安土桃山時代
山崎の戦い
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山崎の戦い

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1582年(天正10年)6月2日、「本能寺の変」で命を落とした織田信長。それを知った羽柴秀吉は信長の敵を討つために中国遠征を中断し、約2万の全軍で京を目指しました。そして約10日後の6月13日、摂津国と山崎国の境に位置する山崎において明智光秀と激突。退却を余儀なくされた光秀は、坂本城を目指して落ち延びていましたが、その後、命を落としました。これにより、戦国乱世は終焉へと向かい、秀吉による天下統一への道がスタートすることになったのです。

山崎の戦いの背景と経緯

豊臣秀吉

豊臣秀吉

「山崎の戦い」が起きた原因は、1582年(天正10年)6月2日に起こった「本能寺の変」です。

遡ること1577年(天正5年)10月。豊臣秀吉は、信長から毛利輝元の勢力圏である山陰・山陽を進攻するよう「中国攻め」を命じられました。それを受けた秀吉は、その年に上月城(こうつきじょう)を攻略。翌1578年(天正6年)に三木城、1581年(天正9年)に鳥取城を兵量攻めで落としました。その後、1582年(天正10年)4月27日から備中高松城への攻撃を開始。その一方で、敵の毛利氏は末近信賀(すえちかのぶよし)を備中高松城の援軍に派遣しました。本能寺の変が勃発するわずか数ヵ月前のことです。

備中高松城は防御性の高い低湿地にある「沼城」。篭城作戦を採った城主の清水宗治に苦戦を強いられた秀吉は、敵である毛利氏の援軍が進行中であったこともあり、信長に援軍を要請。信長から光秀を援軍に送るとの返答があったものの、早急に備中高松城を落城するよう厳命もありました。そこで秀吉は、低湿地という立地を逆手に取り、足守川に堤防を構築して水攻めにし、備中高松城を湖中の浮島にしたのです。

対する輝元は、備中高松城の窮地を知り、吉川元春と小早川隆景を救援に向かわせると共に、輝元自身も備中高松城の援軍に向かいました。そして、毛利軍が到着した頃、足守川の水が備中高松城を覆いつくそうとしていたのです。その光景を目にした毛利軍の吉川元春と小早川隆景は為す術がなく、ついに秀吉に講和を申し入れました。しかし「中国5ヵ国の譲渡と城兵の生命安全」を提示した毛利氏に対し、秀吉は「中国5ヵ国の譲渡と宗治の切腹」にこだわったため、なかなかまとまらなかったのです。

そのような状況の中、秀吉の援軍に向かっていた光秀が謀反を起こし、6月2日に本能寺の変が勃発。秀吉がそれを知ったのは翌3日の夕方。わずか1日後のことでした。そのきっかけは、光秀から毛利方に送られた使者を捕らえたこと。さて、ここで秀吉はどのような行動を取ったのでしょうか?

中国大返しの決行

黒田官兵衛

黒田官兵衛

信長の死を知った秀吉はひどく落胆しましたが、腹心の黒田官兵衛が「光秀を討伐すれば天下を取れる」と鼓舞したのです。そのためには、信長の家臣である柴田勝家と同盟者の徳川家康よりも先に仇を討つ必要がありました。そこで秀吉は、毛利方との早期講和を図ることに。それも信長が落命したことを知られると戦況が悪くなるため、徹底的に隠匿したのです。

まず、翌日4日には毛利方に「3ヵ国の譲渡と宗治の自刃」を提示。備中高松城は兵糧が底を突き、落城寸前であったため、毛利側はこの条件を受け入れて和睦が成立。夕方には宗治が自刃。毛利軍は撤退を始めました。そして6日、毛利軍の撤退を確認した秀吉は、備中高松城から山崎まで、約200kmの道のりを10日で踏破した「中国大返し」を決行したのです。

