徳川十五代将軍

第15代最後の将軍/徳川慶喜(よしのぶ)

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「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、徳川家歴代最後の征夷大将軍です。最後の将軍となったのは、水戸で育ち勤皇精神溢れる「一橋家」(ひとつばしけ)の養子「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)でした。15代将軍・徳川慶喜となったとき、怒濤の時代に何を思い、どのように向き合っていったでしょうか。約300年続いた江戸幕府の崩壊を、その中心で体験した最後の将軍・徳川慶喜の軌跡を辿ります。

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大河ドラマ「青天を衝け」と徳川慶喜

2021年(令和3年)から放送のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)は、幕末から明治時代を駆け抜けた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と、同じ時代を生きた江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の物語です。渋沢栄一が新時代を切り拓くことができたのは、徳川慶喜との出会いが大きく関係しています。ここでは大河ドラマ「青天を衝け」について、「七郎麻呂」と呼ばれていた頃の徳川慶喜が登場する第1回から、徳川慶喜が静岡で隠居生活に入るまでの第29回の放送に関するあらすじとトピックをご紹介。渋沢栄一の生涯に影響を与えた徳川慶喜を中心に、波乱の世を描いた「青天を衝け」をより楽しむことができます。

第29回 栄一、改正する(2021年10月3日放送)

明治政府に出仕した渋沢栄一(吉沢亮)は、大隈重信(大倉孝二)や伊藤博文(山崎育三郎)に「改正掛」(かいせいがかり)について説明します。改正掛は大蔵省や外務省など各省の垣根を超え、国を改正することだけを考えた特別な組織のこと。そして各省から兼務の人材として、杉浦譲(志尊淳)や前島密(三浦誠己)を静岡から呼び寄せます。
改正掛の会議では、租税や貨幣の統一、全国の測量、飛脚制度など各省から様々な意見が飛び交い、課題は山積。一方で旧幕臣である渋沢栄一らの活躍を快く思わない玉乃世履(高木渉)達との間で対立が生まれてしまいます。
そんな中、渋沢栄一は尾高惇忠(田辺誠一)と再会。渋沢栄一は製糸工場の立ち上げのために新政府に来て欲しいと打診します。新政府に弟・尾高平九郎(岡田健史)を殺されたことから、渋沢栄一の誘いを一度は断りましたが、最終的には新政府を手伝う決意をするのでした。

今週のトピック

新たな世になり、徳川慶喜(草彅剛)は静岡で穏やかな生活を送っていました。そんな中、1871年(明治4年)3月、いよいよ新式郵便がスタート。渋沢栄一から手紙を送られ、それを嬉しそうに読み上げる徳川慶喜の笑顔が印象的でした。

第28回 篤太夫と八百万の神(2021年9月26日放送)

新政府から大蔵省への出仕を求められた渋沢栄一(吉沢亮)は、直に断るため東京へ向かいます。そして早速、伊藤博文(山崎育三郎)の案内で大隈重信(大倉孝二)を訪ね、出仕の辞任を申し出ますが、大隈重信と話しているうちに、根本的な考えが同じことに気付きます。大隈重信はスキルのある人材を神に例え、「日本中から八百万の神々が集まっているのと同じ。君もそのひとり。知識を日本のために使って欲しい」と立て続けに演説。渋沢栄一は大隈重信の熱い思いに完全に言い負かされてしまいます。
一方、戊辰戦争が終結し、ようやく徳川慶喜(草彅剛)は、謹慎を解かれ宝台院を出ました。そんな徳川慶喜のもとへ渋沢栄一が新政府のことについて報告にやってきます。徳川慶喜は渋沢栄一に大隈重信の誘いを受けるようにアドバイス。「自分のことは忘れて、新政府で腕を振るうように。この先は日本のために尽くせ」と最後の命を下します。渋沢栄一はその命を受け入れ、「篤太夫」の名を返上し、新政府入りを決意するのでした。

今週のトピック

1869年(明治2年)9月、徳川慶喜の謹慎が解かれました。そして静かな日々を送っている徳川慶喜のもとへ渋沢栄一がやってきます。悩む渋沢栄一に対し、彼の能力を理解しているからこそ、「この先は日本のために尽くせ」と最後の命を下す徳川慶喜の姿が印象的でした。立場は違うふたりがいかに互いを思っているかが窺えます。
「生涯の主は徳川慶喜だけだ」と語る渋沢栄一と、「大儀であった。息災を祈る」と語る徳川慶喜の別れの場面は感動的で胸が熱くなりました。

第27回 篤太夫、駿府で励む(2021年9月19日放送)

渋沢栄一(吉沢亮)は、大久保一翁(木場勝己)から駿府藩の勘定組頭を命じられますが、水戸にいる徳川昭武(板垣李光人)のことを思って辞退します。しかし、勘定組頭就任の命令が徳川慶喜(草彅剛)の配慮であることを聞かされた渋沢栄一は、駿府に残ることを決断。そこでパリで学んだ知識を活かし、武士には刀を捨てそろばん勘定を、商人には駿府の一端を担う矜持を持ってほしいと説得。武士と商人が互いの良いところを認め合い、力を合わせて商いを営む「商法会所」を設立し、駿府藩の財政改革に乗り出します。
一方、箱館では、渋沢成一郎(高良健吾)や土方歳三(町田啓太)らが新政府軍と戦っていました。敗北を前に死を覚悟した土方歳三は渋沢成一郎に「お前は生きろ」と逃し、自らは散っていくのでした。

今週のトピック

渋沢栄一が内紛の続く水戸に向かうことは危険だと感じた徳川慶喜は、渋沢栄一に駿府に残り「勘定組頭」を務めることを命じます。徳川昭武がふたりの仲を「スぺシアル」と言う通り、徳川慶喜と渋沢栄一の繋がりを感じる場面でもありました。一方、長らく続いた戊辰戦争は箱館開城とともに終焉を迎えます。土方歳三をはじめ、亡くなった者達を弔う徳川慶喜の姿は印象的でした。

第26回 篤太夫、再会する(2021年9月12日放送)

日本に帰国した渋沢栄一(吉沢亮)は久々に故郷・血洗島に戻ります。故郷では、妻の渋沢千代(橋本愛)をはじめ、父・渋沢市郎右衛門(小林薫)や母・渋沢ゑい(和久井映見)らの姿に安心し、大きくなった娘の渋沢うた(山崎千聖)を抱きしめ、再会を喜ぶのでした。一方、尾高長七郎(満島真之介)の死を知らされた渋沢栄一は大きな衝撃を受けます。家族との再会後、渋沢栄一が尾高家に行くと、尾高惇忠(田辺誠一)の姿が。尾高惇忠は生きて帰った自分を責め、誰にも会わせる顔がないと逃げようとします。そんな尾高惇忠に対し、渋沢栄一は生きていることへの感謝を伝え、「生きている限り前に進みたい」と涙するのでした。
その後、渋沢栄一は徳川昭武(板垣李光人)から預かった書状を届けるため、徳川慶喜(草彅剛)が謹慎している駿府に向かいます。そこで駿府藩の中老・大久保一翁(木場勝己)にパリでの収支を報告し、徳川慶喜との謁見を願い出ました。数日後、謁見が叶った渋沢栄一ですが、徳川慶喜の変わり果てた姿に驚くのでした。

今週のトピック

駿府の宝台院で渋沢栄一と2年ぶりの再会を果たした徳川慶喜からは、かつての輝きが消え失せ、すっかり覇気がなくなっています。大政奉還、鳥羽伏見の戦いなど徳川慶喜の無念が痛いほど伝わる回でした。一方で渋沢栄一から徳川昭武の様子を聞かされるうちに、穏やかな表情に変わっていくシーンが印象的でした。

第25回 篤太夫、帰国する(2021年8月22日放送)

元号が慶応から明治に変更された1868年(明治元年)、フランスから帰国した渋沢栄一(吉沢亮)は、横浜で杉浦愛蔵(志尊淳)や福地源一郎(犬飼貴丈)らと再会。幕府が薩長に敗れた経緯や、徳川慶喜(草彅剛)が「鳥羽・伏見の戦い」で敗戦したことなど、幕臣の動向を初めて知らされたのでした。さらに、川村恵十郎(波岡一喜)と須永虎之助(萩原護)から、渋沢喜作(高良健吾)、尾高惇忠(田辺誠一)、渋沢平九郎(岡田健史)のその後を聞かされます。
渋沢成一郎らは、彰義隊(しょうぎたい:徳川慶喜の警護などを目的として結成された部隊)を結成するもすぐに分裂し、振武軍(しんぶぐん)として新政府軍と戦うが敗戦。激闘の中、渋沢平九郎の行方が分からなくなり、渋沢成一郎は箱館へ向かったことを知ります。渋沢栄一は徳川慶喜の現状を聞き、「薩長との戦いを望んでいない」と判断。一度、故郷・血洗島へ戻ることを決めたのでした。

今週のトピック

「鳥羽・伏見の戦い」に敗戦し、「朝敵」となることを避けた徳川慶喜は旧幕府軍を率いて江戸に戻ります。戦場から戻った徳川慶喜のやつれた姿は印象的でした。渋沢成一郎や土方歳三(町田啓太)など新政府軍と戦う者がいるなか、沈黙を続ける徳川慶喜の真意やいかに。次回はいよいよ渋沢栄一と徳川慶喜が再会。明治という新しい世のために渋沢栄一と徳川慶喜の間で、どのようなやり取りがされるのか、目が離せません!

第24回 パリの御一新(2021年8月15日放送)

渋沢栄一(吉沢亮)や徳川昭武(板垣李光人)らがパリで新年を祝う中、エラールが幕府から届いた書状を持ってきます。書状には「徳川慶喜(草彅剛)が政を朝廷に返上した」の文面が綴られ、一同は大混乱。渋沢栄一だけは事実を受け止め、徳川昭武の留学費用を捻出するためにさらなる節約策を講じます。そんな中、渋沢栄一はエラールに連れられ、「証券取引所」を案内されました。エラールから国債や社債と言った債券の仕組みを教わった渋沢栄一は、ひとりひとりの小さな力が合わさることで、この世を変えられることを知り、新たな決意を抱きます。その頃、日本では、渋沢成一郎(高良健吾)、尾高惇忠(田辺誠一)、渋沢平九郎(岡田健史)が、新政府軍と戦っていました。

今週のトピック

日本では鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が始まり、徳川慶喜率いる旧幕府軍は敗戦。「なぜ徳川慶喜は挙兵したのか」、「なぜ江戸に戻ったのか」など詳しい状況が分からない渋沢栄一の葛藤と、徳川慶喜を案じるもどかしさが伝わってきます。また証券取引所で債券を学び、日本のために力を尽くすことを決意する渋沢栄一。「日本資本主義」の礎を築いた渋沢栄一の商才がまさに開花する瞬間は印象的でした。

第23回 篤太夫と最後の将軍(2021年7月18日放送)

頼みの綱であったフランスからの借款は消滅。しかし渋沢栄一(吉沢亮)が当面の資金繰りに奔走し、徳川昭武(板垣李光人)は留学を続けていました。そんな中、徳川慶喜(草彅剛)が皇帝に依頼することで、徳川昭武の家庭教師としてヴィレットが派遣されます。ヴィレットは帝王学を学ばせるため、渋沢栄一らに髷(まげ)を落とし、刀も外し、洋装することを提案。ヴィレットの教えに従い渋沢栄一一行は西洋流を取り入れました。その頃、日本では西郷隆盛(博多華丸)が軍備を整え、岩倉具視(山内圭哉)と大久保一蔵(石丸幹二)が王政復古への動きを進めます。しかし先手を打った徳川慶喜は、政権を帝に返上する「大政奉還」を宣言。一方、血洗島では渋沢栄一の養子・渋沢平九郎(岡田健史)が、江戸に向かおうとしていました。

