安土桃山時代
長篠の戦い
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長篠の戦い

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1575年(天正3年)4月、織田信長が名実ともに天下人となった、歴史上非常に重要な合戦「長篠の戦い」が起こりました。織田・徳川連合軍が、戦国最強と言われた武田軍を相手に圧勝した戦いです。

長篠の戦いが起きた理由と背景

織田信長と武田信玄

織田信長と武田信玄

なぜ「長篠の戦い」が起きたのか。天下統一を狙っていた織田信長には多くの敵がいましたが、中でも最大の敵と言われたのが、甲斐の武田信玄です。信玄は、カリスマ性のある最強の武将として名高く、諸大名から恐れられる存在でした。信玄の代で武田家の領地は7倍に拡大しましたが、さらに勢力を西に広げる野心を持っていました。

当時信長は、将軍・足利義昭や越前の朝倉義景、近江の浅井長政、河内の三好義継など、西方の反信長勢力に兵を取られ、東の守りである徳川家康の領地に援軍を送ることができなかったのです。そんな状況を好機と捉え、1572年(元亀3年)信玄は家康の領地・三河へ向けて侵攻を開始します。翌1573年(天正元年)には、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍に圧勝。

信長や家康にとっては危機的な状況でしたが、思いがけない出来事が。信玄が病気により急死してしまったのです。総大将を失った武田軍は乱れ、本国へ撤退しました。そこで家康が信玄に取られた領地を奪回。武田家のあとを継いだ四男・勝頼は、信玄の遺志を受け継ぎ、織田・徳川連合軍との戦いを継続します。

1574年(天正2年)2月、勝頼は信長の領地・美濃の明智城を攻め落とし、6月には家康の領地・遠江において、父・信玄も成し得なかった高天神城を落城。順調にコマを進めて行きます。こうしていよいよ、家康の本拠地三河の要所・長篠城での決戦を交えることとなるのです。

なぜ戦国最強と言われた武田軍は大敗したのか?

長篠の戦いで武田軍が大敗した大きな理由は、武田軍にとっての3つの不運が重なったことでした。その3つの不運について述べます。

武田軍の不運・その1 ~信長の兵力の回復~

ひとつめの不運は、信玄の急死が、単に総大将を失っただけにとどまらなかったことでした。信玄に攻め込まれた時点では、信長の兵力は武田軍を迎え撃つには到底足りず、徳川軍は苦戦を強いられていましたが、信玄を失い、武田軍が一度本国に撤退したことで、戦局は大きく変わることとなったのです。

信玄の死から勝頼の反撃までの短い間に、信長は将軍・足利義昭を追放し、室町幕府を滅亡させ、朝倉・浅井・三好などの反信長勢力を一気に滅ぼしてしまいました。こうして、勝頼が長篠城に攻め込む頃には、信長は三河に兵力を集中することが可能になったのです。15,000の武田の大軍に対し、家康が用意できたのは8,000。30,000の信長の援軍なくては徳川軍の勝利はありませんでした。

武田軍の不運・その2 ~武田家の旧家臣と勝頼の対立~

ふたつめの不運は、急死した父・武田信玄が、類まれなるカリスマ性とリーダーシップをかね備えた名将で、家臣たちから非常に慕われ尊敬を集めていたことです。偉大すぎる親の子はただでさえやりづらいもの。

しかも、勝頼は信玄の側室の子で四男という、本来武田家を継ぐ立場にはない身分で、一度は母方の諏訪家のあとを継いで「諏訪勝頼」と名乗っていました。兄たちの相次ぐ失脚や死などで急遽家督を継ぐこととなりましたが、そんな勝頼を古参の重臣たちはなかなか認めることができず、政策を決める際も対立しがちでした。そのため、大切な決戦である長篠の戦いでも足並みがそろわず、一丸となって戦うことができなかったのも、敗因のひとつと言われています。

武田軍の不運・その3 ~最新鋭の兵器との戦い~

最後の不運は、相手が信長だったということでした。長篠の戦いは、数の上では織田・徳川連合軍が圧倒的に勝っていましたが、信長は決して油断はしていませんでした。明智城や高天神城の陥落から、勝頼を信玄と同じく脅威と捉え、最強の武田軍に対して練りに練った戦略を行なったのです。

当時、合戦の兵器と言えば弓や槍・日本刀での至近距離での戦いでしたが、信長は1,000丁あまりの鉄砲を用意し、当時の日本としては異例の自軍に有利な場所への野戦築城を行ない、武田軍を迎え撃ちました。

野戦築城の目的は、武田軍の騎馬隊を無効化するためでしたが、武田軍が攻撃を仕掛けてこなければ意味のないものとなります。しかし信長は、勝頼の性格から必ず攻撃してくると読み、結果は信長の予想通りとなりました。最強と言われた武田軍の騎馬隊も、信長の最新式の兵法と最新兵器(鉄砲)を前にはなすすべもなかったのです。

