渋沢栄一は、近代日本の経済発展に深く貢献した人物。「実業界の父」、「日本資本主義の父」などと呼ばれる渋沢栄一は、日本で初めての銀行を作るとともに、数々の会社や大学の設立にもかかわるなど、様々な功績を残しました。2021年(令和3年)からの大河ドラマの主人公で、新一万円札の顔としても注目されています。
こちらでは、渋沢栄一にかかわる幅広い情報をご紹介。誕生から実業家として活躍するまでの生涯を詳しく解説しています。さらに西郷隆盛や徳川慶喜、伊藤博文など、渋沢栄一ゆかりの人物や、銀行、各会社、学校など、現代にも生きている渋沢栄一の功績・教えも掲載。「渋沢栄一について詳しく知りたい」という方は、ぜひご活用下さい。

渋沢栄一の生涯

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と言えば、日本に初めて銀行や株式会社を作り、近代日本経済の発展に尽力した人物です。「実業界の父」と呼ばれた渋沢栄一の誕生から青年時代までを振り返り、渋沢栄一が体験した、身分の違いによる不当な扱いへの怒りを原動力に、商売人としての道を歩んでいく渋沢栄一のルーツを見ていきます。
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幼少期から学問を好み、14歳で商売人としての才能を開花させた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、20歳頃から、家業の傍ら(かたわら)、度々江戸へ赴くようになります。江戸で学問と剣術を磨きながら、様々な志士と交流していくなかで、青年・渋沢栄一は、「尊王攘夷」と称される思想と出会うことに。これにより、胸の内に秘めた世の中への不満や怒りに火を付けた渋沢栄一は、どのような行動に出るのでしょうか。
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開国と共に混乱が巻き起こった幕末期、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は攘夷計画を謀るも、仲間の助言によって志半ばで断念することに。国のために何かできることはないのだろうかと自問する日々を送りながら、計画が露見することを恐れて、従兄の「渋沢喜作」(しぶさわきさく)と一緒に、京都に潜伏していました。そんななかで、渋沢栄一の人生を左右する運命のできことが起こるのです。果たしてそのできごととは何であったのか、渋沢栄一が幕臣となり、近代日本の礎を築くきっかけとなったヨーロッパ視察までの歴史を追いながら、紐解いていきます。
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主君である「徳川慶喜」の将軍即位に伴い、幕臣となった「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)。江戸幕府使節団のひとりとしてフランスへ渡り、1年7ヵ月に及ぶ欧州留学を経験します。外国の先進的な産業や経済活動に刺激を受け、渋沢栄一は日本で自分のやるべきことが、何であるのかを掴むことができました。しかし、フランスで仕事に情熱を燃やす渋沢栄一に、日本から衝撃的なニュースが飛び込んでくることに。長期間に亘る欧州留学を終えた渋沢栄一が、帰国後、日本で行なった事業や新政府での経済政策を中心に振り返っていきます。
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明治政府内での対立をきっかけに、大蔵省(現在の財務省)を退官することとなった「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、念願の実業界での仕事に挑戦していきます。渋沢栄一が民間人として最初に取り掛かったのは、日本で初めての銀行を設立することでした。これは、大蔵省にいた頃から基盤を作ってきた事業であり、銀行経営は渋沢栄一にとって、フランス留学時代からの夢でもあったのです。新しい日本の社会と未来のために、渋沢栄一が実業界に身を置いて、銀行経営を支えた時代を見ていきます。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、大蔵省(現在の財務省)を退官後、幕臣時代にフランス留学で学んだ会社経営術をもとに、日本初の銀行経営を軌道に乗せ、実業家の道を順調に歩み始めました。銀行頭取を務めながら、起業家や若手経営者に「合本主義」(がっぽんしゅぎ)を唱え、多くの事業を支援していくことに。こうして、近代日本の経済を支えた渋沢栄一は、「実業界の父」と呼ばれる存在になっていきました。私益を求めず、公益を追求し続けた渋沢栄一が最期に辿り着いた場所はどこなのか、携わってきた事業と共に、晩年まで行なっていた活動について振り返ります。
