徳川十五代将軍

第13代将軍/徳川家定

文字サイズ

江戸時代の基礎を築いた、江戸幕府初代将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)や、最後の将軍となった15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)などと比べると、あまり目立たない存在であったとも言える、13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)。
人気の高い大河ドラマ「篤姫」(あつひめ)や「西郷どん」(せごどん)などに登場しているため、その知名度は上がっていますが、史実としての徳川家定はどのような将軍であったでしょうか。ここでは、病弱であったと伝えられる徳川家定が将軍として行なったことや、その治世に起こったできごとなどについて当時の史料も交えながらご説明します。

徳川十五代将軍徳川十五代将軍
江戸時代を語る上で欠かせない徳川十五代将軍の姿を紐解きます。

徳川家定には正室が3人いた!?

徳川家定

徳川家定

「徳川家定」(とくがわいえさだ)は1824年(文政7年)4月8日、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男として、「江戸城」(えどじょう)の西の丸で生まれます。

しかし3人の兄は、このときすでに亡くなっていました。

生母は、徳川家慶の側室であった「お美津の方」(おみつのかた)のちの「本寿院」(ほんじゅいん)で、幼名は「政之助」(まさのすけ)です。

一説によれば、徳川家定は生まれつき脳性麻痺があったとされ、人前に出ることを極端に嫌い、乳母の「歌橋」(うたはし)にだけ、心を開いたと言われています。

婚約から結婚まで約10年かかった1度目の縁組

徳川家定は1828年(文政11年)に元服し、名を政之助から「家祥」(いえさち/いえさき)に改めました。同年、徳川家定にとって最初の正室となる「摂関家」(せっかんけ)の「鷹司任子」(たかつかさあつこ)と、「納采の儀」(のうさいのぎ:皇族が結納を取り交わす儀式)を執り行なっています。

そして1831年(天保2年)、鷹司任子が江戸城本丸へ輿入れし、1841年(天保12年)に婚儀が行なわれました。徳川家定との縁組が正式に決まるまでには、鷹司任子が江戸入りしてから、約10年の月日を要したのです。

そんななか、徳川家定は1840年(天保11年)、疱瘡(ほうそう:現在の天然痘)を患いますが、全快。しかし、その目の辺りには、あばたが残ったと伝えられています。

そして、その翌年には、徳川家定の祖父であり、大御所であった11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)が亡くなりました。

その跡を継いで12代将軍となった徳川家慶は、「御三家」(ごさんけ)の次席であり、将軍の補佐を行なっていた「御三卿」(ごさんきょう)の「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)を、自身の世継ぎにしようと考えます。

しかし、将軍は長子相続でなければならないという主張を理由に、老中首座の「阿部正弘」(あべまさひろ)らが反対したため、徳川家定が正式に、12代将軍・徳川家慶の後継者となったのです。そして1848年(嘉永元年)、将軍の正室として「御簾中様」(ごれんじゅうさま:貴人の正妻を指す尊称)と呼ばれていた鷹司任子は、徳川家定も罹った疱瘡が原因となり、26歳の若さで亡くなっています。

  • 徳川十五代将軍のひとり、第11代将軍・徳川家斉についてご紹介します。

  • 徳川十五代将軍のひとり、第12代将軍・徳川家慶についてご紹介します。

  • 現代まで残ってきた武士の風習をご紹介します。

半年で結婚生活が終わった2度目の縁組

1849年(嘉永2年)徳川家定は、左大臣の娘であった「一条秀子」(いちじょうひでこ)を、2人目の正室として迎えました。

しかし、一条秀子は24歳であったにもかかわらず、子どもほどの身長しかなかったと伝えられており、江戸時代後期の事件などをまとめた「藤岡屋日記」(ふじおかやにっき)の記述によれば、一条秀子の身長は1m弱しかなかったとされています。徳川家定は、子どものような一条秀子を気に入っていたと推測されていますが、一条秀子は1850年(嘉永3年)に発病し、この世を去ってしまったのです。

