徳川十五代将軍

第15代最後の将軍/徳川慶喜

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「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、徳川家歴代最後の征夷大将軍です。最後の将軍となったのは、水戸で育ち勤皇精神溢れる「一橋家」(ひとつばしけ)の養子「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)でした。15代将軍・徳川慶喜となったとき、怒濤の時代に何を思い、どのように向き合っていったでしょうか。約300年続いた江戸幕府の崩壊を、その中心で体験した最後の将軍・徳川慶喜の軌跡を辿ります。

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徳川慶喜の年譜

「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が将軍として活躍した幕末から余生を過ごした明治時代は、日本の歴史において大きな転換期となった時代のひとつです。特に幕末は、それまで鎖国していた日本に外国船が往来し、「尊皇攘夷派/尊王攘夷派」(そんのうじょういは)と「討幕派/倒幕派」(とうばくは)が対立するなど、日本国中が混乱を極めていました。そんな入り組んだ時代を生きた徳川慶喜について、簡単に年譜形式でその生涯を追っていきます。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1837年(天保8年) 1
水戸藩(現在の茨城県)9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男として誕生。幼名は「松平七郎麻呂」(まつだいらしちろうまろ)。
1847年(弘化4年) 11
一橋徳川家の養子となって同家の家督を相続。「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)と名乗る。13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の後継者候補となったが、14代将軍は「徳川家茂」(とくがわいえもち)に決定する。
1859年(安政6年) 23
井伊直弼」(いいなおすけ)による「安政の大獄」(あんせいのたいごく)で謹慎処分を受ける。井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺され、徳川慶喜は政治の表舞台に復帰する。
1862年(文久2年) 26
徳川家茂の将軍後見職を務める。
1864年(文久4年/
元治元年)
28
将軍後見職を辞任し、「禁裏御守衛総督」(きんりごしゅえいそうとく)の座に就く。「禁門の変」では幕府軍を指揮し、長州藩(現在の山口県)に勝利する。
1866年(慶応2年) 30
14代将軍・徳川家茂が病死したことにより、15代将軍に就任する。
1867年(慶応3年) 31
大政奉還」(たいせいほうかん)を行い、江戸幕府が握っていた政権を天皇に返上する。
1868年(慶応4年/
明治元年)
32
戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦となった「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)で大敗を喫する。「江戸城」(東京都千代田区)を新政府軍に明け渡す。「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区)にて謹慎する。
1910年(明治43年) 74
七男「徳川慶久」(とくがわよしひさ)に家督を譲る。
1913年(大正2年) 77
病気で亡くなる。

将来を嘱望された徳川慶喜の青年時代

教育熱心な父の方針で水戸へ

徳川慶喜

徳川慶喜

1837年(天保8年)、江戸水戸藩の藩邸において水戸藩主・徳川斉昭の七男が誕生しました。

当主と嫡男以外は松平姓を名乗る「御三家」(ごさんけ)の決まりによって、松平七郎麻呂と名付けられた男児が、のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)です。

徳川慶喜の父である徳川斉昭は、水戸藩2代藩主「水戸光圀」(みとみつくに)の勤皇精神や教育方針を崇敬していました。

父・徳川斉昭の「子供は水戸で教育すべき」という考えに基づき、松平七郎麻呂も生後7ヵ月以降は水戸で暮らし、徳川斉昭が作った藩校「弘道館」(こうどうかん)で学問と武術を学んでいます。

尊皇攘夷論者だった父の影響を受けて成長した松平七郎麻呂は、元服後に「松平昭致」(まつだいらあきむね)に改名。

幼い頃から聡明だった松平昭致の名は、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の耳にも入っており、御三家・一橋家の跡継ぎに請われます。1847年(弘化4年)松平昭致は一橋家を相続。将軍・徳川家慶から1字を賜り、一橋慶喜と名乗りました。

将軍跡継ぎ問題

徳川家慶は、一橋慶喜に将軍を継がせたいほど気に入っていましたが、「徳川宗家」(とくがわそうけ)は「直系の長子による相続」が基本。

そのため、13代将軍には1853年(嘉永6年)ペリーの黒船が来港したさなかに亡くなった徳川家慶の息子・徳川家定が就きました。しかし、徳川家定は病弱だったことに加え、人前が苦手という性格から将軍に向いておらず、子どもにも恵まれなかったため、跡継ぎの問題が浮上します。

14代将軍候補に選ばれたのは、一橋慶喜と紀州藩主「徳川慶福」(とくがわよしとみ)の2人。支持者は2派に分かれましたが、一橋慶喜を推していた「一橋派」(ひとつばしは)の「阿部正弘」(あべのまさひろ)、「島津斉彬」(しまづなりあきら)が亡くなり、一橋派の勢力が弱まった結果、徳川慶福を推していた「南紀派」(なんきは)の井伊直弼に押し切られる形で、1858年(安政5年)、14代将軍として徳川慶福改め徳川家茂が就任します。

