徳川十五代将軍

第11代将軍/徳川家斉

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江戸幕府11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)は、15代に亘って続いた徳川将軍の中で最も長い期間、将軍の地位に就いていました。当初は、真面目に政務に取り組んでいた徳川家斉でしたが、後世で「大御所時代」と揶揄されるほど自由気ままに、そして贅沢三昧に暮らします。
このような徳川家斉の治世は、大奥の最盛期や華やかな町人文化を作り出した反面、幕府財政を破綻させ、江戸幕府崩壊への序章となるのです。ここでは、徳川家斉の生涯を振り返りながら、将軍として行なってきたことや、在位期間に起こったできごとなどについてご紹介します。

徳川十五代将軍徳川十五代将軍
江戸時代を語る上で欠かせない徳川十五代将軍の姿を紐解きます。

徳川家斉が11代将軍に就任するまで

徳川家斉

徳川家斉

「徳川家斉」(とくがわいえなり)は1773年(安永2年)、「一橋家」(ひとつばしけ)の2代当主「一橋治済」(ひとつばしはるさだ)の長男として生まれました。

幼名を「豊千代」(とよちよ)と名乗っていた徳川家斉には、その幼少期の残虐な逸話が伝わっています。

徳川家斉は、家臣達にしばしば、蟹・鶏などの生き物を集めさせ、家臣達が見ている前で、にこにこしながらそれらを踏み付けたり、握り潰したりして殺していたのです。

それ以降、徳川家斉は陰で「蟹鶏公方」(かにとりくぼう)などと呼ばれていたと言われています。

10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)には、嫡子「徳川家基」(とくがわいえもと)がいましたが急死してしまい、将軍職の後継者問題が起こりました。

徳川家斉が生まれた一橋家は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつであり、将軍になる資格がある家柄のため、父である一橋治済にとっては自身の子どもを将軍にすることは悲願であったと伝えられています。

そんななか、次期将軍候補となるのにふさわしい男子がいなかったことや、江戸幕府で老中を務めていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)と一橋治済が画策したことにより、1781年(天明元年)徳川家斉は徳川家治の養子となったのです。

そして、1786年(天明6年)に徳川家治が亡くなったため、その翌年にまだ15歳だった徳川家斉が11代将軍に就任しました。

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田沼意次の罷免後、老中首座に任命された人物とは

10代将軍・徳川家治の時代に、江戸幕府の老中として重用されていた田沼意次。しかし、徳川家斉は自身が将軍の座に就くと、田沼意次を罷免します。

そして、若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、陸奥国白河藩(むつのくにしらかわはん)の3代藩主「松平定信」(まつだいらさだのぶ)を、「徳川御三家」(とくがわごさんけ)からの推挙を受けたこともあり、「老中首座」(ろうじゅうしゅざ)に任命したのです。

松平定信は、もともと御三卿のひとつに数えられる「田安家」(たやすけ)に生まれました。ところが、権勢を振るっていた田沼意次を恐れていた一橋治済により、松平定信は1774年(安永3年)、白河藩2代藩主「松平定邦」(まつだいらさだくに)の養子となります。

幼少の頃から聡明であったと伝えられる松平定信は、一時期、徳川家治の次期将軍候補とまで言われていた人物。老中首座に就任すると、その頭脳と政治的手腕を発揮し、田沼意次の代で悪評が高まってしまった幕政を変えるために、徳川家斉の補佐として様々な改革に乗り出したのです。

松平定信による寛政の改革

重商主義から重農主義への転換

この当時の日本では、大規模な飢饉や浅間山(あさまやま)の大噴火といった天災が度重なっていただけでなく、幕府の役人の間で蔓延って(はびこって)いた汚職政治に怒りを感じていた庶民により、一揆(いっき)や打ちこわしが頻繁に行なわれていました。

その一方で松平定信は、白河藩主時代の1782~1788年(天明2~8年)に起こった「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)によって傾いた藩の財政を再建した経験を活かし、幕政の立て直しを進めていきます。