2度も正室を亡くした徳川家定は、そののちしばらくは正室を迎えようとはせず、身の回りの世話は、側室であった「志賀」(しが)がしていました。この当時の徳川家定には嫡男がおらず、跡継ぎとなる男子を儲けるためにも、3人目の正室を誰にするかが、政治問題となったのです。

3度目の縁組から将軍に就任するまで

一条秀子が没した頃、大奥ではいわゆる「薩摩派」(さつまは)の女中達が動き出します。そのなかで、徳川家斉の正室であった「広大院」(こうだいいん:元薩摩藩8代藩主・島津重豪[しまづしげひで]の娘)に仕えている尼が居ました。

島津斉彬像

島津斉彬像

その尼が、薩摩藩11代藩主で江戸に住んでいた「島津斉彬」(しまづなりあきら)に、「島津家」(しまづけ)に年頃の娘が居るかどうかを尋ねてきました。

長生きで子宝に恵まれた広大院にあやかって、2度も正室を亡くした徳川家定に、島津家から正室を迎えようとしたのです。

しかしこれは徳川家定自身の考えと言うよりも、島津斉彬と老中首座の阿部正弘による画策であったと考えられています。

また、朝廷の摂関家筆頭である「近衛家」(このえけ)の27代当主「近衛忠煕」(このえただひろ)の正室「郁姫」(いくひめ)が、島津斉彬の叔母であったことから、近衛忠煕と島津斉彬は親密な関係を築いていました。

郁姫は、この徳川家定の正室問題が起こった1850年(嘉永3年)に亡くなりましたが、島津斉彬と近衛忠煕の仲は変わることがなかったため、近衛忠煕からも、島津家から徳川家定の正室候補を出すように島津斉彬に働きかけています。このとき近衛忠煕は、島津家の姫を近衛家の養女として迎え入れ、徳川家定の正室にしようと考えていたのです。

1851年(嘉永4年)薩摩藩主となった島津斉彬は、島津家正室候補の姫を、正式に近衛忠煕の養女とすることなどを近衛忠煕に相談。このとき、島津斉彬自身には娘がいなかったため、島津家分家の娘であり健康であった16歳の「一子」(かつこ)を正室候補に選んでいます。

篤姫像

篤姫像

1852年(嘉永5年)、江戸入りした島津斉彬は、養女の一子を「篤姫」(あつひめ)の名前で、実子として幕府に「丈夫届」(じょうぶとどけ:子どもが十分に成長した段階で届け出る出生届)を提出。

そして1853年(嘉永6年)、アメリカからペリー提督が率いる4隻の艦船が、浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市)に来航したのと同じ年に、12代将軍の徳川家慶が没すると、篤姫は鹿児島から京都に向けて出発。このとき正式に近衛忠煕の養女となり、その名を「藤原敬子」(ふじわらすみこ)に改めたのです。

その一方で、徳川家定が13代将軍に就任。藤原敬子は、江戸の薩摩藩邸へ入りましたが、徳川家慶の喪に服するなどの理由で、徳川家定と藤原敬子の婚儀は大幅に延期されることになりました。

1854年(安政元年)1月16日には、ペリー提督が再び浦賀沖に来航。このときには7隻もの艦船を率いており、徳川家慶が亡くなった混乱に乗じて「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)の締結を迫ったのです。そののち、江戸幕府は3月3日に日米和親条約に調印しています。

そんな情勢のなか、1854年(安政元年)、及び1855年(安政2年)に起こった「安政の大地震」(あんせいのだいじしん)により、徳川家定と藤原敬子の婚儀はさらに延期されることに。そして1856年(安政3年)に徳川家定と藤原敬子は、ようやく婚儀を挙げることができ、正式に夫婦となったのです。

  • 江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

  • 戦国大名の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。

将軍・徳川家定、内憂外患こもごも至る

「一橋派」か「南紀派」か? 将軍継嗣問題

藤原敬子と結婚したばかりの徳川家定でしたが、先立った2人の正室との間には子がいなかったため、将軍継嗣問題が早々に幕府での最重要問題となっていました。

徳川慶喜

徳川慶喜

その候補に挙げられた人物のひとりが、「権現様」(ごんげんさま:徳川家康[とくがわいえやす])の再来と評されるほど英明であり、御三卿であった「一橋徳川家」(ひとつばしとくがわけ)の徳川慶喜です。