今週のトピック

何と言っても見どころは、江戸幕府の終焉とも言えるべき、「大政奉還」のシーン。「徳川を殺した」と叫ぶ者がいる中で、徳川慶喜はどこまでも日本のことを案じ、守り抜いていこうとする決意が伝わってきます。一方、遠く離れたパリにおいて、渋沢栄一の一行は次々に新たなことを学んでいました。日本のために動く徳川慶喜と渋沢栄一。新時代への幕開けを予感させる2人の姿が印象的でした。

第22回 篤太夫、パリへ(2021年7月11日放送)

横浜を出発した渋沢栄一(吉沢亮)達は55日もの期間をかけてようやくパリに到着。そして、すでに始まっているパリ万国博覧会の会場へ向かいます。蒸気機関やエレベーターをはじめ、数多くの国からの出品物を見ては、あまりのすごさに感動を隠しきれません。一方、日本の展示ブースに行くと、まるで日本とは別の国であるかのように薩摩の紋が掲げられています。幕府使節団は薩摩に抗議しますが、モンブラン伯爵(ジェフリー・ロウ)と五代友厚(ディーン・フジオカ)の策略により、幕府と薩摩は同格の政府であると風聞が流れてしまいました。そんな中、徳川昭武(板垣李光人)はナポレオン三世の謁見式に出席。堂々と徳川慶喜(草彅剛)の名代としての役目を果たします。その頃、日本では、徳川慶喜が各国の公使を相手に次々と幕政改革を打ち出していました。

今週のトピック

渋沢栄一がパリに向かっている間、日本では徳川慶喜がフランスやオランダ、イギリス各国の公使を相手に堂々とした外交を行っている姿が魅力的でした。一方で薩摩藩の策略により、フランスの新聞で「日本はひとつの国ではなく連邦国」と報道。徳川慶喜は「一大名に過ぎない」と言う誤解をされることで、借款は破棄されてしまいます。パリにいる渋沢栄一の資金繰りはもちろん、徳川慶喜の動きについても目が離せません。

第21回 篤太夫、遠き道へ(2021年7月4日放送)

渋沢栄一(吉沢亮)は、パリ万国博覧会に参加する徳川慶喜(草彅剛)の弟・徳川昭武(板垣李光人)の随行でフランス行きを打診され、その場で快諾します。一方、徳川慶喜は孝明天皇(尾上右近)の強い希望もあり、第15代征夷大将軍に就任。徳川慶喜は渋沢栄一を呼び出し、徳川昭武の未来を託します。その後、渋沢栄一と徳川昭武らは横浜へ到着。そこで使節団のメンバー、福沢諭吉(中村萬太郎)や福地源一郎(犬飼貴丈)と居合わせます。そして福地源一郎から「フランスではモンブランという人物に気を付けろ」と釘を刺されるのでした。さらに横浜では、初めて勘定奉行・小栗忠順(武田真治)と対面し、渋沢栄一はこのフランス行きに秘められた重要な目的を知らされます。旅立ちの前、渋沢成一郎(高良健吾)と再会し、フランス行きを報告。そして獄中の尾高長七郎(満島真之介)にも会いに行き、少年時代の夜を思い出したのでした。

今週のトピック

ちょんまげに西洋軍服という姿で登場した徳川慶喜ですが、渋沢栄一だけに本音を語るシーンでは、「どうする、もう将軍になってしまった」と自身を旧時代の存在だと位置付ける徳川慶喜の複雑な気持ちが窺えます。また、徳川慶喜と渋沢栄一が「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」と徳川家康(北大路欣也)の遺訓を唱える姿は、お互いの志を共有する印象的な場面でした。

第20回 篤太夫、青天の霹靂(2021年6月27日放送)

徳川家茂(磯村勇斗)が21歳の若さで急死したことで徳川慶喜(草彅剛)の将軍就任が避けられない事態に。渋沢栄一(吉沢亮)は徳川慶喜を案じ「将軍家をお継ぎになってはなりませぬ」と将軍職の相続を思いとどまるように直訴します。一方、薩摩の大久保一蔵(石丸幹二)は公家の岩倉具視(山内圭哉)と共謀し、「王政復古」を画策していました。徳川慶喜が徳川宗家を継いだことで幕臣となってしまった渋沢栄一は、ある日、謀反の疑いがある御書院番士の大沢源次郎(成田瑛基)の捕縛を命じられます。渋沢栄一の警護のために同行するのは、新選組副長・土方歳三(町田啓太)でした。

今週のトピック

徳川家茂が亡くなり、家臣や和宮(深川麻衣)らの様々な思いが入り混じるなかで、徳川慶喜は滅亡の道を辿る幕府の将軍になることを決心。その後も長州征伐では早々に和睦締結を進めるなど、徳川慶喜の冷静さは印象的でした。一方、徳川慶喜が将軍になることで「もう二度と建白なんか届かねぇ」と涙を流して訴える渋沢栄一の姿には、胸に迫るものがあります。

第18回 一橋の懐(2021年6月13日放送)

渋沢栄一(吉沢亮)は、天狗党を討つために徳川慶喜(草彅剛)とともに京を出発します。その頃、天狗党の武田耕雲斎(津田寛治)は「上洛を諦めよ、さもなくば追討しなければならない」という旨の徳川慶喜からの密書を見て、撤退。徳川慶喜は天狗党の処分を引き受けようとしますが、天狗党が一橋家に取り込まれるのを恐れた田沼意尊(田中美央)は、天狗党の者達を処刑してしまいました。
また、一橋家の強化を考えた渋沢栄一は、「軍制御用掛 歩兵取立御用掛」として備中国(岡山県西部)の一橋領を訪問。塾生と交流を深めたり、代官のたくらみを見破ったりしながら、多くの兵を集めます。
一方で江戸城では、長州征伐に向かう徳川家茂(磯村勇斗)とその正室・和宮(深川麻衣)が別れを惜しんでいました。

今週のトピック

第18話では、幕府の田沼意尊に武田耕雲斎ら天狗党にかかわった者達が処刑されてしまいました。水戸内のもめごとであるとして、武田耕雲斎らの処分を引き受けようとしていた徳川慶喜の気持ちを考えると、残念でなりません。一方で、一橋家の強化を目指す渋沢栄一と徳川慶喜の間に信頼関係が芽生えていくシーンも見どころ。渋沢栄一の正直さに笑ってしまった徳川慶喜の場面も印象的でした。

第19回 勘定組頭 渋沢篤太夫(2021年6月20日放送)

渋沢栄一(吉沢亮)は、一橋領の木綿の価値を高めることに成功します。この際、渋沢栄一は木綿の売買の流れを良くするために、銀札を作ろうと徳川慶喜(草彅剛)に提案。徳川慶喜はこの案を受け入れます。この銀札が功を奏して、渋沢栄一は一橋家の勘定組頭に挙用されました。
一方で薩摩藩では、欧州から戻った五代才助(ディーン・フジオカ)と長州藩の大久保一蔵(石丸幹二)が密談。五代才助は長州藩がイギリスから武器を買い付ける仲介役を引き受けました。
また、江戸幕府は2度目の長州征伐を開始。秘密裏に結ばれていた薩長同盟により、幕府は苦戦を強いられます。その最中、指揮を執っていた第14代将軍・徳川家茂(磯村勇斗)が倒れてしまいました。

今週のトピック

今回は、勅許(ちょっきょ:天皇の許可)を得ずに神戸港を開港させようとする幕臣に反対したり、将軍を辞めようとする徳川家茂を説得したりと、徳川慶喜の政治的な動きが見られました。また、一橋家の経済を潤すことに成功した渋沢栄一に対して、「よくやった」と褒めたシーンも印象的。渋沢栄一が勘定方として一橋家に貢献しようとするのも分かります。

第17回 篤太夫、涙の帰京(2021年6月6日放送)

関東で一橋家のために兵や家臣を集めた渋沢栄一(吉沢亮)と渋沢喜作(高良健吾)は、江戸に向かいました。そこで恩人と呼べる存在の平岡円四郎(堤真一)の死を知り、2人はショックを受けます。
一方で京都では「禁門の変」が勃発。徳川慶喜(草彅剛)は、西郷吉之助(博多華丸)率いる薩摩藩の援軍を交えながら、長州藩の兵士らと戦います。
また、渋沢栄一らは集めた兵とともに京に向かいますが、その道中で岡部藩代官であり、渋沢栄一因縁の相手・利根吉春(酒向芳)に遭遇。渋沢栄一・渋沢喜作はもともと岡部藩の百姓であったのだから戻してほしいと言う利根吉春ですが、同行していた一橋家家臣・猪飼勝三郎(遠山俊也)が拒否します。
なお、水戸では武田耕雲斎(津田寛治)・藤田小四郎(藤原季節)ら天狗党が徳川慶喜を頼って京都を目指していました。

今週のトピック

今回の徳川慶喜は、禁門の変で長州藩兵と戦闘するシーンが見どころでした。自ら指揮を執って戦い、武芸に秀でている姿を見せています。薩摩の西郷吉之助もその姿を見て、しばらく連携しておこうと決めていました。また、渋沢栄一らに対して、「円四郎は私の身代わりになった」と言ったシーンも印象的。さらに水戸の天狗党の動きもあり、今後の展開から目が離せません。

第16回 恩人暗殺(2021年5月30日放送)

渋沢栄一(吉沢亮)と渋沢成一郎(高良健吾)は、平岡円四郎(堤真一)に命ぜられ、一橋家の兵と家臣を募るべく江戸に出向きます。2人は儒学者や剣術家、才のある人材を探し回り、かつての同志・真田範之助(板橋駿谷)にも再会。そして一緒に働くことを勧めます。しかし、真田範之助は攘夷(じょうい)を訴えていた渋沢栄一らが一橋の家臣になっていることに立腹し、この誘いを一蹴。その頃、血洗島村では尾高惇忠(田辺誠一)と渋沢平九郎(岡田健史)が水戸騒動にかかわった嫌疑で連行され、尾高惇忠は牢に入れられてしまいます。一方、京都では攘夷志士の取締りが土方歳三(町田啓太)ら新選組によって行われていました。新選組は志士のアジトである池田屋を襲撃。攘夷派志士の怒りは、禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)の徳川慶喜(草彅剛)と平岡円四郎に向かっていきます。

今週のトピック

池田屋事件のあと、攘夷を志す水戸藩士の怒りは徳川慶喜に向けられていきます。そして、ついに徳川慶喜の側近・平岡円四郎が水戸藩士によって斬殺されてしまいました。平岡円四郎は、徳川慶喜が本音を話せる数少ない家臣であり、強い信頼関係がある人物です。運ばれた亡骸に向かって「尽未来際共にと、どうして」と泣き叫ぶ徳川慶喜があまりにも悲しく、印象的な場面でした。

第15回 篤太夫、薩摩潜入(2021年5月23日放送)