大老・井伊直弼との対立

井伊直弼

井伊直弼

2度に及ぶ将軍就任を逃した徳川慶喜ですが、それほど将軍職にはこだわらない一方で、幕政には積極的にかかわっていました。

1858年(安政5年)、大老の井伊直弼が天皇の許可を得ないまま、不公平条約と呼ばれる「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)に調印してしまいます。

尊皇精神旺盛な徳川慶喜は、勝手な行動に出た井伊直弼と対立。その際に井伊直弼を詰問したことが原因で、謹慎処分となりました。

井伊直弼は安政の大獄などの弾圧政策で「尊皇派」(そんのうは)を圧迫しましたが、翌年には桜田門外の変で水戸浪士達に殺害されました。そして、1860年(万延元年)ようやく一橋慶喜の謹慎も解かれることになります。

1862年(文久2年)、将軍後見役となった一橋慶喜は「文久の改革」(ぶんきゅうのかいかく)を実行しました。黒船来航以来、大きく揺れていた幕府の体制を、非常時にも機能するよう対応させたのです。京で朝廷を護衛し、畿内の治安維持を担う京都守護職の設置や、参勤交代制度の緩和などはその一環でした。

また、1863年(文久3年)、徳川家茂が徳川幕府の将軍としては230年ぶりとなる上洛を果たした際には、一橋慶喜が一足先に上洛。将軍の名代として朝廷と攘夷の実行についての交渉を担当するなど、陰日向に幕政を支え続けます。

井伊直弼
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

戦う禁裏御守衛総督、徳川慶喜!

1864年(元治元年)一橋慶喜は、「禁裏御守衛総督」(きんりごしゅえいそうとく)に就任しました。禁裏御守衛総督とは、幕府公認の禁裏(京都御所)を警護するための役職のこと。つまり、一橋慶喜は京における幕府勢力の中心となったのです。

同年7月の禁門の変においては、一橋慶喜が「会津藩」(あいづはん)、「桑名藩」(くわなはん)、「大垣藩」(おおがきはん)、「薩摩藩」(さつまはん)など諸藩の総指揮者として長州藩の勢力を御所から撃退し、勇猛ぶりを発揮しました。歴代将軍のなかで、馬にも乗らずに敵と日本刀で戦ったのは一橋慶喜だけです。

また一橋慶喜は、条約締結についての勅許(天皇による許可)を得るために、切腹覚悟で朝廷と激しく交渉し、勅許を得ることに成功しました。

第15代将軍・徳川慶喜誕生

固辞しながらの将軍職就任

禁門の変の報復として、1864年(元治元年)に「第一次長州征伐」(だいいちじちょうしゅうせいばつ)を行った幕府は、さらなる報復のために、再度長州に向かいます。しかし、1866年(慶応2年)の「第二次長州征伐」(だいにじちょうしゅうせいばつ)では、薩摩藩が長州藩と手を組んだため、幕府は苦戦を強いられました。

さらに、「大坂城」(現在の大阪城)では徳川家茂が死亡。連敗を重ねる幕府を救うべく、一橋慶喜は休戦協定を取り付けました。

そんな一橋慶喜に3度目の次期将軍就任の要請がかかります。しかし、一橋慶喜は徳川宗家だけは相続したものの「大奥や譜代大名が反対しており、世間も私に野心があるように噂している」と言って将軍就任を拒否しましたが、その4ヵ月後、「将軍宣下」(しょうぐんせんげ:天皇の命令で征夷大将軍職に任じること)を受け、15代将軍に就任したのです。

なお、徳川慶喜がすぐに将軍就任を受けなかった理由は、恩を売った形で「仕方なく」就任することで、自分のやり方で政治を有利に進める目的だったのではないかと言われています。

将軍就任後も徳川慶喜は畿内を離れず、朝廷との連携を重視していました。徳川慶喜は将軍在職中、江戸城に足を踏み入れなかった唯一の徳川将軍です。その間、徳川慶喜は開国へと向けて準備を進めます。

慶応の改革

徳川慶喜は、「慶応の改革」(けいおうのかいかく)を推進しました。フランス公使「レオン・ロッシュ」の助言に基づいて、ヨーロッパの行政組織を参考に新体制を作ろうとしたのです。

慶応の改革の一環で徳川慶喜は新たな人材の登用や、新生陸軍の整備、フランスの支援による「横須賀製鉄所」(よこすかせいてつじょ)の建設などを行いました。徳川慶喜が目指したのは、新体制による幕府を中心とした中央集権国家づくりでした。

