「大業物」(おおわざもの)とは、江戸時代後期に編纂された「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)と「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)において、「最上大業物に次ぐ切れ味を有している」という評価を得た業物のことです。刑死した罪人に死体を使った試し斬りによって格付けされ、計21工が選出されました。大業物では、どのような刀工が選ばれ、いかなる特徴を持った日本刀なのかをご紹介していきます。
大業物の判定基準は、「30歳前後から50歳代前後の男子の胴」で「平時に荒事をしていて骨組の堅い者の乳割(ちちわり:両乳首より少し上の部分を指す試し斬り用語)以上に堅い所」を10回斬撃したときの切れ具合で決まります。
具体的には、10回中、7〜8回両断または両断寸前まで切り込めた場合が大業物です。ちなみに8〜9回の場合は最上大業物と判定されました。
選ばれた刀工達は、平安時代後期〜1595年(文禄4年)の古刀期から1596年(慶長元年)〜1780年(安永9年)の新刀期まで、幅広い顔ぶれでした。
とりわけ古刀期は、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県北南部)の長船一派が並び、日本刀を代表する流派らしい隆盛が見て取れます。一方、新刀期は、戦国時代末期に新刀の先駆けとなった山城国(やましろのくに:現在の京都府南部)の「堀川国広」(ほりかわくにひろ)や、大坂の刀鍛冶の基礎を築いたとされる摂津国(せっつのくに:現在の大阪府北中部・兵庫県南東部)の初代「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)などが列挙。刀剣史に欠かせない全国の名匠達の名前が並びます。具体的な刀工は以下の通りです。
古刀期 | |
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長船祐定/与三左衛門尉 (おさふねすけさだ/よざえもんのじょう:初代) |
備前国 |
長船祐定/彦兵衛(ひこべえ) | 備前国 |
長船祐定/藤四郎(とうしろう) | 備前国 |
長船盛光/修理亮(おさふねもりみつ/しゅりのすけ) | 備前国 |
長船康光/左京亮(おさふねやすみ/さきょうのすけ) | 備前国 |
高天神兼明(たかてんじんかねあき) | 遠江国 (現在の静岡県西部) |
藤島友重(ふじしまともしげ) | 加賀国 (現在の石川県南部) |
新刀期 | |
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近江大掾忠広(おうみだいじょうただひろ:二代) | 肥前国 (現在の佐賀県・長崎県) |
和泉守国貞(いずみのかみくにさだ:初代) | 摂津国 |
越後守包貞(えちごのかみかねさだ:二代) | 摂津国 |
越前守信吉(えちぜんのかみのぶよし) | 摂津国 |
津田越前守助広(つだえちぜんのかみすけひろ) | 摂津国 |
肥後守国康(ひごのかみくにやす:初代) | 摂津国 |
加州勝国/伊予大掾・陀羅尼 (かしゅうかつくに/いよだいじょう・だらに:初代) |
加賀国 |
加州兼則(かしゅうかねのり) | 加賀国 |
加州兼若(かしゅうかねわか:初代) | 加賀国 |
対馬守貞重(つしまのかみさだしげ:初代) | 尾張国 (現在の愛知県西部) |
堀川国広(ほりかわくにひろ) | 山城国 (現在の京都府南部) |
堀川国安(ほりかわくにやす) | 山城国 |
一平安代(いちのひらやいよ) | 薩摩国 (現在の鹿児島県西部) |
主水正正清(もんどのしょうまさきよ) | 薩摩国 |
大業物に選出された刀工には、歴史上の人物と接点を持った人も少なくありません。
例えば古刀期に名を連ねる高天神兼明。この刀工は美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)から遠江国に移り、高天神城(たかてんじんじょう:現在の静岡県掛川市)の城下で日本刀を鍛造しました。のちに名を「虎明」と改めているのは、甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)を治めていた「武田信虎」(たけだのぶとら)から「虎」の字を授けられたためです。
武田信虎は気に入らない家臣をたちまち手討ちにするなど非常に気難しい人物であり、嫡男の「武田晴信」(たけだはるのぶ:のちの武田信玄)によって国外追放されたことで知られています。この武田信虎が気前よく自身の名前の一字を与えるほどですから、高天神兼明の鍛えた刀の切れ味のほどが伺えます。
新刀期に名を連ねる主水正正清と一平安代は、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」と接点があります。徳川吉宗は1716年(享保元年)の将軍職就任以降、幕政改革を目的とした「享保の改革」を推進。改革の一環に武道の奨励を加えるだけあって、武士の魂たる日本刀に並々ならぬ関心を示しました。例えば「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)。
これは1719年(享保4年)徳川吉宗が刀剣極所(とうけんきわめどころ)を司る本阿弥家に命じて編纂させた刀剣資料であり、現在でも日本刀鑑定時の参考書として用いられています。
また、将軍秘蔵品の切れ味を代理人に試させる「御様御用」(おためしごよう)も一味違っていました。御様御用自体は歴代将軍も行なっていましたが、結果報告の仕方が違ったのです。
徳川吉宗以前、結果報告は試し斬りを行なった代理人の口上によってなされていましたが、徳川吉宗はその慣例を無視。刃に血がついたままの状態で城内に運ばせ、自ら吟味したと言います。なお、主水正正清と一平安代は1721年(享保6年)江戸に召し出され、将軍家の別邸「浜御殿」(はまごてん)で日本刀を鍛造。出来栄えの良さを称賛され、茎に徳川将軍家の御紋「葵」紋を切ることを許されました。
日本刀の切れ味にこだわった徳川吉宗から讃えられた点を鑑みると、両刀工による日本刀の切れ味がいかに素晴らしかったのかを察することができます。
大業物に選ばれた刀工のなかには、「物の怪を切った」との伝承を有する日本刀を鍛造した匠もいます。古刀期に名を連ねる藤島友重であり、「火車切」(かしゃぎり:火車は亡骸を墓場や葬儀の場から盗んでいく妖怪)と呼ばれる作例がそれです。
この日本刀が登場するのは、1749年(寛延2年)刊行の怪談奇談集「新著聞集」。大給松平家(おおぎゅうまつだいらけ)の「松平近正」(まつだいらちかまさ)が従兄弟の葬儀に参加した際、雷雲から火車が現れ遺骸を奪おうとしたため、抜き打ちざまに斬り付け腕を切り落とし、この妖怪を退散させたと伝わっています。
この火車切は松平近正の孫娘が結婚したとき、引き出物(守り刀)として贈られ、嫁ぎ先の諏訪図書家(すわずしょけ:信州諏訪藩で家老職をつとめる家)に家宝として秘蔵されました。
この他、新刀期に名を連ねる堀川国広が、長船長義(おさふねちょうぎ)が作刀したことで知られる「山姥切国広」(やまんばきりくにひろ)の写しを鍛造。
大業物に選ばれた刀工一覧からは、武器としての切れ味のみならず、魔除けに代表される日本古来の信仰など、文化史的な側面を見ることもできます。