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渋沢栄一の主な関連人物

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が、「西郷隆盛」の人となりに深く触れることになったのは、ある頼みごとをするために、西郷隆盛が渋沢栄一の家を訪ねてきたときです。渋沢栄一はこのときのやり取りから、西郷隆盛のことを「心から尊敬する素晴らしい豪傑である」と称しています。しかし、このやり取りでは当時、大蔵省(現在の財務省)の役人にすぎなかった渋沢栄一が、12歳も年上で、かつ明治新政府の参議(さんぎ:大臣の上の役職)だった西郷隆盛に対して、「もっと国全体のことを考えるべきだ」と諫めていたのです。それにもかかわらず、渋沢栄一は、なぜ西郷隆盛のことを尊敬に値する人物だと評価したのでしょうか。ある頼みごとの内容を含め、渋沢栄一と西郷隆盛はどのような関係であったのかについてもご説明します。
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「徳川慶喜」は、江戸幕府最後の将軍です。「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は幕末期に、この徳川慶喜に仕えていました。徳川慶喜に家臣としての忠誠を誓っていた渋沢栄一は、1893年(明治26年)頃に自身で企画し、25年もの月日を費やして編纂(へんさん)した著書「徳川慶喜公伝」のなかで、徳川慶喜を慕っていた理由や、徳川慶喜に対する尊敬の念を綴っていました。2人の関係性や、渋沢栄一が徳川慶喜にどのような思いを抱いていたのかをご説明します。
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幕末の歴史にその名を残す剣豪集団「新選組」。江戸幕府存続のために倒幕派達と戦い、最後は賊軍として滅びる運命を辿りますが、今もその人気は、幕末の偉人達のなかでもトップクラスを誇っています。その新選組局長として、「土方歳三」や「沖田総司」を始めとする志士達をまとめたのが、「近藤勇」です。「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と近藤勇は、尊王攘夷(天皇を守り、外敵を打つとする思想)の風が吹き荒れていた京都の街で出会います。実はこの2人、同じ武蔵国(現在の埼玉県、東京都23区、神奈川県の一部)の農家の出身。そんな2人の間には、どのような交流があったのでしょうか。
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明治維新へ突入寸前の幕末に、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)はフランスのパリにいました。渋沢栄一が渡仏した目的は、1867年(慶応3年)に開催されたパリ万国博覧会へ、江戸幕府が派遣する「パリ万博使節団」の一員として参加すること。このときの経験が近代日本における「資本主義の父」と呼ばれるほどの偉業を成し遂げることに繋がるのです。そして、このパリ万博使節団の団長が、「徳川慶喜」の弟である「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)でした。当時の徳川昭武は、まだ14歳。渋沢栄一が、なぜパリ万博使節団の一員に選ばれたのかを含め、徳川昭武との関係をご紹介します。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、明治時代に経済や商工業の面で日本を近代国家にすべく奔走した、「日本の資本主義の父」と呼ばれる人物です。驚くのは、生涯に何と500もの会社を設立したこと。渋沢栄一が立ち上げにかかわった会社を紹介すると、みずほ銀行やサッポロビールなど誰もが知っている会社がズラリと並びます。まさに渋沢栄一は、日本経済の礎を築いた人物と言えるのです。 渋沢栄一の経済を見る才能が大きく花開いたきっかけとなったのは、明治維新前後の約2年間、パリ万博幕府使節団の一員としてフランスをはじめとする欧州各国を訪問したこと。特に、パリの銀行家「フリューリ・エラール」との出会いは、渋沢栄一の「近代日本経済の発展に一生を捧げよう」という意思を力強く後押ししたものでした。そんな2人の出会いと、渋沢栄一がフリューリ・エラールから学んだポイントを紹介しましょう。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と「大隈重信」(おおくましげのぶ)は、明治政府において、部下と上司の関係で仕事をした間柄です。