歴史上の人物と日本刀

紀州徳川家の家老・三浦将監の刀 銘 和泉守兼定作

文字サイズ

「紀州徳川家」とは、紀伊国(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた徳川家康の十男「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)を祖とする一族です。その家老「三浦将監」(みうらしょうげん)の指料(さしりょう:腰に差す刀剣)が、「刀 銘 和泉守兼定作[金象嵌]二ツ胴 三浦将監所持」。名匠「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)が作刀し、1996年(平成8年)に「特別重要刀剣」に指定された名刀です。どうして三浦将監の指料となったのか、その謎に迫ります。

紀州徳川家は将軍家に次ぐ家格

徳川頼宣

徳川頼宣

紀州徳川家」は、江戸幕府初代将軍「徳川家康」の十男「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)を祖とし、紀州藩(現在の和歌山県)の藩主で、555,000石を領有しています。

水戸徳川家尾張徳川家と共に「御三家」と呼ばれ、将軍に嗣子がない場合には、将軍職を継ぐ特権が与えられていました。

実際に、5代藩主「徳川吉宗」は江戸幕府8代将軍に、13代藩主「徳川家茂」(とくがわいえもち)は江戸幕府14代将軍に就任しています。

紀州徳川家は、将軍家に次いで家格の高い、華麗なる一族であると言えるのです。

紀州徳川家の家老「三浦将監」とは

三浦将監

三浦将監

「三浦将監」(みうらしょうげん)とは、紀州藩の家老「三浦為章」(みうらためあき)のこと。

1803年(享和3年)生まれで、官位は従五位下の貴族であるため「将監」と呼ばれました。なお、「家老」とは、家臣のなかの最高職。藩主を助けて藩政を行う重職です。

祖父「三浦為脩」(みうらためのぶ)は、7代藩主「徳川宗将」(とくがわむねのぶ)の八男で、家老「三浦為恭」(みうらためやす)の養子となった人物です。この三浦家が、代々紀州藩の家老を務めていたため、三浦将監も家老職となりました。

1823年(文政6年)、20歳で家督を継いだ三浦将監は、紀州藩10代藩主「徳川治宝」(とくがわはるとみ)と紀州藩11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)に仕えます。

徳川治宝は、官位が従一位・大納言。学問好きとして有名で、紀州藩士子弟の教育を義務化。和歌山城下には「医学館」を、松坂城下には「学問所」を江戸赤坂紀州藩邸には「明教館」を開設しました。また、雅楽、表千家茶道など、音楽や文芸に造詣が深く「数奇の殿様」と呼ばれるなど、藩学と文化事業に尽力したのです。

養翠園

養翠園

徳川治宝は、別邸「西浜御殿」の回遊式庭園「養翠園」(ようすいえん)や「和歌の浦」に「不老橋」も建築。共に、和歌山県和歌山市の名勝となっています。

しかし、紀州藩は財政難。藩主は贅沢が過ぎると反感を買い、1823年(文政6年)には「こぶち騒動」と呼ばれる百姓一揆が勃発。

徳川治宝は責任を取って、藩主の座を娘婿・徳川斉順に譲りましたが、実権は握り続けていたと言われています。

三浦将監は1835年(天保6年)、藩主・徳川斉順の参勤交代に伴って江戸に出府。江戸城(現在の東京都千代田区)で11代将軍「徳川家斉」に拝謁する大役も果たしています。このとき、三浦将監が差していたこそ、「刀 和泉守兼定作[金象嵌]二ツ胴 三浦将監所持」(いずみのかみかねさださく[きんぞうがん]ふたつどう みうらしょうげんしょじ)なのです。

刀工「和泉守兼定」とは

室町時代に活躍した関鍛冶・ノサダ

兼定(ノサダ)の銘

兼定(ノサダ)の銘

刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持を作刀したのは、「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)。室町時代後期に活躍した美濃伝刀工で、「2代目兼定」のことです。父は「初代兼定」(親兼定)で、直江志津系の刀工。

和泉守兼定は父よりも腕が良いとされ、古刀期で初めて「和泉守」という任官名を授かり、銘を切った人物です。

同じ美濃鍛冶「孫六兼元」(まごろくかねもと)とは人気を二分し、「関の双璧」と呼ばれました。

作風は相州伝風。長寸で身幅が広く重ねは薄く、地鉄(じがね)は小板目肌(こいためはだ)。刃文匂本位湾れ乱(のたれみだれ)、箱乱(はこみだれ)、矢筈乱(やはずみだれ)、尖刃(とがりば)交じりのいずれかを焼き、匂口(においぐち)は締まり、明るく冴えて覇気があります。

切れ味が抜群で、江戸時代には「山田浅右衛門」が実際に試し斬り(試し切り)をして編纂した「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において、和泉守兼定の刀を「最上大業物」と評価し、その実力が立証されました。