徳川慶喜の実母は、徳川家慶の正室「喬子女王」(たかこじょおう)の妹であり、徳川家定にとって徳川慶喜は、従兄弟にあたります。

そして、もうひとりの候補は、11代将軍であった徳川家斉の孫であり、御三家のひとつに数えられる「紀州徳川家」(きしゅうとくがわけ)の「徳川慶福」(とくがわよしとみ)のちの「徳川家茂」(とくがわいえもち)。

血筋としては徳川慶福が有利でしたが、徳川慶喜の実父である水戸藩藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)や親藩の「松平慶永」(まつだいらよしなが)、島津斉彬、老中首座の阿部正弘などの「一橋派」(ひとつばしは)が、一橋慶喜の次期将軍就任を画策していました。

これに対して、徳川慶福を次期将軍候補として推したのは、「彦根藩」(ひこねはん)の15代藩主「井伊直弼」(いいなおすけ)など、多くの譜代大名や御三卿の「田安家」(たやすけ)の出身「徳川慶頼」(とくがわよしより)らで、「南紀派」(なんきは)と呼ばれていたのです。

一橋派の徳川斉昭は、大奥の浪費などに対して良い感情を持っていなかったなどの理由から、大奥の女性達から忌み嫌われており、また、徳川家定が徳川慶喜に劣等感を持っていました。そのため一橋派は、次期将軍候補について、幕府に直接話を持ち掛けることはせず、勅命(天皇の命令)に基づいて、朝廷から徳川慶喜へ後押しして貰うことを目論みます。

その結果、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)は、「御年長英明の方」を、徳川家定の「養君」(ようくん:養い育てている君主)とするように勅命を下されたのです。この御年長英明の方とは、暗に徳川慶喜のことを指していたと考えられています。

そんななかで島津斉彬は藤原敬子に対し、徳川慶喜を養君にするべく徳川家定を説得する密命を与えていました。そこで大奥にいた藤原敬子は、徳川家定の生母である本寿院や大奥年寄の歌橋らに、次期将軍に徳川慶喜を推挙することについて相談します。しかし大奥は「反徳川斉昭派」(はんとくがわなりあきは)のため、藤原敬子の意見を退けたのです。

島津斉彬自身も、徳川家定に徳川慶喜を養君とすることを提案。「越前藩」(えちぜんはん)の藩士であった「中根雪江」(なかねせっこう)の日記「昨夢紀事」(さくむきじ)には、徳川家定が以下のように返答したと記されています。

「何故このようなことで大名から申し出て来るのか。徳川慶喜は嫌いだし、大奥の者も同様であるから、この儀が叶うには難しい。(中略)諸大名などと申し合わせ、表向きに意見書などを提出するとは怪しからんことだ。島津斉彬までもが申し出すとは、新御殿[藤原敬子]もいるのに、予を侮辱しているのと同じである。どうしてくれようか。」

この言葉を要約すると、徳川家定は藤原敬子を迎えたばかりなのに、藤原敬子の父親が次期将軍にまつわる継嗣問題を言い出すこと自体が非常識だという意味です。この点では徳川家定のほうが、島津斉彬よりも筋が通っています。

本寿院に至っては、「徳川慶喜が養君になることがあれば自害する」とまで言い出しました。このような経緯があったため、藤原敬子は言動を慎むしかなかったのです。

それでも徳川家定と藤原敬子の夫婦仲は良く、これを知った島津斉彬は2人の間に嫡男が誕生することを待つように考えを改め、焦る松平慶永にも自重を促しています。

  • 歴史上の人物と日本刀にまつわるエピソードをまとめました。

  • 歴史上の人物と日本刀にまつわるエピソードをまとめました。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 徳川家康のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

徳川家定を取り巻く外交問題

国内では、徳川家定の継嗣問題が起こっていた一方で、徳川家定は開国を迫る諸外国との関係にも頭を悩ませていました。

1857年(安政4年)、初代アメリカ駐日領事の「タウンゼント・ハリス」が、アメリカの国書を渡すため、江戸城に赴いて徳川家定に謁見。このとき、徳川家定は脳性麻痺の症状が出ていたと言われています。

