「飛騨守氏房」は、「尾張三作」(おわりさんさく)のひとりにも選ばれている名工です。尾張三作とは、新刀期(しんとうき:1596~1771年[慶長元年~明和8年])の尾張国(現在の愛知県名古屋市)を代表する3名の刀匠のこと。他には「相模守政常」(さがみのかみまさつね)、「伯耆守信高」(ほうきのかみのぶたか)がいます。
飛騨守氏房は、1567年(永禄10年)美濃国(現在の岐阜県関市)生まれ。本名は河村平十郎(かわむらへいじゅうろう)です。名工「若狭守氏房」(わかさのかみうじふさ)の長男で、父・若狭守氏房が「織田信長」のお抱え刀鍛冶となっていたため、飛騨守氏房も11歳の1578年(天正6年)から、織田信長の三男「織田信孝」(おだのぶたか)の小姓として織田家に仕えました。
しかし、1582年(天正10年)の「本能寺の変」で、織田信長は自害。翌年、1583年(天正11年)に織田信孝も自害し、浪人となった飛騨守氏房は、刀工への転向を決意しました。23歳の1589年(天正17年)頃から、父・若狭守氏房のもとで、鍛刀を開始。しかし、1590年(天正18年)、父・若狭守氏房が死去。その後は、伯耆守信高に師事しています。
1591年(天正19年)、清洲城(現在の愛知県清須市)に居城していた「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)に作刀を献上したところ高く評価され、1592年(天正20年/文禄元年)に左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)・飛騨守(ひだのかみ)に任命。
その後、「福島正則」(ふくしままさのり)や「松平忠吉」(まつだいらただよし:[徳川家康]の四男)のお抱え刀鍛冶となり、1610年(慶長15年)に、「徳川義直」(とくがわよしなお:徳川家康の九男)に抱えられ、「名古屋城」(現在の愛知県名古屋市)の築城開始とともに、尾張国に移住しました。1631年(寛永8年)に家督を嫡子「備前守氏房」(びぜんのかみうじふさ)に譲り、65歳で死去したのです。
飛騨守氏房の作風は、大鋒/大切先で、身幅は広く、反り(そり)の浅い、慶長新刀(けいちょうしんとう)らしい豪壮な姿。地鉄(じがね)は柾目に杢目が交ざって地沸(じにえ)付き、刃文(はもん)は大互の目乱れ(おおぐのめみだれ)や大湾れ(おおのたれ)を焼くなど、技量が高度です。切れ味も良く、「業物」(わざもの)と評価されています。