この時点で徳川慶喜は、まだ幕府の存続を諦めてはいません。しかし、これが結果的に江戸幕府最後の改革となりました。

徳川幕府、終わりの始まりとその終焉

大政奉還

大政奉還への道のり

大政奉還とは、分かりやすく言うと、それまで徳川幕府が握っていた政権を天皇へ返上することを意味します。徳川慶喜が大政奉還へと動き出す大きなきっかけとなったのは、1867年(慶応3年)1月に、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)が崩御(ほうぎょ:天皇や皇后などを敬ってその死を指す言葉)されたこと。

孝明天皇は、攘夷論者でありながら倒幕は望んでおらず、むしろ朝廷と幕府が協力して攘夷を成し遂げたいとの思いから、「公武合体派」(こうぶがったいは:古くからある朝廷の権威と、幕府や諸藩を結び付けて幕藩体制の再強化を図ろうとした思想)の立場を取っていました。

岩倉具視

岩倉具視

そんな孝明天皇の崩御が倒幕を推し進める絶好の機会と捉えた倒幕派は、公家の「岩倉具視」(いわくらともみ)などを中心に、「明治天皇」(めいじてんのう)を擁立した新政権を立てる気運を沸き起こします。

そのような流れの中で薩摩藩と長州藩は、武力による倒幕を狙い始めるようになったのです。

その危機を察知した徳川慶喜は、思い切った行動に出ます。これが大政奉還だったのです。

1867年(慶応3年)に徳川慶喜が実行した大政奉還により、260年近くも存続した江戸幕府を終わらせただけでなく、1185年(元暦2年/文治元年)に開かれた「鎌倉幕府」から、約700年もの間続いた「武家政権」そのものが終焉を迎えることになりました。

幕末の歴史において、最も大事な局面のひとつとなった大政奉還の場所に徳川慶喜が選んだのが、現在の京都市中京区にある「二条城」(にじょうじょう)です。

徳川慶喜が二条城を選んだ理由とは

二条城

二条城

「天皇に政権を返上する」という非常に大切な場面に、徳川慶喜はなぜ、江戸幕府の歴代将軍が居城とし、幕政の中枢ともなっていた江戸城ではなく、二条城を選んだのでしょうか。

その理由のひとつとして考えられているのが、二条城が「徳川家」(とくがわけ)の権威を表す象徴であったということ。

同城を築いたのは、言わずと知れた江戸幕府初代将軍「徳川家康」。将軍宣下(しょうぐんせんげ:天皇が武家政権の長である征夷大将軍に任命する儀式)を「伏見城」(京都市伏見区)にて受けた徳川家康は、天皇が住まわれていた京都御所まで、挨拶のために豪華絢爛な行列を引き連れて向かいました。

このときの出発地となったのが二条城だったのです。これはまさしく、徳川家康の権威を世間に知らしめるために行われたことでした。つまり二条城は、徳川将軍家の天下が始まった場所であり、大政奉還が行われたことで、同家の天下が終わりを告げた場所となったとも言えるのです。

徳川慶喜が大政奉還を決断した背景

大政奉還

大政奉還

江戸幕府を含むすべての武家政権は、形式上ではありましたが、天皇から委任されて幕政を行っていました。

徳川慶喜は、この「従来之旧習」(じゅうらいのきゅうしゅう)を改め、政権を返上することにしたのです。

幼い頃から父・徳川斉昭に、「尊王論/尊皇論」を中核とした「水戸学」(みとがく)を叩き込まれていた徳川慶喜。そのため、大政奉還を実施することには、特段抵抗はありませんでした。

さらにこの時代は、欧米列強が日本の開国を強く要求していた時期。そこで徳川慶喜は、大政奉還によって日本のリーダーが朝廷を代表する天皇であったのか、それとも幕府を代表する将軍であったのかを明確にしようとしたのです。

また、徳川慶喜が大政奉還を決断した裏には、徳川慶喜のある思惑が隠されていました。政権を朝廷に返還したという姿勢を見せれば、薩摩も長州も倒幕の大義名分を失うことになります。そこで徳川慶喜は、大政奉還の実行によって徳川の政治力を維持したまま、薩摩藩・長州藩との武力衝突を回避したのです。

王政復古の大号令

「討幕派」(とうばくは)の薩摩藩・長州藩にとって大政奉還は、非常に厄介な政策でした。徳川慶喜が合議体の筆頭格のままでは、新しい政府で思うような政治ができないからです。

