備前国(びぜんのくに:現在の岡山県南東部)は、古来より鉄資源に恵まれた刀剣王国です。質・量ともに全国1位を誇り、刀匠の数も突出して多く、現存する名刀の70パーセントが備前の物と言うことからも、その繁栄ぶりが窺えます。中でも「長船派」(おさふねは:備前長船)は、「長船物」(おさふねもの)と呼ばれ高く評価され、名刀の代名詞とされてきました。備前長船が刀剣王国として栄えたのは、長船一門の、各代の長の時代を見る眼が正しかったと言うことが挙げられます。祖である「光忠」(みつただ)は武士の時代に即した、実戦を重んじながらも芸術的で華やかな日本刀を作り出し、2代目「長光」(ながみつ)の経営者としての力量が大工房へと発展させました。3代目「景光」(かげみつ)は堅実に父の跡を引き継ぎながらも、「肩落互の目」(かたおちぐのめ)など、時代に合ったデザインを工夫し、長船派は発展していくのです。 ここでは、長船派の代表的な名工についてご紹介します。
古刀期の名刀工の中でも最も多くの名作を後世に遺した長光(1274~1304年 [文永11年~嘉元2年]頃に活躍)は、長船派の祖・光忠の子。父から受け継いだ華麗な丁子乱刃(ちょうじみだれば)から直刃(すぐは)まで作品の幅が広く、備前長船の名を高めた第一人者です。
1274年(文永11年)の「文永の役」と1281年(弘安4年)の「弘安の役」という2回の元寇(げんこう)で需要が増した太刀製造のために、鍛冶場を拡大して工房化。大量生産に応える中で、華美過ぎない、程良くスマートな美を確立しました。品格のある万人向きの優美な姿は、「長光姿」と呼ばれ、後世の長船鍛冶の本流となりました。
長光は作風に幅があることから、「長光」銘を初代、「左近将監長光」(さこんのしょうげんながみつ)を2代とする説など、長年2名以上いるとも言われてきました。しかし、近年では1代限りと見るのがほぼ定説で、長光の名は、一門の登録商標のように使われていたとする説もあります。また、「順慶」は、「長光」の老後の法号とされてきましたが、作風の大きな違いなどから、近年では別人説が有力です。
長光は非常に多くの名作を後世に遺し、国宝に6点、重要文化財に28点、重要美術品に36点も指定されています。
長光の代表作。室町時代にはすでに「大般若」(だいはんにゃ)の異名で広く知られた名刀でした。600貫(かん)という眼を見張るような高値が付けられており、「大般若経」(だいはんにゃきょう)600巻と語呂が同じなので、そう呼ばれるようになりました。堅い刀剣の世界には珍しく、洒落(しゃれ)の効いたお話です。
大般若は、もともとは足利将軍家の重宝でしたが、戦国の乱世の中で次々と持ち主を変えていきます。13代将軍・義輝が「永禄の政変」で殺害された際に奪われたのちに織田信長の手に渡り、「姉川の戦い」の功で徳川家康に贈られます。
さらに「長篠の戦い」で長篠城を守り通した城主・奥平信昌(おくだいらのぶまさ)に戦功第一の褒美として与えられました。父・信昌から受け継いだ4男・忠明は、のちに家康の養子となり、天下の名刀は、武蔵国忍藩(むさしのくにおしはん:現在の埼玉県行田市)松平家に代々伝えられることに。ようやく落ち着いたかに思われましたが、明治維新後に売りに出され、現在は東京国立博物館が所蔵しています。
地鉄
景光(1304~1334年[嘉元2年~建武元年]頃に活躍)は、元寇の時期に大活躍した長光の子で、長船派を代表する刀工のひとり。太刀の他短刀の遺作が多いのが特徴です。
太刀は、父・長光ほどの豪壮さはありませんが、重ねが厚く、程良い頃合いの品格ある太刀姿。長船派で地鉄(じがね)が一番美しいとされています。焼き刃にも工夫し、長船派らしい匂本位(においほんい)の肩落互の目を創始しました。彫刻の名手で、梵字(ぼんじ)や宗教的な彫り物を施した作品が見られます。
諸説あり、景光は2人以上いたという説もありますが、近年では1代限りだったとするのが主流となっています。