一橋家の家臣となった渋沢栄一(吉沢亮)と渋沢喜作(高良健吾)は、初俸禄を貰い、平岡円四郎(堤真一)から「篤太夫」(とくだゆう)と「成一郎」(せいいちろう)という新しい名も授かります。そして、渋沢栄一の武士としての初仕事は、摂海防禦(せっかいぼうぎょ:大阪湾へ侵入を企む外国船を退けるため、湾内に砲台を造り、配置することを任された職)の要職に就く薩摩藩士・折田要蔵(徳井優)について探ること。そこで出会った西郷隆盛(博多華丸)と親しくなった渋沢栄一は、幕府について語ります。西郷隆盛から「先の時代が読める優秀な人材ほど非業の最期を遂げる」と聞かされた渋沢栄一は、平岡円四郎の行く末を案じるのでした。その頃、水戸藩では藤田小四郎(藤原季節)が攘夷を唱え、天狗党(てんぐとう)を挙兵。藤田小四郎は、かつて徳川斉昭(竹中直人)に仕えた藤田東湖(渡辺いっけい)の息子です。この事実に元家老の武田耕雲斎(津田寛治)は愕然とするのでした。

今週のトピック

一橋家の家臣となった渋沢栄一を通じて、身分や出自にかかわらず、能力さえあれば受け入れると言う徳川慶喜の人となりを知ることができました。一橋家の家臣・猪飼勝三郎(遠山俊也)をはじめ、多くの家臣が徳川慶喜を慕っていることが分かります。さらに薩摩の島津久光(池田成志)の陰謀を察した徳川慶喜ですが、機転の利いた判断と行動力は見どころです。

第14回 栄一と運命の主君(2021年5月16日放送)

渋沢栄一(吉沢亮)と渋沢喜作(高良健吾)は、平岡円四郎(堤真一)から一橋家への仕官を命じられます。すぐには返答をせず2人で話し合った末、渋沢栄一は徳川慶喜(草彅剛)に自らの意見を建白すること、見どころがあれば仕えたいことを条件に出しました。
平岡円四郎は徳川慶喜に渋沢栄一らを対面させ、屋敷で謁見させることに成功。徳川慶喜を前に、渋沢栄一らは「幕府はいつ倒れてもおかしくはない状況にある」と訴えます。その後、平岡円四郎の言う通り、2人は一橋家で働くことになりました。一方、徳川慶喜は、薩摩藩が天皇に信頼がある中川宮朝彦親王(奥田洋平)を取り込んでいることに気付きます。中川宮朝彦親王を問い詰め、その場にいた島津久光(池田成志)ら薩摩勢を指し、「天下の大愚物、天下の大悪党だ」と言い放つのでした。

今週のトピック

薩摩藩の陰謀に気付き、島津久光らを「天下の大愚物、天下の大悪党」と切り捨てた徳川慶喜ですが、あくまでも徳川幕府を守る姿勢を崩さず、家臣らと共に「快なり!」と祝杯を挙げる場面が見どころでした。また、今回は渋沢栄一と出会う貴重な回です。この出会いが今後どのように日本に影響を与えていくのか、目が離せません。

第13回 栄一、京の都へ(2021年5月9日放送)

渋沢栄一(吉沢亮)・渋沢喜作(高良健吾)は、京へ行く上で力を借りようと平岡円四郎(堤真一)の家を訪れます。しかし、平岡円四郎は不在であり、2人はその妻・平岡やす(木村佳乃)から平岡円四郎の家臣であると示す証文を渡され、無事京へと到着しました。
京では、徳川慶喜(草彅剛)や松平春嶽(要潤)、松平容保(小日向星一)、島津久光(池田成志)をメンバーとして、参与会議が開かれます。
一方で、渋沢栄一は横浜の焼き討ちや攘夷への思いを綴った手紙を故郷・血洗島に送り、その手紙を見た尾高長七郎(道島真之介)は京都へ向かいます。しかし、道中で人を斬って捕まってしまったため手紙が見つかり、渋沢栄一・渋沢喜作は幕府から目を付けられてしまうのです。

今週のトピック

今回の徳川慶喜は、参与会議における姿が印象的です。会議の中心にいるのは薩摩藩・島津久光でしたが、徳川慶喜の薩摩藩に対する懐疑的な様子がうかがえました。また、徳川慶喜が松平春嶽に対して「なぜ京でも政治の真似事を行うのか」と尋ねると、松平春嶽は「古い考えを捨て、新しい世にしないと、国難が乗り越えられない」という旨を答えます。徳川慶喜側近の平岡円四郎が口を挟むも、松平春嶽はさらに反論。徳川慶喜の様子からは怒りが読み取れました。

第12回 栄一の旅立ち(2021年5月2日放送)

江戸を訪れた渋沢栄一(吉沢亮)・渋沢喜作(高良健吾)は、一橋家家臣・平岡円四郎(堤真一)と出会います。渋沢栄一から「生まれつきの身分で差別されるならば、世の中を変えるしかない」という考えを聞いた平岡円四郎は、自分に仕えて武士になるよう提言しますが、2人は断りました。
そして渋沢栄一は血洗島に帰り、従兄・尾高惇忠(田辺誠一)らとともに、横浜外国人焼き討ちの第一段階として高崎城を乗っ取る計画を立てます。そこに、京から尾高長七郎(道島真之介)が戻りました。尾高長七郎は京における攘夷の状況を説明し、「お前達の命を犬死にで終わらせたくない」と攘夷の計画を中止することを懇願。計画を諦めた渋沢栄一は、渋沢喜作とともに再起を懸けて京へ向かうのでした。

今週のトピック

第12回では、徳川慶喜が孝明天皇(尾上右近)を支えるために京へと旅立ちます。旅立つ前、徳川慶喜は養祖母にあたる徳信院(美村里江)に対して、「天子様(天皇のこと)は異国が嫌いである一方で、民や国を犠牲にしてまで追い出そうとは考えていない」「自分は天子様をこれからも支えていきたい」という旨を伝える場面が印象的でした。京へ向かった徳川慶喜に何が待ち受けているのか、そして渋沢栄一とはどのようにかかわっていくのか、目が離せません。

第11回 横濱焼き討ち計画(2021年4月25日放送)

渋沢栄一(吉沢亮)とその妻・渋沢千代(橋本愛)の間に第一子となる市太郎が誕生しました。仕事に精を出す渋沢栄一でしたが、市太郎ははしかで亡くなってしまいます。
なお、尾高惇忠(田辺誠一)は攘夷のために横浜にある外国人居留地の焼き討ちを計画。渋沢栄一はこの計画に心を動かされ、武器や仲間を集め始めます。
一方で、徳川慶喜(草彅剛)は謹慎を解かれ、島津久光(池田成志)の進言によって第14代将軍・徳川家茂(磯村勇斗)の後見職となりました。島津久光達より攘夷の決行を迫られますが、徳川慶喜は島津久光が自分や松平春嶽(要潤)を利用しようとしていると考えます。
この頃、長州藩は外国船砲撃、薩摩藩は薩英戦争によって被害を受け、攘夷の無謀さを実感。さらに京では突然攘夷派が追放されていき、日本の情勢は混沌とした状態にありました。

今週のトピック

第11回は攘夷を迫る島津久光に対して、「攘夷など詭弁に過ぎない」と一蹴する徳川慶喜の姿が印象的です。また、徳川慶喜は朝廷側からも攘夷を迫られたり、生麦事件における賠償金をイギリスから要求されたりと、頭を悩ませている状態にありました。そこに平岡円四郎(堤真一)が戻ります。徳川慶喜の様子から、平岡円四郎の復帰を喜んでいるような感情が読み取れました。

第10回 栄一、志士になる(2021年4月18日放送)

幕府では、暗殺された井伊直弼(岸谷五朗)に代わって老中・安藤信正(岩瀬亮)が、孝明天皇(尾上右近)の妹・和宮(深川麻衣)を将軍・徳川家茂(磯村勇斗)に嫁がせようとします。和宮の降嫁によって、朝廷との結びつきを強め、幕府の権威を取り戻そうとする安藤信正を尊王攘夷派の志士は国賊として敵視。一方、渋沢栄一(吉沢亮)は父・渋沢市郎右衛門(小林薫)に頭を下げ、1ヵ月だけ江戸に行くことを許されます。しかし、念願の江戸に来た渋沢栄一はかつて訪れたときに比べ、活気を失った江戸の様子に驚きを隠せません。その後、渋沢喜作(高良健吾)や尾高長七郎(満島真之介)らが身を寄せる思誠塾(しせいじゅく)を訪れた渋沢栄一は、塾の指導者である尊王論者・大橋訥庵(山崎銀之丞)から安藤信正の暗殺計画を知らされます。尾高長七郎は暗殺計画のために命を捨てる覚悟を決め、渋沢栄一もまた彼らの影響を受け、尊王攘夷への思いを強くするのでした。

今週のトピック

和宮降嫁は、尊王攘夷派の志士に火を付けてしまいます。尊王論者・大橋訥庵から、共に決起して欲しいと訴状を送られた徳川慶喜(草彅剛)ですが、応じることはありませんでした。桜田門外の変、そして坂下門外の変とますます激動していく幕末のなかで、徳川慶喜はどのように時代と向き合っていくのか。また、時同じくして時代に新しい風を巻き起こそうと動き始めた渋沢栄一の今後も必見です。

第9回 栄一と桜田門外の変(2021年4月11日放送)

幕府の最高権力者である大老・井伊直弼(岸谷五朗)は、水戸藩士をはじめ尊王攘夷を唱える者達を次々処分。蟄居(ちっきょ:江戸時代に武士に科した刑罰のひとつ。自宅や一定の場所に閉じ込め、終身に亘って出仕・外出を禁じる処罰)を命じられた徳川慶喜(草彅剛)や父・徳川斉昭(竹中直人)は無言の抵抗を続けます。一方、井伊直弼は桜田門外の変で暗殺され、徳川斉昭も突然の死去。江戸で父の死を聞かされた徳川慶喜は「親の死に目にも会えない」と嘆き悲しみます。その頃、江戸から戻った尾高長七郎(満島真之介)に感化され尊王攘夷の考えに傾倒し始めた渋沢栄一(吉沢亮)は、自分も日本の未来のために江戸へ行きたいと父・渋沢市郎右衛門(小林薫)に懇願するのでした。

今週のトピック

井伊直弼による処罰で隠居と謹慎を命じられた徳川慶喜のもとへ、役替えにより江戸を去る平岡円四郎(堤真一)があいさつにやってくるシーンですが、「いつかまた必ず」と強く再会を願う姿に深い絆を感じます。一方で謹慎中の身のため、桜田門外の変のあと、突然死した父・徳川斉昭の死に目にさえ会えず、嘆き、慟哭(どうこく)するシーンは、あまりにも悲しくて印象的でした。

第8回 栄一の祝言(2021年4月4日放送)

ついに、渋沢栄一(吉沢亮)は尾高千代(橋本愛)に自分の想いを伝え、結婚を申込みます。そこに待ったをかけたのは、同じく尾高千代に想いを寄せる渋沢喜作(高良健吾)です。尾高長七郎(満島真之介)から「千代を嫁に欲しければ栄一と勝負しろ」という手紙を貰っていた渋沢喜作は、尾高千代をめぐって渋沢栄一と剣術で勝負をすることに。その頃、江戸では驚くべきことが起きていました。大老になった井伊直弼(岸谷五朗)が「日米修好通商条約」を結びますが、調印は違勅(いちょく:天皇や朝廷の意に反すること)だと大問題に発展。その後、井伊直弼に意見した徳川慶喜(草彅剛)や父・徳川斉昭(竹中直人)をはじめ、松平慶永(要潤)らにも次々に処分が下され、「安政の大獄」と呼ばれる苛烈な弾圧が始まったのです。

