天皇や公家、藩主などの貴人が自ら作刀することを「慰み打ち」(なぐさみうち)と言います。水戸藩(現在の茨城県水戸市)9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)も、慰み打ちを行った藩主のひとりです。徳川斉昭は、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の実父であり、「烈公」(れっこう)という諡号(しごう:死後に奉じられる名)でも有名。藩政改革に力を尽くす一方で、「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外国を排斥しようとする思想)を掲げ、江戸幕府の政治にも大きくかかわりました。
烈公の名に違わず、荒々しく厳しい性格であったと言われる徳川斉昭の生涯を紐解くと共に、自ら鍛えた日本刀「刀 無銘 葵紋崩[徳川斉昭]」(かたな むめい あおいもんくずし[とくがわなりあき])についてご紹介します。
「内憂外患」とは、国内の心配事に加え、国外からもたらされる心配事もあることを表す言葉です。徳川斉昭が家督を継いだ当時の江戸幕府将軍は、11代「徳川家斉」(とくがわいえなり)の時代。将軍の派手な生活により幕府の財政が圧迫されていた他、幕閣内に賄賂がはびこるなど、政治の腐敗が目立つようになってきた時期だったのです。
社会情勢は、植民地を拡大しようとする西洋列強諸国の船が、日本の近海に出現しはじめていた頃でした。日本は3代将軍「徳川家光」の時代から鎖国政策を採っていましたが、日本を東アジアの補給地とし、通商を行いたいと考えたロシアやイギリスをはじめとする外国の船が現れるようになったのです。
1792年(寛政4年)にロシアの「ラクスマン」が日本人漂流者を連れて、通商を求めて根室に来航したことで、幕府は海防の強化を強いられることとなりました。18世紀末までは来航した外国船に飲み水と燃料を与え、穏便に帰還してもらうようにしていましたが、1808年(文化5年)にはイギリスの軍艦が長崎においてオランダ人を人質に取り、食料と燃料を要求する事件が発生。この事件以降、日本に開港を求める外国船から日本人に直接危害を加えられる事件が起こるようになったのです。
異国船打払令
1825年(文政8年)、江戸幕府はとうとう、日本に接近する外国船を諸藩に撃退させるように命じた「異国船打払令」を発令。しかし、外国船がたびたび目撃されるようになったことから、蘭学者達を中心とした民衆の間では、鎖国撤廃の噂がささやかれるようになっていきました。
弘道館 至善堂
徳川斉昭は水戸藩9代目藩主となると、大々的な藩政改革を推進していきます。徳川斉昭の藩主擁立に貢献した改革派で、以降「水戸の両田」と呼ばれる知恵者「藤田東湖」(ふじたとうこ)や「戸田忠太夫」(とだちゅうだゆう)を登用するなど人事を刷新。
藩校「弘道館」(こうどうかん:茨城県水戸市)を設立し、家柄にかかわらず優秀な人材を登用することに努めました。弘道館では身分の貴賤は問わず、15歳から40歳の藩士を対象に門戸が開かれ、武芸と水戸学を中心とした学問を指南。
弘道館では藩政に貢献できる豊富な人材を育成することを目的に、朱子学だけでなく、天文学や医学など、実用的な学問を教えるなど、現代の大学の先駆けとなりました。また、弘道館と共に「一張一弛」(いっちょういっし)という思想のもと、修行にいそしむ人々の心身を休めることを目的とした「偕楽園」(かいらくえん:茨城県水戸市)という庭園を造園。
偕楽園は憩いの場として水戸藩の領民にも開放されており、偕楽園の名は中国の儒学者「孟子」(もうし)の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という言葉に由来しています。
都市公園としては、ニューヨークにあるセントラルパークに次ぐ広さで、現在は「兼六園」(けんろくえん:石川県金沢市)、「後楽園」(こうらくえん:岡山県岡山市)に並び、「日本三名園」のひとつとして知られる人気の観光スポットです。また、徳川斉昭は日本の近海に現れるようになった外国船への対応策として、海防に大きな関心を示しました。
大規模な西洋式の軍事演習を行った他、藩内に反射炉を設け、銃火器などの西洋近代兵器を自家生産し、富国強兵を先取り。軍備を近代化した他、蝦夷地(えぞち:現在の北海道)の開拓や、大型船建造なども幕府に対して提言しています。農村では、飢饉に備える対策として「稗倉」(ひえぐら)を設置し、稗などの穀物を蓄えるようにしました。
一方、宗教に関しては、仏教を抑圧し神道を重視しています。寺院の仏像や釣鐘(つりがね)を没収して大砲の材料として使い、さらには僧侶が行っていた民衆管理の制度を神官の権限へと移行。村ごとに神社を置くように義務付けました。
