渋沢栄一とは、東京都北区を拠点に近代日本の経済発展に深く貢献した人物です。「実業界の父」「日本資本主義の父」などと呼ばれる渋沢栄一は、日本で初めての銀行を作るとともに、数々の会社や大学の設立にもかかわるなど様々な功績を残していて、ノーベル賞(平和賞)の候補にもなりました。また数々の名言や有名な本「論語と算盤」も残しています。その栄光は子孫にも受け継がれており、家系図を見ると幅広い才能を持つ方々が活躍しているのです。
こちらでは、渋沢栄一に関連する人物、現代にも生きている渋沢栄一の功績・教えをまとめました。渋沢栄一とはどんな人なのか、その生涯を詳しく解説します。

渋沢栄一とは

「実業界の父」、「日本資本主義の父」とも呼ばれる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)。ドラマや新札で話題の渋沢栄一とは、どんな人なのでしょうか。渋沢栄一は日本初の銀行を設立しただけでなく、様々な種類の会社設立にも携わった人物です。東京都北区を拠点に近代日本の経済を支え、明治財界のリーダーとして名を馳せていました。その人生は農民の生まれから尊王攘夷の運動家、江戸幕府の幕臣、明治政府の官僚、財界を牽引する実業家と、躍進を遂げているのです。渋沢栄一はどんな人物だったのか、そのルーツから晩年までを詳しくご紹介。さらに関連する人物、名言や家系図・子孫、ゆかりの学校・大学、執筆した本なども解説していますので、渋沢栄一についての幅広い知識が身に付きます。

目次

身分制度への怒り

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と言えば、日本に初めて銀行や株式会社を作り、近代日本経済の発展に尽力した人物です。「実業界の父」と呼ばれた渋沢栄一の誕生から青年時代までを振り返り、渋沢栄一が体験した、身分の違いによる不当な扱いへの怒りを原動力に、商売人としての道を歩んでいく渋沢栄一のルーツを見ていきます。

若くして商売人の才能が開花

豪農の家に生まれる
渋沢栄一の生家(中の家)

渋沢栄一の生家(中の家)

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、1840年(天保11年)2月13日に、武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくにはんざわごおりちあらいじまむら:現在の埼玉県深谷市)で誕生しました。

農業と製藍業、養蚕業をかね営む父「渋沢市郎右衛門」(しぶさわいちろうえもん)と母「栄」(えい)の長男として生まれ、幼名は「市三郎」(いちさぶろう)と名付けられています。

渋沢栄一の生家は「中の家」(なかんち)と呼ばれた渋沢家支流のひとつで、当主は代々「市郎右衛門」と称しました。

渋沢家に婿養子として来た父・市郎右衛門は、真面目な勤勉家であったと評されており、農業や製藍業、養蚕業で生計を立てながら、村の人々に金貸しも行なっていたと言います。

こうして、渋沢栄一は農業や工業、商業、そして金融を兼業する父の背中を見ながら、成長していきました。

学問を好んだ少年期

渋沢栄一は、6歳になると母の名前を取って「栄治郎/栄二郎」(えいじろう)と呼ばれるように。この頃、渋沢栄一は、中国の古典に通じていた父から、学問を教わるようになり、幼くして漢籍(中国の書物)の素読を始めます。

渋沢栄一は、小さな頃から読書好きで、何ごとにも意欲的に取り組む性格でした。そのため、6歳から7歳のたった1年間で、孝経(こうきょう:孔子の言動を記した中国の経書)や、特に重要な経典(けいてん:賢人や聖人などの教えが記された書)とされていた「四書」(ししょ)の中から、「論語」や「大学」、「中庸」(ちゅうよう)といった、中国の歴史書や思想書を数多く学んでいたと言われています。幼い頃から渋沢栄一は、少年期に見られる好奇心に加え、これらの学問を通じて、ひと際優れた記憶力を養っていたのです。

尾高惇忠

尾高惇忠

また、渋沢栄一は7歳の頃に、隣村で私塾を開いていた従兄「尾高惇忠」(おだかあつただ/おだかじゅんちゅう)のもとへ通い、中国古典だけでなく、「国史略」(こくしりゃく:江戸時代後期の歴史書)や「日本外史」(にほんがいし:武家の歴史書)なども学び始めました。

