「備前伝」(びぜんでん)とは、平安時代から室町時代に、日本一の日本刀の産地として栄えた「備前国」(びぜんのくに:現在の岡山県東部)と、その近辺で輩出された刀工やその一派による日本刀の制作法です。特に、備前国を南北に流れる吉井川の下流あたりが最も栄え、数多くの名工と名門一派を生み出してきました。 ここでは「長船鍛冶」(おさふねかじ)で触れた「長船派」(おさふねは)を除いた代表的な流派である「古備前派」(こびぜんは)、「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)、「吉岡一文字派」(よしおかいちもんじは)、「正中一文字派」(しょうちゅういちもんじは)、「片山一文字派」(かたやまいちもんじは)についてご紹介します。
「古備前派」(こびぜんは)は、備前国で平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて活躍した刀工一派です。備前国は、吉井川流域に位置し、古くから鉄や鍛刀(たんとう:刀剣の製造)に使用する「松炭」(まつずみ:松の木を焼いて作ったやわらかい炭)などの資源が豊富で、日本刀の制作に適した土地だったため、数多くの名工を輩出してきました。
古備前派は、この日本刀の名産地である備前国で栄えた流派「備前伝」(びぜんでん)始まりの一派とされており、のちに栄える「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)や「長船派」(おさふねは)の源流とされています。また、古備前派の作刀は、宝刀らしい優美な姿から、古くから贈答用などに珍重されてきました。
実際の作刀が見られるのは988年頃(永延頃)、友成が父の「実成」とともに「一条天皇」(いちじょうてんのう:980年生)に召され、勅命により日本刀を制作。その後「友成派」と「正恒派」(まさつねは)に分かれていきます。
地鉄(じがね)は「板目肌」(いためはだ)で、刃文は古備前派の後に興った一文字派などとは異なり「焼幅」(やきはば)が狭く、一見すると「直刃」(すぐは)のように見える「小乱刃」(こみだれば)や「小丁子乱」(こちょうじみだれ)を焼きます。地鉄は「小板目肌」(こいためはだ)で、これに関しても「杢目肌」(もくめはだ)を特徴とした後年の一文字派と一線を画しているのが特徴です。また「焼出し」に個性があり、「はばき元」(はばきもと)の焼幅を上部よりも狭く焼き出します。
腰反り
正恒と並んで古備前派を代表しました。同銘が何代か続き、鎌倉時代に及びます。
友成は優美な細身の作が多いのに対し、正恒の作は幅広のしっかりした姿で、一目でその違いを感じ取ることができます。また、友成は「樋」(ひ:溝のような刀身彫刻)がある作が非常に多いのに対し、正恒の作に樋はほとんど見られません。
また、友成の銘は友成と2字銘に切る物だけでなく、「備前友成」のように作刀国を冠した長銘の物が見られるのに対し、正恒は正恒と2字に銘を切ります。その他後述する細かな作風に違いが見られ、古備前派の双璧である2人の違いを確認することができます。
「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)は、多くの刀工を生み出したことで有名な備前国で、鎌倉時代初期から中期に栄えた刀工の一派です。福岡一文字の名は、岡山県東部に流れる吉井川の東岸にある福岡の地で興ったことに由来します。
後鳥羽上皇の御番鍛冶(ごばんかじ:1ヵ月ごとに交代で院に勤番した刀工)が多数輩出され、13名の御番鍛冶のうち7名をこの一派が務めました。
特に刃文が華麗なため古くから珍重されており、最多の国宝指定数を誇る備前長船派の次に多くの国宝を制作しています。
古一文字や鎌倉時代後半の一部を除いて、焼幅の広い姿にはばき元(はばきもと)から先まで丁子乱の焼幅が安定して付き、丁子の頭が揃った華麗な「重花丁子乱」(じゅうかちょうじみだれ)や「大房丁子乱れ」(おおふさちょうじみだれ)の刃文が見られます。表裏の乱れが同一の状態で、喰い違いがほぼ見られない丁子乱であることから「一文字丁子乱」(いちもんじちょうじみだれ)と呼ばれてきました。
