歴史上の人物と日本刀

勝海舟と海舟虎徹

文字サイズ

「勝海舟」は、幕末時代に江戸城の「無血開城」を実現させた人物です。日本はこれによって、江戸時代から明治時代へ、近代国家のスタートを切りました。江戸城の無血開城は、暴力によって相手を制するのではなく、話し合いによって実現しましたが、じつは勝海舟は剣術家としても優れた腕前を持っていたのです。また、愛刀家であったため、著名な刀工が作刀した刀を多く所有していました。そのコレクションのひとつに「海舟虎徹」(かいしゅうこてつ)と呼ばれる刀が存在。日本を近代国家へ導いた勝海舟とは、どのような人物だったのか。そして、勝海舟の愛刀として著名な海舟虎徹とは、どのような刀なのか。刀剣ファンなら知っておきたい、勝海舟と愛刀海舟虎徹についてご紹介します。

勝海舟の生涯

無役の旗本の家に生まれる

勝海舟

勝海舟

勝海舟」は、1823年(文政6年)、石高41石余の旗本・勝家に生まれました。しかし、旗本と言ってもその家柄は無役(役職に就いていないこと)であったばかりか、勝海舟の父親はお金があればすぐにお酒に使ってしまうため、勝海舟は大変苦しい生活を送っていたと言います。

当時の勝海舟は、近所でも有名になるほど勉学に熱心な少年でした。あるときから蘭学に興味を持ち始めますが、極貧生活であったことから、蘭和辞典を買うお金すらありません。

そのため、勝海舟は25歳のときに知人の蘭医「赤城玄意」(あかぎげんい)から、江戸時代後期に編纂された蘭和辞典「ドゥーフ・ハルマ」(ヅーフハルマとも呼ばれる)を1年間10両で借りると言う方法で蘭学を学びます。

ドゥーフ・ハルマは全部で58巻。そのページ数は3,000ページもありましたが、勝海舟は1年の間に写本を2部完成させたうえに、そのうちの1部は売って換金し、ドゥーフ・ハルマを借りた際の返済に充てました。なお、勝海舟は当時、病気がちな母親の看病や、幼い妹達の面倒を見ながら、寝る間を惜しんでドゥーフ・ハルマの筆写に励んだと言われています。

そしてこのときに学んだ蘭学によって、勝海舟はその後の人生を大きく変えていくのです。

勝海舟がアメリカで見たもの

阿部正弘

阿部正弘

諸外国の圧力が日本に押し寄せつつあった頃、勝海舟は蘭学の勉強に加えて兵学を学びはじめていました。1853年(嘉永6年)、「マシュー・ペリー」の艦隊が来航(ペリー来航)。日本は開国を迫られることになります。

この事態に幕府老中「阿部正弘」は「海防に関する意見書」を幕臣だけではなく、諸大名や町人に至るまで、幅広く募集しました。身分の上下関係なく、誰でも意見書を送れると言うことで、勝海舟も西洋式兵学校の設立と、正確な官板(かんぱん:政府・官庁の出版物)翻訳書刊行の必要を説いた意見書を提出します。

これが阿部正弘の目に留まり、勝海舟は幕政に参加。「蘭書翻訳」の業務を受けることになりましたが、これは表向きの業務で、実際には海防計画を練るために登用されたと言います。そのあと勝海舟は長崎へ派遣され、日本最初の海軍と言われる「長崎海軍伝習所」で約3年半、西洋兵学と航海術を学びました。

また、勝海舟はのちに、新たに造られた軍艦操練所で教官としても活躍します。1860年(万延元年)、幕府は「日米修好通商条約」の批准書交換のために遣米使節団を結成。勝海舟もまた、「福沢諭吉」や「ジョン万次郎」らとともに軍艦「咸臨丸」(かいりんまる)に乗って太平洋を横断し、アメリカへと渡ります。

渡米した勝海舟は、衝撃を受けました。アメリカは、日本とは異なり近代的な街並みや産業で溢れているだけではなく、選挙による民主的な政治が行われていたのです。これは、身分や家柄によってすべてが決まる日本とは全く異なる社会制度で、勝海舟は日本のあるべき姿を意識するようになります。

西郷隆盛との交流

約2ヵ月の滞在を終えて帰国した勝海舟は、帰国後に儒学者「横井小楠」(よこいしょうなん)や越前国福井藩(現在の福井県嶺北中心部)藩主「松平春嶽」(まつだいらしゅんがく)達と交流。このうち、横井小楠はのちに勝海舟が「私は、今までに天下で恐ろしい者を2人見た。それは横井小楠と西郷隆盛だ」と言うほどの人物でした。

