徳川十五代将軍

第12代将軍/徳川家慶

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江戸幕府12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)は、その治世で何もしていない将軍という見方をされるのが一般的。徳川家慶の従兄弟で、幕末の四賢候(しけんこう)のひとりとして名高い「松平春嶽」(まつだいらしゅんがく)も、徳川家慶を「凡庸の人」(ぼんようのひと)と評しました。しかし、徳川家慶は風雲急を告げる時代の将軍として、のちに幕末で活躍する人物と深く関係しているのです。ここでは、12代将軍・徳川家慶の生涯、評価や人物像をご紹介します。

徳川十五代将軍徳川十五代将軍
江戸時代を語る上で欠かせない徳川十五代将軍の姿を紐解きます。

江戸幕府12代将軍・徳川家慶の就任と当時の社会情勢

12代将軍・徳川家慶の生い立ち

徳川家慶

徳川家慶

1793年(寛政5年)、「徳川家慶」(とくがわいえよし)は、11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)の次男として誕生。

長兄が早世したため、早くから将軍の継嗣(けいし:あと継ぎ)となるものの、父である徳川家斉の治世が長く、将軍職に就く頃には45歳になっていました。

1837年(天保8年)、父の徳川家斉が隠居したことで、徳川家慶は12代将軍となります。

しかし、徳川家斉は大御所として幕政の中心に居座り、権力を握り続けていました。

大御所となった徳川家斉は、自身の治世と変わらず贅沢な暮らしを続けており、幕府の財政は悪化の一途を辿るばかり。

徳川家慶が将軍に就任した頃には幕政が大きく傾いており、幕府衰退の兆しが見え始めていたのです。

父である徳川家斉との確執

11代将軍徳川家斉は、自由気ままに贅沢三昧をして暮らしていましたが、そのおかげもあって市民に対する締め付けがなく、「化政文化」(かせいぶんか)と呼ばれる、豪奢で退廃的な町人文化が発展しました。

しかし、幕閣内では賄賂が横行し、政治は腐敗。徳川家斉は多くの側室を娶り、多くの子を儲けたため、大奥にかかる莫大な費用が幕府の財政を圧迫し、破綻寸前となっていました。徳川家慶は財政を省みず、贅沢な生活をしている父の徳川家斉に、反発心を抱いていましたが、徳川家斉が大御所として実権を握り続けていたため、徳川家慶は12代将軍となったものの、発言力は強くありませんでした。

そのためこの頃の徳川家慶は政治に対して無気力となり、家臣や大御所が決めたことに対して「そうせい」としか言わず、家臣から「そうせい様」と揶揄されていました。

このような内憂を抱えるなかで、1841年(天保12年)に父の徳川家斉が死去。徳川家慶はすぐさま大御所時代の重臣を排し、幕政の改善を図るため人材を刷新していきました。

江戸幕府を治めた徳川家15人の将軍についてご紹介します。

日本を取り巻く「内憂外患」の社会情勢

江戸幕府は、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の治世から「鎖国政策」(さこくせいさく)を取っていましたが、18世期末から19世紀にかけて、徐々に外国の船が日本近海に現れ、日本を取り巻く環境は変化していきます。財政面などの内憂だけではなく、諸外国の力が日本にも手を伸ばして来ようとする、外患とも戦わなければいけませんでした。

1792年(寛政4年)、ロシアの「ラクスマン」が、ロシアに漂流した「大黒屋光太夫」(だいこくやこうだゆう)を連れて、根室(ねむろ)に貿易を求めて来航。このことから、幕府は大名に海岸防衛の強化を命令し、江戸湾の防衛について検討を始めます。

次いで、1804年(文化元年)には長崎にロシアの外交官「レザノフ」が貿易を求め来航。ロシアの船が度々日本近海や樺太に現れたことで、江戸幕府はロシアの南下政策に危機を覚え始めたのです。

また、これまで江戸幕府は外国船が現れたら燃料と飲み水を与え、穏便に済ませるようにしていました。しかし、1808年(文化5年)、イギリス軍艦「フェートン号」が長崎に入港し、オランダ人を人質にとって食料と燃料を要求する事件が発生。

この事件以降、日本を補給地としたいイギリスをはじめとする諸外国によって、日本人が危害を加えられる事件が発生するようになります。その結果、1825年(文政8年)江戸幕府は「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい)を出し、日本全域の諸大名に、来航した異国船を追い払うように命じました。

しかし、度々外国船が目撃されるようになったことにより、蘭学者を中心に市民達の外国への関心が高まり、開国を期待する者が増えたことで、鎖国撤廃(さこくてっぱい)の機運が徐々に高まっていったのです。

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海防の不安を煽ったモリソン号事件

異国船打払令は、外国船の目的も把握せずに追い払うため、どのような事態になるか分からないといった、危険をはらんでいました。その懸念は、1837年(天保8年)に起こった「モリソン号事件」により、現実のものとなります。

