令和と元号の決め方

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2019年5月1日から施行される新元号「令和」。この2文字は、日本最古の歌集「万葉集」が出典となっています。「万葉集」の「梅花の歌三十二首」の序文「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」の中から「令和」という文字が選ばれました。 これまで出典が明らかになっている元号は、すべて中国の古典が由来でしたが、「令和」は初めて日本の古典から作られました。日本で独自に使われてきた「元号」には、一体どのような歴史があるのでしょうか。「平成」から「令和」へ変わる機会に、元号についての知識を深めてみましょう。

元号とは

こちらでは、元号の決め方や元号の発祥、元号にまつわる話を時代ごとにまとめています。元号について定めている「元号法」の内容や、元号を決める際に留意するポイントなども詳しく解説しました。

また、元号は、その時代の歴史や文化、人々の生活などに深くかかわっているので、飛鳥時代から現在まで、どのようにして歴史を歩んできたのか、エピソードも踏まえてご紹介します。この機会に、元号についての知識を深めてみてはいかがでしょうか。

元号の決め方

現在の元号制度の基軸ができたのは、明治時代になります。江戸時代最後の元号となる慶応から明治に元号が変わる際、明治政府は、天皇を中心とした国家づくりを目指すため、天皇一代につき元号をひとつとする「一世一元の制」を定めました。

しかし、その後、元号は一時的に法的な根拠がなくなる時期があります。これは、第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)施行の日本国憲法において、皇室典範に元号の規定が明記されなかったためです。ただし慣例として、引き続き「昭和」の元号は使われていました。

その後、昭和天皇の高齢化に伴い、元号について法律で定める声が高まり、1979年(昭和54年)に「元号法」が定められ、元号の決め方について明確にルール化されたのです。意外と最近のことなんですね。

それでは、元号について定めた元号法の内容を見てみましょう。

昭和五十四年法律第四十三号
元号法
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
附 則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

以上が、元号法の内容です。しかし、これだけでは元号の決め方についてよく分かりませんね。

元号法は、元号を変える理由やタイミングなどを定めていますが、具体的な元号の決め方については、元号法と同時に起草された文書「元号選定手続について」によって要領が定められています。

それでは、「元号選定手続について」の内容を見てみましょう。

【元号選定手続について】

  • 国民の理想としてふさわしいような良い意味を持つものであること。
  • 漢字2字であること。
  • 書きやすいこと。
  • 読みやすいこと。
  • これまでに元号またはおくり名として用いられたものでないこと。
  • 俗用されているものでないこと。

以上が、元号を決めるにあたって留意事項として定められている内容です。

ちなみに、この「元号選定手続について」には含まれていませんが、元号を決める際には、実用性も考えて、次のようなことにも留意したほうが良いと言われています。それは、元号をローマ字表記した際、イニシャルが明治以降の元号(明治:M、大正:T、昭和:S、平成:H、令和:R)とは異なるものにしたほうが分かりやすい、という内容です。確かに、書類に記入する際などに、同じイニシャルの元号があると間違いが起こりやすいのは容易に想像できるため、これを避けるのが望ましいと言えるでしょう。

なお、「平成」から「令和」の改元については、元号の公布は、新天皇即位日の2019年5月1日ですが、元号の発表は公布よりも先に行なうという前例のないパターンです。これは、天皇の生前退位が決まっていたため、「国民生活への影響を最小限に抑える」という観点から、新天皇即位の1ヵ月前である2019年4月1日に次の元号を発表することを政府が決定しました。

また、「大化」から「令和」まで、約1400年の間に248もの元号が使われてきましたが、元号に使われてきた漢字は、たった73文字です。これは、元号に使う漢字が縁起の良い文字を選んでいるだけでなく、歴史的な慣例として、「四書五経」といった漢籍からの出典が多いことが理由のひとつと言えるでしょう。