しかし、これらの仏教弾圧とも言える行いや、軍事訓練での鉄砲の一斉射撃などを幕府から咎められ、1844年(弘化元年)、家督を嫡男の「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)に譲った上で隠居するようにとの謹慎処分を命じられてしまうのです。
そののち、徳川斉昭が登用した藩士達による復権運動もあり、1846年(弘化3年)に謹慎が解かれ、1849年(嘉永2年)には藩政への関与が許されました。
水戸学とは、水戸藩で成立した学問を指し、中国の学問である朱子学を基礎とした、国学や史学、神道を合わせた思想や学風のこと。水戸藩2代藩主「徳川光圀」(とくがわみつくに)によって基礎が形成され、日本の歴史書である「大日本史」の編纂事業の過程で成立しました。
そんな水戸学では、国における天皇陛下の重要性を説いています。将軍が天皇を尊ぶからこそ大名が将軍を尊び、藩士は大名に付き従うのであるとされ、天皇の伝統的な権威を背景に幕藩体制を強化することで、日本の独立と安全を守ろうとする思想が基本となっているのです。
「徳川御三家」のひとつである「水戸徳川家」は、朱子学をもととするこのような尊王思想を藩の教育に取り入れました。徳川光圀の死後も続けられた大日本史の編纂事業は、1737年(元文2年)からしばらくの間停止していましたが、6代藩主「徳川治保」(とくがわはるもり)の時代に再開されます。
9代藩主・徳川斉昭の時代には、藤田東湖や「会沢正志斎」(あいざわせいしさい)ら水戸学における主導者的存在を重用したことで、水戸学は最盛期を迎えました。幅広い藩士に門戸を開いた弘道館において、水戸学を教えるなどの政策を採ったことでその思想は広まり、水戸藩士達以外にも幕末における、諸藩の改革派や尊王攘夷志士、討幕派の思想の中核を成すようになったのです。
水戸学は、はじめは尊王を説いた学問でしたが、当時の天皇である「孝明天皇」(こうめいてんのう)が夷敵は排除するべきという過激な攘夷思想の持主であったことから、幕末期には水戸学の尊王論と攘夷論が結び付いた政治運動へと発展していきました。内憂外患の時代において、盤石ではなくなった幕府に対して不満を募らせていた諸国藩士達は尊王攘夷論に傾倒し、次第に倒幕への動きへと変化しはじめたのです。
ペリー来航
1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国から「東インド艦隊」提督「マシュー・ペリー」が軍艦4隻を率いて浦賀(神奈川県横須賀市)へ来航。
ペリーの目的は、日本に開国を迫るアメリカ大統領「ミラード・フィルモア」からの親書を手渡すことでした。
対外政策に対して消極的な日本に対し、ペリーは威嚇用の砲撃を行い、幕府を恫喝。巨大な戦艦や蒸気船、高性能の大砲を備えた黒船を前に幕府はとうとうペリーの上陸を許可し、アメリカ大統領からの親書を受け取りました。
幕府はペリーに対して当時の江戸幕府将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)が病床にあったことを理由に、開国に関して決定ができないと返答。ペリーは1年後に再び来航することを告げ日本を去りました。巨大で真っ黒な船体や立ち昇る蒸気を見た江戸の人々は、戦艦を「黒船」と呼び、この出来事は日本中を震撼させたのです。
徳川斉昭は海防参与として幕政にかかわり、攘夷論を強く主張します。江戸防備のために、大砲や弾薬、さらには洋式軍艦をも建造して幕府へ献上しました。このエピソードは「渋沢栄一」の生涯を描いた大河ドラマ「青天を衝け」第3回「栄一、仕事はじめ」でも描写されています。
黒船に怯える市民達は心強い徳川斉昭の様子に安心し、徳川斉昭は一躍江戸の英雄となりました。1855年(安政2年)には軍政改革参与に任命されますが、開国反対派の徳川斉昭は、開国推進派で新しく老中首座に抜擢された「井伊直弼」(いいなおすけ)と対立します。
徳川斉昭と井伊直弼の対立
2018年(平成30年)に放送されたNHK大河ドラマ「西郷どん」(せごどん)でも徳川斉昭と井伊直弼の激しい対立が描写されました。対外問題だけでなく、13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の将軍後継者問題でも対立しています。
紀州藩13代藩主「徳川家茂」(とくがわいえもち)を擁する南紀派の井伊直弼らに対し、徳川斉昭は徳川家茂よりも年長で、英明の評判も高い実子である「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの徳川慶喜)を推して一橋派を作り、井伊直弼に対抗。
