相州伝
正宗十哲
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正宗十哲

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日本刀の歴史の中でも、とりわけ名刀が多く作られたのが、鎌倉時代です。そして、その鎌倉時代後期に登場したのが、かの有名な「正宗」(まさむね)。正確な生没年も不明であり、銘入りの作品が極めて少ないことなどから、その存在自体を否定する学説が唱えられるほど、ミステリアスな存在です。 正宗の下で学び、名匠へと育った代表的な人物は10人いるとされ「正宗十哲」(まさむねじってつ)と称します。正宗に習い、全国にその技を広めていった彼らを知るためにも、まずは、正宗について追っていきましょう。

人々を動かしてしまうほど強い影響力を持つ正宗の名

正宗は室町時代以前、文献にも登場しないほど価値は低かったのですが、大の正宗びいきである豊臣秀吉の時代に入って激変します。秀吉が褒美として部下に正宗の日本刀を与えたことから、大名たちにとって、正宗の日本刀を持つことがステータスに。徳川家康の時代になっても、この流れは引き継がれたと言います。当時、鑑定書は「折紙」という名で、幕府に雇われて日本刀の鑑定をしていた本阿弥家が発行していました。

しかし、田沼意次時代になると、鑑定によって不正に利益を得る者が増え、折紙が乱発されたことで信用を失いました。謎の多かった「正宗作」の真偽が、ますます怪しくなってしまったのです。そればかりか、刀剣研究の混沌期であった明治時代には、そもそも正宗なる人物は架空の人物であるとする「正宗抹殺論」まで飛び出し、その論争は昭和初期まで繰り広げられました。

このような経緯に加えて、正宗作と称する作柄は世の中にあまりにも多く、また正宗作は世相を反映して作風が変化しています。そのため、研究が進み、正宗の存在を裏付ける古文献が現れても、どこか謎のベールに包まれたイメージを正宗は持ち続けているのです。自分の死後、自身の日本刀がここまで人々を翻弄してしまうとは、正宗本人も予測していなかったのではないでしょうか。

正宗十哲とは

正宗十哲

正宗十哲

正宗十哲の中には、真の門人と言える人物もいれば、説によっては直弟子に入らない人物もいますが、その作風を受け継いでいる名匠であるのは確かです。

正宗がこれほどまでに有名になったのは、彼が非常に研究熱心で腕の良い刀匠であっただけでなく、優れた教育者という面も持ち合わせていたからではないでしょうか。

それでは、正宗十哲と呼ばれる10人をご紹介します。

来国次(らいくにつぐ:山城)

「鎌倉来」などとも称されます。

伝統的な来一派とは異なった相州伝風の作風で、沸(にえ)の強い乱れ刃。正宗に弟子入りしたのではなく、来一派の伝法に、国次の手腕で時代の要求を取り入れたとする見方もあります。

来一門は南北朝時代まで繁栄していました。

長谷部国重(はせべくにしげ:山城)

本国は大和国の刀匠。

「へし切り長谷部」という日本刀には、織田信長が無礼を働いた茶坊主を手打ちにしようとしたところ、台所にあった棚の下に隠れたので、棚ごと突き刺したという逸話が残っています。

へし切り長谷部

へし切り長谷部

志津三郎兼氏(しづさぶろうかねうじ:美濃)

本国は大和国。美濃国多岐荘志津郷に移住して「志津三郎」を名乗るようになりました。

美濃伝を学んだのちに、相模に移って正宗の弟子になったと伝えられています。

金重(きんじゅう:美濃)

本国は越前国。関鍛冶の祖と呼ばれる人物。

地鉄が黒ずむなど、作風は、北国気質があると言います。正宗に入門したとき、すでに61歳だったという説があり、興味深いところです。兼氏系は派手な作風ですが、金重一派にはそのような作は稀で、多くは優しい姿に穏やかな中直刃に小互の目(こぐのめ)の交ざる物 を焼き、沸の働きもあまり見られません。

義弘(よしひろ:越中)

「義弘」の作品は、純然たる相州伝の豪壮な姿と比較すると、尋常な太刀姿で、平肉が付き、重ねが割りに厚いことが特徴。皆焼風(ひたつらふう)のさわがしい乱れ刃もなく、品格がある作風です。

「五月雨江」(さみだれごう)という日本刀がありますが、まるで霧がかかっているように見えるため、「徳川秀忠」は「五月雨とはうまく名付けたものだ」と感心していました。

則重(のりしげ:越中)

鍛え肌は、独特の「松皮肌」(まつかわはだ)と呼ばれる渦巻状をした物であり、正宗以上に地肌がよく詰んでいます。刃文は金線・砂流しが踊り、多彩な変化を見せ、有銘作の多くは短刀。

室町時代の古書「往昔抄」(おうせきしょう)や「埋忠押形」(うめただおしがた)などから、正宗よりも年長であると推察され、二代目「則重」が正宗の下で学んだのではないかという説もあります。

直綱(なおつな:石見)

年代などから考えて、正宗から直接教えを受けたとするのは無理があるのではないかと疑問視されることが多い人物。一説には、「左文字」の弟子である「貞吉」に学んだとも言われ、また、相伝備前の長義系を示す作品が多く、このような点から正宗十哲に入れられたと推察されます。