ちなみに、73種類の漢字の中で、最も多く元号に使われたのは「永」で、29回も登場しています。「永久」(えいきゅう)や「永長」(えいちょう)という元号も使われたことがありますが、「永」の一文字だけで「長く続く」という意味を持つため、君主に好まれたのかもしれません。

下記では、参考までに明治から令和までの元号について、それぞれの由来と、その意味をご紹介します。

元号「明治」の由来
由来は、中国の四書五経のひとつ「易経」の「聖人南面して天下を聴き、明にむかいて治む」から。

「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」という意味が込められています。

元号「大正」の由来
由来は、中国の四書五経のひとつ「易経」の「大亨は以って正天の道なり」から。

「天が民の言葉を嘉納し、政治が正しく行なわれる」という意味です。

元号「昭和」の由来
由来は、中国の四書五経のひとつ「書経」の「百姓昭明、協和万邦」から。

「国民の平和と世界の共存繁栄」を願ったものです。

元号「平成」の由来
由来は、中国の歴史書「史記」の「内平かに外成る」と、四書五経のひとつ「書経」の「地平かに天成る」から。

「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味です。

元号「令和」の由来
由来は、日本最古の和歌集「万葉集」の「梅花の歌三十二首」の序文にある「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」から。

「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味です。

このように、出典が明らかになっている範囲では、明治以前も含め平成までは中国の古典から引用していましたが、「令和」で初めて日本の古典から元号が作られました。

漢字2文字ということだけに焦点をあてるのではなく、四書五経や万葉集といった古典にも目を通して、元号にふさわしそうな2文字を考えてみてはいかがでしょうか。

元号の発祥

元号とは、紀年法のひとつで、特定の年代に対して付けられる称号です。

世界で初めて元号を用いたのは中国で、その思想に影響を受けて日本でも元号を取り入れたと言われています。中国では、紀元前140年頃、前漢王朝の最盛期に、武帝が「建元」という元号を定めたのが始まりです。

これは、君主である皇帝が「空間だけでなく時間をも支配する」という思想に基づいています。以後、中国では王朝が続いた清の時代まで元号が使われていました。

元号は、中国の他に、ベトナムや朝鮮などでも使われるようになりましたが、国の制度が変わったこともあり、現在でも元号を使っているのは日本だけになります。

日本の元号

孝徳天皇

孝徳天皇

日本書紀によれば、飛鳥時代の645年に孝徳天皇が「大化」(たいか)と付けたのが日本の元号の始まりとされています。

ただし、公式ではなく、私的な意味合いでの元号は、それより前から使われていたとも言われており、591年から始まったとされる「法興」(ほうこう)が最初の元号という説も。

このように、公式とされてない元号は、私年号とも呼ばれています。

「大化」から「令和」までを含めると、約1400年の間に248もの元号が使われていますが、これは、江戸時代までは天皇一代の間に、度々改元をすることが珍しくなかったためです。なかには、3ヵ月もたたずに改元をした例も。

元号には、それぞれの時代の特徴が出ているので、時代ごとに見比べてみると歴史がもっと面白くなるかもしれません。

各時代の元号

飛鳥時代の元号

645年に「大化」という日本で最初の元号がスタートします。また、この時代には、女帝である持統天皇によって、法の上で「日本」という国号、「天皇」という称号が正式に使われ始めたと言われているのです。

「大化」以降、7世紀にはまだ元号の使用が普及せず、断続的に使われていました。この理由として、元号よりも10干12支を組み合わせた60年周期の干支による紀年が主流だったため、と言われています。

8世紀に入ると、日本で初めて行政法と民法、そして刑法の3つが揃った本格的な法律である「大宝律令」が制定され、この律令にて、公文書には元号を記載することを定めたことにより、701年の「大宝」(たいほう)からは継続して元号が使われるようになりました。