尾高惇忠も、幼い頃から学問に秀でていた人物で、17歳で「尾高塾」を開き、多くの子弟に学問を教えていたと言われています。

このように、少年時代の渋沢栄一は、学問好きな父や博識な従兄・尾高惇忠のもとで、知性を磨いていきました。

14歳で商売に目覚める
藍の葉

藍の葉

渋沢家が行なっていた家業のひとつである製藍業は、着物などの染料に使われる藍の葉を育てて販売する仕事です。

渋沢家では、摘み取った藍を乾燥させたあとに、寝かせて固形化した「藍玉」(あいだま)の製造も行なっていました。

渋沢家で作られていた藍玉は、直径約6寸(約18cm)あったと伝えられています。

また、自分の土地で藍を栽培するだけでなく、農家が育てている高品質な藍を買い取って藍玉を製造することでも、利益を得ており、渋沢栄一の父・渋沢市郎右衛門は、藍の目利き名人と言われるほどの人物だったのです。

そんななか、学問や読書に夢中になっていた少年・渋沢栄一に、ある転機が訪れます。渋沢栄一が14歳のとき、不在の父に代わって初めて藍の葉の買い付けを任されることになったのです。このとき、農家の人々は、ひとりで買い付けに訪れた少年・渋沢栄一を見て、呆れた様子で相手にはしませんでした。しかし、渋沢栄一は大量に摘まれた藍の葉を前に、見事な選別能力を発揮し、農家の人々を驚かせたのです。

こうして、人生初の買い付けにおいて、立派に成功を収めた渋沢栄一は、商売の楽しさを実感することとなりました。この逸話からも、渋沢栄一が、少年時代からすでに商売人としての才覚を持っていたことが分かります。渋沢家の跡を継ぐであろう息子の成長に、父・渋沢市郎右衛門も、非常に喜んでいたと言われているのです。

青年・渋沢栄一が抱いた疑問と反抗心

理不尽な御用金要求で生まれた思い

黒船来航で世間が混乱を迎えるなか、1856年(安政3年)、17歳の渋沢栄一は、自身の思想を形作るできごとに遭遇します。

渋沢栄一は父に代わり、武蔵国・岡部藩(現在の埼玉県深谷市)の藩庁である岡部陣屋に呼ばれ、御用金(ごようきん:幕府や藩が財政難を補うため、臨時に商人などに課した借用金)を課されました。このとき、理不尽な要求を命じる代官の傲慢な態度に、疑問を抱いた渋沢栄一は、その場で即答せずに「風邪の父に相談してから返答します」と答えたのです。代官の命令は絶対に拒否できない風習であった当時からすれば、青年の渋沢栄一ができるせめてもの反抗だったと言えます。

青年・渋沢栄一の思わぬ態度に腹を立てた代官は、農民の身分を侮辱するような言葉を投げかけました。すると渋沢栄一は、「学問を修めて商売を頑張っても、農民というだけでこんな目に遭わなければいけないのか」と怒りで胸がいっぱいに。

父に導かれながら、商売人としての誇りを持ち始めていた渋沢栄一は、この御用金の要求で初めて権力による圧制を感じ、身分制度に強く反感を抱くこととなりました。渋沢栄一は、このときに感じた悔しさを、生涯忘れることはなかったと言います。

1858年(安政5年)には、本名を「栄一」と改め、同年12月には、学問の師である尾高惇忠の妹「尾高千代」(おだかちよ)と結婚。生涯の伴侶を得た渋沢栄一は、父と共に家業に勤しみながら、変わらず読書を好み、ときに江戸へ出て多くの詩文を作っていました。

また、剣術にも励み、多くの志士との交流も大切にするなど、公私共に充実した青年時代を送りながらも、幕末の混乱のなか、身分制度に対する反抗心を抱き続けていたのです。

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尊王攘夷の影響

幼少期から学問を好み、14歳で商売人としての才能を開花させた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、20歳頃から、家業の傍ら(かたわら)、度々江戸へ赴くようになります。江戸で学問と剣術を磨きながら、様々な志士と交流していくなかで、青年・渋沢栄一は、「尊王攘夷」と称される思想と出会うことに。これにより、胸の内に秘めた世の中への不満や怒りに火を付けた渋沢栄一は、どのような行動に出るのでしょうか。

