東海・北陸地方の戦国大名

明智家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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明智家は、南北朝時代に興り戦国時代には戦国大名として活躍した一族です。「織田信長」に対する謀反「本能寺の変」を起こした「明智光秀」(あけちみつひで)でよく知られる明智家。今回は明智家の出自や、本能寺の変の裏側と主君に反旗を翻した明智光秀に付き従った家臣達、明智家ゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)についてご紹介します。

明智家の来歴

明智家の家紋「桔梗」

明智家の家紋「桔梗」

明智家の祖は、南北朝時代の武将「明智頼重」(あけちよりしげ)。明智頼重は、「源頼朝」などと同じ「清和源氏」(せいわげんじ)の一族・土岐家の生まれで、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)の守護(将軍から地域の監督権を許された役職)の初代となった「土岐頼貞」(ときよりさだ)の孫に当たります。

明智家は、1342年(康永元年)に築城された明智城(岐阜県可児市)を代々継承し、明智光秀もこの城で生まれたとも言われています。室町時代には「奉公衆」(ほうこうしゅう)と呼ばれる将軍直属の武装勢力として、室町幕府に仕えていました。

しかし、1541年(天文10年)に下剋上を果たした「斎藤道三」(さいとうどうさん)が土岐家を退け美濃国の実権を握ると、明智家は生き残りを図り斎藤家の傘下へ。斎藤家の後継をめぐって、斎藤道三とその長男「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)が争った際には明智家は斎藤道三側に付きます。

しかし1556年(弘治2年)、斎藤道三が敗北し討死すると、斎藤道三に味方した明智家も斎藤義龍によって攻められ、総崩れとなって美濃国から撤退を余儀なくされるのです。

明智光秀の登場と織田家への仕官

明智光秀

明智光秀

斎藤義龍によって壊滅的な打撃を受けた明智家ですが、散り散りになった一族のひとりが、明智光秀でした。

明智光秀は越前国(えちぜんのくに:現在の福井県嶺北地方)の朝倉家に仕えたのち、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)の暗殺を機に越前国に逃げ延びてきた「足利義昭」(あしかがよしあき)の家臣となります。

その後1568年(永禄11年)、足利義昭の将軍擁立を織田信長に促すため仲介役を担いました。そこから織田信長へ仕えることとなり、織田信長と朝倉義景が争った金ヶ崎の戦いの撤退戦や、織田信長に従わない比叡山延暦寺を襲った比叡山焼き討ちで功績を挙げていきます。

織田信長家臣の中で頭角を現した明智光秀は、1575年(天正3年)には織田信長の意向で「惟任」(これとう)の姓を朝廷から賜るほど。その後も「武田勝頼」(たけだかつより)との長篠の戦いや、丹波国(たんばのくに:現在の京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)の攻略・平定を成し遂げ、さらに織田信長の信頼を得ていきました。

明智光秀のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

本能寺の変と明智光秀の最期

本能寺の変

本能寺の変

1582年(天正10年)、明智光秀は突如として蜂起。本能寺の変を起こします。

織田信長から、中国地方の攻略を続けていた「豊臣秀吉」の支援を命じられた明智光秀は、中国地方に出陣すると見せかけ織田信長の宿泊する本能寺(京都府京都市)を急襲。織田信長を自害に追い込み目的を果たします。

謀反を起こすことは、明智光秀が前日に相談した「明智秀満」(あけちひでみつ)や「斎藤利三」(さいとうとしみつ)など一部の家臣のみが知っており、従軍していた兵士などは最後まで知らされなかったとされます。

本能寺で織田信長を討った明智光秀は、二条御所にいた織田信長の長男であり織田家当主「織田信忠」(おだのぶただ)も襲い、自害させています。しかし本能寺の変の知らせを聞いた豊臣秀吉が、「中国大返し」とも呼ばれる、10日間で200kmを進軍する強行軍で帰還。明智光秀は山崎の戦いで豊臣秀吉軍と衝突するも、兵力で上回る豊臣秀吉軍に敗北してしまいます。その場は逃げ延びる明智光秀ですが、明智光秀が居城としていた坂本城滋賀県大津市)への敗走中に落ち武者狩りの百姓から致命傷を受け、自害しました。

その後、明智秀満など明智家の有力な武将達も自害するなど一族は衰退。大名としての明智家は、わずか13日にして滅ぶこととなりました。のちに「三日天下」の語源となっています。

日本史史上でも有数の裏切り者とされる明智光秀。明智光秀が謀反を起こした理由は、「織田信長への怨恨が原因」と言う説や「天下統一の野望を持っていた」とする説、「朝廷や将軍、徳川家、豊臣秀吉などが黒幕として存在した」説など、当時から現在に至るまで数多くの説が提唱されていますが、いまだ断定されていません。前半生から最期に至るまで、謎多き明智光秀の存在は、人々の心を掴み続けています。