奈良時代の元号

明治時代に一世一元の制として、天皇一代につきひとつの元号とし、天皇の在位中は元号を変えない制度が定められる以前は、元号を変える理由は様々でした。

奈良時代には、「祥瑞の出現」(しょんずいのしゅつげん)と言って、おめでたい出来事があると改元していたケースが多々あり、12ある元号のうち、9つがこれにあたります。そのうち4つは、吉兆の象徴でもある亀が献上されたときに改元されており、色が白いなど、いずれの場合も珍しい亀が献上されたそう。これにちなんで「神亀」(じんき)や「宝亀」(ほうき)といった「亀」の文字を入れた元号にしたこともありました。

また、奈良時代だけは4文字の元号が存在しており、あとにも先にも、4文字の元号は「天平感宝」(てんぴょうかんぽう)、「天平勝宝」(てんぴょうしょうほう)、「天平宝字」(てんぴょうほうじ)、「天平神護」(てんぴょうじんご)、「神護景雲」(じんごけいうん)の5つのみです。

平安時代の元号

長く続いた平安時代は、約400年の間に90近くもの元号が使われています。飢饉や疫病の流行などの凶事が増えたたり、政治的な争いも多かったため、頻繁に元号を変えていました。

この時代に入ると、元号の制定手続きが整ってきます。天皇が元号案を作るよう命じ、左右大臣や大納言といった最高幹部が集まる公卿(くぎょう)会議にて元号を審議・決定し、天皇が公布する、というのが一連の流れです。平安時代の前半は、貴族が政治の実権を握っていましたが、後半は武士の勢力が拡大し、武家政治へと変遷していきました。

源氏と平家の争いの中では、即位した天皇が敵対する勢力側から出た天皇であった場合、その天皇が公布した元号を認めなかったとも言われています。源頼朝は、平家の系統である安徳天皇が「養和」(ようわ)と「寿永」(じゅえい)へ改元した際、これを認めず、源氏が擁立した後鳥羽天皇が「元暦」(げんりゃく)に改元するまで「治承」(じしょう)を使い続けたのだそう。

一方で、平家は、源氏が擁立した後鳥羽天皇が「元暦」に改元しても、平家側である安徳天皇の「寿永」を引き続き使い続けたと言われています。このように、元号は政治的な支配を正統化する象徴でもありました。

鎌倉時代の元号

本格的に武士が台頭してきた鎌倉時代。武家として初めて政権を握ったのが、鎌倉幕府です。平安時代に引き続き、鎌倉時代も頻繁に元号を変えていました。

そのなかで、歴史上、最も短いとされる元号が、「暦仁」(りゃくにん)です。たった2ヵ月と14日で「延応」(えんおう)に改元されました。この理由について、「りゃくにん」という言葉が、この世から人々が死んで消えてしまう「略人」を連想させるため、とも言われています。

鎌倉時代は、平安時代と同じように、悪い状況を一新する、という意味を込めて改元したケースが多い傾向です。

南北朝時代・室町時代の元号

南北朝時代は、同時に2つの元号が使われていました。後醍醐天皇が開いた南朝、足利尊氏が光明天皇を擁立して開いた北朝と、同じ時代に天皇が2人も存在し、朝廷が南北に分かれて対立していたためです。

1334年に後醍醐天皇が「建武」(けんむ)を使い始めた際は、南北朝共に、この元号を使っていましたが、次の元号より、南朝は「延元」(えんげん)、北朝は「暦応」(りゃくおう)と別々の元号を使うようになります。

南北朝が対立する中、1338年に足利尊氏が征夷大将軍となって武家政権ができ、室町幕府が始まります。南北の動乱は60年近く続きましたが、室町幕府の全盛期と言われる第3代将軍・足利義満の時代になると、ようやく南北朝が統一され、1390年の「明徳」(めいとく)から、ひとつの元号に戻りました。次の元号「応永」(おうえい)は33年も続き、「昭和」、「明治」に次いで長く使われた元号となっています。

