「明治天皇」は、明治時代を切り開いた近代日本の指導者であり、「大正天皇」はその明治天皇の三男。そして、大正天皇の長男「昭和天皇」は太平洋戦争という大波を乗り越えた人物です。ご紹介する大正天皇は、在位期間が15年ほどであったことから一般的には影の薄い天皇と言われることもあります。しかし、大正天皇も他の皇族に倣い儀式においては、多くの日本刀を授かる機会を持ちました。刀工である11代目「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ:会津兼定とも)は、こうした名誉ある機会を得て皇太子時代の大正天皇に刀を献上。大正天皇と11代目和泉守兼定のこと、そして11代目和泉守兼定が打った「刀 銘 大日本兼定」についてご紹介します。
大正天皇
「大正天皇」は、1879年(明治12年)に「明治天皇」と側室「柳原愛子」(やなぎわらなるこ)との間に生まれました。
明治天皇の正室「昭憲皇太后」(しょうけんこうたいごう)との間にも子供がいましたが、皆、体が弱く早世していたため、大正天皇は次代の天皇として育てられることになります。
そんな大正天皇の父・明治天皇は、史上最も偉大な天皇だと謳われるほど真面目で厳格な人物。その当時、皇太子であった大正天皇も、のちに同じ手腕を求められるようになります。
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大正天皇は、生まれた頃から体が弱く、歩けるようになったのも3歳を過ぎてからでした。8歳になり学習院初等科に上がってからも病気がちで、学校を休むことが多かったと言います。
学習院中等科へ進学したものの、1894年(明治27年)に病弱のため学校を中退。以降は療養と勉学のため、長期的な地方巡啓(じゅんけい:皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出すること)へと向かいます。1900年(明治33年)に福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県を行啓(ぎょうけい)しました。
旅の途上、大正天皇は体調を崩すこともありましたが、以前より健康状態は良くなり、何より遅れがちだった学習への意欲も向上。本来、地方巡啓は立ち寄る県の県民総出で歓待するのが常でしたが、あくまで実施学習を目的としていたことから大げさな行事をすべて禁止。
こうした地方巡啓は、詰め込み方式の座学ばかりだった学習方法を忘れ、また皇太子としての重責からも開放される重要な時間でした。
大正天皇は、とても自由奔放でありのままに行動する人物であったと伝わっています。それを示す逸話に、夜にお供のひとりも付けずに公園の散歩をしたことや、身分を隠して店に行き食事をするなどということもありました。
また、フランス語が堪能で、外国語でのコミュニケーション能力も高かったと言います。フランス語は、当時の列強王族や外交官達の共通言語でした。大正天皇は、来日したスペイン公使と長時間に亘り談笑したこともあり、自筆のフランス語による手紙も残されています。
明治天皇
明治天皇が、1912年(明治45年/大正元年)に崩御すると、大正と改元し、大正天皇として即位。
こうして比較的自由な生活を送っていた皇太子時代は終わりを告げ、天皇として一国を背負う身となります。
しかし、明治天皇が持っていた政治手腕や人間としての重厚さ、これらを習得することのないまま天皇の位に就いてしまいました。
さらにこの当時、東ヨーロッパにあたるバルカン半島の情勢は荒れ「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほど不安定で、いつ戦争が起きてもおかしくない状況。
日本は、1902年(明治35年)にイギリスと「日英同盟」を結んでいました。このことから戦争が起きれば日本も参戦する可能性が高く、政治手腕に不安の残る天皇のままでは許されなくなっていました。
1914年(大正3年)に起きた「サラエボ事件」(サラエボで起きたオーストリア帝国の皇太子夫妻殺害事件)を契機として、ヨーロッパを中心に「第一次世界大戦」が勃発。この戦争中にドイツやロシアで革命が起き、それぞれの王朝が断絶し、大帝国オーストリアも瓦解。
こうして世界は君主制を脱却する時代へ移ろうとしていました。国内ではこうした流れを受け、天皇を廃する社会主義運動が台頭。時代が求めていた天皇の姿は「気さくで親しみのある天皇」ではなく「誰よりも強い天皇」でした。
大正天皇は、公務による心労や、激務が重なり病にかかります。このことにより1921年(大正10年)に、大正天皇の長男で皇太子の「裕仁親王」(ひろひとしんのう:のちの昭和天皇)が摂政に就任することになりました。この当時、大正天皇はすでに体を動かすことが難しく、言葉なども不明瞭であったと言われています。
1926年(大正15年)の12月25日、静養中の葉山御用邸にて肺炎に伴う心臓麻痺で崩御。臨終の間際には、母・柳原愛子が側におり、大正天皇は実母の手を握ったまま眠りにつきました。
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作刀した和泉守兼定は、幼名を「友哉」と言い、1837年(天保8年)に会津若松(現在の福島県会津若松市)で誕生。和泉守兼定の生まれた古川家は代々刀鍛冶の家系であり、和泉守兼定も14歳の時分に父について鍛法を学んでいきました。その甲斐あって、御櫓御道具御手入れ見習いとして出仕が決まり、稽古料一人扶持を賜るようになります。
1862年(文久2年)に、会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)が京都守護職に任命。翌年の1863年(文久3年)に、27歳となっていた和泉守兼定は、主君・松平容保と共に上洛を果たしました。
京都でも作刀の腕を磨き、遂に「和泉守」の官位を受領し、以降、作刀する日本刀には「和泉守兼定」と銘を刻むようになります。和泉守兼定は、「新選組」の「土方歳三」へ日本刀を打つなど、江戸時代末期まで刀鍛冶として活躍していたのです。
彌彦神社
時は流れて明治時代を迎える頃、和泉守兼定は新潟県加茂市の志田家に身を寄せて作刀に勤しんでいました。
1876年(明治9年)に施行された「廃刀令」とともに実戦に使用する作刀からは遠ざかっていましたが、「青海神社」(あおみじんじゃ:現在の新潟県加茂市)や「諏訪神社」(現在の新潟県新発田市)、「彌彦神社宝物殿」(現在の新潟県西蒲原郡弥彦村)へ日本刀を奉納します。
新潟県で5年を過ごした1874年(明治7年)に、和泉守兼定は福島県へ帰り、県の判任官御用掛(はんにんかんごようがかり:宮内庁の命を受けた職人)として土木課に勤務。そうしたなかで、1892年(明治25年)6月4日に、当時の皇太子のちの大正天皇に刀剣を1振献上しました。
また、本作には影打(数本打った刀のうち出来の良い物を依頼主に渡し、そのあと手元に残った刀のこと)が1振存在し、その刀は当時の新潟県知事「籠手田安定」(こてだやすさだ)が所持。そののち、前述した彌彦神社へと奉納されました。
本作は、和泉守兼定作としては珍しい大峰(鋒/切先の長いもの)で、鍛えは柾目がよく詰み、刃文は尖り心の互の目を連ねた三本杉風。柾目肌や尖り互の目など、「美濃伝」の雰囲気を残した作風です。銘には「大日本兼定」以外、「紀元二千五百五十二年二月日」とも刻まれています。
この銘は、西暦ではなく皇紀2552年のことであり、初代「神武天皇」(じんむてんのう)が即位してから2552年目を示しているのです。
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