渋沢栄一が「大蔵省租税正」(現在の財務省主税局長)着任を要請されたとき、「大蔵大輔」(おおくらたいふ:現在の財務省事務次官)を務めていたのが大隈重信でした。 渋沢栄一は当初、大蔵官僚として新政府で働くという要請を断るため、大蔵省に出向きますが、「浩然の気に満ちた人」(こうぜんのき:天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気のこと)であった大隅重信に説得されて受諾。結果的に、渋沢栄一が広く社会で活躍するきっかけを作ったのが大隈重信と言えるのです。この2人の間にどのようなやりとりがあったのでしょう。また、渋沢栄一が評する「浩然の気に満ちた大隈重信」とはどういう人物だったのでしょう。
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「伊藤博文」(いとうひろぶみ)は、日本の初代内閣総理大臣です。「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が明治新政府の大蔵省(現在の財務省)の官僚として勤務することになったとき、伊藤博文は大蔵少輔(おおくらしょうゆう:現在の大蔵省事務次官である大蔵大輔の次席)役で、言わば部下と上司として出会います。そののち、2人は金融面だけでなく、明治時代の日本の近代化に大きな影響を与える数々の新規事業に共に携わりました。興味深いのは、お札の肖像にまつわる2人の関係です。渋沢栄一は、令和で10,000円札の肖像に選ばれますが、実は、1963年(昭和38年)発行の1,000円札においても肖像の最終候補でした。結果、このときに選ばれたのは伊藤博文ですが、2人の間にはどのような裏話があるのでしょう。
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幕末に長州藩士として活躍した「井上馨」(いのうえかおる)は、明治政府では「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の直属の上司となった人物です。渋沢栄一が「大隈重信」(おおくましげのぶ)の強い説得により大蔵省(現在の財務省)の官僚になった際、大蔵大丞(おおくらたいじょう)と言う実務のトップを務めていたのが井上馨でした。井上馨は、理財(財貨の有効運用)の才能が突出していたと言われています。渋沢栄一は、井上馨の右腕として活躍。度量衡(どりょうこう)や租税制度の改正、貨幣・禄制の改革、鉄道敷設など、次々と重要案件を手掛け、スピード出世していきます。そんな2人の関係を物語る逸話を紹介しましょう。
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薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の「大久保利通」(おおくぼとしみち)は、幕末に「西郷隆盛」と共に、長州藩(現在の山口県)と「薩長同盟」を締結するなど、討幕や明治維新において活躍した人物です。明治政府では初代内務卿(太政官制における首相)として実権を握り、近代国家の建設をけん引しました。「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、大久保利通について「お互いに相手が嫌いだった」と表現すると同時に、大久保利通は達識(たっしき:物事を広く深く見通す見識)の人物であり、「公の日常を見るたびに、器ならずとは大久保公のごとき人を言うのであろう」とも語っています。大久保利通の「器ならず」とはどのようなものか、2人の関係性と共に紹介しましょう。
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「渋沢平九郎」(しぶさわへいくろう)は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の従兄であり義弟、そしてのちに養子となった人物です。1868年(慶応4年)7月、渋沢平九郎は「飯能戦争」(はんのうせんそう)で新政府軍と戦い、黒山(くろやま:現在の埼玉県入間郡越生町)で自刃(じじん:刀物で自分の生命を絶つこと)し、わずか20歳でその生涯を終えたのです。このとき、渋沢栄一は「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)を団長とするパリ万博使節団の一員として欧州に滞在していました。渋沢栄一と渋沢平九郎の関係、そして渋沢平九郎の生涯について紹介します。
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現代に生きる渋沢栄一

