歴代天皇家と刀剣の歴史
正親町天皇
歴代天皇家と刀剣の歴史
正親町天皇

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第106代「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)は、室町時代後期から衰退の一途を辿り、どん底だった朝廷の立て直しに尽力した天皇として知られています。「応仁の乱」以降、下剋上の風潮が蔓延し、全国にあった天皇直轄領は武士の侵略などによって荒廃。正親町天皇も「践祚」(せんそ:先帝の崩御または退位によって即位すること)から即位したことを対外的に示す「即位の礼」を行なうまでに3年を要するなど、朝廷は財政的に逼迫(ひっぱく)していました。そのような状況で、経済的な後ろ盾となっていたのが、ときを同じくして天下統一へとまい進していた「織田信長」。そして、「本能寺の変」で織田信長が没したあとには「豊臣秀吉」が継承します。織田信長、豊臣秀吉による天下統一路線(織豊政権)と歩みを同じくして、朝廷は危機的状況を脱し、権威も回復したのです。

経済的困窮を極めていた朝廷

応仁の乱

応仁の乱

正親町天皇(おおぎまちてんのう)は、1517年(永正14年)に「後奈良天皇」の皇子として出生しました。もっとも、応仁の乱の勃発後、日本は戦乱の世の中に突入しており、朝廷が地方に有していた領地は武士に侵略され、収入源はほぼ断たれた状態。朝廷の頂点に立つ天皇家といえども経済的に困窮していたと言われています。

そのため、正親町天皇の父・後奈良天皇はもちろん、祖父「後柏原天皇」(ごかしわばらてんのう)も即位したことを対外的に示す即位の礼を行なうことはできませんでした。言わば、朝廷の権威は失墜寸前の状態。そんな中、父の死を受けた正親町天皇は、即位したのです。

即位した当初の正親町天皇をめぐる状況は、祖父や父と大差はありませんでした。即位したものの、即位の礼を行なうことはできません。実現したのは、実に即位の3年後。中国地方の大名「毛利元就」(もうりもとなり)の金銭援助によって、ようやく即位の礼実現にこぎつけることができたのです。

このように、朝廷は戦国大名や寺院などによる経済的な援助なしには活動を維持していくことが難しくなっていました。そのため、正親町天皇はときの戦国大名・有力寺院などとの連携を模索し始めます。他方、戦国大名・有力寺院側にとっても、朝廷の「権威」をまとうことのできる絶好の機会でもあったのです。

朝廷の権威

源頼朝

源頼朝

朝廷と武家政権(幕府)は、どのような関係にあったのでしょうか。

源頼朝」によって日本初の本格的武家政権である「鎌倉幕府」が立ち上げられて以降、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)らによって行なわれた「建武の新政」(けんむのしんせい)の時期を除き、国を動かしていたのは武士達でした。

もっとも、武士の最上位たる「征夷大将軍」(せいいたいしょうぐん)については、天皇による任命を待たなければなりません。そのため、日本の統治構造は、その頂点に天皇が位置し、天皇による任命を受けた征夷大将軍が統治実務を行なうというものだったのです。

武士の最上位である征夷大将軍ですが、もともとは「蝦夷」(えみし:東北地方を拠点とする朝廷の支配が及ばない勢力)征伐のために朝廷の頂点である天皇が任命した臨時の役職であり、天皇によって与えられる地位でした。そうだとすれば、両者の関係は、「朝廷」>「幕府」ということになります。

また、大和政権の樹立以来、朝廷によって長期間に亘って統治されてきたという歴史的事実や、その頂点に立っている天皇は日本を創造した神様の系譜を継ぐ存在であるという思想が武士の間に残っていたこともあり、天皇は、畏敬すべき存在でもあったのです。

こうした関係は、1221年(承久3年)に勃発した「承久の乱」(じょうきゅうのらん)で鎌倉幕府軍が「後鳥羽上皇」ら朝廷軍の反乱を鎮圧したことによって逆転しました。もっとも、天皇による征夷大将軍の任命は継続されます。

国の運営を行なう機関・幕府の頂点である征夷大将軍の任命権を天皇が保持していることで、形式的には天皇が日本の頂点であることに変わりはありませんでした。すなわち、朝廷は国の統治機関としての機能(=権力)を失ったと言える状況でしたが、国の統治機関たる幕府の頂点を任命するという役割(=権威)は残ったのです。

織田信長と正親町天皇

こうした朝廷の有している権威に目を付けたのが織田信長でした。当初は、「尾張国」(現在の愛知県)の一部を治める武将に過ぎなかった織田信長は、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で「今川義元」(いまがわよしもと)を破ったことをきっかけに、尾張を統一。天下統一路線を歩み始めます。

  • 織田信長

    織田信長

  • 桶狭間の戦い

    桶狭間の戦い

1567年(永禄10年)に「足利義昭」(あしかがよしあき)を奉じて上洛すると、翌1568年(永禄11年)には、正親町天皇の保護を大義名分として京を制圧。この上洛を機に、織田信長が経済面での後ろ盾となったことで、朝廷は危機的状況を回避したのです。