今週のトピック

井伊直弼が違勅して日米修好通商条約を結んだことに対し、怒る徳川慶喜が、未だかつてないほどをめまぐるしく表情を変える場面は印象的でした。そして世継ぎ問題が解消され、安堵の表情を浮かべるなか、井伊直弼による「安政の大獄」が始まってしまいます。処罰の対象となった徳川慶喜が今後どのような運命を辿るのか、次回も目が離せません。

第7回 青天の栄一(2021年3月28日放送)

長い間幕府を支えていた老中・阿部正弘(大谷亮平)が死亡し、幕府は混乱します。そんななか、徳川慶喜(草彅剛)を次の将軍に推薦する声が高まりつつありました。
一方、血洗島では、尾高長七郎(道島真之介)が武者修行のために江戸へと出発。尾高惇忠(田辺誠一)は送別の詩を送ります。また、尾高千代(橋本愛)を巡る恋模様も展開されていました。渋沢栄一と尾高千代はぎくしゃくした関係のままでしたが、渋沢喜作(高良健吾)が尾高千代と結婚したいと言い出します。渋沢栄一は渋沢喜作にケチを付け始め、喧嘩になりました。その後、尾高惇忠と藍売りに出かけた渋沢栄一は、道中で自分の本当の思いに気付きます。そして血洗島に戻るなり、尾高千代に告白するのでした。

今週のトピック

第7回では、開国しようとする幕府を非難する父親・徳川斉昭(竹中直人)に意見する徳川慶喜の姿が印象的でした。「父上のなされることは本当に忠義にかなっているのか」「徳川斉昭の動きが攘夷を扇動している」という旨を話していて、江戸で過激な攘夷派が動き始めていることに警戒している様子がうかがえます。
また、のちの松平春嶽である松平慶永(要潤)をはじめ、徳川慶喜を世継ぎにしようとする動きもあり、今後の展開から目が離せません。

第6回 栄一、胸騒ぎ(2021年3月21日放送)

渋沢栄一(吉沢亮)は、尾高長七郎(道島真之介)や渋沢喜作(高良健吾)らと剣術の稽古に励んでいました。「土を掘っているようになってしまう」と話しながらも強がる渋沢栄一に、尾高千代(橋本愛)は「そんな栄一さんをお慕いしている」と思いを伝えます。また、道場破りの真田範之助(板橋駿谷)が道場に訪問。渋沢栄一・渋沢喜作は破れますが、尾高長七郎が勝利します。
一方、側近・藤田東湖(渡辺いっけい)を安政の大地震で亡くした徳川斉昭(竹中直人)は、過激な言動が増加。息子である徳川慶喜(草彅剛)と徳川慶篤(中島歩)は引退を促しますが、拒否されてしまいます。また、徳川慶喜に嫁いだ美賀君(川栄李奈)は、自分をぞんざいに扱う徳川慶喜が徳信院(美村里江)と仲睦まじくしている様子に癇癪を起こすのでした。

今週のトピック

第6回では、徳川慶喜のもとに公家出身の美賀君が嫁いできました。初対面からろくに話さないといった美賀君に対する態度から、徳川慶喜があまり結婚に興味がなかったことがうかがえます。美賀君は徳信院と徳川慶喜の仲を疑って暴れるなどしており、徳川慶喜は母親である吉子(原日出子)に相談。2人の関係が今後どうなるのか目が離せません。
また、徳川慶喜を次の将軍に擁立しようとする動きもあり、どのようにして第15代将軍になっていくのか気になるところです。

第5回 栄一、揺れる(2021年3月14日放送)

岡部藩代官に御用金を渡し、憤慨していた渋沢栄一(吉沢亮)に従兄の尾高惇忠(田辺誠一)が本を渡します。その本には、清がアヘン戦争でイギリスに侵略されたことが記載してありました。渋沢栄一は、開国した日本の将来を不安に思います。
また、渋沢家では渋沢栄一の姉・渋沢なか(村川絵梨)の縁談相手の家に「憑き物がいる」として、伯父・伯母に縁談を反対されてしまいました。様子のおかしい姉を、渋沢栄一は心配します。
一方、幕府はアメリカやイギリスと条約を結び、ロシアともつながりを持とうとしていました。徳川斉昭(竹中直人)は幕府に対して「日本も清のように隷属国になってしまう」と主張。さらに津波で転覆したロシア船の船員を皆殺しにしろとまで言い、側近・藤田東湖(渡辺いっけい)に諫められます。そしてこの年の秋、江戸で大地震が起きました。この地震により、藤田東湖が命を落としてしまいます。

今週のトピック

第5回では、徳川慶喜が藤田東湖に相談。異国嫌いな父親・徳川斉昭を気にしつつも、「西洋の兵術について学びたい」と話していて、知見を広めようとしていると感じます。また、今回は「安政江戸地震」が発生。徳川慶喜は平岡円四郎(堤真一)と水戸藩邸に駆け付け、屋敷の状態に驚きます。そして、この地震によって藤田東湖が死亡。今後の水戸藩がどうなっていくのか、そして徳川慶喜にどう影響があるのか気になるところです。

第4回 栄一、怒る(2021年3月7日放送)

渋沢栄一(吉沢亮)は家業にますます励み、もっと良い藍を作るにはどうしたら良いかと思い巡らせていましたが、ある妙案を思い付きます。その頃、幕府はマシュー・ペリー(モーリー・ロバートソン)の再来航が迫り混乱を極めていました。井伊直弼(岸谷五朗)をはじめとした開国派に対し、徳川斉昭(竹中直人)は、開国派を押さえ込み、攘夷を決行するには息子・徳川慶喜(草彅剛)を次期将軍にするしかないと考えます。徳川慶喜に優秀な家臣を付けようと、変わり者の平岡円四郎(堤真一)を小姓に抜擢するのでした。そして、ついに1854年(嘉永7年)日米和親条約が締結。下田と函館が開港されたという噂は血洗島にも届き、尾高惇忠(田辺誠一)達はがく然とします。そんな中、渋沢市郎右衛門(小林薫)の名代として、渋沢栄一は代官から多額の御用金(ごようきん:幕府や諸藩が財政不足を補うために臨時で農民や商人に課した金)を申し渡される。あまりもの理不尽さに、「この世は何かがおかしい」と感じ始めるのでした。

今週のトピック

開国か攘夷か、日本が混乱するなかで、ついに徳川慶喜と平岡円四郎が出会う貴重な回でした。徳川慶喜が平岡円四郎に心を許し、給仕の仕方や髷の結い方を教える様子は、まさに徳川慶喜の人となりや佇まいが分かる場面。また理不尽な要求をする代官に悔しさをにじませる渋沢栄一と「米のひと粒ひと粒は民の辛苦」と偉ぶることなく、優しい表情を見せる徳川慶喜の対比が印象的に描かれています。

第3回 栄一、仕事はじめ(2021年2月28日放送)

1853年(嘉永6年)、13歳の渋沢栄一は父・渋沢市郎右衛門(小林薫)に連れられ、初めて江戸へ行き、華やかな江戸の様子に胸が高鳴ります。それと同時に、渋沢市郎右衛門の姿に商売の難しさを知りました。さらにその年、藍畑が虫に食われ、藍玉作りの素となる藍葉が不作に。窮地に陥った父を助けるため、渋沢栄一は自ら藍葉の買い付けに行きたいと考えます。そして近隣の村へ向かい、目利きや商売の交渉力を発揮。見事に大量の藍葉を買い付けることに成功するのでした。
一方、江戸では浦賀に4隻の黒船が来航し、大騒ぎ。病に伏していた12代将軍・徳川家慶(吉幾三)が亡くなり、遺言によって徳川慶喜(草彅剛)の父・徳川斉昭(竹中直人)が海防参与として幕政に復帰します。そして、次期将軍として徳川慶喜の名が挙がりますが、徳川慶喜はこれを却下。そんな徳川慶喜を支える腹心の部下にと、旗本である平岡円四郎(堤真一)に白羽の矢が立つのでした。

今週のトピック

血洗村の渋沢栄一と江戸の徳川慶喜における、それぞれの生い立ちが描かれている貴重な回でした。1853年(嘉永6年)黒船が浦賀に来航したことで、徳川慶喜のいる江戸は大騒ぎ。徳川慶喜は次期将軍になるように父・徳川斉昭に言われますが、反発します。「父に当てにされたい」と嘆く渋沢栄一と、「当てにされては困る」と嘆く徳川慶喜の見事な対比が印象的でした。

第2回 栄一、踊る(2021年2月21日放送)

9歳の渋沢栄一(子役:小林優仁)は、父親である渋沢市郎右衛門(小林薫)から仕事を、いとこの尾高新五郎(田辺誠一)から読書を習い始めました。ある日、岡部藩代官が渋沢家を訪問。道の整備のために、村から人手100人、御用金2,000両を要求します。渋沢家は承諾せざるを得ませんでした。そして人手不足のため、毎年開催されている祭りは中止になってしまいますが、渋沢栄一はある計画を考えます。
一方、徳川斉昭(竹中直人)の七男で、一橋家の養子になった七郎麻呂(子役:笠松基生)は名前を「慶喜」に改め、第12代将軍・徳川家慶(吉幾三)からかわいがられていました。幕府から隠居を命じられていた徳川斉昭は、そんな息子を頼りに政治に復帰しようとしています。そんななか、ペリー(モーリー・ロバートソン)が日本に来ることになりました。

今週のトピック

今回は、一橋家に養子に入った徳川慶喜の様子が見られました。徳川家慶から実子のようにかわいがられている徳川慶喜は、徳川家慶には礼儀正しいものの、どこか不満そうな態度。その理由が気になるところです。また、徳川家慶が次の将軍を徳川慶喜にするのではないかと思う人々もいて、今後どのようにして徳川慶喜が第15代将軍になるのか目が離せません。さらに、今回は大人になった徳川慶喜が能面を外すシーンも印象的。能面を外してもなお能面を付けているかのような表情であり、何を思っていたのか考えさせられます。

第1回 栄一、目覚める(2021年2月14日放送)

農家の長男として生まれた渋沢栄一(子役:小林優仁)は、おしゃべりで剛情っぱりな性格。成長していくなかで、母・渋沢ゑい(和久井映見)からは「みんなが嬉しいのが一番」「人は生まれたそのときから1人でない」ということを、父・渋沢市郎右衛門(小林薫)からは「上に立つ者は下の者への責任がある」ということを教えてもらいます。そんなある日、渋沢栄一らは罪人として送られてきていた砲術家・高島秋帆(玉木宏)と遭遇しました。
一方、水戸では藩主・徳川斉昭(竹中直人)が大砲を連発させたことなどを理由に、幕府から謹慎・隠居を命じられます。また、江戸では次の将軍候補にするために、徳川斉昭の息子・七郎麻呂(子役:笠松基生)を御三卿である一橋家に迎える話が上がりました。この七郎麻呂こそ、のちの第15代将軍・徳川慶喜です。