景光はたくさんの名作を遺しており、国宝に3点、多くの作品が重要文化財、重要美術品に指定されています。
徳川幕府8代将軍・吉宗の命で編纂(へんさん)された名刀リストである「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)には記載されていませんが、景光の最高傑作のひとつとされています。地金の美しい景光らしく、細かく目の詰まれた「小板目肌」(こいためはだ)に、変化に富んだ刃文(はもん)を焼いた見事な物です。
小さな倶利伽羅龍(くりからりゅう)を浮き彫りにしていることから「小龍景光」(こりゅうかげみつ)と呼ばれています。楠木正成(くすのきまさしげ)が佩刀(はいとう)していたと伝えられることから、「楠公景光」(なんこうかげみつ)とも。
数奇な運命に翻弄されたこの太刀は、楠木正成の死後、行方知れずになり、その後の経緯は不明で、幕末に河内国(かわちのくに:現在の大阪府)の農家から発見されたと言われています。
御様御用(おためしごよう:刀剣の試し斬り役兼死刑執行人)で愛刀家の「首切り」山田浅右衛門(やまだあさえもん)が入手し、明治維新後に明治天皇に献上されました。明治天皇は非常にお気に召して、常に手元に置いて鑑賞されたとも、サーベル拵(こしらえ)を付け、佩用されたとも言われますが、第二次大戦後に東京国立博物館に移管され、今に至ります。
制作年代 | ランク | 指定日 | 所蔵 |
---|---|---|---|
鎌倉時代末期 (1322年) [元亨2年] |
重要文化財 | 1937年 (昭和12年) 5月25日 |
東京国立博物館 |
刀身の長さ | 反り | 元幅 | 茎の長さ |
51.5cm | 2.7cm | – | – |
主な所有者・伝来 | |||
不明 |
薙刀は実戦に用いたため、特に鎌倉時代の現存作自体が希少で、現存する景光作の薙刀は本作のみです。この時代の薙刀は、身幅が広く、反りが少ないのが特徴で、現存する父・長光の薙刀と比べると、やや先の反りが深くなり、時代的変化が読み取れます。刃文は丁子(ちょうじ)に互の目乱れ文(ぐのめみだれもん)が華やかに混じり、地金の美しい影光の特色の良く出た優作です。
兼光(1328~1360年[嘉暦3年~延文5年]頃に活躍)は、景光の子。兼光の初期である鎌倉時代末期は父・景光に似た匂本位の肩落互の目や「丁子刃」(ちょうじば)ですが、南北朝時代に入ると作風が変わり、一世を風靡(ふうび)した正宗流の刃文を取り入れた沸出来(にえでき)の「のたれ乱」で、相州伝(そうしゅうでん:相模国[さがみのくに:現在の神奈川県]で活躍した刀工一派)色の濃い作品が特徴になりました。
兼光は活躍時期などに諸説あり、2名以上いるという説も存在します。通常兼光と言うと、「大兼光」と称される初代と2代の「延文兼光」(えんぶんかねみつ)を指します。徳川時代には1代説が主流で、現在でも1代限りと見る学者も多く、定説は定まっていません。
切れ味に優れた日本刀は数々の伝説を持ち、「波泳ぎ兼光」・「鉄砲切り兼光」などの異名があります。
大太刀 銘 備前国長船兼光 延文二二(四)年二月日
制作年代 | ランク | 指定日 | 所蔵 |
---|---|---|---|
南北朝時代 (1359年) [延文4年] |
重要文化財 | 1960年 (昭和35年) 6月11日 |
東京国立博物館 |
刀身の長さ | 反り | 元幅 | 茎の長さ |
93.0cm | 3.2cm | – | – |
主な所有者・伝来 | |||
上杉家 (越後[現在の新潟県]の戦国大名、のちに米沢藩[現在の山形県]藩主) |
「大太刀 銘 備前国長船兼光 延文二二(四)年二月日」(おおたち めい びぜんのくにおさふねかねみつ えんぶんよねんにがつひ)は、身幅の広い、鋒(きっさき)の長く伸びた、3尺(90cm)を超える豪壮な大太刀。南北朝時代にはこのような大太刀が大流行しました。同じく当時流行の相州鍛冶の影響を受けた、ゆったりとした「のたれ主調」となっています。
