「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、幕末期に「大政奉還」などの大胆な政策を実行した江戸幕府15代将軍です。徳川慶喜が「最後の将軍」であることは知っていても、その人物像までは深く知らない人も多いのではないでしょうか。また徳川慶喜は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が主人公のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)に、実父「徳川斉昭」(とくがわなりあき)と共に登場したことがきっかけとなり、にわかに注目を集める人物。そんな徳川慶喜について、徳川斉昭との関係を軸にして、その人となりをご紹介すると共に、徳川慶喜の愛刀「長巻 銘 備州長船住重真」についても解説します。
徳川斉昭
徳川斉昭による英才教育のなかでも、特に珍しかったのが「追鳥狩」(おいとりがり)。追鳥狩とは、山野でキジなどを「勢子」(せご/せこ)と呼ばれる雑兵達に追い立てさせ、銃や弓などを用いて仕留める狩猟のこと。
徳川斉昭は、これを大規模な軍事演習として行っていたのです。重い狩装束を着用しながら素早く動かなければならない大人でも大変な追鳥狩に、徳川斉昭はまだ7歳であった七郎麻呂を参加させました。
追鳥狩の訓練が何とか終了し、居城へと帰宅した七郎麻呂でしたが、安心して疲れが出たのか玄関の前で深い眠りに就いてしまいます。
このとき家臣達は、「草履を脱がずに寝てしまうとは、武士の風上にも置けない!」と、七郎麻呂が徳川斉昭から叱責を受けることを恐れましたが、この様子を見た徳川斉昭は、微笑みながら七郎麻呂を抱き上げたのです。
このように七郎麻呂は、徳川斉昭より厳しいながらも深い愛情を受けて成長していきました。
徳川慶喜
1847年(弘化4年)に徳川慶喜は、「徳川御三卿」のひとつ、「一橋徳川家」(ひとつばしとくがわけ)に養子として迎え入れられます。
その背景には、水戸徳川家から将軍を出すことを嘱望していた徳川斉昭の思惑があったのです。
ところが、徳川慶喜が将軍となるための道のりには、越えなければならない壁となる人物がいました。
それは、幕府の大老「井伊直弼」(いいなおすけ)。1853年(嘉永6年)「徳川家定」(とくがわいえさだ)が13代将軍に就任すると、「将軍継嗣問題」が浮上します。このとき徳川慶喜は、14代将軍候補のひとりに挙げられていました。しかし、井伊直弼の命により「徳川家茂」(とくがわいえもち)が次期将軍の座に就くことが決定したのです。
さらに井伊直弼は、「ペリー来航」を契機に迫られていた「日米修好通商条約」への調印を、1858年(安政5年)、勅許(ちょっきょ:天皇の許可)がないままに実行。このような井伊直弼の行動は、身勝手な専制政治であると非難の声が上がります。これを受け、継嗣問題を機に井伊直弼と対立していた徳川慶喜は、「江戸城」(東京都千代田区)を訪れ、井伊直弼を厳しく問いただしたのです。
そののち幕府は、反対派を弾圧するため、「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と呼ばれる処罰を決行。そのなかで1859年(安政6年)には、徳川慶喜にも謹慎処分が下りました。翌年に井伊直弼が没すると、謹慎を解かれた徳川慶喜は徳川家茂の後見役となり、様々な幕政改革を遂行します。
しかし、1866年(慶応2年)8月に徳川家茂が亡くなると、徳川慶喜は再び将軍候補に。当の本人は、最初は将軍職に興味を示してはいませんでしたが、当時の幕府は倒幕派の長州藩(現在の山口県)と薩摩藩(現在の鹿児島県)からの猛攻を受けていた状況。弱体化していく幕府を何とかしたいと考え直した徳川慶喜は、同年12月に15代将軍の座に就いたのです。
