江戸時代

異国船打払令

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日本において、江戸時代初期から鎖国政策を実施していた江戸幕府。しかし、江戸時代後期になると、アメリカやイギリスなど欧米諸国の船が日本近海に現れ、交易を求めて日本に接触。様々な事件が起こるようになります。そこで1825年(文政8年)に江戸幕府は、「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい)を発して、外国船の追放を図ったのです。この異国船打払令について、その背景となった当時における日本の社会情勢と併せてご紹介します。

異国船打払令が発せられた背景

なぜ江戸幕府は鎖国を選んだのか?

鎖国

鎖国

1639年(寛永16年)より江戸幕府は、スペインやポルトガルなどキリスト教国からの来航や、ルソン島(現在のフィリピン)を始めとする東南アジアへの日本人の渡航、及び交流を禁じ、中国や朝鮮、琉球王国、オランダとのみ貿易を行う鎖国政策を採っていました。

江戸幕府が鎖国を選んだ理由のひとつには、キリスト教の教えが、日本に浸透することを懸念していたことが挙げられます。江戸時代の日本では、「士農工商」(しのうこうしょう)から成る身分制度が設けられ、武士は日本刀を携行でき、無礼を働いた人を切り捨てても良いとする「切り捨て御免」の特権を与えられていました。

一方、欧米諸国から日本にやって来たキリスト教の宣教師は、キリスト教の教えである「人類平等」の思想に基づいて、宣教活動を行うことが基本となっていたのです。

そのため江戸幕府は、キリスト教が広まることによって身分制度が崩れ、武士の地位低下が危ぶまれると考えたため、キリスト教を禁止し、鎖国の道を選んだと推測されています。

近付く欧米諸国の足音

水野沢瀉

水野沢瀉

江戸時代後期になると、アメリカやイギリス、ロシアなどの船が日本近海に頻繁に現れるようになり、江戸幕府は、それらへの対応に苦慮するようになります。

1806年(文化3年)には、ロシアの外交官「ニコライ・レザノフ」の部下であった「ニコライ・フヴォストフ」が、日本との通商交渉が難航したため、日本領土の「樺太島」(からふととう)に上陸。松前藩(現在の北海道松前郡)居留地を襲撃し、日本人を連行する事件が起こりました。

この事件がきっかけとなり、「老中」(ろうじゅう:将軍直属の家臣として仕え、政務一般を司っていた江戸幕府の最高職)を務めていた「水野忠邦」(みずのただくに)は、来航した欧米諸国の船から求められた場合に、食料や燃料の補給を認める「文化の薪水給与令」(ぶんかのしんすいきゅうよれい)を発します。

こうすることで江戸幕府は、外国との武力衝突を避けようとしたのです。

異国船打払令とは?

度重なるロシアからの襲撃に対し、江戸幕府は、蝦夷地(現在の北海道)の防衛に力を入れたものの、武力を用いた衝突が頻繁に起こるようになります。

そして、国防強化に注力する必要性があると判断した江戸幕府は、薪水給与令をわずか1年で廃止したのです。しかし、外国船との争いはあとを絶ちませんでした。

フェートン号事件

そんな中、1808年(文化5年)にイギリス船の「フェートン号」が長崎港へ不法侵入し、食料などを日本に要求する「フェートン号事件」が起こりました。

また、1811年(文化8年)には、ロシアの軍艦が同様に上陸したため、軍艦長「ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン」が日本側に捕えられ、2年間箱館(現在の北海道函館市)に幽閉される「ゴローニン事件」が発生します。その後も日本各地で外国人との衝突が起こり、ときには日本刀を使った殺傷事件に発展することもありました。

そして、1824年(文政7年)には水戸藩(現在の茨城県)の漁師が外国船と物々交換をするという事件が起こり、300人もの漁師が、江戸幕府による取り調べを受けることとなったのです。

また同年、薩摩藩(現在の鹿児島県)とイギリスとの間で、「宝島事件」が発生しました。イギリス船が、現在の鹿児島県鹿児島郡に位置する「宝島」に来航し、島民に牛を譲渡するよう要求。ところが、島民達よりこれを拒まれたため上陸し、牛を略奪したのです。

さらには、水戸藩とイギリスによる「大津浜事件」が起こります。これは、水戸藩領の大津(現在の北茨城市大津町)の浜にイギリス人12人が上陸したため、水戸藩が審問(しんもん:事情などについて、その詳細を問いただすこと)し、船に戻らせた事件でした。

これらの事件が引き金となり、1825年(文政8年)に江戸幕府は、ついに「異国船打払令」の制定に踏み切ったのです。

異国船打払令は、オランダや中国など、日本との間で交易を行っている国以外の外国船が、日本沿岸に近付いて来た場合、それを見つけ次第、砲撃するという内容が盛り込まれた法令。

これは、表向きは鎖国政策を採っていた日本を諸外国から守るための政策でしたが、民衆が外国人と交流することで、江戸幕府転覆を企てることのないように抑え込む目的があったとも言われています。この異国船打払令により、日本沿岸に近付く外国船は砲撃され、上陸した外国人は拘束されるようになったのです。

異国船打払令発令後の日本

三つ葉葵

三つ葉葵

江戸幕府が異国船打払令を発した3年後の1828年(文政11年)、「シーボルト事件」が勃発します。オランダの軍医として長崎の出島に住むことを許された「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」は、多くの日本人と交流していました。江戸幕府お抱えの天文学者「高橋景康」(たかはしかげやす)も、シーボルトとの交流があったひとりです。

あるとき、シーボルトがオランダへ送る荷物の中に、「徳川将軍家」の家紋である「三つ葉葵」(みつばあおい)の紋付着物など、江戸幕府が国外に持ち出すことを禁じていた品々が発見されます。この出来事は、外国人に対して強硬策を採る江戸幕府によりスパイ事件として扱われ、シーボルトは国外追放処分、高橋景康は投獄されてしまったのです。

モリソン号事件とは

モリソン号

モリソン号

シーボルト事件を経て、今度は1837年(天保8年)に、「モリソン号事件」が起こります。これは、アメリカ合衆国の商船「モリソン号」を、日本側の大砲により攻撃した事件です。

当時は、日本の漁船などが外洋で嵐に遭い、漂流しているところを外国船に助けられ、日本まで送り届けてもらうことがありました。このモリソン号も、漂流した日本人乗組員7名を乗船させており、彼らを送還するだけでなく、日本との通商を目的として日本に来航しましたが、武装はしていなかったのです。

しかし、イギリス軍艦と勘違いした「浦賀奉行所」(うらがぶぎょうしょ:現在の神奈川県横須賀市を司っていた役所)は、モリソン号を砲弾で攻撃します。

日本人漂流民を乗せていた商船を攻撃したことにより、異国船打払令は批判の的となったばかりか、モリソン号には、撃った砲弾がまったく届かなかったため、かえって江戸幕府による防備の弱さを露呈する結果となってしまったのです。

そして、1840年(天保11年)に勃発した「アヘン戦争」において、清(現在の中国)がイギリスに大敗する事態が続きます。それまで江戸幕府は、清は強大な軍事力を持つ大国だと考えていたため、その敗北は大きな衝撃を与えました。

これを受けて江戸幕府は、1842年(天保13年)、遭難した外国船に限り、食料や燃料の補給を認める「天保の薪水給与令」(てんぽうのしんすいきゅうよれい)を発し、異国船打払令は緩和されることになったのです。

異国船打払令

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