他方、織田信長も天下統一という自らの野望達成のために、朝廷をうまく「利用」しました。象徴的だったのが1570年(元亀元年)に「朝倉義景」(あさくらよしかげ)・「浅井長政」(あざいながまさ)との間で結ばれた講和。当初、優勢に戦いを進めていた織田信長でしたが、妹「お市の方」の夫・長政の裏切りによって苦境に立たされ、撤退を余儀なくされます(金ヶ崎の戦い)。何とか無事に撤退した織田信長は、正親町天皇から講和の勅命(ちょくめい:天皇の命令)を引き出し、朝倉・浅井方との講和に成功。その後、当時の本拠地・岐阜に戻って態勢を立て直すと、「姉川の戦い」で、朝倉・浅井連合軍を打ち破りました。

この他にも織田信長は、戦局打開等が難しい局面において、度々正親町天皇から講和の勅命を引き出しています。また、織田信長は「東大寺」の「正倉院」に収蔵されていた天下一とも謳われた香木「蘭奢待」(らんじゃたい)切り取りの勅許を得て、これを切り取りました。天皇が直々に貴重な香木の切り取りを許したことは、全国の大名に対する朝廷が織田信長の実力を認めていることの証。

これにより、織田信長の勢力はさらに拡大していったのです。ここから透けて見えるのは、織田信長が朝廷の経済的な後ろ盾となり、天皇の権威が天下統一を進める織田信長の後ろ盾となるという両者の共存共益関係。正親町天皇にとって織田信長は、天皇家の財政と権威の回復に、なくてはならない存在だったと言えます。

豊臣秀吉と正親町天皇

豊臣秀吉

豊臣秀吉

織田信長が本能寺の変で非業の死を遂げたあと、天下統一を果たした豊臣秀吉も、主君同様に正親町天皇の経済的な後ろ盾となりました。

豊臣秀吉が織田信長同様に天皇の経済的な後ろ盾となった理由は他にもありました。武家出身だった織田信長とは違い、農民の出であると言われている豊臣秀吉にとって、何よりも欲しかったのが皇室の権威。そのため、豊臣秀吉は朝廷に接近していきます。

豊臣秀吉は、1584年(天正12年)に「従三位権大納言」(じゅさんみごんだいなごん)に叙任されたのを皮切りに、1585年(天正13年)には公家の「五摂家」(ごせっけ:鎌倉時代に成立した公家の家格の頂点に立った5家)のひとつである「近衛家」(このえけ)の「近衛前久」(このえさきひさ)の猶子(ゆうし:家督相続を前提としない擬制的な親子関係における子)となり、藤原氏に改姓。

その後、関白宣下によって「関白」に就任するなど、着実に「公卿」(くぎょう:公家で構成される太政官の最高幹部)としての足場を固めていきます。そして、1586年(天正14年)に正親町天皇から「豊臣」姓を与えられ、本姓(ほんせい:日本における古代以来の氏族銘)とすると、同年末には朝廷の最高位である「太政大臣」(だじょうだいじん)に就任。豊臣政権を確立したのです。

形式的には、天皇に仕える「ナンバー2」。豊臣秀吉が朝臣として振る舞った裏には、したたかな計算があったとも言われています。豊臣秀吉は、関白に就任すると、諸大名に正親町天皇の臣下としての忠誠を誓わせました。

諸大名が朝臣となったことは、天皇を頂点とする朝廷という権力構造においては、彼らが成人天皇の補佐役である豊臣秀吉よりも下の地位にあることを意味します。

すなわち、諸大名は実質的に豊臣秀吉の「家臣」となったとも言えるのです。天下統一を成し遂げた軍事力に加え、朝廷の権威をも後ろ盾とした豊臣秀吉は、実質的な日本の支配者として君臨。正親町天皇を頂点とする朝廷は、豊臣秀吉から援助されていた財政面に加え、天下人の後ろ盾となっていたことで、権威をも回復させました。

正親町天皇と日本刀(刀剣)

天下三名槍のひとつ「名物日本号」

黒田家の家臣「母里友信」(もりとものぶ)が、「福島正則」(ふくしままさのり)から「呑み取った」逸話が有名な「日本号」は、もともと「御物」(ぎょぶつ:皇室の私有物)でした。刀身に彫られた「倶利伽羅竜」は、日本号が武器であることを忘れさせるほどで、その美しさから位階を表す「正三位」(しょうさんみ) を賜ったという伝承もある究極の大身槍。

後世において、各時代の名工がこぞって写しの制作を行なったと言われているほどの名槍を下賜したのが、正親町天皇だったのです。室町幕府15代将軍・足利義昭に下賜された日本号はその後、織田信長から豊臣秀吉へと渡り、豊臣秀吉はこれを福島正則に与えました。そして、前述したやり取りなど紆余曲折を経て、黒田家に渡った日本号は現在、「福岡市博物館」において収蔵・展示されています。

