「正宗十哲」(まさむねじってつ)とは、刀匠「正宗」(まさむね)の高弟と呼ばれた10名の刀工のこと。正宗とは、「相州伝」(そうしゅうでん)を完成させた、鎌倉時代末期の名工です。正宗は完成した相州伝の技術を惜しみなく弟子達に伝え、その教えを学んだ弟子達が全国で活躍した結果、相州伝は南北朝時代に一世を風靡しました。偉大な教育者・正宗と正宗十哲について、詳しくご紹介します。
「相州伝」とは、相州国(現在の神奈川県)で培われた刀剣の鍛錬法のこと。「正宗」は、鎌倉時代末期に、相州伝を完成させた名工です。
生没年は明確には分かりませんが、鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)生まれ、鎌倉育ち。通称は、岡崎五郎入道と言い、相州伝の創始者と呼ばれる「新藤五国光」(しんどうごくにみつ)に師事しました。
新藤五国光は、1250年(建長2年)鎌倉に生まれ、父は備前国(現在の岡山県)の「備前三郎国宗」(びぜんさぶろうくにむね)です。のちに山城国(現在の京都府)の「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)の養子となったため、備前伝と山城伝の双方を修得しました。
そんな中、1274年(文永11年)と、1281年(弘安4年)に2回も「元寇・蒙古襲来」という国難が起こります。鎌倉幕府は、外国人である蒙古の武器をはじめて見て、日本刀は重くて振り回すことができず、華奢で折れやすいという弱点に気付き、頭を抱えることになったのです。そこで、白羽の矢が当たったのが、新藤五国光。鎌倉幕府から、「軽くて折れない」刀剣を作るよう打診されたのです。
新藤五国光は、一番弟子の「行光」(ゆきみつ)達と共に、鎌倉幕府の要望に応えたいと研究を始めます。そのとき、新藤五国光の門を叩いたのが、正宗です。正宗は、一説には新藤五国光の弟子・行光の妾の子ではないかと言われています。
1280年(弘安3年)に行光、1324年(正中元年)に新藤五国光が亡くなりますが、正宗は新藤五国光や行光から学んだ秘法を研究し続けます。またそれだけではなく、山城国、備前国、伯耆国(現在の鳥取県西部)など全国を行脚して、刀剣作りを熱心に考察。そして、ついに相州伝を完成させたのです。
正宗が完成した相州伝は、炭素量が異なる硬軟の地鉄を合わせて強度を向上。同時に、柔度を実現し、軽量化にも成功しました。また、それだけでなく、姿は豪壮で勇ましく、地鉄(じがね)は荒沸本位の板目鍛えが美しく、沸も付き、刃文は迫力のある湾れ刃(のたれば)を焼くなど、見た目も華やか。相州伝は、鎌倉幕府の要望を叶えた「折れない、曲がらない、よく斬れる」実用兼美の刀剣として有名になり、一世を風靡したのです。
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相州鍛冶の礎を築いた人物の中で、特に注目したいのが、備前三郎国宗。備前三郎国宗は、備前長船派の分派「直宗派」(なおむねは)出身。父は、直宗派を開祖した「直宗」の子、「国真」(くにざね)です。国真の三男なので、備前三郎と呼ばれました。
鎌倉幕府に召し抱えられたのは若干18歳のとき。華やかな乱刃から穏やかな直刃までと作域が広く、特に刃中に染みが現れる技法は「備前三郎国宗の白染み」と言われ、秀逸です。
備前三郎国宗は、1270年(文永7年)に94歳で死去。この備前三郎国宗の子が、秘法・相州伝の実質的な創始者「新藤五国光」なのです。
正宗十哲
正宗には、実子がいませんでした。相州伝を継承させるため、「貞宗」を養子に迎え、偉大な教育者となって「正宗十哲」と呼ばれる10名の弟子を育てあげたと言われています。
また、正宗十哲という名称は、実は後世に考えられたもの。相州伝を完成したのは正宗ですが、その高度な伝法を修得し、広めた弟子達も優秀だと注目されました。代表的な10名の弟子について、解説します。
「鎌倉来」とも称されます。伝統的な来一派とは異なった相州伝風の作風で、沸(にえ)の強い乱れ刃。正宗に弟子入りしたのではなく、来一派の伝法に、来国次の手腕で時代の要求を取り入れたとする見方もあります。
重要美術品「鳥飼来国次」(黒川古文化研究所所蔵)は代表作です。
長義は正宗十哲の中でいちばんの年少者。相州伝の荒沸本位の板目鍛えに、備前伝の杢目鍛えを加えているのが特徴です。刃文は大きく湾れた華麗な乱れ刃で、覇気に満ちた作風。兼光と並ぶ、相伝備前の代表工です。
重要文化財の「山姥切」や、佐竹義重が北条氏の騎馬武者を斬ったところ、兜もろとも真っ二つになって馬の左右に落ちたことから名前が付いた「八文字長義」の刀剣が有名です。
刀工「長義」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
北条早雲
鎌倉幕府が討幕し、南北朝が統一されて室町幕府が開かれると、都が鎌倉から京に移されました。鎌倉の相州伝は衰退し、鍛冶達は鎌倉の土地を離れることになるのです。
新藤五国光が興し、行光が研究し、正宗が完成させ、正宗十哲が広めた相州伝は、簡単な伝法ではありません。地鉄の鍛え方、強熱急冷の作業など、かなり高度な技術が必要でした。そのため、戦国時代には、荒沸本位の板目鍛を厳守して継承することはできなくなり、沸なども少なく、品質を保つことができなくなったと見られています。
そんな相州伝の刀剣は、江戸時代に再び高く評価されました。正宗が制作した実用兼美な刀剣は、「享保名物帳」に59振が掲載されるほど。現在でも、正宗の刀剣は国宝9振、重要文化財3振が選ばれ、歴代刀工の中で一番の数を誇ります。
なお、相州伝の正系「綱広」一派は、戦国時代に鎌倉から小田原(現在の神奈川県小田原市)に移住し、新興勢力の後北条氏に仕えました。品質は落ちてしまったものの、綱広一派が作る刀剣は「末相州物」(すえそうしゅうもの)と呼ばれ、江戸時代を経て明治時代まで存続したのです。
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