戦国時代の元号

応仁の乱

応仁の乱

室町幕府では、第8代将軍・足利義政の時代になると、将軍の権威が弱まっていき、大名による実権争いが激化していきます。

そのような情勢の中、将軍の後継者争いが原因となり、大名による権力闘争なども含む大規模な内乱が始まりました。これが約11年間にも亘って続いた「応仁の乱」です。

この「応仁」(おうにん)とは元号を指し、応仁元年である1467年に内乱が勃発したことから、そう呼ばれています。なお、「応仁」の元号は約2年と短め。この内乱期のほとんどは「文明」(ぶんめい)の元号の期間であったため、「応仁・文明の乱」とも呼ばれています。

これ以降も、戦乱は度々勃発し、悪い状況を断ち切るための改元も多く行なわれました。

安土桃山時代の元号

安土桃山時代に政権を握っていたのは、三英傑としても有名な戦国武将のうち、織田信長豊臣秀吉です。

織田信長は、朝廷を通じて「天正」(てんしょう)への改元を実現することで、自身の政権開始を示したとも言えます。豊臣政権に移ると、「文禄」(ぶんろく)へと改元。このあと、政権の権威を示すため、2回に及んで改元を朝廷に要請しましたが、拒否をされ実現はしませんでした。

文禄5年になると大地震が続いたため、その凶事を断ち切るべく「慶長」(けいちょう)へ改元。豊臣秀吉が朝鮮出兵した「文禄・慶長の役」は、このときの元号からそう呼ばれています。

江戸時代の元号

これまで、元号は天皇の命によって行なわれてきましたが、江戸時代に入ると、徳川家康が創った江戸幕府の権力が拡大し、元号の決定について幕府が介入するようになります。

第7代将軍・徳川家継の死去に伴う第8代将軍・徳川吉宗の就任にあたり、幕府の意向で「正徳」(しょうとく)から「享保」(きょうほう)に元号を変えました。これは事実上の、将軍の代替えによって元号を変えるという「将軍代始」による改元にあたります。

将軍の代替えの他にも様々な理由で改元がされましたが、なかには次のようなケースも。明和9年に、江戸で大火災が発生。「明和の大火」と呼ばれ、江戸三大大火のひとつと言われています。これが、「明和9年=迷惑年」と語呂が良くないことから「安永」(あんえい)に改元されました。

大政奉還

大政奉還

そして、江戸時代最後の元号となるのは「慶応」(けいおう)です。

この改元にあたり、第14代将軍・徳川家茂は、「改元については孝明天皇の意向にすべて従う」との意見書を出しており、江戸幕府の権力が弱まってきたことを示しています。

そして、第15代将軍・徳川慶喜が、政権を天皇に返上した「大政奉還」で、約260年も続いた徳川政権は終焉を迎えました。

明治の元号

慶応4年(1868年)の戊辰戦争で旧幕府軍に勝利した新政府軍は、「江戸」の名称を「東京」と改め、政府を京都から東京へ移し、全国を統一します。

そして明治政府は、これまでの改元制度を一新。明治以前は、天皇の在位中に様々な理由で何度も改元することは珍しくありませんでしたが、天皇中心の国家づくりを目指す明治政府は「一世一元の制」を制定し、天皇一代につき元号はひとつ、と定めました。これにより、元号が天皇の死後の贈り名となる諡号(しごう)となり、明治からは、元号と天皇の名前が一体化するようになります。

明治への改元にあたり、いくつかの元号案の中から「明治」に決まった経緯というのが、実は、史上初のくじ引きによるものなのです。宮中賢所において、天皇が自らくじを引いて選出されました。

なお、「明治」は儒教の重要な経典である五経のひとつ「易経」からの出典になり、「聖人南面して天下を聴き、明にむかいて治む」という言葉から「明」と「治」の2文字を採用。また、「明治」という元号は、これまでの改元時に10回ほど元号案として候補に挙がったことがあるそうです。

大正・昭和・平成・令和の元号

明治政府が一世一元の制を制定し、天皇の即位に合わせて元号が決まることになったため、明治から元号が変わりそうな時期にさしかかると、新聞各社による新元号のスクープ合戦が始まります。その結果、「大正」は、朝日新聞によってスクープされることとなりました。