日本号

日本号

制作年代 刀鍛冶
室町時代後期 不明(大和国金房派と伝えられる)
所蔵 刃長
福岡市博物館 2尺6寸1分半(約79cm)
主な所有者・伝来
足利義昭 → 織田信長 → 豊臣秀吉
福島正則 → 母里友信

短刀「五虎退吉光」

正親町天皇と親交があったのは、前述した織田信長や豊臣秀吉だけではありません。1559年(永禄2年)に「上杉謙信」が上洛すると、正親町天皇は1振の短刀を下賜。それが重要美術品に指定されている「短刀」(銘 吉光、号 五虎退:ごこたい)です。

この短刀は、「五箇伝」のひとつ「山城伝」の「粟田口派」(あわたぐちは)の名工「吉光」(よしみつ)の手による1振。号の由来は、室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)が「明」(みん:現在の中国)に派遣した使者が荒野で5頭の虎に襲われた際に、この短刀を使って退治したという逸話にあると言われています。

五虎退吉光には、もうひとつ逸話があります。1881年(明治14年)の「明治天皇」による東北巡幸の際に天覧に供されたときのこと。自らも父「孝明天皇」(こうめいてんのう)の遺品である吉光作の短刀を所有していた明治天皇は、上杉家伝来の五虎退吉光に目を奪われました。

そして、どちらの「藤四郎」(とうしろう:吉光の通称)が優れているかを問われた本阿弥による「陛下ご持参の方が優れていると存じます」という返答に対して明治天皇は「それでは十虎退だな」と笑みを浮かべたと言われているのです。

五虎退吉光については、日本刀(刀剣)の目利きとしても名高い「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が、養父・謙信所有の日本刀(刀剣)から厳選した35振を掲載した「上杉景勝公御手選三十五腰」にも名前が挙がっています。短刀制作の名手として名高い吉光の作品らしく、現存している短刀の中でも、その出来映えは出色と言える1振です。

五虎退吉光

五虎退吉光

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
吉光 重要美術品 25.1cm 上杉謙信→
個人→
米沢上杉博物館
(委託)

正親町天皇と宸翰

正親町天皇

正親町天皇

正親町天皇は、室町時代後期の公卿「三条西公条」(さんじょうにしきんえだ)、「三条西実枝」(さんじょうにしさねき)親子に和歌や古典の指導を受けたこともあり、和歌御会などの開催にも積極的だったと言われています。

そして、天皇は「正親町院御百首」(おおぎまちいんおんひゃくしゅ)などの「詠草」(えいそう:和歌や俳諧の書式のひとつ)を残しました。前述のように、正親町天皇の時代は、朝廷が最も困窮していたと言っても良い時代。父・後奈良天皇同様、「宸翰」(しんかん:天皇自筆の文書)を売却することで糊口をしのぐこともあったと言われています。

正親町天皇による「八代集巻頭歌」の宸翰は、祖父・後柏原天皇譲りとも言われる、流れるような筆づかいが特徴的です。

「八代集」(はちだいしゅう)とは、最初の勅撰和歌集(天皇・上皇の勅撰によって編纂された公式和歌集)である「古今和歌集」(こきんわかしゅう)から「後撰和歌集」(ごせんわかしゅう)、「拾遺和歌集」(しゅういわかしゅう)、「後拾遺和歌集」(ごしゅういわかしゅう)、「金葉和歌集」(きんようわかしゅう)、「詞花和歌集」(しかわかしゅう)、「千載和歌集」(せんざいわかしゅう)、「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう)までの8つの勅撰和歌集の総称。

勅撰和歌集は、その時代における最高峰と言える歌人達の作品によって編纂されています。本幅は、正親町天皇の流麗な筆致と歌が相まって、美しい春の情景を思い浮かべさせる1幅です。

収録歌

※カッコ内はふりがな

古今和歌集

年の内に春は来にけり一(ひと)とせを こぞとやいはんことしとやいはむ

後撰和歌集

降雪(ふるゆき)のみのしろことも打(うち)きつゝ 春きにけりと驚かれづに

拾遺和歌集

春立(はるたつ)といふ許(ばかり)にやみよしのゝ 山もかすみてけさはみゆらむ

後拾遺和歌集

いかにねて起(おく)る朝(あした)にいふ事ぞ 昨日を去年(こぞ)と今日をことしと

金葉和歌集

打(うち)なびき春はきにけり山川の 岩間の氷けふや解(とく)らむ

詞華和歌集

氷ゐししがのからさき打(うち)とけて さゞ涛(なみ)よする春風ぞふく

千載和歌集

春のくる朝(あした)の原をみわたせば、霞もけふぞ立ハじめける

新古今和歌集

みよし野は山もかすみて白雪の ふりにし里に春は来にけり

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