勝海舟は、横井小楠達が主張する「公議政体論」(諸侯の政治参加を呼びかけ、幕府と共同で政治を行う主張)に傾倒します。それは、欧米列強に対抗するためには、幕府と諸藩がひとつとなって、列強諸国の脅威に立ち向かうと言うこと。

西郷隆盛

西郷隆盛

しかし、幕府は決して諸藩と協力することはなく、あくまでも「徳川家のため」と言う姿勢を崩しませんでした。勝海舟は幕府を見限り、幕政にかかわりながら、幕府を排除した新たな日本を作るために動き出します。1864年(元治元年)9月11日、勝海舟は大坂「専称寺」(せんしょうじ)にいました。そこで会ったのが、のちに「江戸無血開城」の重要人物となる「西郷隆盛」です。

勝海舟は、西郷隆盛に対して「今は日本人同士が争っている場合ではない。手ごわい諸外国に対抗するには、諸藩が互いに協力し合う必要がある」、「幕府には政治を行う力がもうない。だからこそ、諸藩が手を取り合って国政を動かさなければならない」と主張。この言葉に、西郷隆盛はとても驚きます。当時の勝海舟は、幕府の中枢を担う重要人物。

そんな勝海舟が幕府を排除する形の政治思想を語ったのです。西郷隆盛は、のちに「大久保利通」へ宛てた手紙のなかで「じつに驚き入り候人物。ほれ申し候」と称賛するほど、勝海舟から大きな影響を受けました。

また、勝海舟の思想に影響を受けたのは、西郷隆盛だけではありません。土佐藩士「坂本龍馬」も、勝海舟を「日本第一の人物」と称えるほど、勝海舟に心服していました。1866年(慶応2年)、坂本龍馬の斡旋によって険悪な関係だった薩摩藩長州藩の両藩が和解し「薩長同盟」(さっちょうどうめい)が締結。

しかし、これは必ずしも良い結果にはなりませんでした。薩長同盟によって結成された一大勢力は、のちに勝海舟のいる江戸幕府を倒すために動き始めるのです。

勝海舟と「江戸無血開城」

大政奉還、そして戊辰戦争へ

徳川慶喜

徳川慶喜

1867年(慶応3年)、15代将軍「徳川慶喜」は、「大政奉還」によって政権を朝廷へ返上。これが引き金となって勃発したのが「王政復古」のクーデターです。薩摩や長州を中心とする勢力は、徳川幕府を力で倒そうと新政府を樹立。軍勢を江戸に進めます。

官軍による「戊辰戦争」が開始した当時、勝海舟は幕府の側にいました。幕府重臣のなかには主戦論者(戦う意思がある者)もいたため、幕府が総力を挙げて官軍と戦闘を行った場合、必ずしも勝算がないわけではありませんでしたが、もしも江戸で戦闘が繰り広げられれば、新政府に恭順を示す徳川家に危機が訪れるだけではなく、江戸が焼け野原になってしまいます。

勝海舟ははじめに、徳川慶喜へ恭順を貫くように説得しました。このとき、勝海舟は幕府の人間として活動していたため、当然命を狙われます。それでも勝海舟は、決して立ち止まりませんでした。

江戸城総攻撃回避のための準備

山岡鉄舟

山岡鉄舟

「陸軍総裁」に任じられた勝海舟は、幕府最高幹部として「江戸城総攻撃」に備えます。総攻撃の予定日は1868年(慶応4年)3月15日。6日前の3月9日に、徳川慶喜は使者として「山岡鉄舟」を静岡にいる西郷隆盛のもとへ送ります。

なお、このときに西郷隆盛へは「山岡鉄舟は勝海舟からの使者」と伝えられました。その理由は、西郷隆盛の警戒を解くための作戦だったと言われています。西郷隆盛は、山岡鉄舟に対して「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること」や「江戸城を明け渡すこと」など、「徳川処分案7ヵ条」と呼ばれる7つの総攻撃回避条件を提示。

山岡鉄舟は「徳川慶喜の身柄」についての条件以外は受け入れると返答をしますが、西郷隆盛は納得しません。勅命に逆らうつもりか、と西郷隆盛が怒ったとき、山岡鉄舟は西郷隆盛に「もしも島津忠義(しまづただよし:薩摩藩12代藩主)が徳川慶喜と同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずだ」と反論しました。

