関市における刃物の特長
関鍛冶七流と関市の春日神社
関市における刃物の特長
関鍛冶七流と関市の春日神社

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岐阜県関市にある春日神社。関鍛冶の守護神とされる神社で、奈良にある春日大明神より勧請(かんじょう)して、関に建立されました。日本には山城、大和、備前など五箇伝と呼ばれる日本刀(刀剣)の生産地があります。その中のひとつが関で作られる美濃伝。関は五箇伝で唯一、鍛冶仲間で作られた鍛冶座と呼ばれる自治組織があったことで知られています。なぜ、刀鍛冶達だけで組織を作り、しかも今日まで途切れることなく日本刀(刀剣)作りを行なうことができたのか。その秘密を読み解くには、七流と呼ばれる流派、さらに関鍛冶の守護神である春日神社について知る必要があります。

どうして関で刀鍛冶が発展したのか

そもそも、なぜ岐阜県という場所で刀鍛冶が発展したのでしょうか。関で刀鍛冶が発展を遂げたのは室町時代とされていますが、礎と呼ばれるものは鎌倉時代末期に名工・五郎正宗の弟子である金重が築いたとされます。

室町時代には金重の娘婿である包永(かねなが)の三男、包光(かねみつ、のちに兼光に改名)が大和から関へ移住しました。この際、一門の日本刀(刀剣)作りの職人だった兼明や兼弘といった仲間を伴って関にやって来たことも、のちの発展に大きな影響を及ぼすことになるのです。

鎌倉時代、室町時代の主要な刀鍛冶

関における鍛冶の「元祖」は、鎌倉時代に関へと移り住んだ「元重」とされていて、岐阜県関市のホームページにもそのような記載が見られます。

ですが、鎌倉時代以後、室町時代に移り住んだ金重や兼光達が発展の祖とする声もあり、意見が分かれるところです。

鍛冶座はどのようにして生まれたのか

1392年(元中9年)に足利義満が南北朝を統一。するとその後、金重の孫である兼光の子孫だった刀剣職人達は、鍛冶仲間を集めて自治組織である「鍛冶座」を結成しました。鍛冶座というのは、生産、販売を区分けして、自分達で内部調整することも目的だったのです。

当時の時代を考えれば、かなり先進的な取り組みだったことが容易に想像できます。やがて、鍛冶座に所属する鍛冶職人達は、各々で組合を形成していくことになるのです。

関鍛冶には七つの流派が存在していた

鍛冶座に所属する職人達がそれぞれで作った組合、それが関鍛冶七流と呼ばれた流派です。「善定」、「奈良」、「三阿弥」、「徳永」、「得印」、「良賢」、「室屋」の流派があり、これらの流派は互いに技術を競い高め合うとともに、流派ごとのルールを定めました。

また、7人いるそれぞれの流派の頭が対等の立場で意見交換できる合議制を採用。協力しながら日本刀(刀剣)作りに励んだのです。七流という存在が、のちの美濃伝と呼ばれる岐阜の日本刀(刀剣)作りの技術を高めたわけですが、このような合議制を可能にしたのは、彼らのルーツが同じ大和鍛冶の出身者だったという点も大きいとされています。

主力流派だった善定

七つの流派のなかでも、「善定」は主力流派とされていました。代々の善定派当主は「惣領家」と呼ばれ、関の鍛冶頭を務めるほどでした。

なお、関鍛冶の基礎を作った流祖と呼ばれる人物が「善定兼吉」です。流派のひとつである奈良は「兼常」、良賢は「兼行」と呼ばれるなど、すべての流派の名前は流祖である兼吉の名に由来しているとされます。

春日神社という信仰が鍛冶座を可能にした

春日神社

春日神社

五箇伝と呼ばれる聖地のなかで、どうして関だけが自治組織による運営を可能にしたのでしょうか。鍛冶職人全員がもとは同じ大和国の出身であったこと以外に、忘れてはならないのが、奈良から勧請した春日神社の存在です。

