「徳川御三家」とは「尾張徳川家」、「紀州徳川家」、「水戸徳川家」の3家のこと。江戸時代、全国に存在した藩は300以上。そのなかでも徳川将軍家に次ぐ地位を持っていたのが徳川御三家です。徳川御三家の基礎知識と共に、3家にゆかりのある名刀をご紹介します。
徳川家康
「徳川御三家」とは、江戸幕府初代将軍「徳川家康」が、徳川家の血を絶やさないようにするために、3名の子「徳川義直」(とくがわよしなお)、「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)、「徳川頼房」(とくがわよりふさ)を徳川将軍家から独立させて創生した大名家のことです。
3家は、徳川家康の子息が始祖となった藩「親藩」(しんぱん)のなかでも最高位に位置付けられており、将軍家と同じように「徳川」の姓を名乗ること、徳川家の独占紋である「三つ葉葵」の家紋を使用することが許されました。
なお、御三家は、宗家である徳川将軍家を補佐する役割もあったと言われていますが、具体的に制度や役職として定められていた訳ではないため、全国の諸藩と同様に、藩政を行なったと言います。
徳川義直
「尾張徳川家」は、徳川家康の九男・徳川義直を家祖(かそ:家の先祖)とする大名家。
徳川義直は、甲斐国(現在の山梨県)甲府藩主、尾張国(現在の愛知県西部)清洲藩主を経て、尾張藩初代藩主となりました。
当時、清洲藩は尾張国の中心として栄えていましたが、徳川家康は清州の地形が水害に弱いことを懸念し、東海道の要所として名古屋を選出。
このときに行なわれた天下普請(てんかぶしん:江戸幕府が諸大名へ命じて行なわせた土木工事のこと)によって築城されたのが「名古屋城」(現在の愛知県名古屋市)。名古屋城を拠点として新しく立藩したのが尾張藩です。
尾張徳川家は、徳川義直が入封した時点で約47万石でしたが、御三家筆頭としての家格を示すために加増され、表石高は62万石、新田開発等で得られた石高を合わせると約100万石を有していたと言われています。また、石高が高いことで財政も潤っていたため、領民への税率は全国的にも低く、江戸時代を通して一度も一揆が起きませんでした。
なお、尾張徳川家は徳川家支流でありながらも、幕末時代には「勤皇派」として官軍に与しました。その理由は、「勤皇思想」を持っていた徳川義直の遺言「朝廷の命令にしたがって行動するように」が尾張藩秘伝の藩訓に定められていたこと、御三家筆頭であるにもかかわらず将軍を輩出することができなかったこと、将軍家から養子を押し付けられたことなどが挙げられます。
歴史上の人物と刀剣にまつわるエピソードをまとめました。
江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。
当時の建物や町並みが楽しめる名古屋の城下町をご紹介します。
徳川宗春
「徳川宗春」(とくがわむねはる)は、尾張徳川家7代藩主です。
「享保の改革」による経済停滞が問題となっていた時代において、藩主のなかで唯一、自由経済政策を行なったと言われています。
徳川宗春が目指したのは「犯罪を起こさない町づくり」。
江戸幕府に対立するのではなく、あくまで法令を遵守しながら民衆の娯楽である芝居や祭りを奨励する形式で行なわれました。
規制が緩和された名古屋は、江戸や京、大坂をしのぐ勢いで大いに繁栄し、「名古屋の繁華に京[興]がさめた」と謳われるほど、経済が回復したと言います。
徳川慶勝が自ら撮影した写真の枚数は1,000枚近くあり、尾張藩の下屋敷や名古屋城内外の様子、祭りを楽しむ民衆の姿など、史料的に価値が高い写真が数多く現存しています。
徳川頼宣
「紀州徳川家」は、徳川家康の十男・徳川頼宣を家祖とする大名家。
徳川頼宣は、常陸国(ひたちのくに:現在の茨城県)水戸藩主、駿河国(現在の静岡県中部)駿府藩主を経て、紀州藩初代藩主となりました。
紀州徳川家は、徳川御三家のなかで唯一、将軍を輩出した家柄です。
1716年(享保元年)に5代藩主「徳川吉宗」が8代将軍、1858年(安政5年)に13代藩主「徳川家茂」(とくがわいえもち)が14代将軍にそれぞれ就任しました。
徳川吉宗が将軍になったとき、200名を超える紀州藩士が幕臣に組み込まれます。紀州藩は、藩主が将軍になったことで廃藩になるかと思われましたが、「東照神君[徳川家康]に与えられた聖地だから」として、紀州徳川家の分家である伊予国(現在の愛媛県)西条藩主「徳川宗直」(とくがわむねなお)を紀州藩主に任命することで存続させました。