一橋派には尾張藩藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)などの親藩大名の他に、幕末の四賢候である薩摩藩藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)や宇和島藩藩主「伊達宗城」(だてむねなり)、土佐藩藩主「山内容堂」(やまうちようどう)らがいました。
しかし1858年(安政5年)、井伊直弼が大老に就任。独断で「日米修好通商条約」に調印し、徳川家茂を14代将軍としてしまいます。こうして徳川斉昭は、井伊直弼との政争に敗れたのです。
井伊直弼は反対派を処罰。「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と呼ばれるこの弾圧によって、1859年(安政6年)に徳川斉昭は水戸での永蟄居(えいちっきょ:終身の自宅謹慎)を命じられます。翌年、蟄居処分が解かれないまま、徳川斉昭は病没しました。
大奥
藩政改革を成し遂げた名君として評価され、礼儀作法に厳しく、倹約にも努めていたとされる徳川斉昭。幕末期の徳川家のなかでは、突出したカリスマ性と行動力を備える人物でした。
一方、艶福家(えんぷくか:女性にもてる男性)としても知られ、好色であったとも伝えられています。かつて大奥の高位女中であった「唐橋」(からはし)に手を付けたことは有名です。唐橋が一生異性関係は持たないと誓っていたこともあり、大奥からは良く思われませんでした。
また、徳川斉昭が大奥の女性に対して好色ぶりを見せたことや、大奥の浪費に眉をひそめていたことに加え、大奥と親交の深い仏教寺院に否定的であったことから、将軍の後継者問題が起きた際、大奥は徳川斉昭の味方に付かなかったと言われています。
徳川斉昭の家系図
徳川斉昭が生まれた徳川御三家のひとつである水戸徳川家は、初代江戸幕府将軍「徳川家康」の十一男「徳川頼房」(とくがわよりふさ)を祖とする一族です。徳川斉昭の祖先には、「天下の副将軍」で「水戸黄門」の名で知られる徳川光圀がいます。
そんな徳川斉昭が生涯に儲けた子どもは、男女合わせて37人。
七男である江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の他にも、徳川斉昭の五男で因幡鳥取藩12代藩主となった「池田慶徳」(いけだよしのり)や九男で備前岡山藩9代藩主となった「池田茂政」(いけだもちまさ)、十六男で肥前島原藩8代藩主となった「松平忠和」(まつだいらただかず)、十九男で会津松平家10代当主から守山松平家9代当主となった「松平喜徳」(まつだいらのぶのり)などがいます。
徳川斉昭の子どものほとんどが様々な地方の藩主の養子となり、あるいは藩主に輿入れしたのです。その他、徳川慶喜に指名され、渋沢栄一を伴って「パリ万博」の視察へ行った「徳川昭武」(とくがわあきたけ)も存在。徳川昭武は帰国後、水戸藩11代藩主となりました。
多くの藩へ自らの子供を養子に出し、その子ども達が藩主となったことからは、徳川斉昭がいかに全国に強い影響力を及ぼしていたのかが分かります。今後、徳川斉昭の子孫である「徳川斉正」(とくがわなりまさ)氏が15代水戸徳川家を継ぎ、その子どもである「徳川斉礼」(とくがわなりよし)氏が16代当主を継ぐ予定です。
何事にも積極的であった徳川斉昭は、1832~1833年(天保3~4年)頃から、水戸藩のお抱え刀工達を御相手鍛冶として、自ら刀剣の作刀「慰み打ち」(なぐさみうち:天皇や公家、藩主などの貴人が自ら作刀すること)を行いました。
御相手鍛冶として挙げられるのは、水戸藩随一と称された「市毛徳鄰」(いちげのりちか/とくりん)や、大坂で「尾崎助隆」(おざきすけたか)に学んだのち、江戸に移って「水心子正秀」(すいしんしまさひで)に師事した名工「直江助政」(なおえすけまさ)、その子「直江助共」(なおえすけとも)などです。
徳川斉昭は、作刀を通して「八雲鍛え」(やくもきたえ)と呼ばれる独自の鍛刀法を確立しました。「刀剣ワールド財団」(東建コーポレーション)が所蔵する作品も、地鉄は雲が湧き上がるような八雲鍛えで、「綾杉肌」(あやすぎはだ)が交じる出来栄えが見事です。
また、銘はなく「茎」(なかご)に紋章のみが刻まれています。これは水戸徳川家の家紋であった「葵紋」(あおいもん)をモチーフにした「葵紋崩」(あおいもんくずし)です。時計の針にも見える3本の線が入っていることから、「時計紋」とも言われます。
徳川斉昭は、自ら作刀した作品であっても銘を切ることはなく、この紋章のみを入れました。