室町時代
桶狭間の戦い
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1560年(永禄3年)5月19日、日本の歴史を動かす大きな合戦が起こりました。「桶狭間の戦い」です。27歳の織田信長が4,000人ばかりの兵を味方に、2万5千人もの今川義元軍に戦いを挑み、勝利しました。その歴史的な合戦には、世代を通じて胸が熱くなるドラマがあります。このような歴史的瞬間が今もなお語り継がれるのは、それを記録する人物がいたからです。その人物の名は「大田牛一」(おおたぎゅういち)。彼は、織田信長の家臣でした。最も身近な距離で、織田信長を知ることができた人物が書きつづった記録「信長公記」。織田信長が天下統一への切符を手に入れた軌跡と今川義元の敗因はどのようなものだったのでしょうか。今、「信長公記」によって桶狭間の戦いの全貌が明かされます。

なぜ、桶狭間の戦いは起こったのか?

今川義元

今川義元

そもそも、なぜ桶狭間の戦いが起こったのか。それを知るためには、国の構造を知る必要があります。まず、駿河の大名だった今川義元。今川義元は、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と同盟関係にありました。これを「甲・相・駿三国同盟」と呼びます。さらに、北には越後の上杉謙信がいました。

今川義元が「尾張を攻めよう」と考えるきっかけになったのは、織田信長の父である織田信秀の死です。これにより家督を受け継いだ信長ですが、家督を受け継いだ当時はまだ名もなき一国の領主。当時の今川義元にとっては「赤子の手をひねるようなもの」と考えていたのでしょう。今川義元はじわじわと尾張に近づいていきました。

そして、1560年(永禄3年)5月19日、ついに尾張を手に入れるため今川義元が動いたのです。これが、のちに桶狭間の戦いと呼ばれる歴史的合戦となります。

もはや勝ち目はないとされていた織田信長

桶狭間の戦いで、織田信長の率いる軍が勝つことは想定外のことでした。

どのくらい想定外なことだったのか、その勝ち目がないとされていた理由として、①身分の差、②経験の差、③兵力の差の3つが挙げられます。

①身分の差

織田信長

織田信長

織田信長は1534年(天文3年)に、尾張勝幡城で生まれ、那古野城で育ちました。「城で生まれた」というフレーズから、信長は織田家の血筋を引く者だと思う人は多いのですが、実はそうではありません。この頃、織田信長の父・信秀は、尾張の南半分を支配していた織田大和守家に仕える「清須三奉行」の中のひとり。このような立場から、信秀は次々に勢力を伸ばし、尾張の領主になりました。その後、信長17歳のときに信秀から家督を継ぎ、信長が尾張の領主となったのです。

一方、今川義元は室町幕府将軍・足利家と血縁関係で、駿河の大名でした。さらに、三河と遠江の3国を合わせ持ち、70万石を治めていました。つまり、血筋にも身分にも相当な差があったのです。

②経験の差

織田信長は、17歳の頃に家督を継いで尾張の領主となりましたが、尾張統一とは呼べない程、国は不安定でした。そのため、8年の歳月をかけて真の尾張統一を果たします。

一方、今川義元は41歳。「東海一の弓取り」と言われており、三河・遠江と着実に国を治めていました。さらに、文武両道に優れており、弱体化した室町幕府を支え天下に号令できる人物であると注目されています。このように、織田信長は今川義元と経験の差においても歴然としていました。

③兵力の差

今川義元が3国を治めているのに対し、尾張1国を治めているのみの織田信長。軍事力においても勝ち目はありませんでした。実際に今川義元の軍は、織田軍の10倍もの兵力だったと言われています。このような兵力の違いから、桶狭間の戦いの際には、今川義元側に寝返った武将も多くいました。

桶狭間の戦いの始まり ~隣国尾張への進出を決めた今川義元~

桶狭間の戦いで、まず始めに動いたのは今川義元。隣国・尾張への進出を図ります。

今川義元が攻めてきたとなれば、織田軍側に付いていた武将も恐れ、次々に今川軍に寝返りました。

このとき、織田軍の国境に位置する2つの城が今川軍の手に渡り、尾張は危機的状況に。2万5,000の今川軍は、織田軍のすぐ近くまで迫っていました。

狙うは今川義元の首ひとつ!戦略家・織田信長の遠隔攻撃とは?

