武士・刀剣にまつわるしきたり

日本刀の試し斬り(試し切り)

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安土桃山時代から江戸時代にかけて、日本刀の武器としての品定めや鍛錬のために「試し斬り」が行なわれていました。ただし、江戸時代になると徐々に試し斬りは忌み避けられるように。試し斬りの専門職が設けられるようになり、山田浅右衛門(やまだあさえもん)の名が受け継がれました。日本刀の試し斬り文化や山田浅右衛門について、時代を追ってご紹介します。

首のない死体を並べて胴体で試し斬り(試し切り)をし、日本刀の切れ味を確認した試し斬り(試し切り)文化

試し斬り

試し斬り

日本刀はかつて、武器としての性能、つまり「切れ味」が重要視されていました。

戦国時代から江戸時代初期にかけては各地で試し斬りが行なわれており、それには武芸の鍛錬と刀の性能確認という側面があったようで、大名ですら自ら試し斬りすることもあったそうです。

裁断銘

裁断銘

試し斬りは「据物斬り」(すえものぎり)とも呼ばれ、巻き藁や畳表、青竹などの物の他、江戸時代には罪人の「死体」が用いられていました。その場合、首がない状態で並べられたため、例えば3体斬れたとしたら「三ツ胴」というように胴体がいくつ切れたのか、その際の切れ味はどうだったのか等で性能の良し悪しが判断されていました。

会津藩には「ためし者場」という試し斬りをするための場所が設けられていたようで、利用規程に沿っていれば家中の誰でも試し斬りを行なうことができました。

試し斬りが頻繁に行なわれていた江戸時代初期には死体の供給が間に合わず、試し斬りのために死体を優先してまわしてもらえるよう刑場へ乞う、川原に漂着した身元不明の死体を持ち帰るなど、確保に苦労したようです。

刀 銘 於武州江戸越前康継(金象嵌)慶長十九年寅七月十一日二ツ筒落
刀 銘 於武州江戸越前康継(金象嵌)慶長十九年寅七月十一日二ツ筒落
於武州江戸
越前康継
(金象嵌)
慶長十九年寅
七月十一日
二ツ筒落
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
70.4
所蔵・伝来
松平忠昌 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

日本刀の試し斬り(試し切り)は専門職へ

武器として日本刀の切れ味が重要視された時代だからこそ試し斬りが行なわれ、さらに一時はイベントのように試し斬りを行なう人のまわりに見物人が並ぶこともあったそうです。

それが次第に忌み嫌われるようになったのは、徳川政権により260年の太平の世が訪れて刀を武器として扱ったことのある人が減少したことに加え、試し斬りの残酷さが理由だったのかもしれません。

日本刀の切れ味を確認するためには、斬ったときの感覚だけでなく、胴体の切り口に手を入れて骨の切れ方まで確認をしたそうです。次第に人々は罪人となり処刑されること、さらに亡くなったあと試し斬りにされることを嫌がるように。重罪を犯した者へのお達しとして、「この者は処刑後、試し斬りにすること」というように試し斬りによって罪の重さが表されることもありました。

世の変化にあわせて、徳川幕府の命を受けて刀剣御試役(おためしやく)として試し斬りを専門職とする人が現れるようになっていきます。

永久寺

永久寺

江戸時代初期では山野嘉右衛門が知られており、彼はただ性能を確かめただけでなく、刀工へ日本刀の制作についてアドバイスをすることもあったようです。

御試役として、彼は6千人あまりの罪人を試し斬りしたとされており、供養のために14世紀南北朝騒乱の頃に建てられた古刹(こさつ:古い由緒のある寺)を再建しました。境内地も拡張・整備され、古刹の名を「永久寺」と改めたのが、現在、東京都台東区にある天台宗のお寺「養光山金錍院 永久寺」です。

試し斬り(試し切り)の継承

御様御用の試し斬り

御様御用の試し斬り

山野嘉右衛門の世継ぎの中には試し斬りに必要な技量を持つ者がおらず、山野嘉右衛門のあとは山野家の弟子達が御様御用(おためしごよう)を務めました。その中のひとりが、山田浅右衛門貞武(やまだあさえもんさだたけ)です。

山野家の他の弟子達は貞武より早くに没したため、試し斬りの秘伝の技を子に伝授したいと申し出て許された頃から、山田浅右衛門家が専任で御様御用を務めるようになっていきました。これは、8代将軍・徳川吉宗の代のことでした。