長篠の戦いの始まり

長篠の戦い

長篠の戦い

1575年(天正3年)5月、勝頼は15,000の大軍を率いて長篠城に攻め込みます。長篠城を守っていたのはわずか500人の兵でしたが、200丁の鉄砲を備え、周囲を山に囲まれた恵まれた立地のおかげで守りが堅く、武田軍の攻撃にも何とか持ちこたえていました。

長篠城では、長期の籠城戦に持ち込み援軍を待つ予定でしたが、火災で兵糧庫が焼失し食料を失ったことから、よもや陥落寸前になったのです。

死を覚悟の使い ~忠臣・鳥居強右衛門の活躍~

このとき、家康に援軍を求める密使に名乗り出たのが、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)でした。強右衛門は長篠城主・奥平家の陪臣で、このときの年齢は、数えで36歳と言われています。武田の大軍に包囲される中、城を抜け出し岡崎城まで赴くことは不可能に近いと思われましたが、5月14日の夜、闇にまぎれて川をもぐり、無事に脱出。5月15日の午後、岡崎城にたどり着き、援軍を要請します。

そのときすでに、武田方の動きを察知した家康より要請を受けて、30,000もの大軍を率いた信長が到着していました。翌日には、総勢38,000の大軍が長篠城に向けて出発すると聞き、喜んだ強右衛門は朗報を一刻も早く味方に伝えるため引き返しますが、5月16日の早朝、城を目前に武田軍に捕まってしまいます。

援軍が到着することを知った勝頼は、その前に長篠城を攻め落とさねばと考えた結果、強右衛門に取り引きを持ちかけます。城に向かって「援軍は来ない。あきらめて城を明け渡せ」と叫べば、命を助けるだけでなく武田家の家臣として厚遇すると約束。強右衛門は快諾しますが、翌朝城の前に立てられた磔柱に縛り付けられると、城内に向かって武田の命令とは逆の「あと2~3日で数万の援軍がやって来る。それまで持ち堪えよ」と叫んだのです。

怒った武田軍により強右衛門はその場で殺されますが、強右衛門の決死の報告で士気の高まった長篠城の兵士たちは、「強右衛門の死を無駄にしまい」と援軍が到着するまで武田軍の攻撃から城を守り通します。

信長率いる援軍到着 ~設楽原に野戦築城~

5月18日、信長率いる織田・徳川連合軍が到着しましたが、長篠城の手前3km離れた設楽原に着陣し、柵を作り始めます。設楽原は川に沿って丘陵地が幾重にも重なる地形で、川を堀に見立てて柵を城壁の代わりとして、当時の日本では珍しい野戦築城を行なったのです。自軍にとって有利に戦略を進められる場所に即席の城を作り上げ、相手からの攻撃を待つというのが信長の作戦でした。

勝頼の決断

織田・徳川連合軍の大軍の到着を見て、武田軍は軍議を開き、意見は3つに分かれました。

信玄時代からの家臣たちは撤退を主張。もしくは、長篠城を奪って迎え撃つ作戦を考えました。しかし、勝頼とその側近たちは、設楽原での決戦を選択。信長の脅威をよく知る古参の重臣たちは、「武田の終わり」を予感し、死を覚悟して杯を交わしたと言われています。数の上では圧倒的に不利で、勝ち目は少ないと思われたにもかかわらず、なぜ勝頼は決戦することを決めたのでしょうか。

決戦を決めた理由・その1 ~勝頼の誤算~

信長が設楽原に布陣したのは、戦略上のことであり、決戦を恐れてのことではありませんでしたが、勝頼は「相手は手立てを失い、一段とひっ迫している」と判断しました。相手が弱気になっている今が、徹底的に叩き潰すチャンスと考えたのです。

決戦を決めた理由・その2 ~信長の戦略勝ち~

連合軍は武田軍より圧倒的に数の上で勝っていましたが、信長は勝頼に攻撃を仕掛けさせるために、数を少なく見せかけるように兵を隠して配置していました。そのため、勝頼は数の上でそんなに差が開いているとは想定しなかったとも言われています。

決戦を決めた理由・その3 ~勝頼の賭け~

信玄亡きあとの信長の快進撃はめざましく、織田軍と武田軍の勢力の差は今後ときが経つにつれて開くばかりだと考えた勝頼は、今回を逃すと勝利できるチャンスは来ないと判断したとも言われています。また、織田・徳川両軍を同時に倒すことができれば、一気に劣勢を挽回できると、言わば賭けに近い心境だったという説もあります。

長篠城の奇襲

一方、勝頼が長篠城に3,000の兵を残して織田・徳川連合軍の近くに布陣したのを知ると、5月20日の夜、信長は弓・鉄砲に優れた約4,000名の別働隊を組織し、家康の重鎮・酒井只次に率いさせて長篠城への奇襲を命じました。奇襲は成功し、織田・徳川連合軍は第一目的である長篠城の救済を果たします。これによって、武田本隊は退路を断たれることに。これには逸話があります。奇襲作戦は、織田・徳川軍合同会議での酒井による発案を、信長が武田軍の諜報を恐れていったんは却下。軍議後すぐに酒井を呼び付けて作戦を実行させたというものです。