そこで、1867年(慶応3年)今度は討幕派がクーデターを起こします。御所にて明治天皇臨席のもと、徳川家を排除した新政府樹立を宣言。これが「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)です。

討幕派は江戸幕府を完全に廃止し、徳川家はすべての役職も領地も返上すべきだと要求。この切り返しに徳川家も黙ってはいられません。対立を深めた両者は戊辰戦争への道を突き進んでいきます。

戊辰戦争で採った徳川慶喜の行動

開戦に至った経緯とは

徳川慶喜が討幕派から迫られたいわゆる「辞官納地」(じかんのうち)は、王政復古の大号令の際、新たに設けられた「総裁」と「議定」(ぎじょう)、「参与」の「三職」による会議に基づいて決められたこと。

徳川慶喜にとっては、大政奉還後も保持していた「右大臣」(朝廷の最高機関における事実上の長官)の役職と、日本全国におけるどの大名よりも多い領地を取り上げられることになってしまい、徳川家が再び覇権を握るのは困難になってしまうことを意味します。

しかし、当時の徳川慶喜は、討幕派による辞官納地の要求を一旦呑むことで、新政府において政権の中心となる議定の座に就任することを目論んでいたのです。そして徳川慶喜は、議定に任命されるために上洛しようと、大坂で準備を始めていました。

ところがこのときの江戸では、薩摩藩士のリーダー的存在であった「西郷隆盛」(さいごうたかもり)を中心とした浪士達が、放火や強盗といった挑発行為を頻発させていたのです。この薩摩藩による挑発行為は徐々にエスカレートし、1867年(慶応3年)12月には、庄内藩(現在の山形県)の屯所(とんしょ)にて発砲する事件にまで発展。

この当時の庄内藩は、江戸市中を取り締まる職務を担っていました。そのため、宣戦布告とも捉えられるような度を超えた挑発行為に、怒り心頭に発した旧幕府側は、同年12月25日、江戸の薩摩藩邸に放火。同藩邸を焼失させたのです。

実はここまでの流れは、すべて西郷隆盛の思惑通り。「江戸薩摩藩邸の焼討事件」と呼ばれるこのできごとにより、西郷隆盛は、「戦いの糸口を開いたのは旧幕府側だった」という既成事実を作ったのです。

このおよそ3日後には、徳川慶喜が滞在していた大坂にまで、同事件の知らせが届きます。そして何としてでも薩摩藩を討たなければならないとの声が上がり、戊辰戦争へと突入していったのです。

戊辰戦争の緒戦、鳥羽・伏見の戦い

1868年(慶応4年)1月2日に、旧幕府軍約10,000人が、京都の「伏見奉行所」と「淀」(よど)へ向けて出発。対する薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍は、旧幕府軍の半数を下回るおよそ5,000人の軍勢が二手に分かれ、伏見と鳥羽方面で待機していました。

その翌日に両軍は、鳥羽にある「小枝橋」(こえだばし)付近で接触します。旧幕府軍は、上洛のために道を空けるよう新政府軍に要求しますが、これを断固拒否。強行突破しようと進軍した旧幕府軍へ向けて新政府軍は、一斉に砲撃を始めます。そしてとうとう、戊辰戦争の緒戦(しょせん:始まったばかりの頃の戦争)となる鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られたのです。

錦の御旗

錦の御旗

同合戦において薩長連合は、「錦の御旗」(にしきのみはた)と称される旗印を掲げています。

錦の御旗とは、朝敵(ちょうてき:朝廷に背く敵)を討伐する際に、天皇に代わって軍を指揮する権限を委任するため、天皇が軍の総大将に与える証しとなる物です。

薩長がこれを掲げるということは、新政府軍は「官軍」、すなわち朝廷側の軍であり、旧幕府軍は「賊軍」、つまり朝敵になったことを意味していました。

錦の御旗を目にした旧幕府軍は、やはり天皇に背くことはできないと戦意を喪失。結局同軍は、拠点としていた大坂城へと引き返したのです。そして新政府軍は、鳥羽・伏見の戦いにおいて大きな勝利を収めました。

このときに徳川慶喜は、大坂城に戻った自軍の兵士達に対して「最後の一兵になっても決して退いてはならない」と厳命します。自らも戦い抜くことを宣言していましたが、その晩、側近や妾、旧幕府軍で共に戦っていた会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)や桑名藩主「松平定敬」(まつだいらさだあき)達を無理やり連れて、軍艦「開陽丸」(かいようまる)で、艦長の「榎本武揚」(えのもとたけあき)に告げずに置き去りにしたまま、江戸に逃亡。

総大将であった徳川慶喜の不在を翌日に知った兵士達は混乱に陥り、彼らもまた、次々に大坂城を脱出したのです。このような言い逃れのできない徳川慶喜の敵前逃亡が、旧幕府軍の瓦解を招いたと推測されています。