なお、和泉守兼定の作刀として有名なのは、「細川忠興」が所持した「歌仙兼定」(かせんかねさだ)や「森長可」(もりながよし)の愛人間無骨」(にんげんむこつ)。他にも「武田信虎」 (たけだのぶとら)や「明智光秀」、「柴田勝家」など、一流の武将が和泉守兼定の刀剣を愛刀としています。銘字の「定」に特徴があり、ウ冠(うかんむり)の下を「之」(の)と切ったため、「ノサダ」と呼ばれる名匠です。

美濃伝 関市美濃伝 関市
世界でも有数の刃物の産地である美濃伝の岐阜県関市についてご紹介します。

紀州徳川家伝来説と三浦家伝来説

指定書

指定書

刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持は、紀州徳川家の家老・三浦将監の指料(さしりょう:腰に差す刀剣)と伝えられています。

家老は家臣の最高職で十分立派なのですが、和泉守兼定の刀は一流の武将が所持していた一流の物。

どうしてこの名刀を、紀州徳川家でもなく大名でもない、家老の三浦将監が差していたのでしょうか。考えられるのは以下の2説です。

ひとつ目は、曾祖父となる7代藩主・徳川宗将から祖父・三浦為脩へと継承された刀だという説。元々は紀州徳川家に伝来した刀だという意味です。

2つ目は、三浦家の先祖「三浦為春」(みうらためはる)の妹が、徳川家康の側室「養珠院」(ようじゅいん)に当たるため、三浦為春が徳川家康から下賜され、代々継承されたのではないかという説です。

いずれにしても三浦将監の指料は、とても由緒の高い1振だと言えるのです。

特別重要刀剣に指定

刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持は、1996年(平成8年)「特別重要刀剣」に指定されました。特別重要刀剣とは、公益財団法人 日本美術刀剣保存協会の鑑定による最高ランク。国認定の「重要美術品」相当、あるいは「重要文化財」に準ずる価値があるとみなされます。

本刀は、大/大切先(おおきっさき)で、身幅が広く重ねが厚く、先反りが付いて豪壮。地鉄は板目肌が詰み、刃文は互の目(ぐのめ)や丁子(ちょうじ)、尖り心の刃が交ざりとても華やか。表裏に棒樋(ぼうひ)を搔き通し、堂々として覇気がある名刀です。

刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持
刀 銘 和泉守兼定作(金象嵌)二ツ胴 三浦将監所持
時代 鑑定区分 所蔵・伝来
和泉守兼定作
(金象嵌)二ツ胴
三浦将監所持
室町時代後期 特別重要刀剣 刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

紀州徳川家の家老・三浦将監の刀 銘 和泉守兼定作

紀州徳川家の家老・三浦将監の刀 銘 和泉守兼定...をSNSでシェアする

「歴史上の人物と日本刀」の記事を読む


黒田斉清伝来の刀 無銘 真長

黒田斉清伝来の刀 無銘 真長
「黒田斉清」(くろだなりきよ)は、「黒田官兵衛」の子孫です。福岡藩(現在の福岡県)黒田家の10代藩主として、江戸時代後期に活躍。黒田家には、黒田官兵衛や「黒田長政」が蒐集した名刀が多数あったことで有名ですが、そのなかの1振、10代藩主・黒田斉清が佩用したという「刀 無銘 真長」が刀剣ワールドの所蔵刀となりました。黒田斉清と刀工「真長」(さねなが)について、詳しくご紹介します。

黒田斉清伝来の刀 無銘 真長

徳川慶喜と長巻 銘 備前長船住重真

徳川慶喜と長巻 銘 備前長船住重真
「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、幕末期に「大政奉還」などの大胆な政策を実行した江戸幕府15代将軍です。徳川慶喜が「最後の将軍」であることは知っていても、その人物像までは深く知らない人も多いのではないでしょうか。また徳川慶喜は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が主人公のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)に、実父「徳川斉昭」(とくがわなりあき)と共に登場したことがきっかけとなり、にわかに注目を集める人物。そんな徳川慶喜について、徳川斉昭との関係を軸にして、その人となりをご紹介すると共に、徳川慶喜の愛刀「長巻 銘 備前長船住重真」についても解説します。

徳川慶喜と長巻 銘 備前長船住重真

大正天皇に献上された11代会津兼定の刀 銘 大日本兼定

大正天皇に献上された11代会津兼定の刀 銘 大日本兼定
「明治天皇」は、明治時代を切り開いた近代日本の指導者であり、「大正天皇」はその明治天皇の三男。そして、大正天皇の長男「昭和天皇」は太平洋戦争という大波を乗り越えた人物です。ご紹介する大正天皇は、在位期間が15年ほどであったことから一般的には影の薄い天皇と言われることもあります。しかし、大正天皇も他の皇族に倣い儀式においては、多くの日本刀を授かる機会を持ちました。刀工である11代目「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ:会津兼定とも)は、こうした名誉ある機会を得て皇太子時代の大正天皇に刀を献上。大正天皇と11代目和泉守兼定のこと、そして11代目和泉守兼定が打った「刀 銘 大日本兼定」についてご紹介します。