しかし、11代将軍・徳川家斉以降の「徳川家」(とくがわけ)について記した、江戸幕府編纂の歴史書「続徳川実紀」(ぞくとくがわじっき)によれば、徳川家定はタウンゼント・ハリスに対して、「遠い所から使節として書面を差しよこし、満足に思う。なお、[日米が]幾久しく国交を結ぶと良い。このことを大統領へ宜しく申し述べるが良い」と立派に答えて、将軍らしい態度も見せたとも伝えられているのです。タウンゼント・ハリスも徳川家定の印象について、「堂々とした将軍だった」と好意的に捉えていたとされています。

1858年(安政5年)には、タウンゼント・ハリスから「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)への調印を求められました。そこで、「佐倉藩」(さくらはん)の藩主であり、老中首座であった「堀田正睦」(ほったまさよし)は、孝明天皇からの「条約勅許」(じょうやくちょっきょ:天皇の許可)を得るために上洛します。

しかし、孝明天皇から却下された堀田正睦は、江戸城に戻り、「松平慶永公を大老に就けて対処したい」と徳川家定に提案したのです。これに対して徳川家定は、譜代大名の筆頭である「井伊家」(いいけ)から大老を出すべきであり、能力から見ても松平慶永よりも井伊直弼のほうが大老にふさわしいと反対しています。

井伊直弼

井伊直弼

大老職は老中とは別格であり、就任できるのはひとりのみ。江戸幕府において、将軍に次ぐ最高職であった大老は、人物次第では将軍と同等の権限を持つことも有り得たのです。

この大老を選ぶ最終的な決定権を持つのは将軍のみであり、井伊直弼は大老職を徳川家定から拝命しました。

1858年(安政5年)5月1日、徳川家定は、井伊直弼や老中達を集めた席で、「紀州藩」(きしゅうはん)の藩主・徳川慶福を次期将軍に定めることを言い渡します。徳川家定がこのような決断を下したのも、井伊直弼の後押しがあったからだと伝えられているのです。

そして、井伊直弼は勅許を得ないで日米修好通商条約に調印することを反対し、やむを得ない場合は仕方ないとしても、できるだけ引き延ばすようにと交渉の担当者達に命じていました。しかしその担当者達は、この井伊直弼の言葉を「言質を取った」と見なし、6月19日に勅許を得ないままに調印してしまったのです。

そして6月24日、徳川斉昭と徳川家定の実兄である「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)親子、尾張藩14代藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)と松平慶永が、登城日でもないのに江戸城を訪ねます。これが、いわゆる「押しかけ登城」と呼ばれるできごと。勅許がないまま条約に調印したことを激しく非難し、将軍継嗣を勅命で暗に下された徳川慶喜に決定するように抗議します。条約調印は時流のため仕方がないと、多くの人が思っていましたが、この失態を井伊直弼の責任として訴えることで、将軍の継嗣問題をひっくり返そうと目論んだのです。

しかし、井伊直弼と老中の「太田資始」(おおたすけもと)は、徳川斉昭達の意見を論破。困った徳川斉昭は、松平慶永を呼び出すように訴えますが、御三家である徳川斉昭達と、そうではない松平慶永は家格が異なり、将軍に謁見する順番を待つ控席である「伺候席」(しこうせき)は別々の場所。松平慶永は同じ伺候席にいた老中の「久世広周」(くぜひろちか)と議論するだけで、他には成す術がなかったのです。

翌6月25日、井伊直弼らの幕閣が御三家や御三卿を始めとする諸大名に向けて、将軍継嗣を徳川慶福と定めることを公表し、徳川慶福は江戸城西の丸に入りました。

7月5日、井伊直弼は徳川家定の命として、押しかけ登城に対する処罰を下します。徳川斉昭や徳川慶勝、そして松平慶永らに「蟄居」(ちっきょ:閉門の上、自宅など一定の場所に謹慎させた刑罰)や隠居などの厳しい処分を科したのです。

