『信長燃ゆ』で新たな織田信長ブームを起こした安部龍太郎(あべりゅうたろう)。歴史・時代小説への傾倒は隆慶一郎の影響でした。隆慶一郎が主題のひとつにした公武一体を描いた作品を安部龍太郎は多数執筆します。その刀剣世界では、劔(剣)神社や前髪を落とす・前髪執(まえがみとり)などに日本刀にかかわる公武一体の要素が見出せます。
安部龍太郎は、福岡県八女市(旧・黒木町)で生まれ育ちます。旧・黒木町は南朝方の落人の里で、母方の祖先は後征西将軍宮・良成親王(よしなり-ながなりしんのう:南朝初代天皇・後醍醐天皇の子で南朝第2代天皇・後村上天皇の第7皇子)の太刀持ちだったと言います。
地元の高等専門学校在学中に坂口安吾『堕落論』を読み、小説家を志します。高専卒業後、東京都大田区役所に就職。在職中には井伏鱒二の自宅も訪ねています。この頃、関心はロシア文学に移ったと言います。
吉原御免状
その後、図書館勤務となるも小説家になるべく退職。『新潮』『文學界』『群像』など純文学系の文芸雑誌への投稿を続けたのち自身の作品を見直し、歴史・時代小説を得意とする『オール讀物』『小説新潮』へ投稿先を切り替えました。
その頃、週刊誌で連載中だった後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の落とし子の剣客を主人公とした隆慶一郎『吉原御免状』(1984~1985年『週刊新潮』連載)を読み、隆慶一郎を心の師と仰ぎます。
そして、足利尊氏に仕えた武将・高師直(こうのもろなお)を主人公にした短編「師直の恋」が佳作を受賞し、商業誌デビューに至りました(1988年『小説新潮 臨時増刊号』掲載)。この時、隆慶一郎の未完作『紫式部殺人事件』が同時に掲載されており、その喜びを語っています。
隆慶一郎は中世日本史を専攻する歴史学者・網野善彦の影響を大きく受けています。北方謙三は自身初の歴史小説として、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねよし-かねながしんのう)を主人公とした『武王の門』(1988~1989年『週刊新潮』連載)を書きます。その際、網野善彦に直接教えを乞うています。網野史観によって日本の中世への新たな見方が生まれたこの頃、歴史・時代小説の転換期にもなりました。
血の日本史
時代は平成を迎えます。
日本史における悲劇のヒーローを取り上げる週刊誌の連載企画「日本史 血の年表」の担当作家が降板し、安部龍太郎は急遽その代役を引き受けることになります(1989~1990年『週刊新潮』連載)。
大和時代から明治時代までを取り上げ46の短編となった同企画は、単行本化にあたり『血の日本史』と題されました。
同作連載中には、その頃病床にあり間もなく最期の時を迎えようとしていた隆慶一郎が作者の安部龍太郎に会いたがったそうです。
『血の日本史』出版後、安部龍太郎は自身初となる新聞連載に取り組みます。依頼してきたのは、隆慶一郎『影武者徳川家康』(1986~1988年『静岡新聞』連載)と同じ担当者でした。
このとき、商業誌デビュー以前の習作『百年の夢』をもとにした『彷徨える帝』(1992~1994年『静岡新聞』連載)を発表します。後南朝時代、亡き後醍醐天皇の怨念のこもった3つの能面が嘉吉の乱(播磨・備前・美作の守護大名・赤松満祐が室町幕府第6代将軍・足利義教を暗殺しそののちに幕府に討たれた騒乱)を引き起こすという伝奇的な物語です。
安部龍太郎は、朝廷と幕府とを一緒にとらえる公武一体への注目が隆慶一郎からの影響のひとつだと言います。
関ヶ原連判状
続く新聞連載『関ヶ原連判状』(1994~1996年『中日新聞』『東京新聞』『北陸中日新聞』連載)では、文人武将・細川幽斎を主人公としました。足利義晴(室町幕府第12代将軍)の子という説もある細川幽斎は、塚原卜伝に教えを受けた剣客であり、『古今和歌集』の解釈を伝える「古今伝授」の継承者でもありました。
同作では、豊臣秀吉没後に起こった前田利長(加賀藩初代藩主)による徳川家康暗殺未遂事件や、関ヶ原の戦いへつながる豊臣秀吉-徳川家康の対立のなかでの細川幽斎の暗躍を描きます。
細川幽斎は自身の細川家、「古今伝授」の継承者ゆえに懇意である天皇家、そして加賀百万国とも称される巨大勢力の前田家の3者を結ぶことで豊臣方とも徳川方とも違う第3勢力の誕生を画策します。表題にある「連判状」は細川幽斎が手にし、本能寺の変にかかわるある内容が記されています。石田三成を中心とする豊臣方の結束が崩壊する署名です。
安部龍太郎は『関ヶ原連判状』の数ヵ月前に連載を開始した『風の如く 水の如く』(1994~1995年『小説すばる』不定期掲載)でも第3勢力の画策を描いています。