そののち徳川慶喜は、東京都台東区上野の寺院で徳川家の菩提寺である寛永寺で謹慎しました。

江戸無血開城

西郷隆盛・勝海舟

西郷隆盛・勝海舟

1868年(慶応4年)2月には、旧幕府軍「勝海舟」(かつかいしゅう)に事態収拾を一任し、徳川家当主の座も養子である「田安亀之助」(たやすかめのすけ)に譲ってしまいます。

4月11日、新政府軍の参謀・西郷隆盛と勝海舟の交渉により、江戸城は新政府軍に明け渡されました。誰ひとりとして血を流すことなく開城に至ったこのできごとは、「江戸無血開城」とも呼ばれています。江戸城を明け渡すということは、徳川家が政権を失うことと同義です。

こののち徳川慶喜はそのまま隠居生活に入り、幕府制度や征夷大将軍は廃止。こうして徳川慶喜は、日本史上最後の征夷大将軍となったのです。

西郷隆盛
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

「黙して語らず」の徳川慶喜に対する評価

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徳川慶喜は禁門の変において、陣頭指揮を執って勇敢に戦いました。しかし、単に勇猛だっただけではなく、先を読む頭脳をかね備えた人物でもあったと言われています。

大政奉還を行ったことは、間違いなく徳川慶喜にとって最大の功績です。この英断により内乱を防ぎ、それに乗じた諸外国からの侵略も阻止。それだけを考えても徳川慶喜の判断は正しかったと言えます。これに加えて、勝海舟に江戸の無血開城を実行させたことも、江戸市民が戦争に巻き込まれる事態を回避した意味において、十分評価に値するのです。

しかし、大政奉還後すぐに幕府の新体制を整えることができていれば、討幕派による王政復古のクーデターと戊辰戦争を防げたかもしれません。

さらによく分かっていないのは、鳥羽・伏見の戦いにおける徳川慶喜の行動。戦場に多くの兵を置いたまま敵前逃亡した事実は、責められても仕方がないことです。

徳川慶喜が逃亡した理由には諸説あり「切れ者と言われた明晰な頭脳を持つ徳川慶喜には、旧幕府軍の負けが見えていたから逃亡した」という説や、「勤皇派だった徳川慶喜は、薩摩と戦う覚悟はあっても、自分が朝敵となることを恐れたから」という説などがあります。

近代化への貢献度

徳川慶喜は、将軍在職中に様々な政策を行ったように思えますが、その期間はたった1年。その間、難しい交渉や日本の将来を見越した改革などを実行します。

幕府の懸案事項、天皇の許可なく米国と結んでしまった日米修好通商条約の許可をようやく取り付けることができたのは、徳川慶喜の尽力あってのことでした。

また、慶応の改革では、横須賀製鉄所や造船所を設立し軍制改革などを行い、のちの日本の近代化に貢献しています。

さらに、徳川慶喜は家臣として一橋時代から仕えていた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)を将軍名代の随員に抜擢し、ヨーロッパを見聞させました。大政奉還ののちに帰国した渋沢栄一に対して徳川慶喜は「これからはお前の好きな道を行きなさい」と独り立ちさせます。

渋沢栄一はそののち、日本銀行や東京証券取引所などを設立。日本の近代資本主義国家としての基礎を築き、現代では「日本資本主義の父」として知られる偉人のひとりに数えられています。

徳川慶喜の余生

1869年(明治2年)9月に戊辰戦争が終了すると、徳川慶喜の謹慎も解かれ、静岡で趣味に没頭する生活を送りました。

一時は貴族院議員を務めた徳川慶喜ですが、任期を終えると、すぐにまた趣味の生活に戻っています。特にカメラが好きで、様々な風景撮影を楽しみました。当時珍しい自転車を乗り回し、弓道や手裏剣術などの鍛錬も欠かなかったと言われています。

地元の人々には「けいき様」や「けいきさん」と呼ばれて親しまれており、徳川慶喜自身も「けいき」と呼ばれることを好んでいました。

一方で、旧幕府関係者に対しては距離を置いていたとされており、困窮するかつての家臣に対しても知らぬ顔をしていたと言われています。その理由ははっきりしていませんが、もう政治にかかわりたくなかったのではないかという説が有力です。

徳川慶喜の愛刀

1913年(大正2年)11月22日、徳川慶喜は風邪から急性肺炎を併発して亡くなりました。享年77歳。歴代の徳川将軍のなかでも1番の長生きでした。

徳川慶喜にまつわる刀剣として知られているのが「本庄正宗」(ほんじょうまさむね)。4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)以降の徳川将軍家に代々伝わる宝刀です。本刀の持ち主を遡れば「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)、「島津義弘」(しまづよしひろ)、徳川家康など、錚々たる武将が名を連ねます。