松平定信は、まず田沼意次が実施していた「重商主義」(じゅうしょうしゅぎ:産業の保護や育成を国家が積極的に行ない、輸出を増やすことで国を豊かにしようとする経済思想)の政策から、「重農主義」(じゅうのうしゅぎ:重商主義に対し、国家や社会の富の基礎は農業にあるとする経済思想)の政策への転換を図りました。

そこで目指したのは8代将軍であり、松平定信の祖父でもあった「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が行なった「享保の改革」(きょうほうのかいかく)です。松平定信の寛政の改革では、以下のような政策が具体例として挙げられます。

旧里帰農令(きゅうりきのうれい)
農業を辞め、出稼ぎのために江戸へ流入した大量の農民に対し、帰農や帰村することを推奨した法令。これには農村の人口が少なくなったことで、幕府の税収である年貢が減ったことが背景にありました。都市で生活している農村出身者に資金を与えて、農村に返すことを定めた法令です。
囲米の制(かこいまいのせい)
飢饉に備えて、1万石の石高につき50石の米を大名に備えさせた制度。また、町民には町費などの節減を促し、その分浮いたうちの7割を積み立てさせる「七分積金」(しちぶつみきん)の制度を敷いています。
棄捐令(きえんれい)
町人からの借金により、貧困に陥った御家人(ごけにん)や旗本の旧先を目的に、6年以上前の借金は帳消し、5年以内の借金については、利子を引き下げるように命じた法令。江戸幕府はこの法令により、経済力を持ち始めた町人の力を弱めることを、その目的のひとつとしていました。
人足寄場(にんそくよせば)
江戸の石川島(いしかわじま)に建てられた職業訓練の施設。無宿者や前科者を収容して自立を促進するだけでなく、治安対策としても用いられていた場所です。
寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)
風紀の乱れを取り締まるため、「朱子学」(しゅしがく)を幕府公認の学問に定めた制度。「陽明学」(ようめいがく)や「古学」(こがく)など、朱子学以外の学問を「異学」(いがく)と見做し、官立の「昌平坂学問所」(しょうへいざかがくもんじょ)において、それらの講義を行なうことを禁じていました。

江戸幕府を治めた徳川家15人の将軍についてご紹介します。

徳川家斉と松平定信の対立

光格天皇

光格天皇

松平定信が寛政の改革を進めていた一方で、幕府と朝廷の関係が少しずつ揺らぎ始めます。

そんななか、1789年(寛政元年)に、当時在位されていた119代「光格天皇」(こうかくてんのう)がかかわる、「尊号一件」(そんごういっけん)と呼ばれる事件が起こったのです。

光格天皇はもともと、4家ある「世襲親王家」(せしゅうしんのうけ)のひとつ「閑院宮」(かんいんのみや)の出身。

しかし、118代「後桃園天皇」(ごももぞのてんのう)が崩御されたときに、跡を継ぐ皇子がいなかったためにその養子となり、即位することに。これにより光格天皇は、実父の「閑院宮典仁親王」(かんいんのみやすけひとしんのう)よりも、位が上になったのです。

そこで光格天皇は、父に「太上天皇」(だいじょうてんのう:譲位後の天皇の称号)、すなわち「上皇」の尊号を贈与することを決め、幕府に相談しました。ところが松平定信は、皇位に就いていない人物が、太上天皇になった前例がないことを理由に、これを拒絶。さらに松平定信は、1793年(寛政5年)、同事件において幕府を批判した公家を処罰したのです。

同じ時期に、徳川家斉も実父の一橋治済へ「大御所」の尊号を贈ろうとしていました。しかし松平定信は、光格天皇の申し出を断った以上、認められなかったのです。これに怒った徳川家斉は、小姓(こしょう:貴人のそばに仕え、雑務を担当した者)から小刀を奪い取り、松平定信に切りかかったと伝えられています。

