東海・北陸地方の戦国大名

土岐家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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美濃国(現在の岐阜県)で11代に亘って、守護を務めた土岐家。室町時代には、「清和源氏」(せいわげんじ)の嫡流として栄華を誇りますが、戦国時代には下剋上の波にのまれ、没落してしまいます。土岐家として最後に美濃国守護を務めた「土岐頼芸」(ときよりのり)は、土岐家宗家を弟で常陸国(現在の茨城県)「江戸崎城」(えどさきじょう)の城主「土岐治頼」(ときはるより)に譲ることで、一族滅亡を免れたのです。土岐家の歴史、そして全国に分派した土岐一族についてもご紹介します。

土岐家の出自

土岐家の家紋「桔梗」

土岐家の家紋「桔梗」

土岐家は、第56代天皇「清和天皇」(せいわてんのう)を祖とする「清和源氏」(せいわげんじ)の嫡流であり、武勇に優れた「源頼光」(みなもとのよりみつ)の末裔が美濃国土岐郡内(現在の岐阜県)に住み、「土岐」を称したのが始まりとされています。

室町幕府初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)にしたがい、武功を挙げて美濃国守護となりました。

南北朝時代には、土岐家の家紋「桔梗」(ききょう)を冠して足利方として活躍。一時期は、美濃国、尾張国(現在の愛知県)、伊勢国(現在の三重県)の3地域の守護を担うほど栄華を誇ったのです。

しかし、「土岐康行」(ときやすゆき)の頃、土岐家の分断を図った「足利義満」(あしかがよしみつ)に敗北し、尾張国と伊勢国の守護職を失います。そののち、11代に亘り美濃国守護を務めるなど、東海地域の名門として繁栄しますが、戦国時代に美濃国守護を務めた「土岐頼芸」(ときよりのり)が、守護代の「斎藤道三」(さいとうどうさん)に敗北。美濃国の土岐家は没落してしまいました。

全国に広がる土岐家一族

明智光秀

明智光秀

美濃国の土岐家は没落してしまいますが、一族は全国に広がっており、戦国時代以降、多くの人物が歴史に名を残しています。

例えば、1582年(天正10年)に、「織田信長」への謀反として有名な歴史的事件「本能寺の変」の首謀者「明智光秀」(あけちみつひで)や、「豊臣秀吉」から重用された「浅野長政」(あさのながまさ)、「徳川家康」に仕え、上野国(現在の群馬県)沼田藩藩主となった「土岐定正」(ときさだまさ)などは土岐家の庶流。

浅野家や沼田土岐家は、江戸時代には大名家や旗本として存続しました。また、土岐家の庶流は全国に広がっており、墓所や記念碑が各地に残されています。

下剋上で国を追われた最後の美濃国守護

土岐頼武

土岐頼武

1501年(文亀元年)、美濃国守護「土岐政房」(ときまさふさ)の次男として誕生した土岐頼芸。

土岐政房の嫡男は、土岐頼芸の2歳年上の実兄「土岐頼武」(ときよりたけ)ですが、土岐頼芸は実兄の土岐頼武と長年に亘り守護職の座を巡って争います。

しかし、兄との抗争に敗れ、1519年(永正16年)に、父の土岐政房が亡くなると兄の土岐頼武が美濃国守護に就任。

不遇のときを過ごした土岐頼芸ですが、そののち、土岐家の重臣「長井長弘」(ながいながひろ)らが、土岐頼芸を擁立し、再度守護職の座を求めて挙兵します。土岐頼芸を支えた家臣のなかには、のちに「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三の父「西村新左衛門尉」(にしむらしんざえもんのじょう:のちに長井新左衛門尉)も含まれていました。

1530年(享禄3年)、長期間に亘った兄との戦いに勝利した土岐頼芸は、遂に土岐頼武を追放。1536年(天文5年)には、室町幕府からも正式な美濃守護として認められました。土岐頼芸は、守護の座を獲得するために貢献した長井氏や西村新左衛門尉を信用し、重用するようになったのです。そして、西村新左衛門尉の息子・斎藤道三を守護代に命じます。