明治維新後は、最後の藩主である「徳川茂承」(とくがわもちつぐ)が華族に列され、五爵(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵)のうち第2位の称号の侯爵を得ます。戦前は日本屈指の富豪として名を馳せ、戦後は紀州徳川家16代当主の「徳川頼貞」(とくがわよりさだ)が政界において存在感を示しました。
徳川吉宗
「徳川吉宗」は、紀州徳川家5代藩主、及び江戸幕府8代将軍です。
破綻しかけていた幕府の財政を、享保の改革で回復させた「幕府中興の祖」として知られています。
また、洋書などの輸入を解禁して蘭学ブームを起こしたり、ベトナムから象を輸入して江戸に象ブームを起こしたりするなど、文化的な面でも人々に大きな影響を与えました。
徳川十五代将軍のひとり、第8代将軍・徳川吉宗についてご紹介します。
徳川家茂・和宮
「徳川家茂」は、紀州徳川家13代藩主、及び江戸幕府14代将軍です。
勤勉家で聡明、心優しく、動物が好きな性格で「和宮親子内親王」(かずのみやちかこないしんのう)と政略結婚をした人物として知られていますが、その生涯はわずか21年で閉じています。
将軍となるにあたって趣味を封じ、文武両道を心掛けたと言われており、幕臣からは勤勉な性格に感心を抱かれ、「勝海舟」からは「もし長く生きていれば歴史に名を残す名君となっていただろう」と評されました。
「水戸徳川家」は、徳川家康の十一男・徳川頼房を家祖とする大名家。徳川頼房は、3歳のときに常陸国下妻藩10万石の藩主となり、そののち6歳で常陸国水戸藩主となりました。
水戸徳川家の役割は、幕府と朝廷の間で対立が起きた際、徳川の血筋を守るために朝廷側に就くこと。これは、徳川家康の意向によって初代・徳川頼房の代から定められていたことで、藩訓にもなっていました。
なお、水戸徳川家は御三家のなかで唯一、参勤交代が行なわれなかった藩としても知られています。その一方で、将軍家に何かあった場合は代わりに執務を行なう「目代」(もくだい)の役割を担っていたため、藩主は基本的に江戸で生活をしながら水戸藩を統治し、また水戸藩と江戸のそれぞれに家臣団を持たなければならないなどの体制を強いられました。
徳川光圀
「徳川光圀」は、「水戸黄門」の愛称で知られる水戸徳川家2代藩主です。
徳川光圀が興した「水戸学」(儒学思想を基礎として国学や史学、神道を結合させた学派)は、幕末時代の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。
またその一方で、徳川光圀は好奇心旺盛な性格をしていたと言われており、餃子やチーズ、ラーメンなど、当時としては珍しい食べ物をはじめ、「生類憐れみの令」で禁止されていた牛肉や豚肉を食べていたなど、食に関する逸話を多く持つ人物としても知られています。
徳川斉昭
「徳川斉昭」(とくがわなりあき)は、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の実父として知られる水戸徳川家9代藩主です。藩政改革として藩校「弘道館」(こうどうかん:現在の茨城県水戸市)の設立や鉄砲の鋳造などを行ない、文武を奨励した名君として当時から名を馳せていました。
なお、その性格は非常に厳格で、寵愛していた側室の浪費癖を咎め、そののちは一切の目通りを許さなかったり、幼い徳川慶喜の寝相の悪さを矯正するために、枕の両脇へ剃刀(かみそり)を立てたりなど、諡号(しごう:貴人の死後に付けられる称号)として「烈公」(れっこう)と名付けられたことを裏付ける逸話が多く残されています。
「薙刀 銘 宗重」は、江戸時代に常陸国で活動した刀工「宗重」(むねしげ)が制作した薙刀です。水戸徳川家に伝来した本薙刀には、徳川家の葵紋が施された豪華絢爛な「金梨子鞘」が附属しています。
制作者である宗重は、「五郎入道正宗」に師事した10名の名工「正宗十哲」のひとり「金重」(きんじゅう)の末裔と言われており、「大坂新刀の横綱」と称される「津田助広」の門人です。はじめは「常陸大掾」、のちに「常陸守」を賜った名工で、現存在銘作では打刀が多く残されています。
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