日本刀の歴史
慶長新刀
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慶長新刀

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日本刀(刀剣)の時代区分は、古い順に「古刀」(ことう)、「新刀」(しんとう)、「新々刀」(しんしんとう)、「現代刀」(げんだいとう)と表されます。1595年(文禄4年)までの古刀から、1596年(慶長元年)からの新刀への移行期に制作されたのが、「慶長新刀」(けいちょうしんとう)です。慶長新刀は、古刀の特徴を十二分に受け継ぎながら、新しい時代にも目を向けた、過渡期特有の個性を持つことになりました。そこで慶長新刀が、どのような日本刀(刀剣)なのかをご紹介します。

安土桃山時代の文化を反映

慶長新刀が制作された時代は、安土桃山文化が大きく花開いた爛熟期にあたります。豪壮華麗な趣向が好まれ、立派な天守閣を持つ「姫路城」や「大坂城」などが築かれました。

こうした気風は日本刀(刀剣)制作においても同様で、覇気のある力強い作品が好まれたのです。多くの刀工達は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての作刀に理想を求め、自らの作品に反映させます。さらに、扱いやすさを重視して、長大な太刀を手頃な長さに磨上げたような刀姿としました。

この時代を代表する名工としては、慶長新刀の祖とされる「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)と、その門下生の「肥前忠吉」(ひぜんただよし)、「越前康継」(えちぜんやすつぐ)、「南紀重国」(なんきしげくに)などが名を連ねます。また、「三品派」(みしなは)、「堀川派」(ほりかわは)も特筆すべき名工一派です。

埋忠明寿(1558年[永禄元年]~1631年[寛永8年])

埋忠明寿は、京都で連綿(長くつながり絶えないこと)と続く武器制作の名門に生まれました。

父の「重隆」(しげたか)は日本刀(刀剣)の金工家として足利将軍家の側近くに仕え、明寿も初めは父の跡を継ぎ、15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)に仕えます。

のちには「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」といった天下人の知遇(ちぐう:人柄や能力を認めた上での厚遇)を得て、埋忠派の始祖となったのです。

埋忠明寿の短刀

埋忠明寿の短刀

明寿の作品は短刀が多く、「不動明王」(ふどうみょうおう)や「倶利伽羅龍」(くりからりゅう)などの刀身彫刻を得意としていました。実用本位だった日本刀(刀剣)を、鑑賞する芸術品へと意識を変える先覚者としての役目も担ったのです。

また、新しい鍛刀法である「水減し法」(みずへしほう)を考案したと言われています。水減し法とは、玉鋼(たまはがね)の良い部分と、そうでない部分を選別していく作業のこと。こうした功績と共に、優れた弟子の育成にも力を注いだことから、「新刀鍛冶の祖」と称えられました。

刀工という枠に留まらなかった明寿は、鍔(つば)制作でも名を上げ、京物らしい垢抜けた作品を数多く残しています。

肥前忠吉(1572年[元亀3年]~1632年[寛永9年])

肥前忠吉は、本名を「橋本新左衛門」(はしもとしんざえもん)と言い、肥前国(現在の佐賀県)の武家の出身です。しかし忠吉が13歳の時、祖父「盛弘」(もりひろ)と父「道弘」(みちひろ)が、島原での「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)で討ち死にしてしまいました。このため、一家は刀工に転身して京都に移り住み、忠吉は埋忠明寿に弟子入りします。

わずか3年で明寿から秘伝を伝授された忠吉は、肥前佐賀へ戻り、藩主「鍋島勝茂」(なべしまかつしげ)に召し抱えられました。故郷長瀬町に地所を得て、鍋島家の庇護のもと、ここで作刀に専念。一族は代々藩工として栄えることに。

肥前忠吉

肥前忠吉

1596年(慶長元年)からの慶長年間は、忠吉の作刀期間の前期にあたり、その作風は、地鉄は「板目肌」(いためはだ)で「地沸」(じにえ:銀砂子を蒔いたように微細に光る粒子)が良く付き、「地景」(ちけい:鍛肌に沿って表れる、くすんだ黒い線状の変化)が入って、地肌の力強さを示します。

刃文は、「」(にえ)と「匂い」(におい)の変化に富み、「匂口」(においぐち)は明るく冴えるということです。全体的に、古色漂う作品となっています。

越前康継(1554年[天文23年]~1621年[元和7年])