そして7月6日、徳川慶篤が登城停止の処分に。これらは、徳川家定の「上意」(じょうい:支配者や主君の意見)が前面に押し出された処罰であったと推測されていますが、徳川家定は同日に35歳で亡くなっています。

  • 戦国大名の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。

  • 歴史上の人物と日本刀にまつわるエピソードをまとめました。

徳川家定の死因

寛永寺

寛永寺

徳川家定の死因は、通説として「脚気衝心」(かっけきょうしん:ビタミン欠乏症による心不全)あるいは当時流行した「コレラ」(経口感染症の一種)だと言われていますが、大奥では「毒殺説」がまことしやかに囁かれていました。

それが窺えるのが、大奥に奉公していた女中「藤波」(ふじなみ)が、徳川家定が没した翌日に弟に向けて書いたとされる手紙。

そのなかに、水戸や尾張、一橋、「越前松平家」(えちぜんまつだいらけ)など、この辺りの者が皆で共謀し、徳川家定を毒殺したと書かれた一文があったと伝えられています。

しかし藤波は、「御目見以下」(おめみえいか:将軍に謁見する資格がないこと)の身分であり、当時の政治について、その詳細が分かる立場ではないと考えられるため、この手紙に書かれていた内容がすべて正しいとは言い切れませんが、大奥の中では、将軍継嗣問題において徳川慶喜を推していた、徳川斉昭を中心とする一橋派が、徳川家定の決定を恨んで毒殺したのではないかというような噂も流れていたようです。

このように、死の真相は明らかになっていない徳川家定ですが、その遺体は東京都台東区にある「寛永寺」(かんえいじ)に埋葬され、他の徳川歴代将軍5人と共に、重要文化財に指定されている「徳川歴代将軍御霊廟」(とくがわれきだいしょうぐんごれいびょう)のひとつである「常憲院霊廟」(じょうけんいんれいびょう)に祀られています。

太刀 銘 常遠

徳川家定が用いていたと伝えられる刀剣のひとつが、「太刀 常遠」です。本太刀は、「川越藩」(かわごえはん)の藩主であり、幕末の江戸幕府において外国奉行や老中といった役職を歴任した「松平康英」(まつだいらやすひで)から、徳川家定に献上されたと言われています。

古備前物」(こびぜんもの)の刀剣として伝来した本太刀の作者「常遠」(つねとお)は、備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県西部)で作刀活動を行なっていた「妹尾派」(せのおは)の刀工。妹尾派の刀剣はあまり現存していないため、本太刀は貴重な1振であると言えます。

太刀 銘 常遠

太刀 銘 常遠

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
常遠 特別重要刀剣 73.9 松平上野介康英 →
徳川家定 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

第13代将軍・徳川家定 YouTube動画

「第13代将軍・徳川家定」徳川十五代将軍|YouTube動画

第13代将軍/徳川家定

第13代将軍/徳川家定をSNSでシェアする

「徳川十五代将軍」の記事を読む


第15代将軍/徳川慶喜

第15代将軍/徳川慶喜
「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、徳川家歴代最後の征夷大将軍です。最後の将軍となったのは、水戸で育ち勤皇精神溢れる「一橋家」(ひとつばしけ)の養子「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)でした。15代将軍・徳川慶喜となったとき、怒濤の時代に何を思い、どのように向き合っていったでしょうか。約300年続いた江戸幕府の崩壊を、その中心で体験した最後の将軍・徳川慶喜の軌跡を辿ります。

第15代将軍/徳川慶喜

初代将軍/徳川家康

初代将軍/徳川家康
戦国乱世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた「徳川家康」。天下人として名高い家康ですが、幼い頃は「織田家」と「今川家」の人質として扱われ、家臣共々不遇な生活を送っていました。しかし、そののちは三河平定、そして天下分け目の「関ヶ原の戦い」を経て征夷大将軍となったのです。その生涯と共に、「徳川紋」と言われる徳川家の家紋、そして徳川家康が残した名言をご紹介します。

初代将軍/徳川家康

第2代将軍/徳川秀忠

第2代将軍/徳川秀忠
江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と言えば、「関ヶ原の戦い」に遅参したことで有名な人物。初代将軍「徳川家康」、3代将軍「徳川家光」に比べると地味なイメージがあるでしょうが、徳川秀忠は決して凡庸な人物ではありませんでした。今回は、知られざる徳川秀忠の生涯や、後世に繫がる幕府の支配体制を確立させた徳川秀忠の大きな功績についてご紹介していきます。