今週のトピック

今回は、まだ「七郎麻呂」と呼ばれていた頃の徳川慶喜の様子が見られました。父親である徳川斉昭に厳しく育てられていた徳川慶喜は、食事の仕方から眠り方まで教え込まれていて、父親から大いに期待されていたことが分かります。
また、第1回のなかでは、七郎麻呂が一橋家の養子となる経緯も描かれました。これからどのように七郎麻呂が成長し、そして渋沢栄一とどうかかわっていくのか、気になるところです。

第15代将軍・徳川慶喜 YouTube動画

「第15代将軍・徳川慶喜」徳川十五代将軍|YouTube動画

目次

徳川慶喜の年譜

「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が将軍として活躍した幕末から余生を過ごした明治時代は、日本の歴史において大きな転換期となった時代のひとつです。特に幕末は、それまで鎖国していた日本に外国船が往来し、「尊皇攘夷派/尊王攘夷派」(そんのうじょういは)と「討幕派/倒幕派」(とうばくは)が対立するなど、日本国中が混乱を極めていました。そんな入り組んだ時代を生きた徳川慶喜について、簡単に年譜形式でその生涯を追っていきます。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1837年(天保8年) 1
水戸藩(現在の茨城県)9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男として誕生。幼名は「松平七郎麻呂」(まつだいらしちろうまろ)。
1847年(弘化4年) 11
一橋徳川家の養子となって同家の家督を相続。「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)と名乗る。13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の後継者候補となったが、14代将軍は「徳川家茂」(とくがわいえもち)に決定する。
1859年(安政6年) 23
井伊直弼」(いいなおすけ)による「安政の大獄」(あんせいのたいごく)で謹慎処分を受ける。井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺され、徳川慶喜は政治の表舞台に復帰する。
1862年(文久2年) 26
徳川家茂の将軍後見職を務める。
1864年(文久4年/
元治元年)
28
将軍後見職を辞任し、「禁裏御守衛総督」(きんりごしゅえいそうとく)の座に就く。「禁門の変」では幕府軍を指揮し、長州藩(現在の山口県)に勝利する。
1866年(慶応2年) 30
14代将軍・徳川家茂が病死したことにより、15代将軍に就任する。
1867年(慶応3年) 31
大政奉還」(たいせいほうかん)を行い、江戸幕府が握っていた政権を天皇に返上する。
1868年(慶応4年/
明治元年)
32
戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦となった「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)で大敗を喫する。「江戸城」(東京都千代田区)を新政府軍に明け渡す。「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区)にて謹慎する。
1910年(明治43年) 74
七男「徳川慶久」(とくがわよしひさ)に家督を譲る。
1913年(大正2年) 77
病気で亡くなる。

将来を嘱望された徳川慶喜の青年時代

教育熱心な父の方針で水戸へ

徳川慶喜

徳川慶喜

1837年(天保8年)、江戸水戸藩の藩邸において水戸藩主・徳川斉昭の七男が誕生しました。

当主と嫡男以外は松平姓を名乗る「御三家」(ごさんけ)の決まりによって、松平七郎麻呂と名付けられた男児が、のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)です。

徳川慶喜の父である徳川斉昭は、水戸藩2代藩主「水戸光圀」(みとみつくに)の勤皇精神や教育方針を崇敬していました。

父・徳川斉昭の「子供は水戸で教育すべき」という考えに基づき、松平七郎麻呂も生後7ヵ月以降は水戸で暮らし、徳川斉昭が作った藩校「弘道館」(こうどうかん)で学問と武術を学んでいます。

尊皇攘夷論者だった父の影響を受けて成長した松平七郎麻呂は、元服後に「松平昭致」(まつだいらあきむね)に改名。

幼い頃から聡明だった松平昭致の名は、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の耳にも入っており、御三家・一橋家の跡継ぎに請われます。1847年(弘化4年)松平昭致は一橋家を相続。将軍・徳川家慶から1字を賜り、一橋慶喜と名乗りました。

将軍跡継ぎ問題

徳川家慶は、一橋慶喜に将軍を継がせたいほど気に入っていましたが、「徳川宗家」(とくがわそうけ)は「直系の長子による相続」が基本。

そのため、13代将軍には1853年(嘉永6年)ペリーの黒船が来港したさなかに亡くなった徳川家慶の息子・徳川家定が就きました。しかし、徳川家定は病弱だったことに加え、人前が苦手という性格から将軍に向いておらず、子どもにも恵まれなかったため、跡継ぎの問題が浮上します。

14代将軍候補に選ばれたのは、一橋慶喜と紀州藩主「徳川慶福」(とくがわよしとみ)の2人。支持者は2派に分かれましたが、一橋慶喜を推していた「一橋派」(ひとつばしは)の「阿部正弘」(あべのまさひろ)、「島津斉彬」(しまづなりあきら)が亡くなり、一橋派の勢力が弱まった結果、徳川慶福を推していた「南紀派」(なんきは)の井伊直弼に押し切られる形で、1858年(安政5年)、14代将軍として徳川慶福改め徳川家茂が就任します。

大老・井伊直弼との対立

井伊直弼

井伊直弼

2度に及ぶ将軍就任を逃した徳川慶喜ですが、それほど将軍職にはこだわらない一方で、幕政には積極的にかかわっていました。

1858年(安政5年)、大老の井伊直弼が天皇の許可を得ないまま、不公平条約と呼ばれる「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)に調印してしまいます。

尊皇精神旺盛な徳川慶喜は、勝手な行動に出た井伊直弼と対立。その際に井伊直弼を詰問したことが原因で、謹慎処分となりました。

井伊直弼は安政の大獄などの弾圧政策で「尊皇派」(そんのうは)を圧迫しましたが、翌年には桜田門外の変で水戸浪士達に殺害されました。そして、1860年(万延元年)ようやく一橋慶喜の謹慎も解かれることになります。

1862年(文久2年)、将軍後見役となった一橋慶喜は「文久の改革」(ぶんきゅうのかいかく)を実行しました。黒船来航以来、大きく揺れていた幕府の体制を、非常時にも機能するよう対応させたのです。京で朝廷を護衛し、畿内の治安維持を担う京都守護職の設置や、参勤交代制度の緩和などはその一環でした。

また、1863年(文久3年)、徳川家茂が徳川幕府の将軍としては230年ぶりとなる上洛を果たした際には、一橋慶喜が一足先に上洛。将軍の名代として朝廷と攘夷の実行についての交渉を担当するなど、陰日向に幕政を支え続けます。

井伊直弼
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

戦う禁裏御守衛総督、徳川慶喜!

1864年(元治元年)一橋慶喜は、「禁裏御守衛総督」(きんりごしゅえいそうとく)に就任しました。禁裏御守衛総督とは、幕府公認の禁裏(京都御所)を警護するための役職のこと。つまり、一橋慶喜は京における幕府勢力の中心となったのです。

同年7月の禁門の変においては、一橋慶喜が「会津藩」(あいづはん)、「桑名藩」(くわなはん)、「大垣藩」(おおがきはん)、「薩摩藩」(さつまはん)など諸藩の総指揮者として長州藩の勢力を御所から撃退し、勇猛ぶりを発揮しました。歴代将軍のなかで、馬にも乗らずに敵と日本刀で戦ったのは一橋慶喜だけです。

また一橋慶喜は、条約締結についての勅許(天皇による許可)を得るために、切腹覚悟で朝廷と激しく交渉し、勅許を得ることに成功しました。

第15代将軍・徳川慶喜誕生

固辞しながらの将軍職就任

馬に乗り長巻を構える徳川慶喜

馬に乗り長巻を構える徳川慶喜

禁門の変の報復として、1864年(元治元年)に「第一次長州征伐」(だいいちじちょうしゅうせいばつ)を行った幕府は、さらなる報復のために、再度長州に向かいます。しかし、1866年(慶応2年)の「第二次長州征伐」(だいにじちょうしゅうせいばつ)では、薩摩藩が長州藩と手を組んだため、幕府は苦戦を強いられました。

さらに、「大坂城」(現在の大阪城)では徳川家茂が死亡。連敗を重ねる幕府を救うべく、一橋慶喜は休戦協定を取り付けました。

そんな一橋慶喜に3度目の次期将軍就任の要請がかかります。しかし、一橋慶喜は徳川宗家だけは相続したものの「大奥や譜代大名が反対しており、世間も私に野心があるように噂している」と言って将軍就任を拒否しましたが、その4ヵ月後、「将軍宣下」(しょうぐんせんげ:天皇の命令で征夷大将軍職に任じること)を受け、15代将軍に就任したのです。

なお、徳川慶喜がすぐに将軍就任を受けなかった理由は、恩を売った形で「仕方なく」就任することで、自分のやり方で政治を有利に進める目的だったのではないかと言われています。

将軍就任後も徳川慶喜は畿内を離れず、朝廷との連携を重視していました。徳川慶喜は将軍在職中、江戸城に足を踏み入れなかった唯一の徳川将軍です。その間、徳川慶喜は開国へと向けて準備を進めます。

慶応の改革

徳川慶喜は、「慶応の改革」(けいおうのかいかく)を推進しました。フランス公使「レオン・ロッシュ」の助言に基づいて、ヨーロッパの行政組織を参考に新体制を作ろうとしたのです。

慶応の改革の一環で徳川慶喜は新たな人材の登用や、新生陸軍の整備、フランスの支援による「横須賀製鉄所」(よこすかせいてつじょ)の建設などを行いました。徳川慶喜が目指したのは、新体制による幕府を中心とした中央集権国家づくりでした。

この時点で徳川慶喜は、まだ幕府の存続を諦めてはいません。しかし、これが結果的に江戸幕府最後の改革となりました。

徳川幕府、終わりの始まりとその終焉

大政奉還

大政奉還への道のり

大政奉還とは、分かりやすく言うと、それまで徳川幕府が握っていた政権を天皇へ返上することを意味します。徳川慶喜が大政奉還へと動き出す大きなきっかけとなったのは、1867年(慶応3年)1月に、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)が崩御(ほうぎょ:天皇や皇后などを敬ってその死を指す言葉)されたこと。

孝明天皇は、攘夷論者でありながら倒幕は望んでおらず、むしろ朝廷と幕府が協力して攘夷を成し遂げたいとの思いから、「公武合体派」(こうぶがったいは:古くからある朝廷の権威と、幕府や諸藩を結び付けて幕藩体制の再強化を図ろうとした思想)の立場を取っていました。

岩倉具視

岩倉具視

そんな孝明天皇の崩御が倒幕を推し進める絶好の機会と捉えた倒幕派は、公家の「岩倉具視」(いわくらともみ)などを中心に、「明治天皇」(めいじてんのう)を擁立した新政権を立てる気運を沸き起こします。

そのような流れの中で薩摩藩と長州藩は、武力による倒幕を狙い始めるようになったのです。

その危機を察知した徳川慶喜は、思い切った行動に出ます。これが大政奉還だったのです。

1867年(慶応3年)に徳川慶喜が実行した大政奉還により、260年近くも存続した江戸幕府を終わらせただけでなく、1185年(元暦2年/文治元年)に開かれた「鎌倉幕府」から、約700年もの間続いた「武家政権」そのものが終焉を迎えることになりました。

幕末の歴史において、最も大事な局面のひとつとなった大政奉還の場所に徳川慶喜が選んだのが、現在の京都市中京区にある「二条城」(にじょうじょう)です。

徳川慶喜が二条城を選んだ理由とは

二条城

二条城

「天皇に政権を返上する」という非常に大切な場面に、徳川慶喜はなぜ、江戸幕府の歴代将軍が居城とし、幕政の中枢ともなっていた江戸城ではなく、二条城を選んだのでしょうか。