大和国から移り住んだ刀鍛冶からすれば、関は故郷から遠く離れた場所に違いありません。ですが、大和国の神様をそばに祀ることで、全員が同じ気持ちで協力し合って日本刀(刀剣)の製造に打ち込んでいたことが想像できます。

春日神社は大和国(現在の奈良)から移住してきた関鍛冶の祖、金重と兼永が関鍛冶の総代として春日大社の御分霊を勧請して祀り、神殿を創建したのが始まりです。神社の境内には、市指定重要文化財の能舞台や太鼓堂、社宝を収蔵する神宝殿などがあります。

関まつりで披露される能

童子夜行

童子夜行

毎年4月の第3土曜日に行なわれる「関まつり」。この日、春日神社の能舞台では江戸時代まで行なわれていた能古典神事芸能「童子夜行」(どうじやこう)が奉納されます。

山に住み、村を荒らした魔物に神様のお告げに従い餅を食べさせ、満腹で眠った隙に退治したという伝説を再現。村人からの感謝を神様に伝えるという思いも込められているそうです。

なお、童子夜行は美しい衣装に身を包んだ、地元の小学生女児が披露してくれるのも見どころと言えます。

室町時代に流行した能も取り入れた春日神社

金重らの手により、大和国から勧請した春日神社は1288年(正応元年)に創建されました。春日神社を語る上で欠かせないのが、室町時代に都で能が流行するといちはやくこれを取り入れたというエピソード。檜皮葺き(ひわだぶき)の能舞台を境内に建立して、祭事能として毎年正月に舞台上で奉納していたそうです。

なお、能の奉納は1395年(応永2年)に兼吉清治郎(かねよしせいじろう)が関七流を代表して翁役となり、スタートしたと言われています。

このエピソードからは、いかに室町時代の関の刀鍛冶が隆盛を誇っていたかがうかがえるでしょう。都会で流行している物を自分達の町でも見たいという、刀鍛冶達の心情のあらわれだったと言えます。

能に関する数多くの重要文化財がある

能面

能面

能舞台は、残念ながら1959年(昭和34年)、伊勢湾台風により倒壊してしまい、現在の物は何度目か再建された物です。

その境内には数多くの重要文化財を保管する神宝殿があり、特に能装束類に関しては繍箔(ぬいはく)、狩衣(かりぎぬ)、角帽子(すみぼうし)など63点が保管されています。

また、61点の能面には室町の名工・赤鶴吉成(しゃくづるよしなり)や石川重政(いしかわしげまさ)の作品もあり、これも国の重要文化財です。ひとつの場所にこれだけ多くの能に関する道具が残っているのは、大変珍しいことです。

春日神社にあった芝居の語源

春日神社に建立された能舞台。この立派な舞台で行なわれる能は神様が見届ける神事で、江戸時代まで奉納されていました。神事とは言え、神社に集まった人々も見ることができ、青々とした芝生の上で見ていたそうです。

この、芝の上で能を見ていた光景こそが「芝居」の語源。ただ、芝居という言葉が生まれた場所については、関の春日神社や、奈良の春日大社とする説があります。

能面、能装束を公開する刃物まつり

能は神事であり舞台芸術ですが、これを楽しんできたのは、主に都会に住む武家社会を形成する人達限定のことでした。それが、関という都会からは離れた地で、幕末まで能が奉納されていたことは非常に興味深いことです。

そんな関の春日神社に伝わる能面、能装束が年に一度、一般に公開されるのが、関の秋を彩る一大イベント「刃物まつり」。能面や能装束は10月に行なう祭り期間中の日曜日に公開されます。

本町通りに刃物の名店が並ぶ

刃物まつりの期間中、市内の刃物メーカー、卸売業者がテントを並べ、庖丁やはさみ、ナイフなど豊富な刃物製品をお祭りならではのお値打ちな価格で販売する「刃物大廉売市」が行なわれます。

これは全長1,000mの本町通りをメイン会場にしたもので、関市内の至る所で古式日本刀鍛錬や刀剣研磨といった技術の実演が見られるのが特徴です。さらに居合道の据え物切りや、抜刀技術の実演は大迫力。多くの観光客が足を止めて実演に見入り、拍手を送ります。

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