大正天皇に献上された11代会津兼定の刀 銘 大日本兼定

結城秀康と名刀 於武州江戸越前康継

結城秀康と名刀 於武州江戸越前康継
「徳川家康」の跡を継ぎ、江戸幕府2代将軍となった「徳川秀忠」には、5つ上の兄がいたことをご存知でしょうか。武将としての実力は徳川秀忠よりも勝っていたとも言われている兄の名は「結城秀康」(ゆうきひでやす)。戦国武将の期待の星とされていました。では、なぜ弟・徳川秀忠よりも武功のあった結城秀康は将軍になれなかったのでしょうか。徳川家康の子でありながら「結城」姓を名乗っているなど、謎に包まれた徳川家康の次男・結城秀康の生涯を探ると共に、結城秀康に仕えた刀工「越前康継」(えちぜんやすつぐ)についてご紹介します。

結城秀康と名刀 於武州江戸越前康継

鍋島茂紀伝来の薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広

鍋島茂紀伝来の薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広
「鍋島茂紀」(なべしましげのり)とは、江戸時代初期に活躍した佐賀藩(現在の佐賀県)の藩士です。藩主・鍋島家の親類同格で、自治領・武雄(たけお:現在の佐賀県武雄市)の領主をしていました。切れ味が鋭くて有名な、佐賀藩の御用刀工「藤原忠広」(ふじわらただひろ)に薙刀直しの脇差を注文し、愛用した人物。鍋島茂紀の生涯や刀工・藤原忠広が作る刀剣の特徴、化け猫騒動について詳しくご紹介します。

鍋島茂紀伝来の薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広

岩田通徳が所持した細田直光作の名刀

岩田通徳が所持した細田直光作の名刀
「薙刀 銘 直光」は、江戸時代末期に幕臣によって結成された「京都見廻組」(きょうとみまわりぐみ)を指揮した「岩田通徳」(いわたみちのり)が所持した薙刀です。作刀したのは「細田直光」(ほそだなおみつ)。細田直光は刀鍛冶として優れていましたが、時代に翻弄された結果「贋作の名人」として有名になってしまった人物です。岩田通徳と細田直光の来歴を追っていきながら、薙刀 銘 直光について、詳しくご紹介していきます。

岩田通徳が所持した細田直光作の名刀

幕末の攘夷派剣客・宮和田光胤の愛刀 刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之

幕末の攘夷派剣客・宮和田光胤の愛刀 刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之
「刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之」(かたな めい えんりゅうさいたちばなくにひでこれをきたえる)は、幕末の国学者で尊王攘夷派(そんのうじょういは:天皇を尊び、外国を排斥しようとする一派)として活動した「宮和田光胤」(みやわだみつたね)の愛刀とされています。宮和田光胤は、「千葉周作道場」(ちばしゅうさくどうじょう)にて「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)の免許皆伝を受けた剣客という顔も持っていました。 本刀の制作者「立花圓龍子国秀」(たちばなえんりゅうしくにひで)は、江戸末期の刀工で「中山一貫斎義弘」(なかやまいっかんさいよしひろ)の門下に入り、上野国(上野国:現在の群馬県)や相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)で作刀。「坂本龍馬」もまた、国秀の日本刀を佩刀していたことは有名です。坂本龍馬と千葉周作道場の同門だった尊王攘夷派の剣客・宮和田光胤について述べると共に、国秀作の刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之について解説します。

幕末の攘夷派剣客・宮和田光胤の愛刀 刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之

伊勢山田奉行・長谷川重章と出雲大掾藤原吉武

伊勢山田奉行・長谷川重章と出雲大掾藤原吉武
江戸時代初期の刀工である「出雲大掾藤原吉武」(いずもだいじょうふじわらよしたけ)は、またの名を「出雲守藤原吉武」(いずものかみふじわらよしたけ)、あるいは「堀川吉武」と言います。「堀川」の姓からも分かる通り、吉武は稀代の名工として名を馳せた「堀川国広」の一門でした。 ご紹介する打刀と脇差は、上級旗本で伊勢山田奉行を務めた「長谷川重章」(はせがわしげあき)が特別注文した逸品です。注文主である長谷川重章と、刀工の出雲大掾藤原吉武は、どのような人物だったのかを解説すると共に、吉武が手掛けた刀剣の魅力に迫ります。

伊勢山田奉行・長谷川重章と出雲大掾藤原吉武

京極高次伝来の薙刀 銘 和泉守兼定作 号・鬼夜叉の歴史

京極高次伝来の薙刀 銘 和泉守兼定作 号・鬼夜叉の歴史
「鬼夜叉」の号を持つ「薙刀 銘 和泉守兼定作」は、美濃国(現在の岐阜県南部)の刀工「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)が打った薙刀です。小浜藩藩主「京極高次」(きょうごくたかつぐ)が所持していたと伝えられています。 京極高次は、「蛍大名」という不名誉なあだ名で有名になりましたが、のちに武勲を挙げて汚名を返上しました。その武勲を支えたのが、この鬼夜叉であると言われているのです。京極高次がいかにして汚名をそそいだのか、また、妖しくも美しい鬼夜叉について解説していきます。

京極高次伝来の薙刀 銘 和泉守兼定作 号・鬼夜叉の歴史

注目ワード
注目ワード