その理由のひとつとして考えられているのが、二条城が「徳川家」(とくがわけ)の権威を表す象徴であったということ。

同城を築いたのは、言わずと知れた江戸幕府初代将軍「徳川家康」。将軍宣下(しょうぐんせんげ:天皇が武家政権の長である征夷大将軍に任命する儀式)を「伏見城」(京都市伏見区)にて受けた徳川家康は、天皇が住まわれていた京都御所まで、挨拶のために豪華絢爛な行列を引き連れて向かいました。

このときの出発地となったのが二条城だったのです。これはまさしく、徳川家康の権威を世間に知らしめるために行われたことでした。つまり二条城は、徳川将軍家の天下が始まった場所であり、大政奉還が行われたことで、同家の天下が終わりを告げた場所となったとも言えるのです。

徳川慶喜が大政奉還を決断した背景

大政奉還

大政奉還

江戸幕府を含むすべての武家政権は、形式上ではありましたが、天皇から委任されて幕政を行っていました。

徳川慶喜は、この「従来之旧習」(じゅうらいのきゅうしゅう)を改め、政権を返上することにしたのです。

幼い頃から父・徳川斉昭に、「尊王論/尊皇論」を中核とした「水戸学」(みとがく)を叩き込まれていた徳川慶喜。そのため、大政奉還を実施することには、特段抵抗はありませんでした。

さらにこの時代は、欧米列強が日本の開国を強く要求していた時期。そこで徳川慶喜は、大政奉還によって日本のリーダーが朝廷を代表する天皇であったのか、それとも幕府を代表する将軍であったのかを明確にしようとしたのです。

また、徳川慶喜が大政奉還を決断した裏には、徳川慶喜のある思惑が隠されていました。政権を朝廷に返還したという姿勢を見せれば、薩摩も長州も倒幕の大義名分を失うことになります。そこで徳川慶喜は、大政奉還の実行によって徳川の政治力を維持したまま、薩摩藩・長州藩との武力衝突を回避したのです。

王政復古の大号令

「討幕派」(とうばくは)の薩摩藩・長州藩にとって大政奉還は、非常に厄介な政策でした。徳川慶喜が合議体の筆頭格のままでは、新しい政府で思うような政治ができないからです。

そこで、1867年(慶応3年)今度は討幕派がクーデターを起こします。御所にて明治天皇臨席のもと、徳川家を排除した新政府樹立を宣言。これが「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)です。

討幕派は江戸幕府を完全に廃止し、徳川家はすべての役職も領地も返上すべきだと要求。この切り返しに徳川家も黙ってはいられません。対立を深めた両者は戊辰戦争への道を突き進んでいきます。

戊辰戦争で採った徳川慶喜の行動

開戦に至った経緯とは

徳川慶喜が討幕派から迫られたいわゆる「辞官納地」(じかんのうち)は、王政復古の大号令の際、新たに設けられた「総裁」と「議定」(ぎじょう)、「参与」の「三職」による会議に基づいて決められたこと。

徳川慶喜にとっては、大政奉還後も保持していた「右大臣」(朝廷の最高機関における事実上の長官)の役職と、日本全国におけるどの大名よりも多い領地を取り上げられることになってしまい、徳川家が再び覇権を握るのは困難になってしまうことを意味します。

しかし、当時の徳川慶喜は、討幕派による辞官納地の要求を一旦呑むことで、新政府において政権の中心となる議定の座に就任することを目論んでいたのです。そして徳川慶喜は、議定に任命されるために上洛しようと、大坂で準備を始めていました。

ところがこのときの江戸では、薩摩藩士のリーダー的存在であった「西郷隆盛」(さいごうたかもり)を中心とした浪士達が、放火や強盗といった挑発行為を頻発させていたのです。この薩摩藩による挑発行為は徐々にエスカレートし、1867年(慶応3年)12月には、庄内藩(現在の山形県)の屯所(とんしょ)にて発砲する事件にまで発展。

この当時の庄内藩は、江戸市中を取り締まる職務を担っていました。そのため、宣戦布告とも捉えられるような度を超えた挑発行為に、怒り心頭に発した旧幕府側は、同年12月25日、江戸の薩摩藩邸に放火。同藩邸を焼失させたのです。

実はここまでの流れは、すべて西郷隆盛の思惑通り。「江戸薩摩藩邸の焼討事件」と呼ばれるこのできごとにより、西郷隆盛は、「戦いの糸口を開いたのは旧幕府側だった」という既成事実を作ったのです。

このおよそ3日後には、徳川慶喜が滞在していた大坂にまで、同事件の知らせが届きます。そして何としてでも薩摩藩を討たなければならないとの声が上がり、戊辰戦争へと突入していったのです。

戊辰戦争の緒戦、鳥羽・伏見の戦い

1868年(慶応4年)1月2日に、旧幕府軍約10,000人が、京都の「伏見奉行所」と「淀」(よど)へ向けて出発。対する薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍は、旧幕府軍の半数を下回るおよそ5,000人の軍勢が二手に分かれ、伏見と鳥羽方面で待機していました。

その翌日に両軍は、鳥羽にある「小枝橋」(こえだばし)付近で接触します。旧幕府軍は、上洛のために道を空けるよう新政府軍に要求しますが、これを断固拒否。強行突破しようと進軍した旧幕府軍へ向けて新政府軍は、一斉に砲撃を始めます。そしてとうとう、戊辰戦争の緒戦(しょせん:始まったばかりの頃の戦争)となる鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られたのです。

錦の御旗

錦の御旗

同合戦において薩長連合は、「錦の御旗」(にしきのみはた)と称される旗印を掲げています。

錦の御旗とは、朝敵(ちょうてき:朝廷に背く敵)を討伐する際に、天皇に代わって軍を指揮する権限を委任するため、天皇が軍の総大将に与える証しとなる物です。

薩長がこれを掲げるということは、新政府軍は「官軍」、すなわち朝廷側の軍であり、旧幕府軍は「賊軍」、つまり朝敵になったことを意味していました。

錦の御旗を目にした旧幕府軍は、やはり天皇に背くことはできないと戦意を喪失。結局同軍は、拠点としていた大坂城へと引き返したのです。そして新政府軍は、鳥羽・伏見の戦いにおいて大きな勝利を収めました。

このときに徳川慶喜は、大坂城に戻った自軍の兵士達に対して「最後の一兵になっても決して退いてはならない」と厳命します。自らも戦い抜くことを宣言していましたが、その晩、側近や妾、旧幕府軍で共に戦っていた会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)や桑名藩主「松平定敬」(まつだいらさだあき)達を無理やり連れて、軍艦「開陽丸」(かいようまる)で、艦長の「榎本武揚」(えのもとたけあき)に告げずに置き去りにしたまま、江戸に逃亡。

総大将であった徳川慶喜の不在を翌日に知った兵士達は混乱に陥り、彼らもまた、次々に大坂城を脱出したのです。このような言い逃れのできない徳川慶喜の敵前逃亡が、旧幕府軍の瓦解を招いたと推測されています。

そののち徳川慶喜は、東京都台東区上野の寺院で徳川家の菩提寺である寛永寺で謹慎しました。

江戸無血開城

西郷隆盛・勝海舟

西郷隆盛・勝海舟

1868年(慶応4年)2月には、旧幕府軍「勝海舟」(かつかいしゅう)に事態収拾を一任し、徳川家当主の座も養子である「田安亀之助」(たやすかめのすけ)に譲ってしまいます。

4月11日、新政府軍の参謀・西郷隆盛と勝海舟の交渉により、江戸城は新政府軍に明け渡されました。誰ひとりとして血を流すことなく開城に至ったこのできごとは、「江戸無血開城」とも呼ばれています。江戸城を明け渡すということは、徳川家が政権を失うことと同義です。

こののち徳川慶喜はそのまま隠居生活に入り、幕府制度や征夷大将軍は廃止。こうして徳川慶喜は、日本史上最後の征夷大将軍となったのです。

西郷隆盛
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

「黙して語らず」の徳川慶喜に対する評価

禁門の変、大政奉還、江戸城無血開城、鳥羽・伏見の戦い

徳川慶喜は禁門の変において、陣頭指揮を執って勇敢に戦いました。しかし、単に勇猛だっただけではなく、先を読む頭脳をかね備えた人物でもあったと言われています。

大政奉還を行ったことは、間違いなく徳川慶喜にとって最大の功績です。この英断により内乱を防ぎ、それに乗じた諸外国からの侵略も阻止。それだけを考えても徳川慶喜の判断は正しかったと言えます。これに加えて、勝海舟に江戸の無血開城を実行させたことも、江戸市民が戦争に巻き込まれる事態を回避した意味において、十分評価に値するのです。

しかし、大政奉還後すぐに幕府の新体制を整えることができていれば、討幕派による王政復古のクーデターと戊辰戦争を防げたかもしれません。

さらによく分かっていないのは、鳥羽・伏見の戦いにおける徳川慶喜の行動。戦場に多くの兵を置いたまま敵前逃亡した事実は、責められても仕方がないことです。

徳川慶喜が逃亡した理由には諸説あり「切れ者と言われた明晰な頭脳を持つ徳川慶喜には、旧幕府軍の負けが見えていたから逃亡した」という説や、「勤皇派だった徳川慶喜は、薩摩と戦う覚悟はあっても、自分が朝敵となることを恐れたから」という説などがあります。

近代化への貢献度

徳川慶喜は、将軍在職中に様々な政策を行ったように思えますが、その期間はたった1年。その間、難しい交渉や日本の将来を見越した改革などを実行します。

幕府の懸案事項、天皇の許可なく米国と結んでしまった日米修好通商条約の許可をようやく取り付けることができたのは、徳川慶喜の尽力あってのことでした。

また、慶応の改革では、横須賀製鉄所や造船所を設立し軍制改革などを行い、のちの日本の近代化に貢献しています。

さらに、徳川慶喜は家臣として一橋時代から仕えていた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)を将軍名代の随員に抜擢し、ヨーロッパを見聞させました。大政奉還ののちに帰国した渋沢栄一に対して徳川慶喜は「これからはお前の好きな道を行きなさい」と独り立ちさせます。

渋沢栄一はそののち、日本銀行や東京証券取引所などを設立。日本の近代資本主義国家としての基礎を築き、現代では「日本資本主義の父」として知られる偉人のひとりに数えられています。

徳川慶喜の余生

1869年(明治2年)9月に戊辰戦争が終了すると、徳川慶喜の謹慎も解かれ、静岡で趣味に没頭する生活を送りました。

一時は貴族院議員を務めた徳川慶喜ですが、任期を終えると、すぐにまた趣味の生活に戻っています。特にカメラが好きで、様々な風景撮影を楽しみました。当時珍しい自転車を乗り回し、弓道や手裏剣術などの鍛錬も欠かなかったと言われています。

地元の人々には「けいき様」や「けいきさん」と呼ばれて親しまれており、徳川慶喜自身も「けいき」と呼ばれることを好んでいました。

一方で、旧幕府関係者に対しては距離を置いていたとされており、困窮するかつての家臣に対しても知らぬ顔をしていたと言われています。その理由ははっきりしていませんが、もう政治にかかわりたくなかったのではないかという説が有力です。