明智家ゆかりの刀剣・甲冑

明智家ゆかりの刀剣甲冑(鎧兜)をご紹介します。

刀剣

津田遠江長光(つだとおとうみながみつ)
津田遠江長光は、明智光秀が本能寺の変の際に獲得した日本刀です。

もとは織田信長が所有していましたが、本能寺の変で明智光秀が安土城より奪取。明智光秀の死後は家臣の「津田重久」(つだしげひさ)が所持したため、この名が付けられました。

その後、津田重久が仕えた前田家に渡り、前田家から5代将軍「徳川綱吉」に献上されています。

現在は国宝として、徳川美術館愛知県名古屋市)に収蔵されています。

津田遠江長光

津田遠江長光

切刃貞宗(きりはさだむね)
切刃貞宗は、明智光秀が所有していた日本刀です。

明智光秀から「細川忠興」(ほそかわただおき)を通じ豊臣家へと渡り、大坂冬の陣・夏の陣後に徳川家が所有しました。

現在は重要文化財に指定され、香川県立ミュージアム香川県高松市)に収蔵されています。

切刃貞宗

切刃貞宗

甲冑

紅糸縅本小札二枚胴具足(べにいとおどしほんこざねにまいどうぐそく)
紅糸縅本小札二枚胴具足は、明智光秀が所用していた物を家臣に贈った甲冑(鎧兜)です。一時的に明智光秀の家臣として仕えていた「木俣守勝」(きまたもりかつ)が、「徳川家康」のもとへ帰参する際に明智光秀から贈られたと言われています。

現在は、井伊美術館(京都府京都市)に寄託調査品として収蔵されています。

南蛮胴具足(なんばんどうぐそく)
南蛮胴具足

南蛮胴具足

南蛮胴具足は、明智光秀が所用していた甲冑(鎧兜)。は兎耳を立て正面に半月の前立(兜前部の飾り)が付き、胸に「天」の文字、背中に富士山を打ち出した特徴的な外観を有します。

現在は、東京国立博物館東京都台東区)に収蔵されています。

明智家を支えた家臣

明智秀満(あけちひでみつ)
明智秀満は、明智光秀の親族であり家臣として仕えた武将です。明智光秀が織田信長に謀反を起こすか悩んだ際、最初に相談した人物とされ、その場では明智秀満は明智光秀に思い留まるよう進言しました。その後、明智光秀が他の家臣4人を集めて相談した際も同様の進言を受けたため、明智光秀は謀反を思い留まろうとします。

しかしそれを聞いた明智秀満は、複数の家臣に話したことで織田信長に伝わり処罰を受けることは時間の問題だと判断し、一転して明智光秀に決行を求めたことで本能寺の変が起きたと言われています。本能寺の変に参加した明智秀満は、明智光秀の討死の知らせを聞いたのち、明智光秀の居城・坂本城で自害しました。

斎藤利三(さいとうとしみつ)
斎藤利三は、美濃斎藤家出身の明智光秀の家臣です。斎藤利三は、本能寺の変でも明智光秀から事前の相談を受けるなど、重臣として仕えていました。謀反に反対したものの、実行が決まると明智光秀に従い参加した斎藤利三。豊臣秀吉と戦った山崎の戦いに敗れたのち、斎藤利三は逃げ延びようとしますが捕らえられ、処刑。その首は明智光秀とともに本能寺で晒されました。

斎藤利三の娘「春日局」(かすがのつぼね)は、江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の乳母として公務を取り仕切り、将軍の正室「大奥」が権力を持つ礎を築きました。

細川ガラシャ(ほそかわがらしゃ)
細川ガラシャ

細川ガラシャ

細川ガラシャは、明智光秀の三女でキリシタンとして有名な女性です。ガラシャはもとの名前を「珠」(たま)と言い、細川忠興の正室となりますが、嫁いだのちに明智光秀が本能寺の変を起こしたため、娘であるガラシャも細川家で幽閉されてしまいます。

幽閉中に侍女(身の回りの世話をする女性)を通じてキリスト教を知り、幽閉を解かれてからもキリスト教の教えを受けるようになり入信。洗礼名「ガラシャ」を授かります。豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出しキリスト教を弾圧してからも信仰を捨てることはありませんでした。

しかし1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの味方を集めるため「石田三成」(いしだみつなり)が諸侯の正室を人質に取ろうとしたところ、人質になることを拒んだガラシャは自ら死を選び、細川忠興の家臣の手を借り自決。ガラシャの自決に驚いた石田三成は、人質を取る作戦を断念しました。

明智光秀ゆかりの地と共に、明智光秀の誕生から最後までを歴史年表にしてまとめました。

明智家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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