立場は異なりますが、山岡鉄舟も西郷隆盛も最後まで主君への忠義を貫く武士です。西郷隆盛は、山岡鉄舟の立場を理解して折れ、徳川慶喜の身柄については保留と言うことで会談は終了します。3月10日、西郷隆盛との会談を終えて江戸へ帰った山岡鉄舟は、勝海舟に交渉の結果を報告。

このとき、勝海舟は西郷隆盛が交渉に応じなかった場合を考えて、「焦土作戦」を準備していたと言います。勝海舟が考えていた焦土作戦とは、新政府軍の攻撃を受ける前に、江戸城や江戸の町に放火して、敵の進軍を防ぐと言うもので、江戸の町民達はあらかじめ千葉に避難させ、できるだけ救出すると言う計画です。なお、この作戦は準備に時間が掛かるため、実行には移されなかったと言われています。

「江戸無血開城」の実現

3月13日、勝海舟はいよいよ西郷隆盛との会談を開始。交渉の場所は田町(現在の東京都港区)の薩摩藩江戸藩邸。徳川家側からは陸軍総裁である勝海舟の他、徳川家の会計総裁(最高責任者)「大久保一翁」(おおくぼいちおう)が参加。対して官軍側は西郷隆盛の他、薩摩藩士「村田新八」と「桐野利秋」がそれぞれ参加し、交渉は3月13日、14日の2回に分けて行われました。西郷隆盛にとって勝海舟は、尊敬すべき人物です。

恩人とも言うべき相手との、国の命運をかけた大事な交渉を外部から邪魔されるわけにはいきません。そのため、西郷隆盛はあらかじめ、土佐藩士「板垣退助」をはじめとした、総攻撃を待ちわびる藩士達に「交渉が終わるまでは攻撃を仕掛けるな」と命じていました。

交渉は、山岡鉄舟のときと同じように進められ、徳川慶喜については「徳川慶喜の故郷である水戸へ移して謹慎する」と言う回答がされます。それ以外の条件も山岡鉄舟の返答通りでしたが、西郷隆盛は勝海舟を信頼して、翌日に控えた江戸城総攻撃を中止し、総督府のある京都へこの回答を伝えることを約束しました。

こうして、江戸城は誰の血も流すことなく明け渡されることが決定し、ここに「江戸無血開城」が実現したのです。勝海舟は、晩年になって当時を振り返った際にこう語っています。「自分は政治家であるから、策を講じようと思えばいくらでもできたが、誠実な西郷隆盛にはそうした小手先の策略は通用しない。だから自分も誠実さを持って、西郷隆盛と向き合った」。

そのあと、勝海舟は明治時代に入ってからも、朝敵となった徳川慶喜を赦免させることに奔走。また、徳川家に仕えていた家臣達が路頭に迷わないようにと、自腹を切って家臣やその家族達の生活を支えました。さらに、「西南戦争」によって逆臣となった西郷隆盛の名誉回復にも尽力し、上野公園に銅像を建立するための支援を行っています。

無役の旗本の家柄から、政府の高官まで上り詰めた明治維新の立役者・勝海舟。新たな国の姿を見据えて行動したその姿勢は、多くの人びとの心を打ちました。勝海舟の「リーダー」としての信念や行動は、ビジネスの場でも活かせるとして、現代では歴史関連の雑誌だけではなく、ビジネス誌などでも紹介されています。

勝海舟の愛刀「海舟虎徹」

勝海舟は、優れた政治家である一方で、若い頃から剣術を嗜み、10代のうちに免許皆伝をするほどの腕前を持っていました。そんな勝海舟の愛刀として知られているのが「海舟虎徹」と呼ばれる刀です。

海舟虎徹は号で、正式名称は「刀 銘 長曽祢興里真鍛作之」(かたな めい ながそねおきさとしんたんこれをつくる)。本刀は、徳川慶喜が勝海舟へ贈ったと言われる刀で、鞘書(さやがき:刀の名や所有者などの情報を[さや]に書くこと)に「勝海舟が所有していた」と書かれていたことが号の由来となっています。

勝海舟の刀にまつわるエピソードとして著名なのは、「伊藤博文や山県有朋が、明治天皇へ秘蔵の名刀を寄贈するなか、勝海舟だけは刀ではなく、(やじり:矢を放った際、標的に刺さる先端部)を寄贈した」と言う話。