徳川慶喜の愛刀

本庄正宗

徳川慶喜にまつわる刀剣として知られているのが「本庄正宗」(ほんじょうまさむね)。4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)以降の徳川将軍家に代々伝わる宝刀です。本刀の持ち主を遡れば「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)、「島津義弘」(しまづよしひろ)、徳川家康など、錚々たる武将が名を連ねます。

本刀は、そののち徳川宗家16代、17代へと継承されましたが、終戦直後に17代宗家「徳川家正」(とくがわいえまさ)のもとから進駐軍に押収され、そのあとは昭和初期の段階で国宝(旧国宝)に指定されたものの、現代まで行方不明になっている幻の1振です。

長巻 銘 備前長船住重真

徳川慶喜の愛刀として、もう1振有名なのが「長巻 銘 備前長船住重真」(ながまき めいびぜんおさふねじゅうしげざね)です。二本松藩(現在の福島県二本松市)の藩主「丹波家」(にわけ)に伝来した長巻で、徳川家へと献上され、徳川慶喜の愛刀となりました。

長巻とは、長太刀に長柄を付けた物のこと。本刀は、静形の薙刀のようにも見えますが、刀身が2尺1寸と長いため、長巻として使用されたと考えられます。

本刀を作刀したのは、南北朝時代に活躍した備前長船派の刀工「重真」(しげざね)です。重真は、備前長船派「元重」(もとしげ:貞宗三哲のひとりで最上大業物の刀工)の弟。元重の作風をよく継承した人物として、高く評価されています。

本刀は、大鋒/大切先で身幅が広く、反りが浅く、表裏に薙刀樋(刀身の腰付近に短く彫られた樋)をかくのが特徴。地鉄は板目肌に杢目が交じり、映りが鮮やか。刃文は中直刃に匂い深く小沸付き、帽子も直ぐに掃きかけて焼き詰めています。元重の作風によく似た、豪壮で見事な1振です。

長巻 銘 備前長船住重真
長巻 銘 備前長船住重真
備前長船住重真
鑑定区分
重要刀剣
刃長
63.7
所蔵・伝来
徳川慶喜 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

徳川慶喜の辞世の句

「この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり」

徳川慶喜が遺した辞世の句の意味は、「この世の人生とは短い夢のようなものだと聞いていたが、振り返ってみれば、ずいぶんと長い年月であった。」

徳川慶喜の人生は、将軍を辞めてからの期間のほうが長かったのです。静かに趣味に生きた余生から見れば、怒濤の時代だった幕末も遠い過去のできごととなり、人生を長く感じたのかもしれません。

また、徳川慶喜は次のような言葉も残しています。

「家康公は日本を治めるために幕府を開いたが、私は幕府を葬り去るために将軍職に就いた。」

幾度となく征夷大将軍になることを拒み、大政奉還や江戸無血開城など、徳川慶喜が新しい世を望んでいたことを示す言葉だと言えます。

「徳川家康の再来」とまで言われた最後の将軍、徳川慶喜。その奇才ぶりは、確かに徳川家康を彷彿とさせるもので、徳川慶喜が行ったことは結果的に新時代の礎を築きました。鳥羽・伏見の戦いの敵前逃亡の件や討幕運動最大の敵として、徳川慶喜の評価には賛否両論あります。

ただ、徳川慶喜は倒幕勢力との争いでの立ち振る舞いからも分かるように、徳川将軍のなかでも市民の命を尊び、争いから遠ざけるための行動を優先する屈指の将軍でもありました。徳川慶喜の英断がなければ、より多くの命が失われただろうと言われており、約700年も続いた武家政権を自らの手で終わらせたことも併せて、近年では徳川慶喜を再評価する流れもあります。

徳川慶喜を描いた2つの大河ドラマ

そんな徳川慶喜を再評価する流れを受けて、年齢を問わず人気のある「大河ドラマ」では、徳川慶喜にスポットを当てた作品が、2つ制作されています。

「徳川慶喜」(1998年[平成10年]放送)

本木雅弘さんが演じる徳川慶喜

本木雅弘さんが演じる徳川慶喜

1作目は、徳川慶喜を主人公に据えた「徳川慶喜」。原作は、日本を代表する歴史小説家「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)が著した長編時代小説「最後の将軍 徳川慶喜」です。

この小説は長編とは言っても、約1年に亘って放送される大河ドラマにとっては少し短い内容。そのため、徳川慶喜とゆかりの深い人物「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が編纂した「徳川慶喜公伝」についても、本大河ドラマの様々な箇所で用いられていました。

大河ドラマで幕末が取り上げられたのは、「大久保利通」(おおくぼとしみち)と西郷隆盛が主人公であった1990年(平成2年)の「翔ぶが如く」(とぶがごとく)以来、8年ぶりのこと。これに加えて、幕末の志士達ではなく江戸幕府側、さらには、徳川家康など有名な戦国武将に比べると、世の中にはあまり深くは知られていなかった徳川慶喜が、大河ドラマの主人公として選ばれたことは非常に珍しく、放送前から話題を呼んでいたのです。

主人公である徳川慶喜を演じたのは、俳優の「本木雅弘」(もときまさひろ)さん。いわゆる「イケメン」であったことでも知られる徳川慶喜を、自身も端正な顔立ちである本木雅弘さんが、終始ポーカーフェイスを貫いて好演。冷静で聡明、そして策略を得意としていた徳川慶喜の人物像を、見事に表現した演技が高く評価されました。

戦国武将
歴史を動かした有名な戦国武将のエピソードをはじめ、関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

「青天を衝け」(2021年[令和3年]放送)

吉沢亮さんが演じる渋沢栄一

吉沢亮さんが演じる渋沢栄一

2作目は、2021年(令和3年)2月より放送が開始された「青天を衝け」(せいてんをつけ)。徳川慶喜とは切っても切れない関係にあった渋沢栄一が主人公です。

「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、もともと、幕末における「尊王攘夷派」(そんのうじょういは:天皇など君主を尊び、外敵を排除しようとする思想)の志士でした。しかし、倒幕のためにクーデターを試みるも失敗。

その後、渋沢栄一は、亡命しようと向かった京都において徳川慶喜に出会い、一橋家に仕えることになりました。そして、同家の財政改革を行うなどして、徳川慶喜にその才能を認められるように。さらには、徳川慶喜が将軍に就任したことで渋沢栄一は幕臣となり、政策のことなどを直接話し合う、懇意な間柄になっていくのです。

大河ドラマ青天を衝けは、「吉沢亮」(よしざわりょう)さんが演じる渋沢栄一と、「草彅剛」(くさなぎつよし)さんが演じるもうひとりの主人公・徳川慶喜の関係をそれぞれの視点で描く、パラレルな展開で物語が進んでいきます。

前述した通り、渋沢栄一の生涯を語るうえで欠くことのできない徳川慶喜の存在についても、同時に描かれていくのです。

2021年(令和3年)2月14日の初回放送後には、両者の幼少期を演じた子役達の演技が話題に。好奇心旺盛でお喋り好きな渋沢栄一と、子どもでありながら、どこかクールな一面を見せた徳川慶喜。対照的でありながらも、両者の魅力が満載であったとの感想が、SNS上でも溢れていました。

青天を衝けのタイトルは、渋沢栄一が自身で詠んだ漢詩の一節である「勢衝青天攘臂躋」から取られた言葉。これは、「青空を衝き刺すような勢いで、肘を捲って(まくって)登る」ことを意味しています。幕末から明治という激動の時代に翻弄されながらも、まるで晴れ渡った青空を衝くように高い志を持ち、渋沢栄一自身の、そして日本全体の未来を切り開くために奮闘する、渋沢栄一と徳川慶喜の姿が描かれる作品です。

大河ドラマ「青天を衝け」に見る徳川慶喜の逸話

第1回の放送時(2021年[令和3年]2月14日)、「こんばんは、徳川家康です」と幕末にはゆかりのなかった徳川家康が、語り部としてオープニングを飾った大河ドラマ青天を衝け。

歴代の大河ドラマでは観られなかった前代未聞の演出がSNSを賑わせ、若者からも支持されるようになったこのドラマは、1998年(平成10年)の大河ドラマ徳川慶喜と同様に、渋沢栄一の著作・徳川慶喜公伝に記載のある史実に基づいた逸話が描かれているのです。青天を衝けで実際に用いられ、徳川慶喜の人となりが窺える2つの逸話をご紹介します。

徳川慶喜の聡明さの秘密は「黒豆」にあり!?

七男でありながら、父・徳川斉昭の期待を一身に受け、弘道館で学問と武芸の鍛錬に励んでいた徳川慶喜。「スパルタ」と評されるほど厳しかった徳川斉昭の教育が、江戸幕府15代将軍として、30歳の若さで幕政に腕を振るった徳川慶喜の才能を育てることに繋がったと言えます。

しかし、上に立つ者に必要なのは、政治手腕だけではありません。将軍の激務に耐え得るだけの体力も必要なのです。徳川慶喜の父・徳川斉昭は、「武士たるもの、心身と共に強くなければならない」と考えていたのか、現代の「健康マニア」と言えるほどの多種多様な健康法を自ら実践していました。

そのなかのひとつとして、大河ドラマ「青天を衝け」の第1回「栄一、目覚める」に登場したのが、黒豆を毎朝100粒(200粒の説もあり)食べ、牛乳を飲む健康法。これは、一橋家へ養子に出した徳川慶喜に宛てて徳川斉昭が多数送った手紙の中に、「黒豆は日に200粒ずつ召し上がり、牛乳も上がり申し候よし」と記されていることから、実際に行われていた健康法であることが分かります。

この当時の牛乳は、一般的な日本人にとってはあまり馴染みのなかった飲み物。ところが徳川斉昭は、水戸藩に牧場を造る計画をいち早く立て、牛乳を原料としたバターなどの加工品も試作させています。

このように、よく知られていない健康法でも、厭わずに導入していた父を見習っていた徳川慶喜は、毎朝欠かさず、黒豆100粒を牛乳と共に食べていたと伝えられているのです。

徳川慶喜公伝によれば、徳川慶喜は「記憶の明確なこと驚くばかり」であったと評されています。徳川慶喜が毎日食べていた黒豆の皮には、血液をサラサラに維持する効果が期待される成分「アントシアニン」が含まれており、これが、徳川慶喜の老化を防ぐことに繋がっていたのではと考えられます。

黒豆100粒を毎日食べるのはなかなか大変なことですが、徳川慶喜は、この健康法を怠らなかったが故に、大政奉還や江戸無血開城など、大胆な政策を決断する聡明さが育ったのかもしれません。

徳川慶喜が垣間見せた家臣への優しさ

前述した通り、鳥羽・伏見の戦いで敵前逃亡したことなどにより、将軍としての評価が二分している徳川慶喜。自身の家臣達には厳しく当たることも多かったため、徳川慶喜のことを嫌っていた家臣が多くいたと伝わっています。

しかし、そんな徳川慶喜にも優しい一面が備わっていました。これが大河ドラマ青天を衝けで描かれていたのが、第4回「栄一、怒る」(2021年[令和3年]3月7日放送)です。

この回のあらすじは、徳川慶喜がまだ将軍となる前、ペリーが日本への再来航を果たしたため、江戸幕府が激しく混乱。一方で、次期将軍候補への徳川慶喜の推挙を企む父・徳川斉昭が、旗本の息子であった「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)を、徳川慶喜の小姓に据えたとする内容です。