これ以降、松平定信は徳川家斉との関係が悪化。このできごとが、松平定信が老中を辞任する原因のひとつになりました。徳川家斉は、この頃から急激に幕政への関心をなくし、幕府財政の困窮を顧みず、贅沢な生活だけを送るようになったと言われているのです。

松平定信が罷免された背景

寛政の改革によって幕府の税収が増え、傾いていた財政は一時的に回復しました。しかし、棄捐令や寛政異学の禁などの厳しい取り締まりのために、多くの人々が不満を感じていたのです。棄捐令により商人の力を弱めようとしたことが、商人達の結束を生み、協力して幕府に対抗するようになったため、かえって商人が力を持つようになっていました。

さらに幕府内でも、松平定信の厳しすぎる政策について、徳川家斉や家臣などから不満の声が上がるようになり、大奥に関する経費を大幅に削減したことで、大奥にいた女性達からも猛反発を受けています。

加えて松平定信は、徳川家斉と不仲であったこともあり、外国船対策のための出張中に、老中首座を罷免されてしまったのです。

徳川家斉の幕府財政が崩壊した理由とは

贅沢な生活で支出増大

もともと徳川家斉は文武両道であり、幕政にも真面目に取り組んでいましたが、寛政の改革が進むにつれて少しずつ変わっていきました。幕府財政の困窮を顧みずに、贅沢な生活を送るようになっていったのです。

また、徳川家斉は正室の「近衛寔子」(このえただこ)以外にも側室を多数抱え、一説には40人もいたと伝えられています。そのうち17人の側室との間に、55人もの子どもを儲けました。「江戸城」(えどじょう)の大奥が、過去にないほど豪華絢爛な時期を迎えたことにより、徳川家斉の正室と側室、そして子ども達の生活費用だけで莫大な出費が必要になったのです。徳川家斉は、自由気ままに昼からお酒を飲み、贅沢な生活をして大奥に入り浸ってばかりいたと言われています。

外国船対策で支出増大

江戸時代末期になると、日本近海に外国船が現れるようになり、特に寛政年間(1789~1801年)以降には、貿易を求めたロシアやイギリスの軍艦などが相次いで出没したのです。さらにはアメリカの捕鯨船などが燃料の補給などを目的に、日本を寄港地として用いるようになるなど、幕府は外国船への対応に追われていました。

そんななかで幕府は1806年(文化3年)、日本に立ち寄った外国船に対し、飲み水や燃料の補給を認める「薪水給与令」(しんすいきゅうよれい)を発布します。しかし、ロシアの実業家であり外交官でもあったレザノフが、貿易を断られたことを理由に、「択捉」(えとろふ)と「樺太」(からふと)を襲撃する事件が起こり、文化時代の薪水給与令は、わずか1年で廃止されることになったのです。

また1808年(文化5年)にはイギリスの「フェートン号」が、突然長崎港へ侵入。「オランダ東インド社」の日本支社である「オランダ商館」の従業員を逮捕して人質に取り、長崎奉行に対し食料や燃料を要求する事件が起こっています。

そのあとも、たびたび外国船が日本近海に現れては事件を起こすようになったため、幕府は1825年(文政8年)、「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい)を出しました。異国船打払令では、日本近海でオランダと中国の清(しん)以外の船を見かけた場合には、いかなる理由があってもためらうことなく打ち払うことが命じられていたのです。

しかし異国船打払令には、外国船の目的が分からないまま攻撃する危険性が含まれていました。そんな恐れていたことが起きたのが、1837年(天保8年)の「モリソン号事件」です。

アメリカ船のモリソン号はこのとき、救助した日本人の漂流民を送り届けること、そして貿易の交渉を目的に日本へやって来ました。ところが幕府は、そのことを知らずにモリソン号を攻撃。そのため、洋学者であった「渡辺崋山」(わたなべかざん)や、蘭学者の「高野長英」(たかのちょうえい)らにより、このような幕府の行ないが厳しく非難されたのです。

