東海・北陸地方の戦国大名

前田家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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前田家は、尾張国(現在の愛知県名古屋市)を治めていた織田家の一家臣からはじまり、加賀藩主まで登りつめた前田利家(まえだとしいえ)を祖とする家系です。
「織田信長」(おだのぶなが)や「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)と親交を深めてきた前田家は、織田信長・豊臣秀吉の死後、「徳川家康」(とくがわいえやす)への謀反を企てるなど波乱万丈な一面も。「前田利家」から家督を継いだ「前田利長」(まえだとしなが)も領地の安泰を図り、加賀百万石の伝統文化を花開かせることとなりました。
また、4代目「前田光高」(まえだみつたか)からは、当時の徳川将軍の名前から一文字を取って名付けられています。そんな前田家の歴史や、前田家が愛用した刀剣や甲冑(鎧兜)をご覧下さい。

前田家の家系の歴史

前田家の家紋「加賀梅鉢」

前田家の家紋「加賀梅鉢」

加賀藩主前田家の祖は「前田利家」(まえだとしいえ)で、彼は豊臣政権の五大老のひとりでもありました。

前田利家は尾張国海東郡荒子村(おわりのくにかいとうぐんあらこむら)において、その地を支配していた土豪・荒子前田家の当主である「前田利春」(まえだとしはる)の四男として生まれます。

1568年(永禄12年)、前田利家は「織田信長」の命で、前田家の長男「前田利久」(まえだとしひさ)に代わり家督を継承。後継ぎのなかった前田利久は養子を取って家督を継がせたいと願っていましたが、織田信長がそれを許しませんでした。その後、前田利家は1570年(元亀元年)に始まった、浄土真宗本願寺と織田信長との11年に及ぶ石山合戦や、1575年(天正3年)の長篠の戦いでも功績を挙げ、前田家の地位を高めていきました。

同年、越前の一向一揆を鎮圧した織田信長は、本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)と手を組む「上杉謙信」に対抗するための牙城として、前田利家、「佐々成政」(さっさなりまさ)、「不破光治」(ふわみつはる)の3人に城を与えて加賀の統治を行なわせました。越前北庄城(福井県福井市)の「柴田勝家」の下、前田利家は府中城(福井県武生市)を任され、「府中三人衆」と呼ばれる3万3千石の大名に成長しました。

その後も前田利家は、織田信長に仕えて功績を挙げ、能登国(のとのくに:現在の石川県北部)を領する大名へと躍進。織田信長の没後は前田利家の娘「豪姫」(ごうひめ)を養女としていた豊臣秀吉が統一事業を進めます。前田利家は賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で一時は豊臣秀吉と対立したものの、豊臣政権においては五大老のひとりとして徳川家康に次ぐ地位を得て、新たに加賀国(かがのくに:現在の石川県南部)と越中国(えっちゅうのくに:現在の富山県)を領します。

前田利家の子、2代・前田利長は豊臣秀吉没後に徳川家康暗殺を企んでいるとの疑いをかけられますが、前田利長の母で前田利家の妻でもある「芳春院」(ほうしゅんいん)が人質になることで身の潔白を示し、ことなきを得ます。

前田利常

前田利常

前田利長の跡を継いだ弟の3代「前田利常」(まえだとしつね)は、徳川秀忠の娘「珠姫」(たまひめ)を正室に迎え、以後の当主も御三家・御家門との姻戚関係を繰り返したことから、徳川将軍家から名家の一族を指す御家門に準じる家格を与えられました。

前田利常は富山藩(現在の富山県富山市射水市の一部)初代藩主の次男「前田利次」(まえだとしつぐ)に10万石を、大聖寺藩(石川県加賀市小松市能美市白山市の一部)初代藩主の三男「前田利治」(まえだとしはる)に7万石を分与しました。

織田信長のもとで着実に地位を上げてきた前田利家に代表されるように、前田家は名家とともに成長していった一族だと言えます。豊臣秀吉の死後も御家門に準じる家格を与えられるなど、地位を守り続けた前田家は、戦国時代から幕末まで名を遺す貴重な存在となりました。