ちなみに徳川幕府に命じられた役目ではあるものの、山田浅右衛門家は代々、浪人の立場のままだったようです。その理由は諸説ありますが、一説には家業を世襲すると山野家のように技量が伴わない者が現れる可能性もあったため、技量を持つ者があとを継ぐべしと考えて臨時的な雇いにするためだったと言われています。実際に、跡目が山田浅右衛門家の家業を継いだのは4代までのようで、5代目以降は実子でも技量のない者は退け、養子を立てて名前と家業を襲名させています。

明治維新後まで続いた山田浅右衛門家は、試し斬りの技量を重視したプロフェッショナルだったのでしょう。その仕事柄、おそらく当主それぞれに苦悩があったのか、現代では山田浅右衛門家がモチーフになった時代小説や漫画なども創られています。

山田「朝」右衛門と名乗った5代目当主は、鑑定を行なう大切な日本刀の保管、及び試し斬りをするための死体を保管するため、刑場の端に簡単な死体保管小屋を設置したいと願い出ています。これは雨や雪の日も滞りなく業務を遂行できるようにするため、そして日本刀を安全に保管することと野良犬が死体を食べたりしないよう鍵がかけられるように、というものでした。

試し斬り(試し切り)以外の家業

日本刀の試し斬りにより、山田浅右衛門家は次第に刀の鑑定も担うようになっていきます。

5代目当主が編集した「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)をはじめ、品質のランク付けも作成していました。さらに副収入として別の家業も営んでおり、薬を調合して販売しています。その薬材が特殊で、なんと試し斬りした罪人の死体から肝を採って薬に調合していたのです。そのための保管庫として「肝蔵」(きもぐら)もあったとか。

実際に「浅右衛門の肝蔵に入つて、肝を吊るし柿のやうに干してあるのを目撃した」と書かれた伝記や、仁丹(人丹)を一腹(ひとはら)いくらで販売したという記録も残されています。医学的な効果や根拠は分かりませんが、この薬が効くという信仰があったのは確かなようです。

薬の販売とは別で、試し斬りをしたい人へ死体の販売も行なっていたとか。様々な家業により浪人とは思えぬ財力があったようですが、私腹を肥やすのではなく、神社へ慰霊碑を建てるなど山田浅右衛門家は亡くなった者の供養に惜しみなくその財を使ったそうです。

試し斬り(試し切り)を家業とした山田浅右衛門家の終焉

山田浅右衛門家の日本刀の試し斬りについて、首がない罪人の死体を扱うこともあれば、生きた罪人の処刑として試し斬りを行なうこともありました。

人によっては最後に想いを伝える者や辞世の句を詠む者もおり、そうした気持ちを正しく理解して任務にあたれるようにと、山田浅右衛門家の3代目当主からは俳諧を学ぶようになります。3代目以降は代々、俳号を所持しており、人の句を理解するだけでなく自らも俳句を嗜み、辞世の句も残しています。

明治維新のあとも、8代目当主・山田浅右衛門吉豊とその弟・吉亮は明治政府の「東京府囚獄掛斬役」として引き続き処刑執行を担っていました。

しかし、時代とともに山田浅右衛門家の家業は狭まっていくことになります。1870年(明治3年)には刑死者の試し斬りと肝の取り扱いが禁止、1880年(明治13年)には死刑は絞首刑とすることが決定、その2年後に斬首刑が廃止されました。

山田浅右衛門吉豊は1874年(明治7年)にすでにお役目を退き、吉亮も一時別のお役目についたものの1882年(明治15年)には退職。新しい時代とともに山田浅右衛門家の役目は消えていきました。

現代の試し斬り(試し切り)

現代の試し斬りは、居合道や抜刀道などの武道にて行なわれます。
試し斬りをする対象はもちろん人間ではなく、畳表を巻いた物を対象とします。
半畳や一畳分の畳表を巻き、紐で縛る、あるいは輪ゴムで止め、数日ほど水に浸けておき、試斬台の杭に立てる。これに対して斬撃を行なうのが、現代行なわれている武道における試し斬りです。

試し斬りで行なわれる斬り方
日本刀の斬り方は様々ありますが、一番有名な斬り方は、「袈裟斬り」(けさぎり)と呼ばれる斬り方ではないでしょうか。
袈裟斬りは、対象に対して40~45度程度の角度で斜めに斬り付ける斬り方で、対象の畳表を人間と想定したときに、肩~腰にかけて斬り付けるイメージです。
試し斬りが体験できる施設
日本刀の扱いには危険を伴います。
そのため、試し斬りを行なう際は、専門で試し斬り体験を行なっている施設に出向きましょう。
試し斬りが体験できる施設では、刀の扱いに慣れた講師が基本動作から教えてくれるため、刀をまったく触ったことがない方でも、試し斬りを体験することができます。
海外の方にも人気がある真剣を使った試し斬り。ぜひ一度、体験してみてはいかがでしょうか。
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