農人形

農人形

そのなかで話題となったのが、大河ドラマ青天を衝けにおいて、少々変わり者として描かれている平岡円四郎が、主君となった徳川慶喜に給仕するシーン。

作法をあまり理解しておらず、ご飯ひとつ満足によそえない平岡円四郎に対して徳川慶喜は、厳しく叱責するかと思いきや自らお椀を持ち、ご飯の盛り方を丁寧に教えたのです。

さらに徳川慶喜は、父・徳川斉昭が農民への感謝を込めて日々の習慣としていた、膳の上に置いた農人形に、一箸のお米を供えて手を合わす方法も披露。

何とも微笑ましいこの一連のシーンについて視聴者からは、SNS上に「ほっこりした」、「徳川慶喜の素顔が少し見えた」との感想が寄せられていました。

なお、この徳川慶喜と平岡円四郎による給仕の逸話についても、徳川慶喜公伝において、「小姓の職掌は、食膳の給仕を始めとし、髪結うすべまでも心得べきものなるに、平岡円四郎の始めて近侍を拝命せし時は、何一つ慣れ得ずして、(中略)公御覧じて、給仕の仕方はかくするものぞと、自身に杓子を執り椀を持ち、その仕ぶりを見せて細かに教へ給ひければ(後略)」との記述があります。

「惰弱」や「臆病者」と揶揄されながらも、江戸無血開城によって自身の名誉よりも民の命を最優先し守り抜いた「名君」の評価にも値する徳川慶喜の優しさは、この逸話からも窺えるのです。

徳川慶喜の基礎知識

「徳川慶喜の基礎知識」では、徳川慶喜について詳しくまとめました。
ひ孫をはじめとする子孫のほか、家系図や趣味である写真、渋沢栄一との関係性、そして功績・評価や死因などを詳しくご紹介しています。さらに、父親にあたる水戸藩主・徳川斉昭、妻である一条美賀子、また江戸時代に終焉をもたらした徳川慶喜の「大政奉還」についても解説。謎の多い徳川慶喜について、あらゆる角度から紐解いていきます。

将軍辞職後、政治の表舞台から姿を消した「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、長い隠棲生活のなかで趣味へと没頭していきます。多芸多才な人物であった徳川慶喜は、あらゆる趣味を持っていましたが、なかでも熱を注いだ趣味が「写真撮影」です。静岡と東京で隠居生活を送るなかで、徳川慶喜は将軍時代から好んでいた写真を通して、外の世界を覗いていました。激動の幕末を駆け抜けた徳川慶喜は、趣味人として静かに暮らした後半生をカメラとともに歩んでいたのです。また、徳川慶喜が愛した写真撮影は、徳川慶喜の血を引くひ孫にも受け継がれました。徳川慶喜が趣味の域を超えて没頭した写真撮影と、隠居生活のなかで撮られた作品のこと、またプロのカメラマンとして活躍した徳川慶喜のひ孫「徳川慶朝」(とくがわよしとも)氏についてご紹介します。
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「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう)のひとつである「一橋徳川家」(ひとつばしとくがわけ)から徳川宗家を相続した人物です。もともと徳川慶喜は、「徳川御三家」のひとつに数えられる「水戸徳川家」(みととくがわけ)の出身でしたが、一橋徳川家へ養子として入っていました。 なぜ徳川慶喜は、御三家、すなわち宗家に次ぐ地位にあった水戸徳川家を出て、一橋徳川家の養子となる必要があったのでしょうか。 また徳川慶喜と言えば、「江戸幕府最後の将軍」といったテーマで語られることの多い人物ですが、実は明治になってから多くの子孫を残しています。 徳川慶喜の血統を受け継いだ子孫は、どのように家系を繋いでいったのか、明治における「徳川慶喜家」を中心に、徳川慶喜の子孫と家系図をご紹介しましょう。
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「大政奉還」(たいせいほうかん)は、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が政権を返上し、260年以上続いた江戸幕府を終わらせ、新たな時代の転換点となったできごとです。皆さんはこの大政奉還が、土佐藩(現在の高知県)の構想「大政奉還論」だったということをご存知でしょうか。徳川慶喜は、一体どのような経緯で土佐藩から大政奉還論を受け入れ、どのような目論見で大政奉還を実行したのでしょうか。徳川慶喜が大政奉還した理由、なぜ表明場所が京都の二条城となったのか、立役者「坂本龍馬」についてなど、大政奉還の真相を分かりやすく解説します。
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「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、江戸幕府最後の将軍、そして日本最後の征夷大将軍となった人物です。父は「烈公」(れっこう)の異称で知られる水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)で、徳川斉昭は徳川慶喜の人格形成に大きな影響を与えたと言われています。また、徳川慶喜は10男11女と言う子宝に恵まれたことでも知られており、正室「一条美賀子」(いちじょうみかこ)は多くの子ども達を「自らの子」として育てました。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜を幼少期から厳しく教育してきた父・徳川斉昭とは、どのような人物だったのか。また、正室・一条美賀子の生涯とは、どのようなものだったのか。徳川慶喜と深いかかわりを持つ2人の人物・徳川斉昭と一条美賀子の生涯をご紹介します。
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日本史上の歴史人のなかでも、江戸幕府において「最後の将軍」となった「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、評価が大きく分かれる人物だと言えます。「大政奉還」を行い、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)における最初の合戦「鳥羽・伏見の戦い」では敵前逃亡して江戸幕府を終わらせた「暗君」という悪評がある一方で、江戸の治安を守り日本の近代化に貢献した「名君」だと称える評価も少なくありません。特に、近代以降は徳川慶喜を再評価する傾向にあり、大政奉還後に「江戸無血開城」を行ったことで、血を流さずに新しい国家の創設を進めたことなどが評価されています。幼少期から英明だった徳川慶喜の人物像を振り返り、幕末から明治時代にかけての功績を辿りながら評価が分かれる理由についてご説明すると共に、明治維新後、謹慎していた徳川慶喜が復権に至った経緯や、晩年に趣味人として生きた徳川慶喜の最期についても見ていきます。
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「徳川家康の再来」と称される「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)と、「幕末の三舟」(ばくまつのさんしゅう)のひとりに数えられる知恵者である「勝海舟」は、幕末の歴史において欠かすことのできない人物。時勢を読むことに優れ、非常に頭が切れると言われた2人は共に幕府側の人間で、開国論者でありましたが、根本的な思想の違いにより、お互い嫌いあっていた微妙な関係と言われています。徳川慶喜と勝海舟の関係がどのようなものであったのか見ていきましょう。
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第15代最後の将軍/徳川慶喜(よしのぶ)

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初代将軍/徳川家康

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戦国乱世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた「徳川家康」。天下人として名高い家康ですが、幼い頃は「織田家」と「今川家」の人質として扱われ、家臣共々不遇な生活を送っていました。しかし、そののちは三河平定、そして天下分け目の「関ヶ原の戦い」を経て征夷大将軍となったのです。その生涯と共に、「徳川紋」と言われる徳川家の家紋、そして徳川家康が残した名言をご紹介します。

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第2代将軍/徳川秀忠

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第3代将軍/徳川家光

第3代将軍/徳川家光
「我は生まれながらの将軍である」と言ったのは、江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)。様々な政策を行ない、幕藩体制や幕府機構の確立に尽力しました。徳川家光が幕府の基礎を築かなければ、江戸幕府が約260年続くことはなかったと言われています。 徳川家光が行なった政策とは何か。徳川家光の幼少期や両親・弟・乳母「福」との関係、功績や人物像についてご紹介します。

第3代将軍/徳川家光

第4代将軍/徳川家綱

第4代将軍/徳川家綱
徳川幕府の新時代を築いた幼齢の4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)といった偉大な先祖の威光から脱却するべく、政治手腕を振るいましたが、どのような素顔を持っていたのでしょうか。 悠久の歴史を誇る日本の伝統は、確固たる継承者がその手腕を発揮したことで成り立っていると言え、徳川時代の安定をもたらした中核的な政権は、日本の史実に大きな足跡を残しました。 生まれながらにして、偉大な父親の背中を追うことになりながらも、4代将軍として任務を全うした徳川家綱の政治的指導力。また、「武断政治」(ぶだんせいじ:武力を背景にした専制政治)から「文治政治」(ぶんちせいじ:武力によらず、礼儀や法令による政治)への革新は、どのような判断で行なわれたのかに迫ります。

第4代将軍/徳川家綱

第5代将軍/徳川綱吉

第5代将軍/徳川綱吉
江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)は、徳川15代将軍のなかでも「生類憐れみの令」(しょうるいあわれみのれい)を発していることから、特に知名度が高い将軍です。しかし、徳川綱吉の名前に「家」の1文字がありません。それは徳川綱吉が、将軍候補から外れていたことを意味します。 徳川綱吉が、悪法と名高い生類憐れみの令を発した背景には何があったのか。また、将軍候補ではなかった徳川綱吉が、なぜ5代将軍に就任したのか、その理由を掘り下げます。

第5代将軍/徳川綱吉

第6代将軍/徳川家宣

第6代将軍/徳川家宣
江戸幕府6代将軍を務めた「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)は、5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)が行なった「天和の治」(てんなのち)を踏襲しながらも、後期は、「生類憐れみの令」(しょうるいあわれみのれい)といった政策を次々と廃止するなど、政治の刷新を図りました。 しかし徳川家宣は、将軍に就任してわずか3年で亡くなってしまいます。そのため、徳川家宣の生涯や政策についてはあまり知られておらず、歴代の徳川将軍に比べると語られることが少ない人物です。徳川家宣の生涯や政策について掘り下げ、その実像を解き明かしていきます。

第6代将軍/徳川家宣

第7代将軍/徳川家継

第7代将軍/徳川家継
歴代最年少で江戸幕府7代将軍となった「徳川家継」(とくがわいえつぐ)は、就任時わずか5歳でした。そのあとの徳川家継は、3年の将軍職を経て夭逝(ようせい:若くして死ぬこと)。徳川家継の死により、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の血統は失われてしまいました。一体なぜこのような幼すぎる将軍が擁立されることになったのか、将軍となるまでの経緯や、徳川家継の行なった政治についてご紹介します。

第7代将軍/徳川家継

第8代将軍/徳川吉宗

第8代将軍/徳川吉宗
江戸幕府を治めていた徳川家15代将軍のなかで人気があるのは、「暴れん坊将軍」で有名な8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)。時代劇などの主役と言うだけでなく、大胆な財政改革「享保の改革」(きょうほうのかいかく)を行なった将軍として、現代でも抜群の知名度を誇りますが、徳川吉宗はどのような人物だったのか。また、手腕を発揮した享保の改革とは、どのような内容と成果があったのかを、徳川吉宗の生涯と共にご紹介します。

第8代将軍/徳川吉宗

第9代将軍/徳川家重

第9代将軍/徳川家重
「徳川家重」(とくがわいえしげ)が徳川幕府9代将軍となったのは、数えで36歳のときでした。しかし、将軍となったことで大きな困難に直面します。徳川家重は、生まれながら身体に障碍(しょうがい)があり、人とコミュニケーションを取ることが難しかったのです。それでも将軍としての職務を果たした徳川家重は、一体どのように仕事をこなしたのでしょうか。何よりもまず、彼自身の身体と戦わなければならなかった徳川家重の、将軍としての生き様をご紹介します。

第9代将軍/徳川家重

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