追い込まれた織田信長は、戦略家とのちに語られる一手を考えます。その作戦とは、今川軍を惑わせる遠隔操作。このような危機的状況でも織田信長は決して諦めてはいませんでした。さて、敵を惑わせる遠隔操作とはどのような物だったのでしょうか。

手紙で今川義元を操る

まずは、今川方へ寝返った武将達の筆跡を真似て、偽の手紙を作りました。内容は、織田方と信長の動きを今川方に伝える物。これは、わざと今川義元の手に渡るように仕組まれていました。一見すると寝返った武将が内通者となり、今川義元を喜ばせている手紙のように見えます。

しかし、どうでしょう、今川方に寝返ったはずの武将が、寝返ったあとの織田方の動きを知っているのです。実は、この手紙の目的は今川義元を混乱させるためにありました。「あの武将達は、織田とつながっているのではないか」という疑心暗鬼を、植え付けるための手紙だったのです。

疑心暗鬼に陥った今川義元は、織田方から寝返った武将を切腹させました。これにより、織田方にとっての裏切り者は抹殺されたことになります。織田信長は、手紙のみで今川義元を操ったのです。

内通者による情報操作

1560年(永禄3年)5月12日、今川義元は織田方を一気に攻め潰そうと進軍を開始。桶狭間の戦いが起こる7日前のことです。今川義元の率いる軍は2万5,000、対する織田方は4,000、もはや勝ち目はないと思われていました。じわじわと迫る、今川方。しかし、このような状況においても信長は冷静でした。迫る今川方の動きを把握していたからです。

動きが把握できていたことは「信長公記」に書き記されています。信長側から書かれているはずの信長公記に今川方の作戦が明確に記されていたということは、今川方に内通者がいたことに他なりません。今川義元の作戦は、すでに織田信長の手にあったことになります。

桶狭間の合戦の前夜 ~家来を帰した信長~

桶狭間の合戦前夜、織田信長はこのような大切な日にもかかわらず家臣を家に帰しました。これは家臣の中に内通者がいることを警戒してのことです。家臣が帰ったあと、「信長公記」によると織田信長は能を謡い舞ったことが記されています。

「人間五十年、下天のうちを比べれば夢幻の如くなり」

これは、織田信長の十八番、人の世の儚さを謡った能・「敦盛」の一節です。この一節だけを見ると、信長が死も覚悟していたようにも思えますが、真相は本人にしか分かりません。

ときは来たり!いざ桶狭間の合戦 ~狙うは今川義元ただ1人~

桶狭間の戦い

桶狭間の戦い

1560年(永禄3年)5月19日の午前3時、今川軍は織田方の砦へ攻撃を開始。これは、前日に今川方で練られた作戦通りの行動でした。そのとき、織田方の兵力は1,000足らず。もはや勝ち目はないと思われました。

しかし、これは織田方の作戦。そのときに攻められた砦は、大高城でしたが、そこに今川方の兵が集中しすぎました。そのため、今川義元に付いていた兵は、手薄になっていました。

これが、織田信長の真の狙いでした。2万5,000の兵が相手なら、いくら織田信長でも勝てません。しかし、兵力が分散されたなら、話は別。「狙うは今川義元ただ1人」と、今川義元に狙いを定めるチャンスが訪れつつあったのです。

今川義元の首を討ち取ったり! ~桶狭間山にて今川義元を狙う~

1560年(永禄3年)5月19日の午前4時、織田信長出陣のとき。織田信長は先頭を切って清洲城を飛び出したことが「信長公記」に記されています。あとに続いた軍勢はわずか5人。織田信長は今川義元を探すため、ある作戦を立てていました。

信長に続いた軍勢は5人でしたが、実はその他にもいくつかの集団に分かれて城を出発しています。向かうは清洲城の南に位置する熱田神宮。午前8時、織田信長と付きしたがった武者達が熱田神宮に到着、その他の軍勢も次々に到着しました。熱田神宮に集まった軍勢は約1,000人。織田信長は今川方に自分達の動きを知られないように、兵を細かく分散させ、熱田神宮に集結させたのです。織田信長はここで、今川義元がどこにいるのか探らせました。さて、今川義元はどこにいるのでしょうか。

今川方の動向は?