※作者不明の無銘刀もあり識別が困難なため、福岡一文字と合わせて数えています。
刃文は初期・中期・末期で異なり、初期は華やかな重花丁子乱の刃文が特徴で、中期には「大丁子乱」(おおちょうじみだれ)となり、末期には「直刃丁子乱」(すぐはちょうじみだれ)となりました。匂出来で、刃肉がよく付き、その形状から「蛤刃」(はまぐりば)と呼ばれます。
※作者不明の無銘刀もあり識別が困難なため、古一文字と合わせて数えています。
「吉岡一文字派」(よしおかいちもんじは)は、多くの日本刀の刀工を生み出したことで有名な備前国の吉井川西岸にある吉岡という地で、鎌倉時代後期から南北朝時代に栄えた刀工の一派です。鎌倉時代初期から鎌倉時代中期にかけて吉井川の東岸で活躍した福岡一文字一派に続いて興りました。
福岡一文字と同じく、古くから特徴的な丁子乱の刃文が見られる作風が重用されてきました。
一文字の系譜は長く、この則宗を祖として、①鎌倉時代初期から鎌倉時代中期にかけて福岡の地で栄えた福岡一文字、②鎌倉時代中期から鎌倉時代後期にかけて吉岡の地で栄えた吉岡一文字、③鎌倉時代末期から南北朝時代末期にかけて「和気郡岩戸」(わきぐんいわと)の地で興った正中一文字、別称・岩戸一文字、④福岡の地より南に下った「備前国片山」(びぜんのくにかたやま)と隣国の「備中国片山」(びっちゅうのくにかたやま)に移住し栄えたとされる片山一文字の4派の間で、約300年間の長きに亘り受け継がれていきました。
※「一」の字のみ銘を切られている物は他の派との区別が困難なため、「一」銘以外で数えています。
「正中一文字派」(しょうちゅういちもんじは)は、備前国和気郡の「岩戸庄」(いわとしょう)で、鎌倉時代末期の1324年頃(正中元年頃)から南北朝時代にかけて活躍した刀工一派です。別名「岩戸一文字」(いわといちもんじ)。
当時、岩戸庄が、「播磨国」(はりまのくに:現在の兵庫県)の太守・赤松氏(あかまつし)一族である浦上氏(うらがみし)の滞在地だったことに加え、正中一文字開祖である初代「吉氏」(よしうじ)が制作した日本刀の銘に「岩戸庄地頭源吉氏」(いわとしょうじとうみなもとよしうじ)と切られていたことなどから、この初代・吉氏は武士だったとされています。
2代目以降の正中一文字の刀工たちは長船に住み、また「長船鍛冶」(おさふねかじ)と交流を持ったため、その作刀の銘は「長船住」と切られました。
他の一文字派と比べると一文字らしくない、一線を画した作風です。
「片山一文字派」(かたやまいちもんじは)は、青江派などの「備中鍛冶」(びっちゅうかじ)が輩出されたことで有名な備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県西部)で、鎌倉時代後期に栄えた、日本刀の刀工の一派です。
鎌倉時代初期から鎌倉時代中期に備前国で栄えた福岡一文字の刀工・則房が備前国の福岡から備中国の片山に居を移し、新たな一派を興したことに起因します。
片山は備前国南方と、備中国に2か所あり、まず先に備前国の片山に移り、その後、備中国の片山に移ったとされています。
その後、福岡一文字に次いで吉岡の地で栄えた吉岡一文字や、岩戸の地で栄えた正中一文字、別称・岩戸一文字の他、福岡の地より南に下った備前国片山、または備中国片山に移住し、栄えたとされる片山一文字があり、この4派の間で受け継がれていきました。
一文字の一派は、銘に個人銘ではなく「一」の字を切ることがあります。
銘に一の字を切ることは一文字派のしるしになり、福岡一文字・吉岡一文字・正中一文字(岩戸一文字)・片山一文字の4つの派もそれに倣っていきました。この4つの一派の「一」の字銘の見分け方ですが、それぞれ同じ「一」の字でも微妙に異なった特徴があります。
初期の物には、終わりが鍵形になっている物もあるが、吉岡一文字の銘は「逆鑚」(さかたがね)と言って、銘を通常と逆の右から左に切るので見分けが付きます。
※「一」の字のみ銘を切られている物は、他の派との区別が困難なため、「一」銘以外で数えています。