地位を獲得します。
1555年(弘治元年)「川中島の戦い」、1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」、1570年(元亀元年)「姉川の戦い」など、織田信長、豊臣秀吉によって天下が統一されるまで、戦国大名たちは、絶え間なく激しく戦い続けるのです。この時代を「戦国時代」とも言います。
打刀
室町時代前期の日本刀は、まるで鎌倉時代に立ち戻ったかのような、長さも身幅もバランスが良い、細身で優雅な姿が特徴です。戦乱の世が終わり、前時代のような長大な剛刀で威力を誇示する必要がなくなったため、武具としてよりもアクセサリーとして、優美な日本刀が好まれるようになったのです。
国内の統一を完成した足利義満は、1401年(応永8年)、中国の明国と「日明貿易」を開始。義満は、備前長船派に「数打ち」と言われる低品質の日本刀を大量生産させ、日本刀を主要輸出品としました。これにより、幕府は多くの胴銭を手に入れます。
室町時代後期になると、また数々の争乱が起こることになります。戦闘様式は馬上戦から徒歩戦に再変化。日本刀は馬上で携帯する太刀ではなく、徒歩戦向きの打刀が誕生します。
打刀とは、刃を上にして腰帯に差すタイプの日本刀。徒歩戦で日本刀が抜きやすく、刀長は2尺1寸(63.6cm)前後。持ち主の身長・腕の長さに合わせて作られたと言われています。身幅は広く、中鋒。先反りが強く付くことが特徴です。
永正・天文頃は、片手打ち(片手で扱えるように刃長をやや短めにした日本刀)も登場し、茎も短くなっていきます。
再び戦乱の世となって、日本刀の需要が増し、代表的刀工は、美濃・伊勢・駿河など、合戦が多い東海地方に移ったことも特徴です。従来の生産方法では追いつかないほどになり、美濃でも大量生産技術を確立。先駆者の備前長船派だけでなく、美濃の数打物(量産品)も大量に出回るようになるのです。
織田信長
尾張の守護代の家に生まれた戦国大名の織田信長は、武力による天下統一を目指します。1573年(天正元年)に、足利義昭を追放して室町幕府の滅亡に成功。1575年(天正3年)「長篠の戦い」では鉄砲を使用し、3段打ちで騎馬軍団を破り武田氏に大勝します。翌年、近江に壮大な安土城を築き、1580年(天正8年)大坂の石山本願寺を屈服させて畿内を平定。1582年(天正10年)、備中で毛利氏と対戦する豊臣秀吉の応援に向かうなか、部下の明智光秀に攻められ、京都「本能寺の変」で敗死します。
豊臣秀吉は信長の死を知ると、すぐに「山崎の戦い」で明智光秀を追討します。1583年(天正11年)、織田家重臣の柴田勝家を「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で破り、信長の後継者としての地位を確立。石山本願寺の跡地に壮大な「大坂城」を設立します。そして、1585年(天正13年)に長宗我部元親を下し、四国を平定。1587年(天正15年)に島津義久を従え、1590年(天正18年)に「小田原攻め」で北条氏を滅ぼし、国内統一を果たします。やがて秀吉は、外国の明(中国)と朝鮮の征服を企てるようになるのです。
1592年(文禄元年)に、まず加藤清正ら15万の大軍を釜山に上陸させる「文禄の役」、1597年(慶長2年)に、14万の大軍を朝鮮に送る「慶長の役」を起こします。しかし、1598年(慶長3年)に秀吉が病死したため全軍撤退。この7年に亘る「朝鮮出兵」により、戦費と兵力を費やして、豊臣政権は衰退することになるのです。
1543年(天文12年)に種子島に鉄砲が伝来すると、その製造技術や射撃法が伝わり、刀鍛冶は日本刀を鍛錬する技術を応用し、銃身の製造をするようになります。1575年(天正3年)、織田信長は「長篠の戦い」で鉄砲を使用し、武田軍に大勝。戦闘様式が、鉄砲へと一変しました。日本刀は、室町時代後期に続き、「打刀」が主流に。交通の発達により、産地による地鉄の違いが薄れ、刀工個人の個性が目立つようになります。信長や秀吉によって、南北朝時代の古名刀・太刀の磨き上げ(茎から下を短く詰めること)が盛んに行なわれるようになり、打刀と姿を同じにするのです。
慶長新刀
また、秀吉は、本阿弥光徳に折紙(日本刀の鑑定書)の発行を許可。慶長時代前後の日本刀は「慶長新刀」と呼ばれ、戦国時代を生き抜いた武士好みの、豪壮で沸の強い、派手な刃文の日本刀が流行します。それまで片手打ちだった日本刀は、永禄・天正以降は、両手打ちとなり、身幅も広く、中鋒も伸びるようになりました。
刀狩令
秀吉は、1588年(天正16年)に「刀狩令」を発令し、それまで農民や商人など誰もが所持していた日本刀・槍・鉄砲の類を、武士以外が持つことを禁止、没収しました。これにより、日本刀は武士だけの宝物として価値を高めます。また、室町時代から数打物を大量生産していた備前長船派は、1590年(天正18年)吉井川が氾濫したことで被害を受け、壊滅してしまうのです。
年代 | 1568~1602年 | 鋒 | 中鋒から大鋒 | 身幅 | 広 |
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刃長 | 2尺2寸(67cm) | 反り | 浅 | 重ね | 厚 |
打刀の部位 用語解説