新元号をスクープする白熱具合は、次の元号が決まる際も変わることはありません。そこで、ついに大事件が起きてしまうのです。これが、世紀の大誤報と言われた「光文事件」。なんと、東京日日新聞(現・毎日新聞)が、大正15年12月25日の号外で、新元号は「光文」に決定と報じたのです。

しかし、同日の午前中に政府から発表された新元号は、「昭和」でした。これにより、世紀の大スクープとはならず、世紀の大誤報となってしまったのです。この結果、東京日日新聞(現・毎日新聞)の編集局幹部は辞任に至りました。

元号が「光文」ではなく「昭和」になった理由について、一説によれば、このスクープが原因で変更になったとも言われています。考えられているのは、元号は天皇崩御のあとに諡号となって、将来は天皇の名前になる尊いものであることから、政府はそれをスクープされることは失態とみなし、「昭和」に変更したという説です。

この光文事件があったことから、元号における国家機密度がいっそう高くなったせいなのか、「平成」に変わる際にはマスコミによる大スクープはありませんでした。

なお、このときの元号案は3つあり、他の2案は「修文」と「正化」です。

「平成」から「令和」への改元にあたっては、天皇の生前退位になるため、元号が施行される1ヵ月前の2019年4月1日に事前発表するという前例がないパターン。この発表においても、秘密保持のために情報漏洩の防止が徹底されました。当日、元号についての会議に使われる部屋には、携帯電話の電波が入らなくなる対策を行なったとみられています。

また、元号案を知ることになる有識者や閣僚の携帯電話については別室で保管され、「元号に関する懇談会」や元号について協議する「全閣僚会議」の終了後も、発表までは外部との接触を一切禁じられていました。トイレに行く際も、政府の職員が付いていくほどの徹底ぶりです。

この厳戒態勢のおかげで発表までに大スクープはなく、官房長官によって元号「令和」が発表されました。「平成」からの改元にあたっては、「令和」を含めて6つの元号案があり、他の5案は、「英弘」(えいこう)、「久化」(きゅうか)、「広至」(こうし)、「万和」(ばんな)、「万保」(ばんぽう)と言われています。

江戸時代までの元号が変わる理由

「君主が時間までも支配する」という考え方のもと、特定の年に対して定める元号は、その「時間」において何らかの意味を持たせており、なかには君主からの強いメッセージである場合もありました。「大化の改新」や「応仁の乱」、「享保の改革」といった歴史上の出来事の名称には、元号がよく使われています。

「明治」への改元と共に、天皇一代につき元号はひとつとする一世一元の制が定められましたが、それまでは天皇の在位中に何度も改元するのは珍しいことではなく、頻繁に元号を変えていました。その理由も様々で、ひとつだけでなく複数の理由で改元する場合も。例えば、室町時代の後花園天皇は、在位中になんと8回もの改元を行ないました。また、江戸時代の「寛永」は、天皇3代にも亘って同じ元号が使われた特殊なケースです。

ここでは、江戸時代までの元号において、改元の理由と具体例を紹介していきます。

元号が変わる理由①:代始改元(だいはじめかいげん)

「代始改元」とは、天皇が代わる際に元号を変えることで、即位改元とも言われています。

明治以降は、明治政府が定めた一世一元の制、そして昭和に制定された「元号法」により、現在は、新しい天皇が即位する際のみ改元を行なうことになりました。

【例】

  • 645年 大化(たいか)
    改元ではなく、史上初となる元号になりますが、孝徳天皇の即位で、「大化」と定めました。
  • 1848年 嘉永(かえい)
    明治天皇から一代前にあたる孝明天皇の即位により、「嘉永」と定めました。江戸時代までは、改元が頻繁に行なわれており、孝明天皇の在位中には、江戸時代最後の元号となる「慶応」まで7回ほど元号が変わっています。

元号が変わる理由②:祥瑞改元(しょうずいかいげん)