本刀は、そののち徳川宗家16代、17代へと継承されましたが、終戦直後に17代宗家「徳川家正」(とくがわいえまさ)のもとから進駐軍に押収され、そのあとは昭和初期の段階で国宝(旧国宝)に指定されたものの、現代まで行方不明になっている幻の1振です。

徳川慶喜の辞世の句

「この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり」

徳川慶喜が遺した辞世の句の意味は、「この世の人生とは短い夢のようなものだと聞いていたが、振り返ってみれば、ずいぶんと長い年月であった。」

徳川慶喜の人生は、将軍を辞めてからの期間のほうが長かったのです。静かに趣味に生きた余生から見れば、怒濤の時代だった幕末も遠い過去のできごととなり、人生を長く感じたのかもしれません。

また、徳川慶喜は次のような言葉も残しています。

「家康公は日本を治めるために幕府を開いたが、私は幕府を葬り去るために将軍職に就いた。」

幾度となく征夷大将軍になることを拒み、大政奉還や江戸無血開城など、徳川慶喜が新しい世を望んでいたことを示す言葉だと言えます。

「徳川家康の再来」とまで言われた最後の将軍、徳川慶喜。その奇才ぶりは、確かに徳川家康を彷彿とさせるもので、徳川慶喜が行ったことは結果的に新時代の礎を築きました。鳥羽・伏見の戦いの敵前逃亡の件や討幕運動最大の敵として、徳川慶喜の評価には賛否両論あります。

ただ、徳川慶喜は倒幕勢力との争いでの立ち振る舞いからも分かるように、徳川将軍のなかでも市民の命を尊び、争いから遠ざけるための行動を優先する屈指の将軍でもありました。徳川慶喜の英断がなければ、より多くの命が失われただろうと言われており、約700年も続いた武家政権を自らの手で終わらせたことも併せて、近年では徳川慶喜を再評価する流れもあります。

徳川慶喜を描いた2つの大河ドラマ

そんな徳川慶喜を再評価する流れを受けて、年齢を問わず人気のある「大河ドラマ」では、徳川慶喜にスポットを当てた作品が、2つ制作されています。

「徳川慶喜」(1998年[平成10年]放送)

本木雅弘さんが演じる徳川慶喜

本木雅弘さんが演じる徳川慶喜

1作目は、徳川慶喜を主人公に据えた「徳川慶喜」。原作は、日本を代表する歴史小説家「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)が著した長編時代小説「最後の将軍 徳川慶喜」です。

この小説は長編とは言っても、約1年に亘って放送される大河ドラマにとっては少し短い内容。そのため、徳川慶喜とゆかりの深い人物「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が編纂した「徳川慶喜公伝」についても、本大河ドラマの様々な箇所で用いられていました。

大河ドラマで幕末が取り上げられたのは、「大久保利通」(おおくぼとしみち)と西郷隆盛が主人公であった1990年(平成2年)の「翔ぶが如く」(とぶがごとく)以来、8年ぶりのこと。これに加えて、幕末の志士達ではなく江戸幕府側、さらには、徳川家康など有名な戦国武将に比べると、世の中にはあまり深くは知られていなかった徳川慶喜が、大河ドラマの主人公として選ばれたことは非常に珍しく、放送前から話題を呼んでいたのです。

主人公である徳川慶喜を演じたのは、俳優の「本木雅弘」(もときまさひろ)さん。いわゆる「イケメン」であったことでも知られる徳川慶喜を、自身も端正な顔立ちである本木雅弘さんが、終始ポーカーフェイスを貫いて好演。冷静で聡明、そして策略を得意としていた徳川慶喜の人物像を、見事に表現した演技が高く評価されました。

渋沢栄一の功績
渋沢栄一に関連する人物、功績・教えについてご紹介します。
戦国武将
歴史を動かした有名な戦国武将のエピソードをはじめ、関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

「青天を衝け」(2021年[令和3年]放送)

吉沢亮さんが演じる渋沢栄一

吉沢亮さんが演じる渋沢栄一

2作目は、2021年(令和3年)2月より放送が開始された「青天を衝け」(せいてんをつけ)。徳川慶喜とは切っても切れない関係にあった渋沢栄一が主人公です。

「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、もともと、幕末における「尊王攘夷派」(そんのうじょういは:天皇など君主を尊び、外敵を排除しようとする思想)の志士でした。しかし、倒幕のためにクーデターを試みるも失敗。