越前康継は、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)に生まれ、1596年(慶長元年)からの慶長年間初頭に越前国(現在の福井県)へ移住。徳川家康の次男である、越前国「北ノ荘藩」(きたのしょうはん)の藩主「結城秀康」(ゆうきひでやす)のお抱え鍛冶となります。

のちに、その腕を認めた秀康の推挙により、家康と2代将軍「秀忠」に召されて、江戸での鍛刀に携わりました。家康からは「康」の一文字を賜って、このとき「康継」と改銘。それだけでなく、「葵の御紋」を作品の「」(なかご)に切ることも許されたのです。

康継於越前作之と葵の紋

康継於越前作之と葵の紋

康継の作風は、「関伝」の流れを汲む板目肌に、ゆったりとした波のような「湾れ」(のたれ)と「互の目」(ぐのめ)が交じり、沸が線状に連なる「砂流し」のかかる刃文を焼くと言われています。

また康継は、刀工としては初めて、外国からの輸入鉄鋼である「南蛮鉄」を用いたとのこと。

康継は、家康に命じられて「再刃」(さいば)も手掛けています。「大坂冬の陣・夏の陣」には2度とも従軍し、大坂城落城の際に焼けてしまった日本刀(刀剣)を再び焼き入れしました。

南紀重国(生年不詳 没年:1631年[寛永8年])

初代「南紀重国」は、大和(現在の奈良県)「手掻派」(てがいは)の末裔であり、慶長新刀期屈指の名工と伝えられています。

手掻派は、鎌倉時代に大和で活躍した刀工の一派。重国は、1596~1615年の慶長年中に家康に仕えて駿河国府中(現在の静岡県静岡市)に住みましたが、「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)が紀州(現在の和歌山県)に入国するときに付き従って移住し、以降、紀州徳川家のお抱え刀工となりました。そして、一門は11代まで続きます。

南紀重国

南紀重国

作風は主に2通りあり、大和手掻派の伝統を色濃く表した穏やかな「直刃」(すぐは)と、沸の深い大湾れを基調とした「相州伝」系統です。いずれも豪壮な印象を受ける名品に間違いありません。

三品派

関(岐阜県)の刀工「兼道」(かねみち)を始祖とする一派が三品派です。

兼道は、長男「伊賀守金道」(いがのかみかねみち)、次男「和泉守来金道」(いずみのかみらいかねみち)、3男「丹波守吉道」(たんばのかみよしみち)、4男「越中守正俊」(えっちゅうのかみまさとし)ら息子4人を伴って、関から京都西洞院夷川(にしのとういんえびすがわ)に移り住み、一大派閥を立ち上げました。親子は「京五鍛冶」(きょうごかじ)と称され、一族は江戸時代を通じて繁栄します。

兼道

兼道

兼道が打った脇差1振を例に挙げると、作風は「美濃伝」(みのでん)を継承し、鍛えは板目肌で沸が厚く付き、太い地景が現れて砂流しが良くかかっているのが特徴的。簾(すだれ)に似た形状の刃文「簾刃」(すだれば)は、慶長新刀三品一派らしい表現です。

堀川派

堀川派は、慶長新刀を中心とする新刀初期の一大勢力。始祖となったのは、「堀川国広」(ほりかわくにひろ)で、山伏修行をしながら諸国放浪して刀工を続け、1599年(慶長4年)ごろから京都一条堀川に定住しました。

門人には「出羽大掾国路」(ではだいじょうくにみち)、「堀川国安」(ほりかわくにやす)、「大隅掾正弘」(おおすみのじょうまさひろ)、「越後守国儔」(えちごのかみくにとも)、「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)、「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)、「山城守国清」(やましろのかみくにきよ)などの名工がおり、埋忠明寿と肩を並べる刀工として名を残しています。

堀川国広

堀川国広

国広の慶長新刀としての作風は、「正宗」をはじめとする相州伝に倣った表現が見られる他、志津(しず:美濃の地名)の影響を受けた作品では、穏やかな湾れに互の目乱れを焼き、良く付いた沸に、金筋や砂流しがかかるのが見事です。刃文は、直刃から「丁子」(ちょうじ)を交えた物まで多彩。

また、不動明王や梵字(ぼんじ)などの彫物を得意とし、その技は弟子にも受け継がれました。

慶長新刀とは、最後の実戦向き日本刀(刀剣)であり、武士のステイタスシンボルとなった最初の日本刀(刀剣)でもあります。末古刀から新刀への移行期にあたり、歴史の中でも重要な位置を占めているのです。

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古刀・新刀・新々刀・現代刀の変遷

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