「兼房」は、美濃国(現在の岐阜県)の末関(すえせき:戦国時代の関鍛冶)を代表する刀工のひとりです。初代・兼房の生年は不明ですが、父は「兼重」(かねしげ:関鍛冶七流[せきかじしちりゅう]のひとつ、善定派[ぜんじょうは]の始祖・善定兼吉[ぜんじょうかねよし]の門人)で、四男として誕生しました。通称は、清左衛門(せいざえもん)です。
兼房の作風は、反り(そり)の浅い新刀姿。地鉄(じがね)は杢目肌堅く、鎬地(しのぎじ)は柾目肌、刃文は匂本位(においほんい)の「兼房乱れ」(けんぼうみだれ)で、帽子(ぼうし)は地蔵帽子(じぞうぼうし)が多く、返りは深いと言えます。
兼房乱れとは、兼房が創始した、大互の目乱れの頭が独立して丸くなったもの。乱れと乱れの間、あるいは乱れの谷に荒い叢沸(むらにえ)がつき、とても華やかです。兼房乱れはその華麗さから、兼房の一派だけでなく、関鍛冶全体に流行しました。
なお、兼房の日本刀は、切れ味の良さも抜群。代表刀の「七ツ胴落とし兼房」は、江戸時代の「試し斬り」の際に、死体7つの胴体をすべて両断するという最高記録を打ち出し、大業物(おおわざもの)の称号を得ています。
初代・兼房が1455年(康正元年)の銘を切ったのを皮切りに、2代・兼房は1480年(文明12年)と1482年(文明14年)、3代・兼房は1527年(大永7年)と年紀を切って繁栄。尾張国(現在の愛知県)に移住した「氏房」(うじふさ)系や薩摩国(現在の鹿児島県)に移住した「丸田備前守氏房」などの分派も繁盛しました。兼房の一派は、関鍛冶を牽引し、兼房の名前は現在まで継承されています。