織田方が熱田神宮に集結し今川方の動向を探る一方、今川義元は沓掛城を出発。織田方の領内へさらに深く駒を進めていました。その進軍中、織田信長が熱田神宮を出発、向かうは善照寺砦です。善照寺砦と沓掛城は目と鼻の先でした。善照寺砦へ向かう頃、織田信長の軍は徐々に兵力を伸ばし3,000人以上に。織田方へさらに深く駒を進めていた今川方は、織田方の砦を2つ攻め落としています。この時点では、勢力範囲を広げている今川方が有利。この一報は、織田信長の耳にも伝えられました。

今川方は、2万5,000の兵のうち、織田方の砦を攻めるのに1万、後方の守りなどに1万をあてています。そのため、今川義元に付いている兵は5,000程。今川義元のみを狙っていた織田方にとってはとても有利な状況となっていました。

今川義元に付いている5,000の兵をさらに減らす信長の作戦

今川義元の周りにいる5,000の兵。織田信長が主将の首を取るには、その5,000の兵を分散させる必要がありました。そして、ある策を実行に移したのです。「信長公記」に記されていたその策は驚くような戦法でした。なんと、織田信長の抱えていた3,000の兵のうち300を今川軍に突入させたのです。

これにより、50騎あまりが討ち死にしたことが「信長公記」に記されています。信長は300の兵をおとりにし、今川義元に付いている兵をそちらに引き寄せ、義元の周囲を手薄にしたのです。

今川義元を桶狭間で発見!

1560年(永禄3年)5月19日の正午頃、今川義元は手薄になった兵を引き連れて桶狭間に到着。300人の織田兵を撃退し、織田方の砦を2つ攻め落としたことに満足していた義元は、桶狭間で休憩を取り、酒を飲んでいました。その一報は、即座に織田信長の耳に。それを伝えたのは、今川方の兵と見せかけて織田信長に付いていた内通者でした。とうとう、織田信長は計算どおりの戦略で今川義元の居場所を突き止めたのです。

目指すは桶狭間山!織田信長が実行させた最後の作戦とは?

桶狭間は文字通り「狭間=谷」だと推測されていましたが、実は「山」。これは「信長公記」にも記されています。今川義元が討ち取られた場所は「桶狭間山」でした。今川義元を討ち取るために、織田信長は最後の作戦を実行させます。その作戦とは、善照寺砦にたくさんの「のぼり」を立てること。善照寺砦と桶狭間は目と鼻の先にありました。

そのため、桶狭間から見ると、織田軍がそこにいるように錯覚させることができます。これが、織田信長の最後の作戦。これにより、織田信長は今川義元に悟られることなく、桶狭間へ駒を進めることに成功しました。

今川義元の最後 ~討ち取ったり!義元の首~

さあ、桶狭間の戦いが始まります。今川義元がいる場所は山。山の天辺(てっぺん)から下は丸見えです。

そのとき、天は織田信長に味方しました。黒い雲が桶狭間山の周辺を覆ったのです。これは、織田信長にとって好転機。周りが暗くなることで、山の天辺から織田軍が見えにくくなります。「いざ出陣!」織田信長が今川義元の本陣に向けて動き出しました。

雨が降り出し、それが強くなってきた頃、今川軍は雨にぬれることを嫌い散り散りに。これにより、今川義元の兵はさらに手薄になっていました。そのときです。織田軍が今川軍に襲い掛かりました。敵は善照寺砦にいるとばかり思っていた今川軍は突然のことに大混乱となりました。

織田信長軍のひとり「毛利新介」が乱闘の間をすり抜け、義元のもとに猛進。「狙うは今川義元の首ひとつ」と信長は兵の全員に伝えていました。「今川義元、討ち取ったり」。今川義元はついに、尾張の織田信長に敗れました。これが、桶狭間の戦いの全貌です。

義元左文字は織田信長のコレクション?

織田信長にとって桶狭間の戦いは特別な物。それが分かる名刀が京都市北区の建勲神社(たけいさおじんじゃ)に残っています。

「義元左文字」(よしもとさもんじ)。これは桶狭間の戦いで今川義元が身に付けていた名刀です。義元左文字は、建勲神社蔵の重要文化財として保管されています。

義元左文字の銘を刻んだ人物とは?

今川義元が持っていた名刀・義元左文字には、2種類の銘が刻まれています。まずひとつめは「織田尾張守信長」と刻まれた金の銘(金象嵌)。そして2つめの銘は「永禄三年五月十九日 義元討刻彼所持刀」です。実は、この銘を刻んだのは織田信長。桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った瞬間から、織田信長は義元左文字を大切に持っていました。

織田信長は大層な日本刀(刀剣)コレクターでした。その中で、織田信長が2種類もの銘を刻んだのは義元左文字のみ。義元左文字に刻んだ銘は信長の喜びそのものです。さらに、信長は義元左文字を短く磨り持ち歩けるようにしています。

信長が「本能寺の変」で亡くなったあと、義元左文字は豊臣秀吉の手に渡りました。秀吉が亡くなったあとは徳川家康が所有し、今は建勲神社蔵の重要文化財として保管されています。

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