江戸時代

ペリー来航

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江戸幕府が外国船の入船や交易を制限する「鎖国政策」を敷く中、突如「浦賀」(現在の神奈川県横須賀市)に現れた4隻の黒い戦艦。日本と通商を希望するアメリカから、武力により開国を要求したペリーが来航しました。当時の世界情勢を踏まえ、この歴史的大事件をご紹介します。

ペリーが浦賀に来航

黒船の恐怖が国内を席巻

1852年(嘉永5年)に「東インド艦隊」提督に就任した「マシュー・カルブレイス・ペリー」は、アメリカ大統領「ミラード・フィルモア」から、江戸幕府に開国を要求する親書を渡すよう指令を受けます。

任務遂行には武力で脅すのが一番だと考えたペリーは、1853年(嘉永6年)、ズラリと砲門が並んだ2隻の蒸気船と2隻の帆船の計4隻で、突如浦賀に来航するのです。

人々は、真っ黒く巨大な戦艦、噴き上げる蒸気、威嚇のための砲撃を目の当たりにして、江戸が侵略される危機感を覚えます。

当時流行った落首(らくしゅ:風刺、嘲笑、批判の意を込めた匿名の歌)、「太平の眠りを覚ますじょうきせん たった4はいで夜も寝られず」の「じょうきせん」とは、蒸気船と当時の高級茶「上喜撰」をかけており、日本中が4隻の船に震撼する様子を表現しています。

各国の動きと鎖国中の江戸幕府

アジアが欧米の植民地に

西欧諸国では、18世紀半ばから始まった「産業革命」が進展し、19世紀には市場開拓と原料確保を求めてアジアへの進出が活発化。インドや東南アジア、そして清(現在の中国)を植民地にするため、イギリスやフランスが侵略を続ける中、ヨーロッパに比べて後れを取っていたアメリカは、日本との通商がアジア進出の鍵だと考えたのです。

鎖国を敷いていた江戸幕府

出島和蘭商館跡

出島和蘭商館跡

当時の日本は、江戸幕府が海外との交流を制限する鎖国政策を打っていました。

幕府の直轄地「長崎・出島」では、オランダや清。「薩摩藩」(現在の鹿児島県)では「琉球王国」(現在の沖縄県)といった限られた場所で少数の国とのみ交易を行なっていたのです。

また他国からの干渉を避けるため、1825年(文政8年)に「異国船打払令」を敷き、沿岸部の警備を強化。外国船を追い払う方針を採りました。

鎖国の終焉と日米和親条約の締結

親書の対応協議により幕府の弱体化が露呈

幕府はペリー艦隊の上陸を拒否したものの、アメリカの武力による恫喝に狼狽。ついにはペリーの上陸を許し、親書を受け取ります。

親書の内容は、日本沿岸での遭難者や漂流民、アメリカ船乗員の保護、そして清とアメリカを結ぶ航路の補給基地として、日本に燃料や食糧の供給を依頼する、というもの。実際は、工業用の捕鯨における補給基地として日本に目を付けたと言われています。

阿部正弘

阿部正弘

病床にあった江戸幕府12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)に代わり、幕府老中筆頭「阿部正弘」(あべまさひろ)が指揮を執り、アメリカにどう対応すべきか、諸大名や知識人に意見を求めたのです。

しかし、開国を進言したのは、幕臣の「勝海舟」(かつかいしゅう)など少数で、多くは外国人を排斥する「攘夷論」を主張。

さらに、広く意見を募ったことを幕府が弱体化していると捉えた一部の攘夷論者達は、「外国と戦える強い国を」と倒幕運動に傾倒していくことになります。

開国と日米和親条約の締結

ペリーは、江戸幕府に親書を手渡したあと、1年間の猶予を告げて浦賀を去りますが、なんと半年後に再び来日。

しかも、前回よりもさらに威圧的な蒸気船3隻、帆船3隻、輸送船1隻の編隊で「江戸湾」(現在の東京湾)に乗り込んできました。武力の差は歴然であり、幕府はアメリカの要求をはねのけることができません。

1854年(嘉永7年)、幕府はついに開国要求を認め、アメリカとの間で「日米和親条約」を締結しました。しかし、日本に関税自主権がないなど不平等な内容であったこの条約は、長らく日本を苦しめることになります。

ペリー来航は、200年以上に及ぶ鎖国を解き、江戸幕府が崩壊する呼び水となったのです。

ペリー来航

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