将軍に就任した徳川慶喜でしたが、このときには薩長軍の暗躍が幕府の手が届かないところにまで及んでいました。そのため徳川慶喜は、「徳川家」の滅亡だけは回避したいと、1867年(慶応3年)、統治権を朝廷に返上する「大政奉還」に踏み切ったのです。
その背景には、新政府の準備が整っていない現状では、再び自分が政権を握ることになるだろうという、徳川慶喜の意図があったからだと言われています。
しかし、薩長軍の勢いは日に日に増すばかり。1868年(慶応4年)に薩長率いる「新政府軍」と、徳川慶喜を総大将に据えた「旧幕府軍」との間で、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発したのです。このときに徳川慶喜は家臣達より、フランスから最新の武器を援助して貰う提案を受けましたが、これを却下。さらには新政府軍が「錦の御旗」(にしきのみはた)を掲げたことで、旧幕府軍は戦意喪失し敗北を喫することになります。
そののち徳川慶喜は、幕臣「勝海舟」に、薩摩藩士「西郷隆盛」との交渉を命じ、江戸城を新政府側に明け渡したのです。
江戸城開城に至るまでに取った徳川慶喜の行動は、以前には一部で「臆病者」と揶揄されていました。しかし現在では、フランスからの援助による外国の介入を阻止し、江戸城の開城を決断したことで100万人もの命を守った徳川慶喜は、名君であったと高く評価する声が上がっているのです。
弘道館内にある農人形
江戸城無血開城が実行された理由のひとつが、父・徳川斉昭が大切にしていた「農人形」から窺えます。
徳川斉昭は農民への感謝を忘れないようにするため、食事のたびに、この農人形に一箸(ひとはし)の白米を供えていたのです。
強烈な性格であったことで知られる徳川斉昭ですが、水戸藩主としては、「愛民専一」(あいみんせんいつ)を政治理念に掲げていました。
そんな父の思いを受け継いだ徳川慶喜だからこそ、江戸市中を火の海にすることのない、平和的な解決方法を選んだに違いありません。
そして、鳥羽・伏見の戦いのあと徳川慶喜は、「宝台院」(ほうだいいん:静岡市葵区)で謹慎していました。同合戦を含む「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が1869年(明治2年)に終結すると、謹慎処分は解除されましたが、宝台院のある駿府(すんぷ)にそのまま住み、写真などの趣味に没頭して余生を過ごしています。
そののち徳川慶喜は、1897年(明治30年)、東京の巣鴨(現在の東京都豊島区)に移住し、公爵(こうしゃく)に叙せられて「徳川慶喜家」を新たに創設。徳川慶喜は、1913年(大正2年)に亡くなりますが、4代当主「徳川慶朝」(とくがわよしとも)が2017年(平成29年)に没するまで、子孫達により、その嫡流が存続しました。
先反りの具合
本「長巻」(ながまき)は、二本松藩(現在の福島県二本松市)の100,000石藩主「丹羽家」に伝来した1振。徳川家に献上され、徳川慶喜が愛刀として用いていました。
「薙刀」(なぎなた)と似た姿の長巻ですが、両者の間には、刀身の長さや先反り(さきぞり)の具合などに違いが見られます。一般的に先反りが深い薙刀と比べて長巻は、先反りが浅く寸法が長いことが特徴。
刀身を長い柄(つか)の先端に装着する際、柄の部分を補強するために麻紐などで長く巻き締めたことから、長巻と呼ばれるようになりました。
本長巻は、鎌倉時代後期から南北朝時代中期頃まで活躍した、「長船派」(おさふねは)の刀工「重真」(しげざね)による作刀。重真は「元重」(もとしげ)の弟として、その代作を務めていたほど高い技量を持つ名工です。
本長巻の姿は身幅(みはば)が広く、地鉄(じがね)は板目肌に杢目肌(もくめはだ)が交じる、「備前伝」特有の鍛肌になっています。さらに刃文は、中直刃(ちゅうすぐは)を基調として、匂(におい)深く小沸(こにえ)が付くのも特徴。作刀当時の姿のまま現在にまで伝わっている本長巻は、資料的価値が高い作品です。