徳川家を支えた武将

徳川光圀

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水戸徳川家で最も知名度が高い人物と言えば、「水戸黄門」の愛称や「水戸光圀」(みとみつくに)で知られる「徳川光圀」(とくがわみつくに)です。昭和から平成にかけて、長年愛されてきた時代劇「水戸黄門」の主役として描かれてきた徳川光圀は、日本の偉人の中でも、特に老若男女から親しまれている人物だと言えます。水戸黄門では、隠居後に日本各地を周遊して世直しを行う徳川光圀の姿が描かれていますが、水戸徳川家当主・水戸藩主としての徳川光圀は一体どのような人物だったのでしょうか。水戸徳川家と学問を結び付けた先駆者・徳川光圀(水戸光圀)の青少年時代や藩主時代を振り返りながら、徳川光圀の人生を見ていきましょう。

徳川光圀の誕生

徳川光圀

徳川光圀

「徳川光圀」(とくがわみつくに)は、1628年(寛永5年)に水戸藩(現在の茨城県水戸市)の初代藩主「徳川義房」(とくがわよしふさ)の三男として誕生。

当初、父・徳川義房は、徳川光圀を水子(みずこ:堕胎などで生まれなかった子)にするよう、重臣の「三木之次」(みきゆきつぐ)に命じていました。

理由は明らかにされていませんが、徳川光圀の母「久子」(ひさこ)が、懐妊時に正式な側室ではなかったからだと考えられているのです。

しかし久子は堕胎せず、水戸城下の三木邸で密かに徳川光圀を出産。生後しばらくは三木之次の子として育てられ、この頃からすでに徳川光圀は才気煥発な一面を見せていたと言われています。そののち、1632年(寛永9年)に正式に水戸徳川家の子として水戸城入りし、翌年1633年(寛永10年)には徳川頼房の跡継ぎとなることに。

ところが徳川光圀は、江戸に渡り世子教育(せいしきょういく:跡継ぎとして必要な高水準の教育)を受けるなかで荒れた生活を送り始めます。些細なことで腹を立て、日本刀を振り回したり、「吉原遊郭」(よしわらゆうかく)に通い詰めて卑猥なことを弟に吹き込んだりと、問題行動を繰り返していたのです。

そんななか、18歳のときに出会った中国の歴史書「史記」(しき)に感銘を受けた徳川光圀は、荒んだ生活を改め勉学に励みながら学問の面白さに目覚めていったのです。そして、1657年(明暦3年)から徳川光圀は歴史書「大日本史」の編纂作業に取り組み始めました。

徳川光圀の藩政

殉死の禁止

1661年(寛文元年)に徳川光圀は、父・徳川頼房が逝去したことで、水戸藩2代藩主を襲封(しゅうほう:子孫または諸侯が領地を受け継ぐこと)。このとき、徳川光圀は家臣の「殉死」(じゅんし:主君の死後、その家臣があとを追って死ぬこと)を禁じて、殉死しようとする家臣を説得して止めたと言われています。当時、日本ではまだ殉死の風習が根強く残っており、徳川光圀はいち早く殉死禁止を取り入れた藩主でもあったのです。

「水戸学」(みとがく)の基礎

旧徳川彰考館跡碑と大日本史編纂之地碑

旧徳川彰考館跡碑と大日本史編纂之地碑

徳川光圀は、城下町や寺社の整備を行いながら、大日本史の編纂事業に取り組み続け、水戸藩における学問振興に注力していきます。

1665年(寛文5年)には、「明」(みん:中国の江南を根拠地とした、漢人王朝)から儒学者「朱舜水」(しゅしゅんすい)を招き、儒学、国学、史学など、様々な学派を網羅した学問の教えを受けました。この学風が、水戸藩における学問「水戸学」(みとがく)の基礎となっているのです。

一般的には、この徳川光圀による修史事業に携わった学者達の間で成立した学問を「前期水戸学」と呼び、9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)による藩政改革で成立したものを「後期水戸学」と呼びます。