日付 移動地域 移動距離
6月6日 備中高松城から沼城 約22km
6月7日 沼城から姫路城 約70km
6月8日 姫路城にて休憩
6月9日 姫路城から明石 約35km
6月10日 明石から兵庫 約18km
6月11日 兵庫から尼崎 約26km
6月12日 尼崎から富田 約23km
6月13日 富田から山崎 約6km

特に備中高松城から姫路城までの約92kmを、2万の軍勢を率いてわずか2日で走り抜けた偉業を成し遂げました。これは、毛利軍の追撃を避けるためと、秀吉が誰よりも先に光秀を討つために織田家の他の武将達が弔い合戦に出遅れるようにしたこと、それと秀吉が京に攻め入ってくる光秀の予想時期を欺くためです。

その後、同盟者を募りながら光秀の様子を探り、光秀と情報戦を繰り広げながら慎重に行軍。秀吉が尼崎を目指していた10日、光秀にもその知らせが届きました。それを聞いた光秀は、秀吉の進軍が予想を超えて早かったため、淀城と勝竜城の修築に着手し、男山に布陣していた兵を撤収。十分な準備を整えられないまま決戦に臨むこととなったのです。

山崎の戦い

山崎の戦い

山崎の戦い

6月13日、山崎の地に到着した秀吉軍。兵の数は、およそ4万。それに対する光秀軍は、約1万6,000人で対陣しました。光秀の戦略は、山崎の地が天王山と沼地が隣接する淀川に挟まれた幅の狭い地形のため、縦長になって進軍してくる秀吉軍を迎え撃つというもの。そのときの布陣は、斎藤利三と阿閉貞征(貞秀)、河内衆を前面に配置。秀吉軍の布陣は、山側、中央、川側の3つ。山側に羽柴秀長と黒田孝高(黒田官兵衛)、中央を高山右近、中川清秀、堀秀政、川側に池田恒興、池田元助、加藤光泰です。

そして午後4時、先陣を切ったのは光秀軍。秀吉軍の中川清秀が高山の横に陣を構えようとしたときに、光秀軍の伊勢が襲いかかったことがきっかけでした。それに呼応して光秀軍の斎藤も秀吉軍の高山に攻撃を開始。中川、高山共に苦戦を強いられたのです。しかし、秀吉軍の堀が加勢し、なんとか持ち堪えました。天王山に布陣していた秀吉軍の孝高、秀長らは、進撃してきた光秀軍の松田正近と河並易家と交戦、一進一退の攻防が続きました。

その後、約1時間が経過したところで大きく動きがあったのです。川側に布陣していた秀吉軍の恒興、元助、加藤が密かに淀川を北上して円明寺川を渡り、光秀軍の津田信春を奇襲。光秀本隊の側面を突いたことになり、がらりと戦局が変わりました。これにより苦戦していた秀吉軍の中川、高山は一気に押し返し、動揺した光秀軍は総崩れ、光秀軍は敗走。約3時間の戦いでした。

勝竜寺城に退却する光秀を手助けするため、伊勢や松田が討ち死にし、光秀軍の死傷者は万を超え、甚大な被害を受けました。逃げ込んだ勝竜寺城は平城であるため、秀吉軍の追撃を防御できないと判断、密かに脱出し居城の坂本城を目指すことにしました。しかし、その途中の小栗栖の藪で土民の落ち武者狩りに遭い、全滅したとされています。こうして、わずか12日間にわたる明智光秀の天下が終わりました。

その後、秀吉は光秀の後詰めである明智秀満の軍や息子の明智光慶を自刃させ、京に入って近江を平定するなど、この勝利によって清洲会議で信長の後継者としての地位を固めたのです。

水攻めで造った堤防の謎

備中高松城を水攻めにした堤防は、高さ約7m、長さ約3km、基底部分の幅20m。その広さは東京ドーム40個分。わずか12日間で造られたと言われています。果たして、このような大規模な堤防を、短期間で造ることができたのでしょうか?

水攻めを考えたのは誰?