青年期に訪れたターニングポイント

ペリー来航

ペリー来航

1853年(嘉永6年)の黒船来航をきっかけに、日本の鎖国体制は崩壊。

1858年(安政5年)に、江戸幕府と米国の間で「日米修好通商条約」が締結されました。

そして、5つの港が開港されると、日本経済は自由貿易によって混乱に陥ることとなったのです。

江戸幕府への不信感を募らせた民衆のなかには、天皇を尊ぶ「尊王論」(そんのうろん)を唱える者が増え、この思想に外国との貿易に反対する排外思想の「攘夷論」(じょういろん)と結び付き、いわゆる「尊王攘夷」の思想が、過激化することとなりました。

このような幕末の動乱期を迎えた1861年(万延2年/文久元年)、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、農閑期を利用し、江戸に出て儒学者「海保漁村」(かいほぎょそん)の門を叩きます。同時期に渋沢栄一は、剣士として名高い「千葉栄次郎」(ちばえいじろう)の道場へも入門。2ヵ月間江戸に滞在して、学問と剣術を学びました。

1862年(文久2年)の2月に、長男「渋沢市太郎」(しぶさわいちたろう)が誕生しましたが、当時流行していた麻疹にかかり、夭逝(ようせい:若い年齢で亡くなること)してしまいますが、翌年1863年(文久3年)8月には長女「渋沢歌子」(しぶさわうたこ)が生まれています。

1863年(文久3年)、尊王攘夷運動が過熱化するなかで、渋沢栄一は再度江戸へ訪れました。家業に専念するよう忠告する父を説得し、渋沢栄一は、海保漁村の私塾と千葉栄次郎の道場へ再び足を運び、今度は4ヵ月間に亘って江戸に滞在。

このときの渋沢栄一が、一番欲していたのは、尊王攘夷について語り合う仲間だったのです。塾と道場で出会った同志達と共に、世の風潮を語り合ううちに、渋沢栄一は、次第に尊王攘夷の思想に深く傾倒していきました。

帰郷後、学問の師である従兄「尾高惇忠」(おだかあつただ/おだかじゅんちゅう)や、幼馴染の従兄「渋沢喜作」(しぶさわきさく)とも尊王攘夷について議論し合い、ついに渋沢栄一は、農民としての人生を捨てて、国のために行動を起こす覚悟を決めるのです。

仲間と焼き討ち計画を謀る

高崎城

高崎城

1863年(文久3年)8月、渋沢栄一は従兄達と仲間を集め、外国人が多く暮らしている横浜港に火を放つ、焼き討ち計画を企てます。

銃器を持たない70名ほどの兵力で実行するためには、念入りな計画を立てなければなりません。

そこで渋沢栄一らは、まず要衝である「高崎城」(群馬県高崎市)を攻略して本拠を置き、同志を募って武器を集めることを考えました。兵力を高めたあとで鎌倉街道を通って横浜に出陣し、横浜港近くの「異人館」に火を放って、外国人を殺害するという計画を立てたのです。

実行の決意を固めた渋沢栄一は、国に殉ずる覚悟を決めたため、家督を継がないことを父に打ち明けます。そして仲間と共に、焼き討ち計画の作戦会議を夜通し行ない、挙兵準備を進めていました。

その頃京都では、過激化する尊王攘夷運動の中心に立ち、政局に影響を与えていた長州藩(現在の山口県)が、会津藩(現在の福島県)と結託した薩摩藩(現在の鹿児島県)から追われる事態に。長州藩の過激派と朝廷を引き離すために、京都では政変が勃発していたのです。

計画を断念して京都へ逃亡

尾高長七郎

尾高長七郎

焼き討ち計画実行目前の渋沢栄一らは、京都に滞在している尾高淳忠の弟「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)の帰郷を促します。