1837年(天保8年)、アメリカ船「モリソン号」が、貿易の交渉とキリスト教布教のため、浦賀(うらが:現在の神奈川県横須賀市)に来航しました。しかし、浦賀奉行は異国船打払令にしたがって砲撃を行ない、モリソン号を撃退。しかし、このモリソン号には保護された7名の日本人漂流者も乗船していたことが、1年後に発覚します。

このモリソン号事件を聞いた、蘭学者で蛮学社中(なんばんしゃちゅう:南蛮の学問を学ぶ人達の集団)の一員だった「高野長英」(たかのちょうえい)と「渡辺崋山」(わたなべかざん)は、「現在の日本に諸外国を打ち払える力はなく、いたずらな攻撃は国を亡ぼすことになる」とし、江戸幕府の対応を批判しました。

この批判に対し幕府は、目付(めつけ:違法を監察する武士の職名)の「鳥居耀蔵」(とりいようぞう)に命じ、蘭学者達を弾圧。高野長英、渡辺崋山をはじめとする蘭学者らは、モリソン号事件に対する幕府批判の罪で、蟄居処分や永牢の処分が下されました。蟄居させられた渡辺崋山は、生活のために絵画を売ったことを問題視され切腹。高野長英は牢から脱獄しますが、1850年(嘉永3年)、町奉行の役人に見付かり、自害します。この事件を「蛮社の獄」(ばんしゃのごく)と呼び、以後の蘭学の在り方に大きな影響を与えました。

老中・水野忠邦の起用と天保の改革

徳川家慶は、1841年(天保12年)に徳川家斉が死去すると、大御所時代の側近らを罷免。差し迫った問題として、幕府の財政と海防に重点を置き、様々な改革を行なわなければならない状況を、老中「水野忠邦」(みずのただくに)に任せることにしました。

天保の改革

「天保の改革」(てんぽうのかいかく)は、「享保の改革」(きょうほうのかいかく)、「寛政の改革」(かんせいのかいかく)と同じ方針とする「倹約令」(けんやくれい)で、大御所・徳川家斉が死去すると、すぐさま開始されました。

内容は大御所時代の贅沢や、緩んだ風俗の取り締まりを強化するものです。高価な料理や華やかな衣服を禁じて販売の制限を設け、庶民の娯楽であった寄席(よせ:落語などの芸を見せる小屋)を、200軒以上から15軒にまで縮小。また、歌舞伎役者の給金を制限し、役者が歩くときは編笠を被らせました。

出版物についても出版統制令を出し、すべての出版物を幕府が検閲し、錦絵を禁止。人情本作家「為永春水」(ためながしゅんすい)や、合巻作家「柳亭種彦」(りゅうていたねひこ)らを処罰しました。

さらに年貢の減少を防ぐため、百姓が農村を離れて江戸に住むことを禁止。出稼ぎをする際は、領主の許可を取らなければならないという、「人返しの法」(ひとがえしのほう)を出したのです。また、すでに江戸に住んでいる者でも独り身であれば、農村に帰ることを命じられました。このように、天保の改革は庶民への締め付けがきつく、歓迎されていなかったのです。

天保の大飢饉

天保の大飢饉

当時、「天保の大飢饉」(てんぽうのだいききん)によって、米価をはじめとする物価の上昇が問題となっていました。

幕府は物価を安定させるために「株仲間」(かぶなかま:幕府・諸藩の許可を得て結成した商工業者の同業組合)の解散を命じ、自由競争を促しましたが、これまでの物流が機能不全に陥り、さらに物価を上げる事態となったのです。

また、困窮している幕府財政の再建策として、貨幣の鋳造を実施。しかし、品質の悪い貨幣を大量に発行したことでインフレが起こり、物価はどんどん上がっていきました。

その他、印旛沼(いんばぬま)における水害防止のための干拓工事を行ないましたが、これも難航。また、「川越藩」(かわごえはん)、「庄内藩」(しょうないはん)、「長岡藩」(ながおかはん)の領地を互いに転封させる「三方領地替え」(さんぽうりょうちがえ)を命じますが、領民の反対に遭い、頓挫しています。

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幕府の衰退を予期させた改革の失敗

1842年(天保13年)水野忠邦は、モリソン号事件から問題となっていた異国船打払令を緩和し、遭難した船に限り飲み水や燃料を給与することを認める「天保の薪水給与令」(てんぽうのしんすいきゅうよれい)を出しました。そして、同時に西洋式砲術を導入し、海防の強化に努めて外患への対策を進めます。

しかし内憂の面では、改革の効果がほとんど得られず、倹約令により厳しい生活を強いられた庶民達から、多くの不興を買うこととなりました。さらに、税収の多い江戸・大坂周辺の支配を強化するため、江戸・大坂の大名や旗本の領地を、幕府直轄とする「上知令」(じょうちれい)を発布。これには幕府の財政を回復させる狙いと、都市部沿岸の防備を強化する狙いがありました。しかし、減収を恐れた大名や旗本の猛烈な反対を巻き起こし、水野忠邦は失脚することとなったのです。

