織田家は、戦国時代の三英傑(さんえいけつ)のひとり「織田信長」に代表される戦国大名家です。群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国時代、「大うつけ」と呼ばれた織田信長がいかにして並み居る戦国大名の中から天下人となったのか。今回は、織田信長以前の織田家や織田信長が天下を取るまでの経緯、それを支えた家臣達、織田家ゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)などについてご紹介します。
織田家の家紋「五瓜に唐花」
織田家の出自は、越前国織田荘(えちぜんのくにおたのしょう:現在の福井県丹生郡)の荘官であったと言われています。
織田家は、越前国の守護(将軍から地域の監督権を許された役職)であった斯波家(しばけ)に仕え、室町時代には、斯波家の領地であった尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)に派遣され守護代(守護に代わって土地を治める役職)として尾張国を治めます。
そんな折、1515年(永正12年)に斯波家当主「斯波義達」(しばよしたつ)が「今川家」に戦を仕掛けるも敗北し失脚するなど、守護としての斯波家の権威が失墜。守護代として勢力を伸ばしていた織田家が、この機に乗じて尾張国の実権を握るようになります。
守護代に始まり、天下を統べるまでになった織田家。そこには三英傑(さんえいけつ)のひとりである織田信長の軍事や政治、経済など多岐にわたる非凡な才能と、織田信長のもとに集った個性豊かな家臣達の活躍がありました。
織田信長
尾張守護代を世襲していたのは織田家の宗家である清洲織田家(きよすおだけ)。しかし織田家が尾張国で実権を握り始めた頃には、「清洲三奉行」のひとつに数えられる分家の織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)が台頭。
1532年(享禄5年)には、織田弾正忠家当主「織田信秀」(おだのぶひで)が、「今川氏豊」(いまがわうじとよ)から現在の名古屋城(愛知県名古屋市)の前に同地に建てられていた那古野城(なごやじょう)を奪い居城に。
その後も、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)の「松平家」や駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部・北東部)の今川家、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)の「斎藤家」などと戦を交え領地拡大を図ります。これにより力を強めた織田弾正忠家は宗家以上の勢力となりますが、立場上はあくまで清洲織田家の家臣でした。
しかしそんな中、1551年(天文20年)織田信秀の子である織田信長が家督を継ぐと、織田信長は清洲織田家と対立します。守護の「斯波義統」(しばよしむね)が清洲織田家「織田信友」(おだのぶとも)に殺害されたことをきっかけに、織田信長は斯波義統の子「斯波義銀」(しばよしかね)を支援。織田信長が織田信友を討ち倒すことで清洲織田家を滅亡させ、織田信長の織田弾正忠家が織田家の宗家となりました。
織田信長の天下統一への第一歩は、1559年(永禄2年)室町幕府13代将軍「足利義輝」に謁見したことでした。上洛(京に入ること)し将軍に謁見することで、尾張国の支配者として幕府に認めて貰う狙いがありました。
1560年(永禄3年)には、桶狭間の戦いで「今川義元」を撃破。桶狭間後、今川義元を失い衰えた今川家から独立し三河国を治めた松平家の「徳川家康」と「清洲同盟」を結んだ織田信長は、美濃国や伊勢国(いせのくに:現在の三重県の大半)、畿内(大阪府、奈良県、京都府南部、兵庫県南東部)など北部・西部へ侵攻。これらに領地を構えていた大名家を瞬く間に傘下に収めます。
しかし、急速な勢力の拡大を見せる織田信長を脅威と見た周辺諸国は、反抗を開始。織田信長は、2度に亘る「織田信長包囲網」と呼ばれる周辺諸国からの攻勢を受けることに。
四方から攻められ苦境に陥った織田信長でしたが、1度目は各勢力との和睦で、2度目は包囲網の主力であった甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)「武田家」の「武田信玄」の病死により難を逃れます。
窮地を脱した織田信長は、1573年(元亀4年)に15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を京から追放し、室町幕府を事実上滅亡させます。さらに1575年(天正3年)、武田家との長篠の戦いで、織田信長は火縄銃を用いて武田家を圧倒。武田信玄を失った武田家をさらに弱体化させます。