その後、渋沢栄一は、亡命しようと向かった京都において徳川慶喜に出会い、一橋家に仕えることになりました。そして、同家の財政改革を行うなどして、徳川慶喜にその才能を認められるように。さらには、徳川慶喜が将軍に就任したことで渋沢栄一は幕臣となり、政策のことなどを直接話し合う、懇意な間柄になっていくのです。

大河ドラマ青天を衝けは、「吉沢亮」(よしざわりょう)さんが演じる渋沢栄一と、「草彅剛」(くさなぎつよし)さんが演じるもうひとりの主人公・徳川慶喜の関係をそれぞれの視点で描く、パラレルな展開で物語が進んでいきます。

前述した通り、渋沢栄一の生涯を語るうえで欠くことのできない徳川慶喜の存在についても、同時に描かれていくのです。

2021年(令和3年)2月14日の初回放送後には、両者の幼少期を演じた子役達の演技が話題に。好奇心旺盛でお喋り好きな渋沢栄一と、子どもでありながら、どこかクールな一面を見せた徳川慶喜。対照的でありながらも、両者の魅力が満載であったとの感想が、SNS上でも溢れていました。

青天を衝けのタイトルは、渋沢栄一が自身で詠んだ漢詩の一節である「勢衝青天攘臂躋」から取られた言葉。これは、「青空を衝き刺すような勢いで、肘を捲って(まくって)登る」ことを意味しています。幕末から明治という激動の時代に翻弄されながらも、まるで晴れ渡った青空を衝くように高い志を持ち、渋沢栄一自身の、そして日本全体の未来を切り開くために奮闘する、渋沢栄一と徳川慶喜の姿が描かれる作品です。

大河ドラマ「青天を衝け」に見る徳川慶喜の逸話

第1回の放送時(2021年[令和3年]2月14日)、「こんばんは、徳川家康です」と幕末にはゆかりのなかった徳川家康が、語り部としてオープニングを飾った大河ドラマ青天を衝け。

歴代の大河ドラマでは観られなかった前代未聞の演出がSNSを賑わせ、若者からも支持されるようになったこのドラマは、1998年(平成10年)の大河ドラマ徳川慶喜と同様に、渋沢栄一の著作・徳川慶喜公伝に記載のある史実に基づいた逸話が描かれているのです。青天を衝けで実際に用いられ、徳川慶喜の人となりが窺える2つの逸話をご紹介します。

徳川慶喜の聡明さの秘密は「黒豆」にあり!?

七男でありながら、父・徳川斉昭の期待を一身に受け、弘道館で学問と武芸の鍛錬に励んでいた徳川慶喜。「スパルタ」と評されるほど厳しかった徳川斉昭の教育が、江戸幕府15代将軍として、30歳の若さで幕政に腕を振るった徳川慶喜の才能を育てることに繋がったと言えます。

しかし、上に立つ者に必要なのは、政治手腕だけではありません。将軍の激務に耐え得るだけの体力も必要なのです。徳川慶喜の父・徳川斉昭は、「武士たるもの、心身と共に強くなければならない」と考えていたのか、現代の「健康マニア」と言えるほどの多種多様な健康法を自ら実践していました。

そのなかのひとつとして、大河ドラマ「青天を衝け」の第1回「栄一、目覚める」に登場したのが、黒豆を毎朝100粒(200粒の説もあり)食べ、牛乳を飲む健康法。これは、一橋家へ養子に出した徳川慶喜に宛てて徳川斉昭が多数送った手紙の中に、「黒豆は日に200粒ずつ召し上がり、牛乳も上がり申し候よし」と記されていることから、実際に行われていた健康法であることが分かります。

この当時の牛乳は、一般的な日本人にとってはあまり馴染みのなかった飲み物。ところが徳川斉昭は、水戸藩に牧場を造る計画をいち早く立て、牛乳を原料としたバターなどの加工品も試作させています。

このように、よく知られていない健康法でも、厭わずに導入していた父を見習っていた徳川慶喜は、毎朝欠かさず、黒豆100粒を牛乳と共に食べていたと伝えられているのです。

徳川慶喜公伝によれば、徳川慶喜は「記憶の明確なこと驚くばかり」であったと評されています。徳川慶喜が毎日食べていた黒豆の皮には、血液をサラサラに維持する効果が期待される成分「アントシアニン」が含まれており、これが、徳川慶喜の老化を防ぐことに繋がっていたのではと考えられます。

黒豆100粒を毎日食べるのはなかなか大変なことですが、徳川慶喜は、この健康法を怠らなかったが故に、大政奉還や江戸無血開城など、大胆な政策を決断する聡明さが育ったのかもしれません。