備中高松城本丸跡

備中高松城本丸跡

まず、この水攻めは誰が考えたのでしょうか?多く知られているのは秀吉ですが、考案したのは官兵衛です。備中高松城は、北側と東西の三方向が沼になっていて、南側は足守川。兵や馬が攻め入っても足が取られるなど機動性が悪くなるため、この特徴を守りに活かした立地でした。

この備中高松城に攻撃を仕掛けた秀吉ですが、2度失敗。このまま毛利氏の援軍が到着すると戦いを有利に進めることができないと考えた官兵衛は、地質調査を実施。足守川よりも備中高松城のほうが少しだけ低い位置にあることが分かったのです。そこで官兵衛は秀吉に水攻めを進言。信長に早急に落城するよう厳命を受けていた秀吉は、その奇策が成功するかどうか分かりませんでしたが、水攻めを採用。また、梅雨の時期であったことも手伝って足守川が増水し、備中高松城は陸の孤島になったのです。新たな戦法が成功した瞬間でした。

水攻めで造った堤防の規模

水攻めで造られた堤防ですが、その規模には2つの説があります。ひとつは定説となっている全長3kmの堤防工事を行なった説、もうひとつは後年の調査で300mの堤防工事で済んだ説です。

全長3kmの説は、秀吉との戦いの際、備中高松城に篭城した中島元行が後年に残した史料「中国兵乱記」に記述があります。それによれば足守川の東にある蛙ヵ鼻(かわずがはな)から続く全長3km、高さ約7mの堤防をわずか12日間で造成したとのこと。非常に高額な報酬を支払って士卒や農民らを集めて完成させたとあり、これが定説となっています。

しかし、1997年(平成9年)、県立高松農業高等学校の土木課が、周辺の土地の高低差を精密に調べたところ、自然堤防があることが分かったのです。つまり、この自然堤防が当時からあったことを考えると、蛙ヶ鼻と堤防との間の約300mに堤防を築くだけで、水攻めができたということになります。

なお、現在でも史蹟「高松城水攻め築堤跡」として堤防の一部が残っており、土俵の痕跡などを確認できます。

中国大返しの謎

毛利軍の撤退を確認後、光秀を討伐するため、約200kmの道のりを10日で踏破した秀吉。特に沼城から姫路城までの約70kmを2万以上の軍勢を率いて走り切ったことは、並大抵のことではありません。しかも暴風雨の中で行なわれたという記録があります。武具を身に着け、武器や食料を持った状態で舗装もされていないような道を、そのような短期間で走ることができたのでしょうか?

6月4日の撤退説

通説では秀吉の撤退は6日となっていますが、4日か5日であったという説があります。それというのも6月5日には沼城にいたことを証明する書状があるからです。それは、5日付けで秀吉が中川清秀に宛てた物で、すでに沼城まで引き返してきていることが記されているとのこと。そうであれば、4日に宗治が自刃した様子を見届けたあと、直ぐに出発し5日には沼城に到着していたことになります。また、8日付けで秀吉の重臣である若杉無心が細川藤孝に送った書状には、6日には姫路に入城したことが書かれているそうです。

この違いは、秀吉と毛利軍はそれほど敵対しておらず和睦もスムーズだったため、早くに備中高松城を出発することができたといったことや、秀吉は本能寺で何らかのことが起こるのをあらかじめ知っていたなどの仮説があります。このことは、史実を巡る様々な定説や仮説があり、歴史の面白さを知る出来事です。

日付 移動地域 移動距離
通説 別の説
6月6日 6月4日 備中高松城から沼城 約22km
6月7日 6月5~6日 沼城から姫路城 約70km
6月8日 6月7日 姫路城にて休憩
6月9日 6月8日 姫路城から明石 約35km
6月10日 6月9日 明石から兵庫 約18km
6月11日 6月10日 兵庫から尼崎 約26km
6月12日 6月11日 尼崎から富田 約23km
6月13日 6月12日 富田から山崎 約6km
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