勝海舟は、本刀の他にも名刀をいくつも所有していましたが、いずれも家宝として大切にしていました。海舟虎徹を作刀したのは、「虎徹」の通称で知られる、江戸時代中期に江戸で活躍した「長曾祢興里」(ながそねおきさと)。長曾祢興里は、もともと甲冑(鎧兜)を制作する甲冑師でした。しかし、当時は平和な江戸時代。

甲冑(鎧兜)の売り上げに伸び悩んだ長曾祢興里は、50歳の頃に越前国(現在の福井県)から江戸へ移り住んで刀工として活動します。長曾祢興里の作る刀は、武士好みの質実剛健な姿をしているだけではなく、優れた切れ味を誇ったことから、瞬く間に江戸で人気となりました。

しかし、人気となったことが理由となり、多くの偽物が世に出回ることに。そのため、刀剣界では古くから「虎徹を見たら偽物と思え」と言われています。

刀 銘 長曽祢興里 真鍜作之(号:海舟虎徹)
刀 銘 長曽祢興里 真鍜作之(号:海舟虎徹)
長曽祢興里
真鍜作之
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
71.2
所蔵・伝来
徳川慶喜 →
勝海舟 →
個人蔵→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

勝海舟と海舟虎徹

勝海舟と海舟虎徹をSNSでシェアする

「歴史上の人物と日本刀」の記事を読む


黒田斉清伝来の刀 無銘 真長

黒田斉清伝来の刀 無銘 真長
「黒田斉清」(くろだなりきよ)は、「黒田官兵衛」の子孫です。福岡藩(現在の福岡県)黒田家の10代藩主として、江戸時代後期に活躍。黒田家には、黒田官兵衛や「黒田長政」が蒐集した名刀が多数あったことで有名ですが、そのなかの1振、10代藩主・黒田斉清が佩用したという「刀 無銘 真長」が刀剣ワールドの所蔵刀となりました。黒田斉清と刀工「真長」(さねなが)について、詳しくご紹介します。

黒田斉清伝来の刀 無銘 真長

紀州徳川家の家老・三浦将監の刀 銘 和泉守兼定作

紀州徳川家の家老・三浦将監の刀 銘 和泉守兼定作
「紀州徳川家」とは、紀伊国(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた徳川家康の十男「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)を祖とする一族です。その家老「三浦将監」(みうらしょうげん)の指料(さしりょう:腰に差す刀剣)が、「刀 銘 和泉守兼定作[金象嵌]二ツ胴 三浦将監所持」。名匠「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)が作刀し、1996年(平成8年)に「特別重要刀剣」に指定された名刀です。どうして三浦将監の指料となったのか、その謎に迫ります。

紀州徳川家の家老・三浦将監の刀 銘 和泉守兼定作

徳川慶喜と長巻 銘 備前長船住重真

徳川慶喜と長巻 銘 備前長船住重真
「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、幕末期に「大政奉還」などの大胆な政策を実行した江戸幕府15代将軍です。徳川慶喜が「最後の将軍」であることは知っていても、その人物像までは深く知らない人も多いのではないでしょうか。また徳川慶喜は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が主人公のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)に、実父「徳川斉昭」(とくがわなりあき)と共に登場したことがきっかけとなり、にわかに注目を集める人物。そんな徳川慶喜について、徳川斉昭との関係を軸にして、その人となりをご紹介すると共に、徳川慶喜の愛刀「長巻 銘 備前長船住重真」についても解説します。

徳川慶喜と長巻 銘 備前長船住重真

大正天皇に献上された11代会津兼定の刀 銘 大日本兼定

大正天皇に献上された11代会津兼定の刀 銘 大日本兼定
「明治天皇」は、明治時代を切り開いた近代日本の指導者であり、「大正天皇」はその明治天皇の三男。そして、大正天皇の長男「昭和天皇」は太平洋戦争という大波を乗り越えた人物です。ご紹介する大正天皇は、在位期間が15年ほどであったことから一般的には影の薄い天皇と言われることもあります。しかし、大正天皇も他の皇族に倣い儀式においては、多くの日本刀を授かる機会を持ちました。刀工である11代目「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ:会津兼定とも)は、こうした名誉ある機会を得て皇太子時代の大正天皇に刀を献上。大正天皇と11代目和泉守兼定のこと、そして11代目和泉守兼定が打った「刀 銘 大日本兼定」についてご紹介します。