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前田家の主要人物(前田利家・前田利長)

前田利家(まえだとしいえ)
前田利家

前田利家

前田家の祖である前田利家。若い頃は派手な格好で練り歩く「かぶき者」(戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した派手な身なりをして常識を逸脱した行動に走る者達のこと)だったため、目立つ存在でした。

前田利家は、そんな姿に共感を覚えた織田信長に寵愛されます。武士の職のひとつで、武将の身辺に仕え諸々の雑用を請け負う「小姓」から、主君・大将の乗った馬の周囲にあって警護をする騎馬武者「馬廻」(うままわり)に出世しました。

しかし織田信長に仕えて8年後、前田利家は自分の(こうがい)を盗んだ同朋衆である「拾阿弥」(じゅうあみ)を斬ってしまいます。その行為に織田信長は激怒し、前田利家を勘当。前田利家は手柄を立てて織田家への復帰を願います。

まずは1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで3人もの敵の首級を上げますが、織田信長はその手柄を認めません。翌年、森部の戦いにて前田利家は、斎藤家の重臣を討ち取り、ようやく織田家に復帰。これ以降、前田利家は順調に出世します。豊臣秀吉と敵対した賤ヶ岳の戦いも、豊臣秀吉と親しい関係を結ぶことで乗り切ります。

1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉・徳川家康らは尾張や三河(愛知県東部)といった東海地方で戦っていました。佐々成政は豊臣秀吉に味方する姿勢でしたが、徳川家康・織田信雄の連合軍に応呼してひそかに出陣し、前田利家領内である能登の末森城(石川県羽咋郡)を奇襲しました。前田利家はこれを討伐する役目を担い、息子の前田利長や甥である「前田利益」(まえだとします)らを率いて佐々成政に勝利し、佐々成政は豊臣秀吉に降伏。この功績で前田利家は、豊臣秀吉から加賀を含めた83万石の領地を賜わり、大大名に成長しました。

前田利家は豊臣秀吉の最晩年、徳川家康、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)、「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)、「毛利輝元」(もうりてるもと)らとともに五大老に名を連ねました。豊臣秀吉死後、徳川家康と前田利家の2人のみが執政として特別な地位に就いたと言われています。

前田利長(まえだとしなが)
前田利家の長男の前田利長は、前田利家の死後に跡を継ぎますが、大坂で豊臣秀吉の三男「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を補佐することを放棄し、徳川家康の勧めに従って金沢に引き上げます。

前田利長が金沢に帰って間もなく、徳川家康の暗殺計画が明るみに出ます。首謀者は「浅野長政」(あさのながまさ)、「大野治長」(おおのはるなが)、「土方雄久」(ひじかたかつひさ)で、3人とも謹慎処分になりました。前田利長が黒幕だという噂が流れましたが、前田利長の母で、前田利家の妻でもある「芳春院」(ほうしゅんいん)が人質になることで疑いは晴れます。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは徳川方に付いてさらに領地を加増され、江戸時代初期には加賀・能登・越中3国で119万石を領する大名へと成り上がりました。

前田家が愛用した刀剣・甲冑

前田家が愛用した刀剣甲冑(鎧兜)をご紹介します。

刀剣

大典太光世(おおでんたみつよ)
大典太光世は、平安時代後期の筑後の刀工「三池典太光世」(みいけでんたみつよ)が作った刀で、足利家より伝わった宝刀だと言われています。足利家が没落したのち豊臣秀吉の手へと渡り、そこから前田利家へ渡ると前田家の家宝として代々伝えられました。

豊臣秀吉が前田利家に持たせてくれた魔除けの日本刀とも言われており、魔を退治する能力があると伝えられています。

現在は国宝に指定され、前田育徳会(東京都目黒区)にて管理されています。

大典太光世

大典太光世

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
光世作 国宝 66.1 前田育徳会
前田藤四郎(まえだとうしろう)
前田藤四郎は、前田利家の次男「前田利政」(まえだとしまさ)が所持していたことが名前の由来。