キリシタン大名・黒田如水(官兵衛)(東軍)は、石田三成(西軍)と徳川家康(東軍)との2大勢力に対するため、とある第3勢力を画策します。ここでは関ヶ原の戦い後に見つかる黒田如水が書いた宛名が切り取られた密書について巡られます。
戦国秘譚 神々に告ぐ
安部龍太郎は本能寺の変については朝廷黒幕説に惹かれます。在野の歴史家・立花京子の論文「本能寺の変と朝廷――「天正10年夏記」の再検討に関して」(1994年)などがきっかけでした。
その成果は、公家・近衛前久(このえさきひさ)を主人公にした物語作りへつながります。近衛前久は長尾景虎(上杉謙信)と深く交流し、鷹狩や乗馬もたしなみ、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康とも付き合い、武家に憧れた公家武将的な人物です。
まず『戦国守礼録』(1997~1999年『山口新聞』『岩手新聞』『日本海新聞』他連載。単行本化の際『神々に告ぐ』改題。文庫化の際『戦国秘譚 神々に告ぐ』改題)を発表します。
五摂家(*摂政・関白を独占した5つの公家)の筆頭・近衛前久の若き頃、前嗣(さきつぐ)を名乗っていた関白(*天皇に次ぐ地位)の時代を取り上げます。
近衛前嗣は足利義輝(室町幕府第13代将軍)を擁し、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の即位という公武一体のために奔走します。そこに三好長慶の家臣・松永久秀との対立の物語も加わります。
信長燃ゆ
そして、『信長燃ゆ』(1999~2001年『日本経済新聞』連載)と続きます。
同作では、織田信長は勧修寺晴子(正親町天皇第5皇子の女房。後陽成天皇の生母)と契り、太上天皇(*譲位した天皇の尊称)を目指したとされます。そんな織田信長に翻弄され、本能寺の変へと至る近衛前久の姿が描かれます。
安部龍太郎の織田信長史観はその後大きな広がりを持ちます。
安部龍太郎は、宗門研究家・山口稔「信長の遺体のナゾ 西山本門寺に埋葬」(1979年『読売新聞』掲載)に続くことになる論考「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」(2000年『歴史街道』掲載)を執筆します。
発表後、織田信長の首塚がある西山本門寺(静岡県富士宮市西山)にて信長公黄葉まつりが毎年開催されていくことになります(2000年~)。安部龍太郎と立花京子の対談を含む『真説本能寺の変』(2002年)も出版されました。
本能寺の変の朝廷黒幕説については、加藤廣『信長の棺』(2005年)や山本兼一『信長死すべし』(2012年)などの時代小説が発表されていくことになります。そして『信長燃ゆ』は連載終了の15年後にテレビドラマ化もされました(2016年)。
『信長燃ゆ』執筆に端を発する様々な効果によって、NHK大河ドラマ化された吉川英治・司馬遼太郎の歴史・時代小説、歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズに続く、新たな織田信長ブームを安部龍太郎は起こしました。
『信長燃ゆ』では、織田信長・羽柴(豊臣)秀吉の家臣だった太田牛一(おおたぎゅういち)が江戸時代初期に記した『信長公記(しんちょうこうき)』基づいて日本刀の場面が書かれました。
織田信忠(おだのぶただ)・織田信雄(おだのぶかつ)・織田信孝(おだのぶたか)の3人の息子には、それぞれ正宗、北野藤四郎吉光、鎬藤四郎吉光の短刀が安土城で手渡されています(1581年7月25日)。
その史実を安部龍太郎は家督を継ぐことが決まっていた織田信忠以外にも家督を継げる機会として創作し、織田信長の非情さを表現しました。
七月二十五日、信長は三人の息子に参集を命じた。
「今日はその方らに引き物を取らす」
群臣居並ぶ中に三人を座らせ、三方にのせた脇差を並べた。
岐阜中将信忠には作正宗、北畠中将信雄には作北野藤四郎、三七信孝には作しのぎ藤四郎。
いずれも信長秘蔵の名刀である。
「ただし、これは腹切る刀じゃ。余に忠誠を尽くし、命を捨てる覚悟のない者は受け取らずともよい」
(中略)
重臣たちの前ではなるべく口をきかないようにしている信長は、いつものごとく森蘭丸に意中を告げさせた。
「上様は天下平定を急ぐために、お三方に陣頭に立てとおおせでございます。岐阜中将さまには武田征伐、北畠中将さまには伊賀征伐、三七信孝さまには四国の長宗部征伐を申し付けられました」『信長燃ゆ』より
『信長燃ゆ』では安部龍太郎の主題、公武一体を織田信長の心情として次のように書きました。
これを変えるためには、天皇の上位に立つしかない。天道思想に言う革命が、その時こそ本当の意味で成就するのだ。
(太上天皇)