大正天皇に献上された11代会津兼定の刀 銘 大日本兼定

結城秀康と名刀 於武州江戸越前康継

結城秀康と名刀 於武州江戸越前康継
「徳川家康」の跡を継ぎ、江戸幕府2代将軍となった「徳川秀忠」には、5つ上の兄がいたことをご存知でしょうか。武将としての実力は徳川秀忠よりも勝っていたとも言われている兄の名は「結城秀康」(ゆうきひでやす)。戦国武将の期待の星とされていました。では、なぜ弟・徳川秀忠よりも武功のあった結城秀康は将軍になれなかったのでしょうか。徳川家康の子でありながら「結城」姓を名乗っているなど、謎に包まれた徳川家康の次男・結城秀康の生涯を探ると共に、結城秀康に仕えた刀工「越前康継」(えちぜんやすつぐ)についてご紹介します。

結城秀康と名刀 於武州江戸越前康継

鍋島茂紀伝来の薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広

鍋島茂紀伝来の薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広
「鍋島茂紀」(なべしましげのり)とは、江戸時代初期に活躍した佐賀藩(現在の佐賀県)の藩士です。藩主・鍋島家の親類同格で、自治領・武雄(たけお:現在の佐賀県武雄市)の領主をしていました。切れ味が鋭くて有名な、佐賀藩の御用刀工「藤原忠広」(ふじわらただひろ)に薙刀直しの脇差を注文し、愛用した人物。鍋島茂紀の生涯や刀工・藤原忠広が作る刀剣の特徴、化け猫騒動について詳しくご紹介します。

鍋島茂紀伝来の薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広

岩田通徳が所持した細田直光作の名刀

岩田通徳が所持した細田直光作の名刀
「薙刀 銘 直光」は、江戸時代末期に幕臣によって結成された「京都見廻組」(きょうとみまわりぐみ)を指揮した「岩田通徳」(いわたみちのり)が所持した薙刀です。作刀したのは「細田直光」(ほそだなおみつ)。細田直光は刀鍛冶として優れていましたが、時代に翻弄された結果「贋作の名人」として有名になってしまった人物です。岩田通徳と細田直光の来歴を追っていきながら、薙刀 銘 直光について、詳しくご紹介していきます。

岩田通徳が所持した細田直光作の名刀

幕末の攘夷派剣客・宮和田光胤の愛刀 刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之

幕末の攘夷派剣客・宮和田光胤の愛刀 刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之
「刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之」(かたな めい えんりゅうさいたちばなくにひでこれをきたえる)は、幕末の国学者で尊王攘夷派(そんのうじょういは:天皇を尊び、外国を排斥しようとする一派)として活動した「宮和田光胤」(みやわだみつたね)の愛刀とされています。宮和田光胤は、「千葉周作道場」(ちばしゅうさくどうじょう)にて「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)の免許皆伝を受けた剣客という顔も持っていました。 本刀の制作者「立花圓龍子国秀」(たちばなえんりゅうしくにひで)は、江戸末期の刀工で「中山一貫斎義弘」(なかやまいっかんさいよしひろ)の門下に入り、上野国(上野国:現在の群馬県)や相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)で作刀。「坂本龍馬」もまた、国秀の日本刀を佩刀していたことは有名です。坂本龍馬と千葉周作道場の同門だった尊王攘夷派の剣客・宮和田光胤について述べると共に、国秀作の刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之について解説します。

幕末の攘夷派剣客・宮和田光胤の愛刀 刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之

伊勢山田奉行・長谷川重章と出雲大掾藤原吉武

伊勢山田奉行・長谷川重章と出雲大掾藤原吉武
江戸時代初期の刀工である「出雲大掾藤原吉武」(いずもだいじょうふじわらよしたけ)は、またの名を「出雲守藤原吉武」(いずものかみふじわらよしたけ)、あるいは「堀川吉武」と言います。「堀川」の姓からも分かる通り、吉武は稀代の名工として名を馳せた「堀川国広」の一門でした。 ご紹介する打刀と脇差は、上級旗本で伊勢山田奉行を務めた「長谷川重章」(はせがわしげあき)が特別注文した逸品です。注文主である長谷川重章と、刀工の出雲大掾藤原吉武は、どのような人物だったのかを解説すると共に、吉武が手掛けた刀剣の魅力に迫ります。

伊勢山田奉行・長谷川重章と出雲大掾藤原吉武

注目ワード
注目ワード