徳川家を支えた武将

徳川御三卿

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「徳川御三卿」とは、徳川将軍家から分立した3家「田安徳川家」、「一橋徳川家」、「清水徳川家」のこと。江戸時代に300以上あった藩のなかでも最高位に位置付けられていた「徳川御三家」と似た役割を持っていながらも、徳川御三家とは異なる特徴がありました。徳川御三卿の特徴や徳川御三家との違い、ゆかりのある名刀をご紹介します。

徳川十五代将軍徳川十五代将軍
江戸時代を語る上で欠かせない徳川十五代将軍の姿を紐解きます。

徳川御三卿とは

徳川御三卿の特徴

徳川吉宗

徳川吉宗

「徳川御三卿」は「徳川御三家」のひとつ「紀州徳川家」5代藩主で、のちに江戸幕府8代将軍となった「徳川吉宗」の子、及び孫が創生した「田安徳川家」、「一橋徳川家」、「清水徳川家」のことです。

徳川将軍家の血筋が、江戸幕府初代将軍「徳川家康」よりも遠縁になったことを危惧したため、創生されたと言われています。

徳川御三卿の役割は、徳川将軍家や徳川御三家に後継ぎが生まれなかった際に、後継者を提供することです。

はじめに作られたのは、田安徳川家と一橋徳川家。徳川御三家と異なり、創始されてから明治時代になるまで藩を持たずに江戸城内の屋敷で暮らしていました。そのため、藩政を行なうことはなく、また将軍家の補佐などの役割も与えられなかったことから、実質的に職務は何もなかったと言われています。

その一方で、老中や大老より上の地位を得ていたため、幕政の黒幕として将軍の後継者争いに大きな影響を与えました。

徳川御三家と徳川御三卿の違い

徳川御三卿と徳川御三家の違いは主に「藩の有無」、「当主の有無」、「養子の提供」の3つです。

  1. 藩の有無

    徳川御三家は、徳川将軍家から独立して藩主となりました。一方で、徳川御三卿は1745年(延享2年)に創設されてから1868年(明治元年)まで、幕府から与えられた江戸城内の屋敷で生活し、与えられた領地は幕府が経営した他、御三卿に仕える家臣団も幕臣が務めていたと言います。ひとつの大名家ではなく、あくまで徳川将軍家の家族や親戚という立場だったため、こうした体制でも問題はありませんでした。

  2. 当主の有無

    藩主が不在となった家は、改易されるのが一般的です。一方で、御三卿の第一の目的はその血筋を残すことであるため、当主が不在となっても家の存続が認められていました。当主不在の状態を「明屋敷」(あけやしき)と言い、3家のなかには20年の間、明屋敷となった家もあります。

  3. 養子の提供

    徳川御三家でも、養子を他家へ提供することは行なわれていましたが、徳川御三卿の方がより多くの養子を出していました。それが御三卿の当主であっても、養子先の相続が優先されていたのです。

    特に、御三卿のひとつ、一橋徳川家は外様大名や親藩(しんぱん:徳川家康の子孫が始祖となった藩)などにも多くの養子を提供したため、一時は一橋徳川家の始祖「徳川宗尹」(とくがわむねただ)の血筋が各家の当主を独占しました。

田安徳川家

田安徳川家の変遷

徳川宗武

徳川宗武

田安徳川家は、徳川吉宗の次男「徳川宗武」(とくがわむねたけ)を家祖とする家系。

家名の由来は、江戸城の「田安門」の内側に屋敷が構えられたため。

徳川宗武は、15名の子に恵まれましたが、長男から四男までの男子は短命だったため、五男の「徳川治察」(とくがわはるさと/とくがわはるあき)が家督を相続しますが、徳川治察は妻子を持たないうちに病没。

このとき、徳川宗武の七男「賢丸」(まさまる)のちの「松平定信」(まつだいらさだのぶ)が後継者候補に挙がりましたが、賢丸は白河藩(現在の福島県白河市)の「久松松平家」へ養子に行くことが決まっていたため、田安徳川家はわずか2代で徳川宗武の血筋が途絶えてしまいました。