第2代将軍/徳川秀忠

第3代将軍/徳川家光

第3代将軍/徳川家光
「我は生まれながらの将軍である」と言ったのは、江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)。様々な政策を行ない、幕藩体制や幕府機構の確立に尽力しました。徳川家光が幕府の基礎を築かなければ、江戸幕府が約260年続くことはなかったと言われています。 徳川家光が行なった政策とは何か。徳川家光の幼少期や両親・弟・乳母「福」との関係、功績や人物像についてご紹介します。

第3代将軍/徳川家光

第4代将軍/徳川家綱

第4代将軍/徳川家綱
徳川幕府の新時代を築いた幼齢の4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)といった偉大な先祖の威光から脱却するべく、政治手腕を振るいましたが、どのような素顔を持っていたのでしょうか。 悠久の歴史を誇る日本の伝統は、確固たる継承者がその手腕を発揮したことで成り立っていると言え、徳川時代の安定をもたらした中核的な政権は、日本の史実に大きな足跡を残しました。 生まれながらにして、偉大な父親の背中を追うことになりながらも、4代将軍として任務を全うした徳川家綱の政治的指導力。また、「武断政治」(ぶだんせいじ:武力を背景にした専制政治)から「文治政治」(ぶんちせいじ:武力によらず、礼儀や法令による政治)への革新は、どのような判断で行なわれたのかに迫ります。

第4代将軍/徳川家綱

第5代将軍/徳川綱吉

第5代将軍/徳川綱吉
江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)は、徳川15代将軍のなかでも「生類憐れみの令」(しょうるいあわれみのれい)を発していることから、特に知名度が高い将軍です。しかし、徳川綱吉の名前に「家」の1文字がありません。それは徳川綱吉が、将軍候補から外れていたことを意味します。 徳川綱吉が、悪法と名高い生類憐れみの令を発した背景には何があったのか。また、将軍候補ではなかった徳川綱吉が、なぜ5代将軍に就任したのか、その理由を掘り下げます。

第5代将軍/徳川綱吉

第6代将軍/徳川家宣

第6代将軍/徳川家宣
江戸幕府6代将軍を務めた「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)は、5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)が行なった「天和の治」(てんなのち)を踏襲しながらも、後期は、「生類憐れみの令」(しょうるいあわれみのれい)といった政策を次々と廃止するなど、政治の刷新を図りました。 しかし徳川家宣は、将軍に就任してわずか3年で亡くなってしまいます。そのため、徳川家宣の生涯や政策についてはあまり知られておらず、歴代の徳川将軍に比べると語られることが少ない人物です。徳川家宣の生涯や政策について掘り下げ、その実像を解き明かしていきます。

第6代将軍/徳川家宣

第7代将軍/徳川家継

第7代将軍/徳川家継
歴代最年少で江戸幕府7代将軍となった「徳川家継」(とくがわいえつぐ)は、就任時わずか5歳でした。そのあとの徳川家継は、3年の将軍職を経て夭逝(ようせい:若くして死ぬこと)。徳川家継の死により、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の血統は失われてしまいました。一体なぜこのような幼すぎる将軍が擁立されることになったのか、将軍となるまでの経緯や、徳川家継の行なった政治についてご紹介します。

第7代将軍/徳川家継

第8代将軍/徳川吉宗

第8代将軍/徳川吉宗
江戸幕府を治めていた徳川家15代将軍のなかで人気があるのは、「暴れん坊将軍」で有名な8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)。時代劇などの主役と言うだけでなく、大胆な財政改革「享保の改革」(きょうほうのかいかく)を行なった将軍として、現代でも抜群の知名度を誇りますが、徳川吉宗はどのような人物だったのか。また、手腕を発揮した享保の改革とは、どのような内容と成果があったのかを、徳川吉宗の生涯と共にご紹介します。

第8代将軍/徳川吉宗

注目ワード
注目ワード