日本近代資本主義の父と呼ばれる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の大きな功績のひとつに、日本初となった銀行の創設があります。1873年(明治6年)6月11日、渋沢栄一の手によって「第一国立銀行」が誕生しました。「国立」という文字が入っていますが、民間の銀行であり、のちの「第一勧業銀行」、現在の「みずほ銀行」の前身となった銀行です。渋沢栄一は、生涯に約500社もの企業を興し、日本の経済発展に尽力しましたが、その活動の中心となったのが銀行業と言われています。渋沢栄一が銀行に掛けた思いを紹介しましょう。
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明治時代に入ると、それまでろうそくや行灯(あんどん)の灯りしか知らなかった日本人に、衝撃を持って迎えられたのが「ガス灯」です。当時のガス灯の明るさは15W程度のものでしたが、夜の街が真っ暗だった時代。ガス灯の明るさに人々は驚き、ひと目見ようと、多くの見物人がガス灯の周りに集まりました。ガス灯は、文明開化の象徴として人々の心にも明るさを灯したのです。 「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、こうした暮らしの生命線とも言えるライフラインの供給にも率先して取り組み、1885年(明治18年)に「東京瓦斯会社」(とうきょうがすがいしゃ:現在の東京ガス株式会社)を創立。1906年(明治39年)には、自身も設立に尽力した「東京電灯会社」(1882年・明治15年設立)などを吸収する形で「東京電力株式会社」を設立しました。渋沢栄一がかかわった日本のライフライン整備について紹介しましょう。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、幕末期から大正時代前期にかけて実業家として活躍し、「日本資本主義の父」と呼ばれる人物ですが、自身が幼い頃から「論語」を学び、それを人生の指針としたように、教育支援にも熱い情熱を注ぎました。渋沢栄一がかかわった学校の代表例に、「東京高等商業高校」(現在の一橋大学:東京都国立市)や「日本女子学校」(現在の日本女子大学:東京都文京区)、「東京女学館」(東京都渋谷区)などがあります。「公益財団法人渋沢栄一記念財団」の「渋沢栄一伝記資料」によると、渋沢栄一が生涯に亘って支援した教育機関は合計で164校にも及んでいるのです。渋沢栄一が教育にかけた想いを紹介しましょう。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、「第一国立銀行」を皮切りに、生涯で500社に近い企業を興し、日本の近代化、そして経済発展に尽力しました。渋沢栄一が手掛けた事業のひとつに、ビール事業があります。具体的に言うと、渋沢栄一は、直接的に2つの麦酒(ビール)会社の設立にかかわりました。「ジャパン・ブルワリー・カンパニー・リミテッド」(現在のキリンビール株式会社)と「札幌麦酒会社」(現在のサッポロビール株式会社)です。両社共、現在はそれぞれグループ経営を行ない、ビール会社の枠を越え、日本有数の飲料メーカーに成長。その発端となった日本のビール事業と渋沢栄一とのかかわりを紹介します。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と言えば、日本で初めて株式会社を設立した人物です。生涯でかかわった企業は500以上。そして、日本経済の未来を見据え、常に先見の明を持っていた渋沢栄一が、積極的に設立を進めた事業が「倉庫業」です。渋沢栄一は、なぜ倉庫業を発展させようと考えたのか。渋沢栄一の倉庫業への想いと共に、設立に携わった主な倉庫会社をご紹介します。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、明治時代の幕開けとともに、海外の企業に追い付くように日本の近代化を進めました。しかし、開港によって国際的な競争が始まると、日本は深刻な貿易赤字に苦しむことになります。そこで、渋沢栄一は国内の海運業育成に注力し、日本の海運業の発展に努めました。また渋沢栄一は、当時日本に導入されていなかった地下鉄道路線の建設にも携わり、日本の陸運業にも大きく貢献。渋沢栄一が携わった海運・陸運の物流業についてご紹介します。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、あらゆる分野の事業に携わり、江戸時代から続く歴史ある会社や、日本の未来に必要な会社など、多くの企業を支えました。渋沢栄一が経営危機を救ってきた会社のなかでも、特にかかわりの深い造船業と土木業についてご紹介します。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、数多くの日本初となる事業を軌道に乗せ、日本における情報通信業の黎明期に尽力した人物です。