そののち、徳川宗武の正室「宝蓮院」(ほうれんいん)が3代当主の代行として就任。そして、4代当主に一橋徳川家から11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)の異母弟となる「徳川斉匡」(とくがわなりまさ)を迎えたことで、田安徳川家は御三卿のなかで唯一、幕末時代まで徳川吉宗の子孫が当主となった家柄となりました。

田安徳川家出身の著名な人物

松平定信
松平定信は徳川宗武の七男で、のちに陸奥国白河藩・久松松平家の養子に出され、白河藩3代藩主となった大名・老中です。

「寛政の改革」を行なった人物として知られており、老中としての評価は賛否両論ありますが、江戸時代最大規模の飢饉「天明の大飢饉」の際には、藩政の立て直しと領民救済に尽力し、領内からは餓死者をひとりも出さなかったことで、藩主としては高く評価されています。

松平春嶽(松平慶永)
「松平春嶽/松平慶永」(まつだいらしゅんがく/まつだいらよしなが)は、徳川斉匡の八男で、越前国福井藩「越前松平家」へ養子に出されて、福井藩16代藩主となった大名・政治家です。

「幕末の四賢侯」(ばくまつのしけんこう:幕末時代に活躍した4名の偉人)のひとりであり、西洋から「セイヨウリンゴ」をはじめて日本へ輸入したことから「りんごの父」とも呼ばれています。

現在、市場に出回っているりんごは、当時アメリカから輸入されたセイヨウリンゴを品種改良して作られました。なお、青森県は松平春嶽が弘前藩(現在の青森県弘前市)へりんごの栽培を勧めたことから、りんごの名産地になったと言われています。

一橋徳川家

一橋徳川家の変遷

一橋徳川家は、徳川吉宗の四男・徳川宗尹を家祖とする家系。家名の由来は、江戸城の「一ツ橋門」の内側に屋敷が構えられたため。

徳川御三卿のなかで唯一、2名の将軍を輩出したことで知られています。また、多くの養子を他家へ提供したことで、御三卿のなかでも特に広い範囲でその血筋が広まりましたが、一橋徳川家の当主となった徳川宗尹の子はいずれも短命であったため、一橋徳川家には徳川宗尹の子孫は残りませんでした。

一方で、養子先の田安徳川家では徳川宗尹の子孫が残り、徳川宗家を相続しています。なお、一橋徳川家は当主として「尾張徳川家」や「水戸徳川家」などから養子を迎え入れたことがかえって功を奏し、将軍を輩出した家系となりました。

一橋徳川家出身の著名な人物

徳川家斉
徳川家斉

徳川家斉

徳川家斉は、一橋徳川家2代当主「徳川治済」(とくがわはるさだ)の長男で、のちに10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)の養子に迎えられたあと、11代将軍になりました。

歴代将軍のなかで最も在任期間が長く、また53人(55人とも言われる)の子を作ったことで知られています。

徳川家斉は、初代将軍・徳川家康と2代将軍「徳川秀忠」を除いて「太政大臣」に任じられた唯一の将軍です。徳川家康と徳川秀忠は、豊臣政権下で高位高官となっていた諸大名との格差を作るために太政大臣となりましたが、徳川家斉は在任期間が40年を超えたことから特例として太政大臣に任じられました。

徳川慶喜
徳川慶喜

徳川慶喜

徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、水戸藩9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男で、のちに一橋徳川家9代当主となり、そののち15代将軍となった人物です。

水戸藩の出身ですが水戸藩主には就任していないため、一橋徳川家から輩出した将軍と見なされています。

徳川慶喜は大政奉還を行ない、「勝海舟」に「江戸無血開城」を実行させたことで知られており、「大隈重信」からは「徳川慶喜がいなければ、明治維新は成功していなかっただろう」と評され、また「日本資本主義の父」と称される「渋沢栄一」からは「明治維新最大の功労者のひとり」と評価されました。

清水徳川家

清水徳川家の変遷

徳川家重

徳川家重

清水徳川家は、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ:徳川吉宗の長男)の二男「徳川重好」(とくがわしげよし)を家祖とする家系。