全体が相州伝風であっても、帽子には異なる特徴が見られ、正伝の相州伝を学んでないことを示す作柄もあります。

兼光(かねみつ:備前)

「兼光」が作刀し、「小早川秀秋」が所持していた「波泳ぎ兼光」は、一説によると、斬られた相手が川を泳いで逃げたところ、向こう岸で首が落ちた、または真っ二つになったことに由来すると言われ、兼光作には切れ味の良さを物語る数々の伝説が残されています。

長義(ちょうぎ/ながよし:備前)

兼光と並ぶ相伝備前の代表工で、「兼長」の師。焼きの高い互の目丁子刃に耳の形に似た刃文を交え、覇気に満ちた作風。大磨上無銘が多いです。

「佐竹義重」が北条氏の騎馬武者を斬ったところ、兜もろとも真っ二つになって馬の左右に落ちたことから、「八文字長義」という名前が付いた日本刀があります。

安吉(やすよし:筑前)

「左」のみ記すので左文字と称され、門人には「弘行」など優れた刀匠がおり、左一門の総帥。尖りごころとなり、小丸に返る帽子が特徴的。端正な直刃を焼いた短刀もあります。

「三好左文字」という日本刀は、今川義元から織田信長へ渡り、本能寺から見付け出されて豊臣秀吉へ、そして秀吉の子である「秀頼」から徳川家康へ贈られるという数奇な運命を辿ったと言われています。

名匠から名匠へと受け継がれていく相州伝

正宗が活躍していたのは、相模国(神奈川県)。この地方で作刀された日本刀は、相州伝と呼ばれる特徴を持ち、正宗が完成させた物と言われています。しかし相州伝は、正宗ひとりの手によって生まれた訳ではありません。

歴史的な背景として、まず、北条氏5代目の執権・北条時頼の時代、鎌倉を政治・経済・軍事の中心地とするため、幕府が有力な刀匠を鎌倉に招いて軍備を強化する動きがありました。その刀匠の中には「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)や「備前三郎国宗」(びぜんさぶろうくにむね)がおり、2人から教えを受けた「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)が素地を作り、これを受け継いだ「行光」が新しい技法を編み出し、正宗に伝えたのです。このようなベースがあった上で、対蒙古戦に備えて正宗が改良を加えて完成したのが相州伝の日本刀でした。

新藤五国光太刀

新藤五国光太刀

己の力量を示す格好の道具となるため、当時の武将たちは長大な武器を好みましたが、長大であるほど重量も加わります。そこで、鋼の重ねを薄くして軽量化しました。それによって今度は強度が下がってしまうところですが、数種類の鋼を組み合わせることで補います。この鍛造法によって、刀身の地肌にも複雑な模様が生まれ、美術的観点から見ても価値の高い物となりました。地鉄の組み方や鍛え方以外にも、急冷の焼き入れ法など、相州伝は、高い技術力が求められるため、五箇伝の中でも継承者があまりいません。

そして、正宗の子である「貞宗」は相州伝の代表的な刀匠となり、正宗十哲と呼ばれる刀匠たちが盛り立て、相州伝は全盛期を迎えます。

相模国の地図

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正宗十哲

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貞宗三哲

貞宗三哲
「正宗」(まさむね)の弟子のひとり「貞宗」(さだむね)もまた、日本刀史上に多大な影響を与えた人物として知られています。相州伝を目指した後代の刀匠たちは、貞宗を模した「貞宗写し」に取り組みました。この貞宗の下にも技術力の高い3人の弟子がおり、それが「貞宗三哲」(さだむねさんてつ)です。 貞宗の日本刀とは?そして、3人の弟子たちの作品はどのような物なのでしょうか?

貞宗三哲

正宗

正宗
「正宗」(まさむね)は、「相模国」(さがみのくに:現在の神奈川県)で鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍した刀工です。名刀を鍛える刀工として世間一般にも広く周知されており、日本刀の歴史の中でも、最も有名な刀工のひとりと言えます。当時からその腕前は高く評価されており、その作刀は大名たちに大金で購入され、家宝とされてきました。「名物」(めいぶつ:古来有名で、異名を持つ刀剣類)がたいへん多く、「越中国」(えっちゅうのくに:現在の富山県)の刀工「郷義弘」(ごうのよしひろ)や京都の刀工「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)と並んで、世に多くの名物を生み出したのです。

正宗

新藤五

新藤五
「新藤五一派」(しんとうごいっぱ)は、「相模国」(さがみのくに:現在の神奈川県)で鎌倉時代後期に活躍した刀工一派です。「粟田口派」(あわたぐちは)の「国綱」(くにつな)が、「北条時宗」(ほうじょうときむね)に招かれ、「山城国」(やましろのくに:現在の京都)から相模国の鎌倉に移住し、子の「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)に日本刀のいろはを教えたことで興った一派とされています。新藤五国光は、「相州伝」(そうしゅうでん:相模国の刀工の作風・系統)の実質的な祖であり、名工で有名な「正宗」(まさむね)・「行光」(ゆきみつ)らの師も務めました。

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