徳川慶喜が垣間見せた家臣への優しさ

前述した通り、鳥羽・伏見の戦いで敵前逃亡したことなどにより、将軍としての評価が二分している徳川慶喜。自身の家臣達には厳しく当たることも多かったため、徳川慶喜のことを嫌っていた家臣が多くいたと伝わっています。

しかし、そんな徳川慶喜にも優しい一面が備わっていました。これが大河ドラマ青天を衝けで描かれていたのが、第4回「栄一、怒る」(2021年[令和3年]3月7日放送)です。

この回のあらすじは、徳川慶喜がまだ将軍となる前、ペリーが日本への再来航を果たしたため、江戸幕府が激しく混乱。一方で、次期将軍候補への徳川慶喜の推挙を企む父・徳川斉昭が、旗本の息子であった「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)を、徳川慶喜の小姓に据えたとする内容です。

農人形

農人形

そのなかで話題となったのが、大河ドラマ青天を衝けにおいて、少々変わり者として描かれている平岡円四郎が、主君となった徳川慶喜に給仕するシーン。

作法をあまり理解しておらず、ご飯ひとつ満足によそえない平岡円四郎に対して徳川慶喜は、厳しく叱責するかと思いきや自らお椀を持ち、ご飯の盛り方を丁寧に教えたのです。

さらに徳川慶喜は、父・徳川斉昭が農民への感謝を込めて日々の習慣としていた、膳の上に置いた農人形に、一箸のお米を供えて手を合わす方法も披露。

何とも微笑ましいこの一連のシーンについて視聴者からは、SNS上に「ほっこりした」、「徳川慶喜の素顔が少し見えた」との感想が寄せられていました。

なお、この徳川慶喜と平岡円四郎による給仕の逸話についても、徳川慶喜公伝において、「小姓の職掌は、食膳の給仕を始めとし、髪結うすべまでも心得べきものなるに、平岡円四郎の始めて近侍を拝命せし時は、何一つ慣れ得ずして、(中略)公御覧じて、給仕の仕方はかくするものぞと、自身に杓子を執り椀を持ち、その仕ぶりを見せて細かに教へ給ひければ(後略)」との記述があります。

「惰弱」や「臆病者」と揶揄されながらも、江戸無血開城によって自身の名誉よりも民の命を最優先し守り抜いた「名君」の評価にも値する徳川慶喜の優しさは、この逸話からも窺えるのです。

徳川慶喜の基礎知識

「徳川慶喜の基礎知識」では、徳川慶喜について詳しくまとめました。
ひ孫をはじめとする子孫のほか、家系図や趣味である写真、渋沢栄一との関係性、そして功績・評価や死因などを詳しくご紹介しています。さらに、父親にあたる水戸藩主・徳川斉昭、妻である一条美賀子、また江戸時代に終焉をもたらした徳川慶喜の「大政奉還」についても解説。謎の多い徳川慶喜について、あらゆる角度から紐解いていきます。

将軍辞職後、政治の表舞台から姿を消した「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、長い隠棲生活のなかで趣味へと没頭していきます。多芸多才な人物であった徳川慶喜は、あらゆる趣味を持っていましたが、なかでも熱を注いだ趣味が「写真撮影」です。静岡と東京で隠居生活を送るなかで、徳川慶喜は将軍時代から好んでいた写真を通して、外の世界を覗いていました。激動の幕末を駆け抜けた徳川慶喜は、趣味人として静かに暮らした後半生をカメラとともに歩んでいたのです。また、徳川慶喜が愛した写真撮影は、徳川慶喜の血を引くひ孫にも受け継がれました。徳川慶喜が趣味の域を超えて没頭した写真撮影と、隠居生活のなかで撮られた作品のこと、またプロのカメラマンとして活躍した徳川慶喜のひ孫「徳川慶朝」(とくがわよしとも)氏についてご紹介します。
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「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう)のひとつである「一橋徳川家」(ひとつばしとくがわけ)から徳川宗家を相続した人物です。もともと徳川慶喜は、「徳川御三家」のひとつに数えられる「水戸徳川家」(みととくがわけ)の出身でしたが、一橋徳川家へ養子として入っていました。 なぜ徳川慶喜は、御三家、すなわち宗家に次ぐ地位にあった水戸徳川家を出て、一橋徳川家の養子となる必要があったのでしょうか。 また徳川慶喜と言えば、「江戸幕府最後の将軍」といったテーマで語られることの多い人物ですが、実は明治になってから多くの子孫を残しています。 徳川慶喜の血統を受け継いだ子孫は、どのように家系を繋いでいったのか、明治における「徳川慶喜家」を中心に、徳川慶喜の子孫と家系図をご紹介しましょう。
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