名前の由来は、小早川秀秋(こばやかわひであき:羽柴秀詮[はしばひであき]とも)に斬られた者が、この刀の切れ味が良すぎて斬られたことに気付かず、川に飛び込んで逃げ、泳ぎ切って岸に着き水から上がると、体が真っ二つになったという逸話から。また、のちに所有した立花家の重宝となり、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の再三にわたる鑑賞の希望を、立花家は断り続けたという話も伝わっています。
制作年代 | ランク | 指定日 | 所蔵 |
---|---|---|---|
南北朝時代 | 重要美術品 | 1933年 (昭和8年) 7月25日 |
個人蔵 |
刀身の長さ | 反り | 元幅 | 茎の長さ |
64.8cm | 0.8cm | – | – |
主な所有者・伝来 | |||
上杉家 → 小早川秀秋(羽柴秀詮) → 立花家(柳川藩主) |
制作年代 | ランク | 指定日 | 所蔵 |
---|---|---|---|
南北朝時代 (1343年) [康永2年] |
重要美術品 | 1937年 (昭和12年) 12月24日 |
個人蔵 |
刀身の長さ | 反り | 元幅 | 茎の長さ |
60.6cm | – | – | – |
主な所有者・伝来 | |||
上杉家 → 直江兼続 → 上杉家 |
名前の由来は、直江兼続がこの日本刀で、水神のカッパを斬って、洪水を治めたと言われていることから来ています。兼続は越後の戦国大名・上杉家の家臣で、上杉謙信から上杉景勝(うえすぎかげかつ)に仕えた名家老。「愛」の文字の兜をかぶった武将として、大河ドラマで有名になりました。家老として愛を込めて上杉家に仕えた兼続らしい逸話です。
制作年代 | ランク | 指定日 | 所蔵 |
---|---|---|---|
南北朝時代 | – | – | 不明 |
刀身の長さ | 反り | 元幅 | 茎の長さ |
87.9cm | – | – | – |
主な所有者・伝来 | |||
竹俣慶綱(三河守) → 上杉謙信 → 上杉景勝 → 豊臣秀吉 |
驚くほど多くの逸話を持つ名刀です。雷神を2度斬ったとされることから「雷切」の異名も持ちます。また、越後の上杉謙信の家臣・竹俣三河守慶綱(たけのまたみかわのかみよしつな)が朝市で、小豆を真っ二つに切るボロボロの太刀の切れ味に驚き、買い取って調べると、長船兼光の作だと分かり、「小豆兼光」(あずきかねみつ)と名付けました。
その後、刀好きの上杉謙信に献上したことから「竹俣兼光」(たけのまたかねみつ)の名で呼ばれるように。「川中島の戦い」でもこの太刀は使用され、武田方の鉄砲足軽を斬りつけると、鉄砲もろとも両断されたと言う逸話から、さらに「鉄砲切り兼光」の名も伝わります。ここまでの話に関しては、他の日本刀に関する物だとする説もありますが、この太刀に関する話はここで終わりません。
謙信の死後、跡を継いだ上杉景勝が、この太刀を京都へ砥ぎに出したところ、大変な事件が起こります。戻ってきた太刀を見た竹俣三河守が、これは偽物だと言うのです。竹俣三河守が言うには、本物にははばき(刀身を固定する刀装具)から1寸5分のところに、馬の毛が通るほどの穴が開いていたが、これにはその穴がないとのこと。驚いた景勝が調べさせると、本物が見つかり、偽物作成にかかわった者すべてが処罰されました。
そんな数々の逸話に彩られた名刀・竹俣兼光ですが、残念ながら、現在は所在不明となっています。噂を聞いた太閤・秀吉に所望され、景勝はやむなく亡き養父の愛刀を献上しますが、大坂夏の陣で落城の際に行方知れずになってしまったのです。奪って落ち延びた者がいるとの風聞があり、江戸幕府2代将軍・秀忠は「見付けた者には金300枚を与える」と御触れを出しましたが、ついに竹俣兼光は見つかりませんでした。
5つの地域に伝わる刀剣作りの歴史と特徴をご紹介します。
備前伝の日本刀をご覧頂けます。