しかし、時は下剋上の時代。自らが兄を追放したように、土岐頼芸自身もまた、重臣であるはずの斎藤道三からたびたび攻撃を受け、遂には美濃国を追放されてしまったのです。1552年(天文21年)、美濃国守護として11代続いた土岐家は、土岐頼芸を最後に没落しました。

美濃国を追われた土岐頼芸は、常陸国(現在の茨城県)「江戸崎城」(えどさきじょう:現在の茨城県稲敷市)城主で、実の弟「土岐治頼」(ときはるより)のもとへ身を寄せます。土岐頼芸は、土岐家の家宝や家系図などを、すべて土岐治頼に渡し、土岐家宗家の家督を譲ったのです。

そののちの足取りは、上総国(現在の千葉県)、「万喜城」(まんぎじょう:現在の千葉県いすみ市)城主「土岐為頼」(ときためより)や、近江国(現在の滋賀県)の六角氏など、血縁などを頼り、各地に寄宿したとも伝わります。

そして、武田氏が治めていた甲斐国(現在の山梨県)に滞在中の1582年(天正10年)、織田信長が武田氏を討伐。土岐頼芸は、織田信長に捕らえられて尾張国へ入り、そののち土岐氏の旧臣「稲葉一鉄」(いなばいってつ)の計らいで美濃国に帰還。稲葉一鉄が設けた寺「東春庵」(現在の法雲寺:岐阜県揖斐郡)で暮らし始めてまもなく、病気により81歳で没したのです。

土岐家が愛用した刀剣・甲冑

土岐家が愛用した刀剣甲冑をご紹介します。

刀剣

刀 無銘 伝志津(かたな むめい でんしづ)
斎藤道三に敗れた土岐頼芸ですが、自身も少年時代より何度も戦を重ねた戦国武将。そして、和歌にも通じ画才に優れ、特に鷹の絵を得意とした文化人の一面も持ち合わせていました。文武両道の土岐頼芸が佩用(はいよう:身に付けて用いること)したと伝わる刀が、美濃伝 無銘 伝志津」です。

美濃伝は、美濃国で南北朝時代に誕生し、戦国時代に繁栄した五箇伝(五ヵ伝、五ヶ伝)の一派で、「志津」とは、名匠「志津三郎兼氏」(しづさぶろうかねうじ)のこと。大和伝相州伝を加味し、新しい美濃伝を創始した刀工として知られています。

現在は重要美術品として、刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて所蔵しています。

刀 無銘 伝志津(土岐頼芸佩刀)
刀 無銘 伝志津(土岐頼芸佩刀)
無銘
鑑定区分
重要美術品
刃長
73.3
所蔵・伝来
土岐頼芸
(ときよりのり)→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

甲冑

鉄黒漆塗紺糸威桶側五枚胴具足(てつくろうるしぬりこんいとおどしおけがわごまいどうぐそく)
鉄黒漆塗紺糸威桶側五枚胴具足
鉄黒漆塗紺糸威桶側五枚胴具足

江戸時代の制作と推定される本甲冑は、土岐氏の血筋を思わせる陰桔梗紋(かげききょうもん)が入っており、名家伝来であることを偲ばせます。

「桔梗」の「吉」と「更」の字は、「更に吉」(さらにきち)と読めるため、縁起が良いと言う理由から家紋に用いられたのです。

鬼の角を思わせる、(かぶと)の脇立(わきだて)と前立(まえだて)が大きく目立ち、なんとも力強い雰囲気を醸し出しています。

また、本「紺糸縅二枚胴具足」は、当世具足(とうせいぐそく)に2枚胴という形式で、実戦的な造りを採った甲冑です。

「紺色」は、「褐色」(かちいろ)とも表記されることから、「勝色」(かついろ)として武家に重用されました。

現在は、特別貴重資料として刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて所蔵しています。

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