徳川家慶は改革に失敗した水野忠邦をすぐに罷免し、当時24歳の「阿部正弘」(あべまさひろ)を老中に任命。阿部正弘は、天保の改革で混乱した社会の収束に奔走することとなりました。

徳川家慶の逸話から分かる人物像と評価

歴代で唯一実子に将軍職を継がせたがらなかった将軍

徳川家定

徳川家定

徳川家慶には、14男13女の子供達がいましたが、次代将軍となる「徳川家定」(とくがわいえさだ)を除く、すべての子供が20歳を前に亡くなっています。

徳川家定は、徳川家慶の四男として、側室「お美津の方」(おみつのかた)との間に生まれました。

幼少の頃から病弱で内向的であり、人前に出ることを嫌っていたと言います。

また、一説では脳性麻痺を持っていたとも。自分で料理をして食べるのが好きで、そのときは家臣達にも作った料理を分け与えていたとも言われています。

徳川家慶にとっての心配ごとは、幕政のみにとどまりませんでした。徳川家慶の嗣子は徳川家定のみでしたが、徳川家定は病弱で気も弱かったため、日本に迫る列強諸国のことを考えると、将軍として役目を果たせるか不安に思っていたのです。

そこで、徳川家慶が次期将軍に推したのが、のちの15代将軍となる「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)。徳川慶喜は、1837年(天保8年)、水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男として生まれ、幼少の頃から才覚にあふれていました。徳川家慶は徳川慶喜の聡明さを見抜き、次期将軍とするため徳川慶喜に「御三卿」(ごさんきょう)のひとつである「一橋家」(ひとつばしけ)を相続させます。

しかし、継嗣は将軍の嫡子を優先するべきという、阿部正弘をはじめとする老中らの諫言により断念しましたが、徳川慶喜のことが気に入っていた徳川家慶は、度々一橋邸を訪問したと言われています。

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薩摩藩のお家騒動に介入

島津家の家紋「丸に十文字」

島津家の家紋「丸に十文字」

徳川家慶は、その治世で「薩摩藩」(さつまはん)の「島津家」(しまづけ)に起こった継嗣問題「お由羅騒動」(おゆらそうどう)にも介入していました。

お由羅騒動とは、薩摩藩主「島津斉興」(しまづなりおき)の後継者を、嫡子「島津斉彬」(しまづなりあきら)にするか、側室の子「島津久光」(しまづひさみつ)にするかで起こったお家騒動です。

島津斉興の側室「お由羅の方」(おゆらのかた)は、自分の子供である島津久光が藩主になることを望んでおり、藩主である島津斉興や、家臣の多くも島津久光を藩主に推していたのです。

しかし、幕府老中・阿部正弘は、聡明な島津斉彬のことを高く評価しており、外国の事情にも詳しい島津斉彬の方が、今の時勢では藩主にふさわしいと考えました。また、薩摩藩の若い藩士達も、島津斉彬が藩主にふさわしいと思っている者が多くいたのです。この若い藩士達のなかには、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)も含まれていました。

島津斉興が島津久光を次期藩主に指名してしまう前に、阿部正弘は島津斉興の隠居を命じるよう要請。徳川家慶はその願いを聞き入れ、島津斉興に隠居し、家督を島津斉彬に譲るよう取り計らいます。島津斉興も、将軍の命令とあっては断ることができず、隠居して藩主を島津斉彬に譲ることとなったのです。

薩摩藩重臣達の間では、島津久光を次期藩主にという流れができていたところでの介入となり、徳川家慶がこの騒動に関与しなければ、名君と名高い島津斉彬が薩摩藩主になることはなく、島津斉彬に見出された西郷隆盛や大久保利通の運命も変わっていたと言えます。

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徳川家慶の評価

徳川家慶は自ら積極的に幕政を行なった訳ではありませんが、幕末の動乱期に活躍する、徳川慶喜や島津斉彬など重要な人物の手助けをしました。徳川家慶の政治力は高いとは言えませんでしたが、人物を見る目の確かさと、決断の早さには非凡なものがあったと言えます。現に、天保の改革で失敗した水野忠邦をすぐさま罷免し、若く実績の少ない阿部正弘を抜擢することは、なかなかできることではありません。上知令の撤回や三方領知替えの中止の決断も、徳川家慶がしたものです。

徳川家慶は、1853年(嘉永6年)の黒船来航の直後に死去。幕閣が黒船の対策に追われる中でのことでした。徳川家慶の心配の種であった息子・徳川家定は、13代将軍に任ぜられるも、父の懸念の通りその治世は長く続かず、5年という短い期間で死去しています。

そののち、最後の将軍となる15代将軍に、徳川家慶がその慧眼で見出した徳川慶喜が就任。江戸幕府は終わりを迎えることになります。明治維新・幕末の動乱の直前を生きた徳川家慶は、その最中で翻弄されつつも次の時代へとつなげたのです。父の徳川家斉とは確執があり、子の徳川家定の将来を心配した徳川家慶の人生は、父と子に悩まされた人生だったと言えます。

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