同年には長男「織田信忠」(おだのぶただ)に尾張国を治める大名としての織田家の家督を譲り、織田信長自身は室町幕府滅亡後に握った政権の運営に専念。まずは安土城(滋賀県近江八幡市)を築城し、織田信長の掲げる「天下布武」を成し遂げるための居城とします。
天下布武の意味は諸説あり、「天下」が日本全国と畿内どちらを指すか、「布武」は「武を布く」(武力で天下を治める)ことか、中国の史書「春秋左氏伝」(しゅんじゅうさしでん)にある「七徳の武を備えた者が天下を治める」を指すのか、いまだに議論されています。
安土城に移ってからも、織田信長は「豊臣秀吉」に中国地方制圧を命じるなど支配地域を広げていきますが、1582年(天正10年)、家臣「明智光秀」による謀反「本能寺の変」により、天下統一の半ばで命を落とします。
明智光秀は本能寺で織田信長を討つと、そのまま織田家当主の織田信忠のいた二条城(京都府京都市)にも攻め入り、織田信忠も自害に追い込みます。しかし、主君の死を聞き中国地方から帰還した豊臣秀吉が「山崎の戦い」で明智光秀を討伐し、織田信長・織田信忠の敵を討ったことで、以後の権力争いの主導権を握ります。
当主を失った織田家は、豊臣秀吉ら重臣が集まった「清洲会議」で豊臣秀吉が推薦した織田信忠の子「織田秀信」(おだひでのぶ)に家督を継がせることを決定。織田秀信は当主となりますが、実権は豊臣秀吉に握られることになります。豊臣政権が発足し、織田家はその重臣という身分となりました。
関ヶ原の戦いでは豊臣方の西軍として参戦したため、戦ののちには徳川家康から改易(領地を没収されること)を受け領地は没収され、織田秀信自身も出家することに。高野山に送られた織田秀信でしたが、祖父の織田信長が高野山を迫害していた事実もあり、不遇の扱いを受けていたともされます。
その後1605年(慶長10年)に、嫡子(家督を継ぐ男子)が生まれることなく織田秀信は死亡したため、織田家は断絶となりました。
宗三左文字は、織田信長が愛用していた日本刀です。桶狭間の戦いで今川義元を討った戦利品として織田信長の手に渡りました。本能寺の変以降は、豊臣秀吉や徳川家康などもこの刀剣を所持したため、「天下取りの刀」とも呼ばれます。現在は重要文化財に指定され、建勲神社(京都府京都市)に収蔵されています。
圧切長谷部は、織田信長が所持していた日本刀です。「長谷部国重」(はせべくにしげ)という刀工の作で、「圧切」は「棚の下に隠れた茶坊主を切ろうとした織田信長が、振り上げられなかったため茶坊主に刀を押し当てただけで圧し切ってしまった」逸話に基づいています。
朱印状は将軍や武将が所領安堵や海外渡航許可などの際に発行する公文書。
上洛を果たした織田信長が美濃国へ帰国する際に、反乱などが起きないよう、また起きたとしても抑え込めるようにと、「池田恒興」(いけだつねおき)、「津田元嘉」(つだもとよし)、「菅谷長頼」(すがやながより)、「平手汎秀」(ひらてひろひで)、「長谷川与次」(はせがわよじ)、「山田勝盛」(やまだかつもり)、「丹羽源二郎」(読み名:資料なし)の7名の家臣に宛てた物です。
現在は、刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて所蔵しています。
豊臣秀吉
豊臣秀吉は、織田信長のもとで大出世を遂げた武将です。農民から天下人である織田信長の家臣に成り上がり、織田信長の死後は自らが天下人となるまでに上り詰めました。
草履を懐で温め織田信長を喜ばせる、一夜にして墨俣城(すのまたじょう)(岐阜県大垣市)を築くなど、機転を利かせた逸話が多いことも豊臣秀吉の特徴です。
豊臣秀吉の以前に名乗った「羽柴秀吉」(はしばひでよし)の由来は、同じく織田信長の家臣「丹羽長秀」(にわながひで)と「柴田勝家」(しばたかついえ)から、「羽」「柴」を貰い受けたことにちなみます。
柴田勝家
柴田勝家は、戦国時代に勇猛さで名を馳せた武将です。柴田勝家は、「一向一揆」(いっこういっき)など多くの戦で功績を挙げた織田家家臣の中心人物でもありました。
しかし本能寺の変ののち、柴田勝家が織田信長の三男「織田信孝」(おだのぶたか)を推挙するも、生前に織田信長から家督を継いでいた織田信忠の息子である織田秀信が家督を相続し、織田秀信を擁立した豊臣秀吉との権力争いに破れます。
そのあと柴田勝家は、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で豊臣秀吉軍に包囲され、北ノ庄城(現在の福井県福井市)で自害しました。
丹羽長秀は、織田信長が10代の頃から仕え、特に内政面で手腕を発揮した武将です。織田信長の家臣の中でも柴田勝家と並んで重臣のトップとされた存在で、織田信長から若狭国(わかさのくに:現在の福井県南部)を与えられています。
丹羽長秀の別名「五郎左」(ごろうざ)から「米五郎左」(こめごろうざ)とも呼ばれ、「織田家にとって米のように無くてはならない存在」と評されています。また、織田信長の命を受け、織田信長の居城となった安土城の築城を取り仕切ったことからも、織田信長の丹羽長秀への信頼の厚さが伺えます。