以後、水戸徳川家に受け継がれた水戸学は、「尊王・敬幕」(そんのう・けいばく)の政治的思想(自分達は、天皇の家臣であり、将軍家の家臣ではないが将軍家に対しても敬意を持つ考え)が強く、多くの幕末志士達に影響を与えていくことになるのです。

大船建造

徳川光圀の指示で、水戸藩では貞享年間(1684~1688年)を通して大船建造が行われ、「快風丸」(かいふうまる)を造り上げました。徳川光圀は、竣工した快風丸で3度の蝦夷地(えぞち:現在の北海道、樺太)探索を命じ、のちの石狩国(いしかりのくに:現在の北海道石狩市)に到達した際に、船に積んでいた食料と現地の動物の毛皮や鮭を物々交換して帰還。

この徳川光圀藩主時代に行われた蝦夷地探索によって、水戸藩は以後、蝦夷地に関心を寄せることとなりました。

兄の子に家督を譲った理由とは

徳川光圀は、およそ30年の藩主期間を経て、1690年(元禄3年)に家督を譲り隠居します。徳川光圀から3代藩主を継いだのは、藩主襲封時に養子に迎えていた「徳川綱條」(とくがわつなえだ)で、もともと徳川光圀の実兄の「松平頼重」(まつだいらよりしげ)の次男だった人物です。

実子がいる徳川光圀が、養子である兄の子を世子として迎え入れたのには、2つの理由が考えられます。ひとつめは、自身が家臣邸で生まれ育てられたという生い立ちです。兄・松平頼重もまた、江戸の家臣邸で生まれていたため、物心ついてから再会した兄弟は複雑な関係性にあったこと。この経験から、徳川光圀は家督を相続する際、兄を差し置いて当主となることに引け目を感じていました。当時、江戸で荒れた生活を送っていたのも、このような苦悩を抱えていたためだと考えられます。

2つめは、18歳のときに感銘を受けた歴史書の史記にある「伯夷伝」(はくいでん)の影響です。伯夷伝は、古代中国の王子「伯夷」(はくい)と「叔斉」(しゅくせい)兄弟の伝記で、徳川光圀はこの兄弟を自身と兄の関係に投影していました。このような経験から、徳川光圀は実子の世襲や子孫繁栄にこだわらず、他家の者を迎え入れて新しい価値観や見識を取り入れようとしていたのです。

そして、3代藩主となった徳川綱條は、徳川光圀の修史事業を引き継ぎ、水戸藩の学問振興に貢献しました。

徳川光圀は食通だった?

子どもの頃から好奇心旺盛だった徳川光圀は、当時の日本では珍しく、新しい食文化を積極的に取り入れていたことで知られています。日本の食文化史において、餃子、チーズ、黒豆納豆を最初に食べた人物は、徳川光圀だと言われているのです。

水戸藩ラーメン

水戸藩ラーメン

そんな徳川光圀が、特に好んで食べていた物が「ラーメン」。

当時、ラーメンという食べ物はありませんでしたが、徳川光圀は藩主時代に招聘した朱舜水にラーメンの作り方を学び、得意料理として頻繁に調理していたのです。

麺はうどんを使い、スープの出汁には、朱舜水を介して中国から輸入した乾燥豚肉を使っていたと言われています。

そこに、ニラ、ネギ、ニンニクなどの薬味をのせ、まさに現代のラーメンのように食していました。徳川光圀は、この自家製うどんを「後楽うどん」(こうらくうどん)と名付け、隠居所の「西山荘」(せいざんそう:茨城県常陸太田市)で家臣などに振舞っていたと伝えられているのです。「後楽」という名は、徳川光圀が藩主時代に江戸屋敷に築いた庭園「小石川後楽園」(東京都文京区)に由来しています。

また、徳川光圀は南蛮のワインや中国の牛乳酒などに興味を示し、異国の酒を積極的に嗜んでいました。肉も魚も好み、隠居後も様々な食事を楽しんでいた徳川光圀ですが、70歳を過ぎた頃から次第に食欲不振になり始めたのです。

そして、1701年(元禄14年)に食道がんを患い、73歳でこの世を去りました。これは、当時の老人としては長寿と言われる享年です。多様な食生活を楽しんでいたことが、徳川光圀の長寿の秘訣だったのかもしれません。

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