信長としては、ひとまず兵を出して家康への義理は果たし、長篠城を救うことができたため、これ以上無理に戦う必要はありませんでした。勝頼が案じたように、今後自軍と武田軍との差は開くばかりで、ときが経つ程自軍に有利になるのは目に見えています。しかしながら、近くに武田軍が布陣したのを見て、「天の与えた機会である。ことごとく討ち果たすべきだ」と喜び、自軍が無害になるような作戦を立てました。

設楽原での決戦

5月21日早朝、武田軍が織田・徳川連合軍に攻撃を開始しました。信長の狙い通り、武田軍からは連合軍が実際より少数に見えていたため、脆弱に見える柵の容易な突破を想定し、騎馬隊が果敢に突撃。信長の鉄砲隊の連射で次々と倒れて行きました。

戦いは8時間にも及んだと言います。戦いの最中、勝頼のもとに奇襲により長篠城を包囲していた砦が陥落したと報せが入ります。もうこれで退路は断たれました。前へ前へ攻撃するしかありません。ところが、中央にいた重鎮(主に叔父などの親類たち)が、総大将の勝頼の命令も聞かずに勝手に退却をはじめ、武田軍は陣形が大きく崩れてしまいます。

もともと採っていた陣形が左右の両翼の攻撃を主力とするもので、それに合わせて連合軍側からの攻撃も両翼に多く配置されていたため、被害はさらに両翼に集中。多くの名だたる武将たちが討ち死にする結果となってしまいました。こうして戦国最強とされた武田軍は、織田・徳川連合軍の前に敗れ去ったのです。

戦いの結果、織田・徳川連合軍側は、名だたる武将は1人として亡くなっていないにもかかわらず、武田軍の被害は甚大でした。資料によって人数に違いがあり、1,000人とも10,000人とも言われていますが、信玄が大切に育てた最強軍団の名将たちが、露と消えました。勝頼は少数の兵と共に一時的に武節城へ篭ったのちに、伊那郡へ退却します。

勝敗を分けたのは?

長篠の戦いは、数の上で武田軍に勝ち目はありませんでした。城を攻める際には、攻撃側は相手の3倍以上の兵力が必要とされています。簡易的な野戦城とは言え、防御側が倍以上の兵力があったため、成功するはずがなかったのです。

しかし、圧倒的な兵力の差だけで勝敗を決めたのではなく、織田信長率いる織田・徳川連合軍の最新兵器部隊と、旧勢力である武田軍との戦いだったとも言われていますが、本当のところはどうだったのでしょうか。

勝敗を分けたのは?・その1 ~鉄砲の欠点を補う戦略~

ここで疑問なのが、なぜ武田軍は鉄砲を装備しなかったのか、ということです。

実は、武田軍も銃は所持しており、優秀な鉄砲隊もいました。武田軍の攻撃を受けた長篠城は、銃弾を浴びて穴だらけだったのです。それなのに、なぜ決戦では銃を使用しなかったのでしょうか。

現代の私たちの常識で考えれば、銃に対して日本刀や槍で戦えば、銃が勝つのが当たり前のように思います。しかし、当時の鉄砲(火縄銃)は、一度発砲してから次に発砲するまでにかなりの時間がかかりました。発砲してから一度退却して、掃除して、火薬を詰めなおして、という作業をしているうちに、一瞬で走ってきた騎馬隊に斬られて命を落とすことが多かったのです。ですから当時の常識では、鉄砲は実戦的ではなく、戦国最強と言われる武田軍にとっては恐るるに足りない存在でした。

ところが、そこは考えた信長。発砲して退却して詰め直す、という部分を柵の内側で行ない、騎馬隊に近寄らせないようにしました。現在では、信長が編み出したとされる三段撃ちは多くの歴史家により否定されていますが、一人が柵に守られた中で火薬を詰めなおしている間に、近づいてきた武田軍を別の一人が銃で撃つことは可能でした。

信長は、銃を使った戦法で勝利を収めたことは確かですが、ただ銃を装備するだけでは、最強軍団・武田軍に倍の兵力という数を持ってしても勝てなかった可能性はあります。最新兵器の銃をただ用いるだけでなく、欠点を補う戦略を考えた信長の作戦勝ち。例え武田軍が銃を装備していたとしても、結果は同じになったと考えられています。

勝敗を分けたのは?・その2 ~梅雨の晴れ間~

武田軍が長篠城を包囲したことは早い段階で徳川も織田も把握しており、家康はすぐに援軍を信長に要請しましたが、信長はなかなか重い腰を上げませんでした。その理由として、最強の武田軍に勝つには銃を用いた作戦以外に考えられませんが、あいにく和暦の5月という梅雨の時期で、雨火縄銃の装填には一番厄介なものだったからです。そこで「梅雨さえ明ければ」と待っていたと言います。

信長は「梅雨将軍」と呼ばれる程、雨を戦の味方にして連勝してきた武将です。約10倍の兵力の今川義元を破った「桶狭間の戦い」でも、急に降り出した雨に驚いた今川軍を奇襲することで勝利を収めました。ところが、この長篠の戦いでは、設楽原での決戦の日だけは晴れて、信長の鉄砲隊は大活躍。またもや天が信長の味方をしたのです。

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