己れに冠されるであろう称号を、信長は胸の内でつぶやいてみた。
(中略)
織田家の祖は剣神社の神主であり、父信秀もひときわ朝廷に対する尊崇の念が強かった。
信長が伊勢神宮や熱田神宮、剣神社などを手厚く保護し、朝廷に対する援助を惜しまなかったのは、その血を色濃く受け継いでいたからである。
それを今になって改める必要があるだろうか。神道を否定した後に、国を導く新しい理念をはたして打ち立てられるのか……。『信長燃ゆ』
安部龍太郎はここでも公武一体の視点を盛り込みます。源義経と後白河法皇との間に親子関係をほのめかします。
平治の乱で義朝が敗死した後、義経は近衛天皇の中宮だった九条院(藤原呈子)の御所に引き取られ、六歳の頃に鞍馬寺に入れられるまで何不自由なく暮らしていた。
出家する時には御所の寝殿に九条院や女御たちがずらりと並び、その中を頭巾をかぶった男が進み出て義経の前髪を剃り落とした。
あれはやはり後白河法皇だったのではないか。『天馬、翔ける』
そんな『天馬、翔ける』の冒頭は、奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の元から旅立つ源義経の場面から始まります。そこでは、奈良・平安時代中期に東北地方を中心に制作されていたとされる直刀・蕨手刀(わらびてとう)が登場します。
藤原秀衡は蕨手刀を源義経に手渡します。
「それではこれをお持ち下され」
藤原秀衝が絹の布に包んだ太刀を差し出した。
黄金造りの蕨手刀である。
柄の先が蕨の形をしているのでそう呼ばれているが、この刀の特徴は刀身に対して柄が外側に反っているところにあった。
騎馬戦の際に片手で強烈な斬撃をくり出せるように工夫した、奥州独得のものだった。
「この太刀は平泉から出陣する将軍に授けられるものでござる。無事に凱旋される日を心待ちにしておりまする」
太刀を受け取った途端、二人に対するわだかまりは消えていた。『天馬、翔ける』
安部龍太郎はその後も織田信長の物語に取り組みます。
細川幽斎の子・細川忠興(小倉藩初代藩主)が長岡与一郎と名乗っていた若き頃を軸に世界を見据えていた織田信長像を描いた『夢どの与一郎』(2004~2005年『京都新聞』連載、2005~2006年『静岡新聞』連載。文庫化の際『夢どの与一郎 天下布武』改題)。織田信秀と織田信長親子を描いた『蒼き信長』(2008~2009年『サンデー毎日』連載)。織田信長の意志を継ごうとした蒲生氏郷の生涯を描いた『獅子王氏郷』(2010~2011年『文蔵』連載。単行本時『レオン氏郷』改題)などです。
また、商業雑誌デビューで取り上げた南北朝時代を中心とした軍記物語『太平記』にも取り組みます。貿易、貨幣流通、東国と西国、東北などの視点を導入します。
等伯
『道誉と正成』(2008~2009年『小説すばる』連載。文庫化の際『婆娑羅太平記 道誉と正成』改題)。『義貞の旗』(2014~2015年『小説すばる』連載。文庫化の際『士道太平記 義貞の旗』改題)。『十三(とさ)の海鳴り』(2018~2019年『小説すばる』連載。単行本時『蝦夷太平記 十三の海鳴り』改題)。以上3部作で安部龍太郎版『太平記』を描きます。
そして10年前から仕事場を京都にも構えていた安部龍太郎は、それまで数多くの連載で挿絵を担当してきた西のぼるの勧めで長谷川等伯の生涯を執筆します。織田信長・豊臣秀吉・近衛前久の生きた時代に京都で活躍した絵師の生涯を記した『等伯』(2011~2012年『日本経済新聞』連載)は、第148回直木三十五賞を受賞しました(2012年)。
同賞受賞をきっかけに、故郷主催の賞を中心に多くの賞を受賞します。
故郷の西日本新聞社が主催する第72回西日本文化賞・社会文化部門(2013年)、第23回福岡県文化賞・創造部門(2015年)、第5回歴史時代作家クラブ賞・実績功労賞(2016年)、第41回福岡市文化賞(2016年)と続きました。
家康(一)自立篇
安部龍太郎は還暦を迎えた年、心の師・隆慶一郎が生涯取り組んだ徳川家康に挑みます(2015年)。
新聞連載『家康』(2015年~『静岡新聞』連載中)は全5巻が予定されています。これまでの鎖国や農業を中心とした江戸史観による徳川家康像ではなく、世界を見据え、商才感覚に長けていた織田信長像に大きな影響を受けた徳川家康という新しい像が目指されます。
現在、『家康(一)自立篇』と『家康(二)不惑篇』が単行本化されています。
隆慶一郎を心の師と仰ぐほど大きな影響を受けた安部龍太郎。公武一体に注目したその刀剣小説は、新たな織田信長像を生み出しました。
現在その新たな織田信長像によってさらに新たな視点を生み出そうとしています。そこには常に歴史にダイナミックな風穴を開けようとする強い意志が貫かれています。