関市における刃物の特長
美濃伝の名工・孫六兼元
関市における刃物の特長
美濃伝の名工・孫六兼元

文字サイズ

全国に知られる岐阜県関市の刃物。鎌倉時代から現代に至るまで、数々の優れた刀剣職人達が輩出されてきましたが、なかでも有名なのが和泉守兼定と孫六兼元です。ここではそのうち、孫六兼元についてご紹介します。

岐阜県関市で受け継がれる孫六兼元とは

岐阜県関市では、鎌倉時代から日本刀(刀剣)を作る職人が多く活動していました。そうした職人は「関鍛冶」と呼ばれてきましたが、「孫六兼元」(まごろくかねもと)は、「兼定」(かねさだ)と並んで「関鍛冶の2大ブランド」とも言われる刀工です。孫六兼元は室町時代から江戸時代を経て現代まで、20代以上に亘って継承されています。

初代の兼元

初代の兼元は美濃国赤坂(現在の岐阜県大垣市あたり)で活動。不明なことも多く、1469年(文明元年)~1486年(文明18年)ごろの人物であると伝わります。清関兼元(せいかんかねもと)の名前で知られました。

清関兼元の祖父は、関鍛冶七流の一派を成した刀剣職人、三阿弥兼則(さんあみかねのり)。「孫六」の名は、兼則の孫であることと、六郎左衛門(ろくろうざえもん)という父を持つことに由来すると考えられています。

2代目兼元

孫六兼元の名を全国に知らしめたのが、技量に優れた2代目兼元です。子孫六兼元とも名乗り、「関の孫六」(せきのまごろく)とも呼ばれます。

1504年(永正元年)~1521年(永正18年)ごろに活躍したとされますが、生没年は不明。確認されている日本刀(刀剣)は、1521年(大永元年)~1531年(享禄4年)頃に作られた物です。

「和泉守兼定」と孫六兼元はのちに岐阜県関市の2大刃物ブランドとなりますが、和泉守兼定(2代目兼定)とこの2代目兼元は兄弟の契りを結んだ間柄。2代目兼元は初代兼定のもとで修業を積んだ、という逸話を持ちます。

2代目兼元は、「四方詰め」と呼ばれるオリジナルの鍛刀法を編み出し、折れず、曲がらず、切れ味の良い日本刀(刀剣)を作ることに成功。その日本刀(刀剣)は戦国時代から武将達に愛用され、江戸時代には関の孫六の名で広く有名になりました。

刀 銘 兼元

刀 銘 兼元

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
兼元 重要刀剣 75.7 刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

3代目兼元以降

現在の岐阜県関市あたりを活動拠点としたのは、兼元のなかでも3代目になってからである、とする説が有力です。2代と3代は同じ孫六の銘切りを使いました。そののちも、兼元は代々継承されていきます。

関の孫六は岐阜県関市あたりで活動していた?

孫六兼元は2代目のときに、関(現在の岐阜県関市あたり)へ移ったとする説がありますが、移住したのは3代目兼元のときである、とも伝わります。

また、2代目は初代と同様、移住地は赤坂のままであったとする説や、2代目が晩年になって現在の関市あたりへ移住したとする説もあるほど。実際に、2代目兼元が手掛けた日本刀(刀剣)のは、関に住んでいると示す物はなく、赤坂に住んでいると刻まれた物のみが残っているのです。

当時の赤坂と関では、約40kmも離れていました。最も有名な2代目兼元が赤坂に住んでいたとする説も有力ななか、なぜ関の孫六の名が広まったのでしょうか。

それは当時、すでに知名度のあった関というブランドに兼元側が頼ったためであるとか、関市のあたりで結成されていた「関鍛冶七流」が孫六兼元を自分たちのグループに含み入れたためである、などの理由が推察されています。

孫六兼元のクオリティ

2代目兼元が作った孫六兼元は、丈夫でよく切れる日本刀(刀剣)として人気を誇りました。当時作られていた他の日本刀(刀剣)と大きく異なったのは、独自の四方詰め製法と、目を惹く「三本杉」の刃文にあったのです。

折れず、曲がらず、切れ味が良い

2代目兼元が実践したのが、四方詰めという独自の日本刀製法。やわらかい芯鉄の周りを、かたい鉄や粘り強い性質の刃鉄で固めて作る手法です。この製法による日本刀(刀剣)は「折れず、曲がらず、よく斬れる」と評判になり、関の日本刀(刀剣)が武士達の人気を集めることになりました。

三本杉の刃文

三本杉の刃文

三本杉の刃文

孫六兼元と言えば、立ち並ぶ杉をイメージさせる刃文がトレードマーク。

この刃文は三本杉と呼ばれ、山形を3つ連ねたような模様で、山形が繰り返されて表現されています。

最上大業物に名を連ねる

江戸時代に山田浅右衛門がまとめた書物で使われた分類に、業物、良業物、大業物、最上大業物があります。日本刀(刀剣)の切れ具合が最も良いのが最上大業物(さいじょうおおわざもの)。最上大業物の職人と言うと、作った日本刀(刀剣)のほとんどがよく切れる、という評価です。