こうした外国船への対応のために増大した出費が、徳川家斉の配下に置かれた江戸幕府の財政を圧迫するようになっていきました。

賄賂政治の横行

徳川家斉は寛政の改革に取り組んでいた老中が幕政にかかわらなくなると、自ら政治の実権を握り始めます。自分に都合の良い人間ばかりで周りを固め、幕政を私物化し始めたのです。

1817年(文化14年)に徳川家斉は、「沼津藩」(ぬまづはん)の2代藩主「水野忠成」(みずのただあきら)を老中首座に任命。これにより水野忠成は、徳川家斉に幕政を委任されることになりましたが、その在位期間中には、田沼意次の時代を上回る賄賂が横行していました。

また、前述したような出費の増大により、幕府財政は行き詰まってしまいます。そこで水野忠成は、貨幣の質を落とした「文政小判」(ぶんせいこばん)を大量に発行し、550万両もの利益を得ることに成功。貨幣が市場において大量に出回ったことで、商業活動が活発になり、景気が上向いていったのです。

しかし、農村では豪農と貧しい農民の間に格差が生まれ、貧しい農民のなかには農地を放棄して無宿人になる者も。その結果、治安が悪化することになり、これに対応するため、江戸幕府は「関東取締出役」(かんとうとりしまりでやく)を設置。「関八州」(せきはっしゅう)と総称される関東地方の8ヵ国において、公領・私領を問わず警察権の行使を可能とし、犯罪者を積極的に捕まえようとしていました。また、農地を放棄する農民が増えたことで、収穫量が減少して税収が減少。江戸幕府は次第に衰退していったのです。

江戸幕府に対する不満の高まり

そんななか1833年(天保4年)、「天保の大飢饉」(てんぽうのだいききん)が発生。その原因は大雨による水害と、気温低下による凶作にありました。これにより、多くの餓死者を出しただけでなく、米の値段が高騰します。

このような状況において、幕府は有効な対策を一切打つことができず、「天保騒動」(てんぽうそうどう)と呼ばれる農民による一揆や「大塩平八郎の乱」(おおしおへいはちろうのらん)など、庶民達による反乱が頻発したのです。

大塩平八郎

大塩平八郎

大塩平八郎の乱は、大坂町奉行の元「与力」(よりき:奉行などの部下として、事務の補佐などを行なった役職)であり、陽明学者であった「大塩平八郎」(おおしおへいはちろう)が起こした反乱。

その要因となったのは、飢饉が起きたことにより、大坂の市中が大変な状況下であるにもかかわらず、幕府の指示を受けた大坂町奉行が、米を大量に購入して江戸に送っていたこと。

さらにこのとき、豪商が利益を求めて米の買い占めを行なっていたこともあり、大塩平八郎が激怒。豪商宅と大坂町奉行を襲撃するつもりで、自身の門人らと共に挙兵したのです。

天保騒動は、江戸幕府の直轄領であった甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)で起こった一揆。幕府の支配体制が弱まり、幕府の崩壊が始まったことを窺い知ることができます。

贅沢三昧な徳川家斉が残した意外な功績

贅沢三昧な暮らしを送ったことで、幕府財政を破綻に導いてしまった徳川家斉。しかし、その暮らしこそが華やかな町人文化を発達させたとも言えるのです。この町人文化は、徳川家斉の在位期間にあたる文化~文政年間(1804~1831年)にかけて江戸を中心に広がりを見せ、その元号にちなんで「化政文化」(かせいぶんか)と呼ばれています。

化政文化では皮肉や風刺が好まれ、それらが盛り込まれた滑稽本(こっけいぼん)や人情本、川柳(せんりゅう)、狂歌(きょうか)などが流行しました。質素倹約を政策方針としていた寛政の改革期では、このような化政文化は生まれていなかったかもしれません。

偶然とはいえ、徳川家斉の贅沢な暮らしが化政文化を生み出した一因となったのです。徳川家斉のもとで隆盛を極めた化政文化は、やがて崩壊する江戸幕府が最後に見せた輝きであったと言えます。

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