前田利政から嫡子の「前田直之」(まえだなおゆき)に伝わり、その後も前田家に代々伝えられました。

現在は、前田育徳会にて管理されています。

前田藤四郎

前田藤四郎

短刀 銘 備州長船住長義(たんとう めい びしゅうおさふねじゅうちょうぎ)
備州長船住長義は長船長義の作の短刀として、それがそのまま名前の由来となっています。

また、大坂城を本拠にしていた豊臣秀吉の愛蔵の1振であることから、「大坂名物」とも呼称。その豊臣秀吉から前田利家に渡り、前田家で代々重宝されました。

現在は重要文化財(旧国宝)として、刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて所蔵しています。

短刀  銘  備州長船住長義
短刀 銘 備州長船住長義
表:備州長船
住長義
裏:正平十五年
五月日
鑑定区分
重要文化財
刃長
27.7
所蔵・伝来
豊臣秀吉→
前田利家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
薙刀 銘 伯耆国住広賀(なぎなた めい ほうきこくじゅうひろよし)
宇喜多秀家所有であった薙刀、号は渡海龍(とかいりゅう)。前田家から宇喜多秀家に嫁いだ豪姫が、西軍に味方し敗北した関ヶ原の戦いで八丈島へ流罪になり、その1年後、加賀前田家へ引き取られるときに同家へ伝来。

一時期行方が分からなくなっていましたが、前田家支流・上野国七日市前田家にあるのが分かり、そのまま明治を迎えました。

現在は保存刀剣として、刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて所蔵しています。

薙刀 銘 伯耆国住広賀
薙刀 銘 伯耆国住広賀
伯耆国住広賀作
天正二年八月日
鑑定区分
保存刀剣
刃長
55.8
所蔵・伝来
宇喜多秀家 →
加賀前田家伝来 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

甲冑

金小札白糸素懸縅胴丸具足(きんこざねしろいとすがけおどしどうまるぐそく)
金小札白糸素懸縅胴丸具足

金小札白糸素懸縅胴丸具足

金小札白糸素懸縅胴丸具足は、前田利家所用の甲冑(鎧兜)。は特徴的な煉革(ねりかわ)製の金箔押熨斗烏帽子で、首を覆う(しころ)やの部分は白糸で結び合わせられています。

前田家ではこの甲冑(鎧兜)を、前田利家が1585年(天正13年)に未森城(石川県宝達志水町)入城の際着用したとされている甲冑(鎧兜)として、代々伝えられました。

現在は、前田育徳会にて管理されています。

烏帽子型兜(えぼしがたかぶと)
烏帽子型兜は、前田利家所用の兜です。先のとがった梨打烏帽子(なしうちえぼし)と言われる形になっています。現在は尾山神社(石川県金沢市)に収蔵されています。
鯰尾型兜(なまずおかぶと)
鯰尾型兜は、前田利長所用と伝えられる兜。動物をかたどった変わり形兜の一形式で、戦国時代以降に流行した物。前田利家、「蒲生氏郷」(がもううじさと)、「堀直寄」(ほりなおより)などの武将が好んで用いたと言われています。

現在は、富山市郷土博物館(富山県富山市)に収蔵されています。

金唐皮貼浅葱縅腰取二枚胴具足(きんからかわばりあさぎおどしこしどりにまいどうぐそく)
金唐皮貼浅葱縅腰取二枚胴具足
金唐皮貼浅葱縅腰取二枚胴具足
金唐皮貼浅葱縅腰取二枚胴具足は、加賀前田家中興の名君「前田綱紀」(まえだつなのり)所用の甲冑(鎧兜)。

浅葱縅(あさぎおどし)に包まれたこの甲冑(鎧兜)は、胴の腰取まで金唐皮(きんからかわ)に覆われています。

金唐皮は、江戸時代にオランダから輸入されており、その価格は莨(たばこ)入れ程度でも家が一軒建つほどの高級素材でした。

また胴の部分は、金沢伝統の金箔を張り巡らされ豪華絢爛。

百二十間筋違兜をはじめ、胴脇、籠手臑当の鉄地には加賀梅鉢紋が高肉彫金されています。

現在は刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて所蔵しています。

前田家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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