特に、大正時代には放送業の設立に携わり、晩年は自ら講演放送も行なっていました。また、19世紀になって産業革命が起こると、渋沢栄一は電気通信網の発展で通信業が発達していた欧州に追い付かねばならないと考え、日本の通信業発達にも率先してかかわっていきます。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、明治新政府で近代日本経済の中枢を担いながら、弱者のための保護施設を設立するなど、近代日本における福祉事業の発展に大きく貢献した人物です。渋沢栄一が官僚時代から実業家時代にかけて行なった福祉事業は、現代日本にも広く受け継がれています。また、外国人との交流が急増した明治時代には、外国人を接待するための近代ホテルの建設にも深くかかわりました。近代国家として日本が成長していくために、渋沢栄一が先導して設立にかかわった代表的な病院とホテルについてご紹介します。
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2014年(平成26年)に世界文化遺産に登録された群馬県富岡市の「旧富岡製糸場」は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)によって明治時代前期に設立された工場施設です。当時の日本には大規模な工場はまだなかったため、富岡製糸場の設立は渋沢栄一が政府の人間として取り組んだ巨大プロジェクトのひとつとなりました。渋沢栄一が明治新政府と手掛けた絹織業の富岡製糸場と共に、官僚退官後に携わった製紙業や印刷業について見ていきましょう。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、大蔵省(現在の財務省)を3年半ほどで退官して、日本初の銀行や大規模工場の設立に尽力しながら日本の近代化を推し進めていました。日本よりも先に近代化を実現していた欧米と対等に貿易交渉するためには、何が必要か、渋沢栄一はかつて訪れた欧州で得た知識を頼りに、日本の商工業の発展を目指して思案を巡らせます。渋沢栄一が日本実業界のために設立した経済団体と、日本初の公的取引所について見ていきましょう。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が、実業家として奔走していた富国強兵を掲げる明治期の日本において、医学・薬学の発展と、大量の物資や人員をすみやかに運ぶ交通網の発達は喫緊の課題でした。近代日本の発展のため、渋沢栄一が後進に託した製薬業とのかかわりや、鉄道電化に伴う事業の展開を目指した渋沢栄一による電気機器製造業創立の歴史を見ていきましょう。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、明治時代から大正時代にかけて約500社もの企業設立に携わり、実業界を牽引するリーダーとして日本の近代化に最も貢献した人物だと言えます。現代においても「実業界の父」、あるいは「近代日本経済の父」と称えられる渋沢栄一ですが、ただ経営手腕が優れていただけではありません。渋沢栄一は、福祉や教育といった社会貢献活動や、国際交流でも自身の力を発揮し、人々のために尽くす慈善家としての顔も持っていました。私益よりも公益を大切にしていた渋沢栄一のように、社会事業に尽力した企業経営者には「渋沢栄一賞」という賞が贈られています。
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2024年度(令和6年度)から、日本の紙幣の「顔」が変わります。1,000円札が「北里柴三郎」(きたざとしばさぶろう)、5,000円札が「津田梅子」(つだうめこ)、そして10,000円札が「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)です。新紙幣には、世界初となる偽造防止技術が採用されます。実は渋沢栄一は、1963年(昭和38年)発行の1,000円札の最終候補にも挙がっていましたが、そのときは残念ながら「伊藤博文」に先を越されてしまいました。今回は、渋沢栄一の他に、新紙幣に登場する北里柴三郎、津田梅子の2人についてご紹介しましょう。
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こちらでは、「実業界の父」で「論語と算盤」の著者である渋沢栄一の幅広い情報をご紹介。渋沢栄一の生涯を紐解くとともに、かかわりある歴史上の人物、現代でも見られる功績などを解説しています。
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