「祥瑞改元」とは、祥瑞の出現、つまり、吉兆とするおめでたい出来事があった際に元号を変えることを指します。まだ元号の歴史が浅い、飛鳥時代や奈良時代に多く見られた理由です。

【例】

  • 701年 大宝(たいほう)
    対馬国から金が献上されたことにより、「大宝」に改元しました。
  • 724年 神亀(じんき)
    白い亀が献上されたことにより、「神亀」に改元しました。
  • 767年 神護景雲(じんごけいうん)
    虹色に染まる彩雲が現れるというおめでたい出来事があったため「神護景雲」に改元しました。

元号が変わる理由③:災異改元(さいいかいげん)

「災異改元」は、歴史上、一番多いとされる元号を変える理由です。天災、飢饉、疾疫流行、戦乱などといった良くない出来事が起こった際、その厄災を回避する意味を込めて、元号を一新していました。

【例】

  • 938年 天慶(てんぎょう) 
    平将門の乱・藤原純友の乱をきっかけに「天慶」に改元。天下の平定を願っての改元でしたが、争いは激化する結果となりました。
  • 1104年 長治(ちょうじ) 
    月食が起きたことを凶事とみなして、「長治」に改元しました。
  • 1145年 久安(きゅうあん) 
    ハレー彗星の出現を凶事とみなして、「久安」に改元しました。
  • 1185年 文治(ぶんじ)
    巨大地震が起きたことにより、「文治」に改元しました。
  • 1232年 貞永(じょうおう)
    「寛喜の飢饉」と呼ばれる大飢饉が起きたことにより、「寛喜」(かんぎ)から「貞永」に改元しました。
  • 1855年 安政(あんせい) 
    内裏の炎上、異国船来航(ペリーの来航)、相次ぐ地震といった複数の凶事が重なり、「安政」に改元しました。

元号が変わる理由④:革命改元(かくめいかいげん)

現代では、干支と言えば12支を思い浮かべる人も多いかと思いますが、明治以前は10干と12支の組み合わせから成る60干支の紀年法が一般的でした。

「革命改元」とは、60干支において、「辛酉」(しんゆう)の年と「甲子」(こうし)の年に元号を変えることを意味します。これは、「辛酉」と「甲子」の年には社会的な大変革が起きる、という中国の讖緯(しんい)説に基づく考えで、改元することによって、その難を避けようとしていました。

【例】

  • 1741年 寛保(かんぽう)
    60干支において、「辛酉」の年であるため、「寛保」に改元しました。
  • 1744円 延享(えんきょう)
    60干支において、「甲子」の年であるため、「延享」に改元しました。

元号が変わる理由⑤:その他

元号が変わる理由の多くは、天皇の代始改元、祥瑞改元、災異改元、革命改元になりますが、それ以外の理由で改元する場合もあります。

例えば、江戸時代に幕府の権力が増すと、それを示すために、新しい将軍が就任した際に元号を変える将軍代始の改元が行なわれました。また、語呂が悪い、という理由で改元された例もあります。

【例】

  • 1624年 寛永(かんえい)
    60干支において、「甲子」の年であるため、革命改元にあたりますが、第3代将軍・徳川家光の将軍代始として「寛永」に改元したという説もあります。
  • 1652年 承応(じょうおう)
    第4代将軍・徳川家綱の代始として「承応」に改元しました。
  • 1645年 正保(しょうほう)
    前の元号「寛永」が、水尾天皇、明正天皇、後光明天皇と、三帝に渡って使われた例がないため、「正保」に改元しました。
  • 1648年 慶安(けいあん)
    前の元号「正保」(しょうほう)が「焼亡」(しょうぼう)に繋がるため不吉だ、という批判が起きたことから「慶安」に改元しました。
  • 1772年 安永(あんえい)
    前の元号である「明和」(めいわ)の9年に、江戸三大大火のひとつと言われている大規模な火災が発生。この年が「明和9年=迷惑年」と語呂が良くないことから、同年に「安永」へ改元されました。
元号一覧元号一覧

大化から令和までの元号を、一覧でご覧頂けます。


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