家名の由来は、江戸城の「清水門」の内側に屋敷が構えられたため。

清水徳川家の特徴は、他の2家と異なり、初代当主の徳川重好が没したあと、一時的に屋敷などが収公(幕府が領地などを取り上げること)された点です。これは、徳川重好に実子がいなかったことや、父・徳川家重の子に当主としての適任者がいなかったことが理由と言われています。

11代将軍徳川家斉は、清水徳川家を再興するために30年間をかけて、自身の子を次々と清水家当主に据えました。しかし早くに病没したり、他の藩主の後継となったりしたため、清水徳川家は再び当主不在となります。

1867年(慶応3年)15代将軍徳川慶喜の実弟である「徳川昭武」(とくがわあきたけ)が6代当主に就任して清水徳川家を再興しますが、徳川昭武は2年後の1869年(明治2年)に水戸徳川家を相続。清水徳川家は再び当主不在となったため、同時期に一時的ながらも立藩した田安家、一橋家と違い、清水家は立藩されることはありませんでした。

そののち、徳川昭武の甥「徳川篤守」(とくがわあつもり)が7代当主に就任。次いで、徳川篤守の長男「徳川好敏」(とくがわよしとし)が8代当主となり、華族として「男爵」を授けられました。

清水徳川家出身の著名な人物

徳川昭武
徳川昭武は清水徳川家6代当主で、のちに水戸徳川家11代藩主となった人物です。

1867年(慶応3年)に行なわれた「パリ万博博覧会」の際に、異母兄である徳川慶喜の代わりに渋沢栄一らと共にヨーロッパへ渡り、「ナポレオン三世」やイギリスの女王「ヴィクトリア」などと謁見したことで知られています。自転車や写真撮影の他、園芸などを趣味として、徳川慶喜と共に様々な場所へ出かけて交流を深めました。

徳川好敏
徳川好敏は、清水徳川家8代当主です。飛行機研究の第一人者であり、日本ではじめて航空パイロットとなった人物として知られています。徳川好敏は、飛行機の操縦技術を学ぶためにフランスへ派遣され、現地で実際の飛行を目撃した数少ない日本人のひとりです。

1910年(明治43年)12月19日に「初飛行を目的とした記録会」が開催され、徳川好敏は見事に飛行を成功させたことから、12月19日は「日本初飛行の日」と定められました。

徳川御三卿にゆかりのある名刀

太刀 銘 豊後国行平作

太刀 豊後国行平作」は、一橋徳川家に伝来した太刀。制作者である「行平」(ゆきひら)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて豊後国(現在の大分県)で活躍した刀工です。

行平は、湾刀(わんとう:刀身が弓なりに反った刀剣)にはじめて刀身彫刻を施した人物と言われており、制作した刀剣の多くに行平自身が施した梵字倶利伽羅龍(くりからりゅう)などが見られます。

太刀 銘 豊後国行平作
太刀 銘 豊後国行平作
豊後国行平作
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
77.3
所蔵・伝来
一橋徳川家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

著名刀工名鑑(刀工・刀匠)
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徳川四天王

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「徳川四天王」とは「徳川家康」に仕え、最も重用された4名の戦国武将のことを指します。彼ら徳川四天王は、徳川家康が若く、人質であった頃から支え、生涯に亘って忠義を尽くしました。江戸幕府の開設には、彼ら四天王の支えが必要不可欠だったと言われ、現在でもその名は広く知られています。

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「徳川十六神将」(とくがわじゅうろくしんしょう)とは、徳川家康が三河国(現在の愛知県東部)の1大名であった頃から忠義深く仕え、江戸幕府の開設に力を尽くした家臣達のことを言います。この16名は特に武勇で名を馳せ、黎明期の徳川家康を力強く支えました。

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徳川二十八神将

徳川二十八神将
「徳川二十八神将」(とくがわにじゅうはちしんしょう)とは、「徳川家康」に仕え、江戸幕府の設立に大きな貢献をした、28名の功臣のこと。この28名は、栃木県日光市にある「日光東照宮」において、徳川家康と共に配祀(はいし:同じ神社の中に主祭神以外の神を祭ること)され、信仰を集めています。

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