孫六兼元は、初代兼元と2代目兼元が和泉守兼定(2代兼定)と共に、この最上大業物に選ばれました。

現代まで伝わる数々のエピソード

武田信玄豊臣秀吉前田利家など名だたる武将達から、昭和期の作家にも愛された日本刀(刀剣)、孫六兼元。戦国時代から現代に至るまで、多数のエピソードを残しています。

濃姫が嫁入りの際に帯同

斎藤道三

斎藤道三

戦国時代に美濃(現在の岐阜県内)領主であった斎藤道三は、娘である帰蝶(きちょう:のちの濃姫)が織田信長に嫁入りをする際、孫六兼元の短刀をこっそり持たせたと伝わります。

これは、「うつけ者」と噂された信長が真にうつけ者であるならば、この日本刀(刀剣)で刺せ、などといった父のメッセージが込められたもの。結局、この日本刀(刀剣)で信長が殺されることはありませんでした。

青木一重が豪傑を一刀両断

1570年(元亀元年)に、織田信長が朝倉義景(あさくらよしかげ)を討つために始めた「姉川の戦い」。同戦では、織田軍の青木一重(あおきかずしげ)が、朝倉軍の豪傑・真柄直隆(まがらなおたか)を孫六兼元で一刀両断にしたという伝説があります。

この一重の日本刀(刀剣)は、「青木兼元」とも呼ばれ、名刀中の名刀とされています。青木一重が他界したのち、その遺言により、一重がかつて仕えた丹羽長秀(にわながひで)の子、羽五郎左衛門尉長重(はごろうざえもんながしげ)へと贈られました。

三島由紀夫が自壊に使った日本刀

大正から昭和期に生きた作家・三島由紀夫(みしまゆきお)は、渋谷大盛堂(たいせいどう)書店の社長であった舩坂弘(ふなさかひろし)から孫六兼元を贈られ、こよなく愛しました。

のちに三島は、「豊穣の海」を書き上げた1970年(昭和45年)、「楯の会」の会員と陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み、憲法改正を訴える演説を行ないます。この演説は10~20分ほどで終了し、失意に包まれて総監室に戻った三島は自決を図ります。このときに使われたのが、愛する日本刀(刀剣)、孫六兼元でした。

現代も生きる関孫六ブランド

日本刀(刀剣)を作る職人孫六兼元は、室町時代に興って継承され、平成期までに27代が続いています。

さらに、岐阜県関市で創業し、ポケットナイフの販売から始まった企業、貝印株式会社においても、孫六と名付けられた包丁が展開されました。

関鍛冶伝承館で兼元の名刀が見られる

関に伝わる匠の技を今に伝える施設「関鍛冶伝承館」(岐阜県関市)。ここでは、刀剣展示室において、兼元や兼定の日本刀(刀剣)などが展示されているので、気軽に見学することも可能です。また、過去には兼元の日本刀(刀剣)を多数集めて公開する企画展なども開催されたことがあります。

貝印社の包丁に関孫六シリーズ

関孫六シリーズの包丁

関孫六シリーズの包丁

岐阜県関市で創業し、鍋や包丁といったキッチン用品からビューティーケア用品、業務用刃物まで幅広い製品を国内外へ発信する貝印株式会社。

同社ではこれまでに、「関孫六」という名の包丁シリーズも展開。同シリーズは、「刀鍛冶の信念[折れず曲がらず、よく切れる]をそのままに」のフレーズを掲げ、岐阜県関市に継承されてきた刀剣職人の技を現代の刃物作りに受け継いでいます。

美濃伝の名工・孫六兼元

美濃伝の名工・孫六兼元をSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「関市における刃物の特長」の記事を読む


日本刀を作るのに適した関市の風土

日本刀を作るのに適した関市の風土
刃物の町として全国に知られる岐阜県関市。関に日本刀(刀剣)の本格的な制作技術が伝わったのは鎌倉時代です。当時、刀工達がこの地域に惹き付けられたのは、日本刀(刀剣)を作るのに理想的な風土条件が揃っていたことが理由のひとつと考えられています。では、日本刀(刀剣)作りにとって理想的な風土条件とはどのようなものだったのでしょうか。かつての岐阜県関市近辺の風土について振り返ってみましょう。

日本刀を作るのに適した関市の風土

関市で生まれた美濃伝の鍛刀法 四方詰め

関市で生まれた美濃伝の鍛刀法 四方詰め
日本刀(刀剣)を製造する技術のことを鍛刀法と呼びます。鉄を打ち、鍛え、日本刀(刀剣)にするためこの呼び名となりました。日本刀(刀剣)は刀鍛冶や刀工と呼ばれる職人の技術、さらに地域ごとにより、いろいろな鍛刀法があります。いくつかある鍛刀法のなかで、最も難しいとされる四方詰めとは、どんな鍛刀法なのでしょうか。

関市で生まれた美濃伝の鍛刀法 四方詰め

関鍛冶七流と関市の春日神社

関鍛冶七流と関市の春日神社
岐阜県関市にある春日神社。関鍛冶の守護神とされる神社で、奈良にある春日大明神より勧請(かんじょう)して、関に建立されました。日本には山城、大和、備前など五箇伝と呼ばれる日本刀(刀剣)の生産地があります。その中のひとつが関で作られる美濃伝。関は五箇伝で唯一、鍛冶仲間で作られた鍛冶座と呼ばれる自治組織があったことで知られています。なぜ、刀鍛冶達だけで組織を作り、しかも今日まで途切れることなく日本刀(刀剣)作りを行なうことができたのか。その秘密を読み解くには、七流と呼ばれる流派、さらに関鍛冶の守護神である春日神社について知る必要があります。

関鍛冶七流と関市の春日神社

注目ワード

ページトップへ戻る