ところが、1863年(文久3年)10月、帰郷した尾高長七郎は、攘夷運動に燃える仲間達に計画の中止を訴えたのです。

尾高長七郎から、京都では攘夷派が劣勢であることを聞き、計画を中止するよう強く説得を受けた渋沢栄一らは、仲間との議論の末、焼き討ち計画を断念することに。

ひと晩中、尾高長七郎より京都の情勢を聞いた渋沢栄一らは、自分達の焼き討ち計画が、いかに無謀な作戦であったかを思い知ることとなりました。血気盛んな青年達の野望は一夜にして崩れ去り、それまで順風満帆な生活を送ってきた渋沢栄一は、初めて挫折を味わうこととなったのです。

侍時代の渋沢栄一

侍時代の渋沢栄一

計画を中止した翌月、嫌疑をかけられたことで家族に迷惑を及ぼすことを恐れた渋沢栄一は、従兄の渋沢喜作と共に江戸へ逃亡。

以前、江戸で遊学していた際に、親交を深めていた「一橋家」(ひとつばしけ)の家臣「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)を頼り、家来のふりをして京都へ渡ります。

渋沢栄一と渋沢喜作は、逃亡先の京都で志士と交流を図っていましたが、すでに攘夷派が後退していた京都では、2人が思い描いていたような活動はできない状況にありました。さらには、渋沢栄一らが焼き討ち計画を記した手紙を持っていた尾高長七郎が、罪人として捕らえられてしまったのです。

こうして、渋沢栄一と渋沢喜作は、近付く追手を恐れながら、京都で身を隠す日々を送ることとなりました。

日本文化の遅れを実感

開国と共に混乱が巻き起こった幕末期、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は攘夷計画を謀るも、仲間の助言によって志半ばで断念することに。国のために何かできることはないのだろうかと自問する日々を送りながら、計画が露見することを恐れて、従兄の「渋沢喜作」(しぶさわきさく)と一緒に、京都に潜伏していました。そんななかで、渋沢栄一の人生を左右する運命のできことが起こるのです。果たしてそのできごととは何であったのか、渋沢栄一が幕臣となり、近代日本の礎を築くきっかけとなったヨーロッパ視察までの歴史を追いながら、紐解いていきます。

江戸の友人が差し伸べた救いの手

1864年(文久4年/元治元年)2月、京都に亡命していた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と「渋沢喜作」(しぶさわきさく)のもとに、江戸滞在時に交流のあった「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)から、ある誘いが舞い込みます。

それは、平岡円四郎が仕える「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの徳川慶喜)の仕官に、2人を推挙するという提案でした。

倒幕運動をしようとしていた人間が、徳川御三卿(とくがわごさんきょう)のひとつである、「一橋家」に仕えるなどあって良いことなのか、渋沢栄一と渋沢喜作は、思いも寄らない提案に戸惑いますが、このチャンスを逃したら未来はないと悟った渋沢栄一は、渋沢喜作を説得し、一橋家へ仕官することを決断したのです。

侍時代の渋沢栄一

侍時代の渋沢栄一

1865年(元治2年/慶応元年)、江戸へ渡った渋沢栄一は、一橋家での真面目な働きぶりが評価され、一橋領を巡回する歩兵集めの役を任せられることに。

持ち前の社交性と家業で鍛えた審美眼を活かし、様々な役割を兼任して上司からの信頼を得ていきました。

そして、渋沢栄一は、一橋家の財政を管理する「勘定組頭」(かんじょうくみがしら)に就くと、領内の産業振興に尽力し、一橋家の財政再建の一翼を担うのです。

15代将軍に仕える幕臣へ

1866年(慶応2年)7月、一橋家の家臣として躍進していた渋沢栄一に、再び転機が訪れます。

江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)の死去に伴い、御三卿のひとつ、一橋家に属していた一橋慶喜が、徳川将軍家の跡を継ぎ、15代将軍・徳川慶喜となることに。

こうして、主君の将軍即位と共に、渋沢栄一は徳川家の家臣として人生を歩み始めることとなりました。

しかし、この頃には、薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)の間で「薩長同盟」(さっちょうどうめい)が結ばれ、長州征伐においても、幕府軍は劣勢を強いられることに。こうした戦況のなかで、徳川家の先行きを憂いていた渋沢栄一は、主君の即位を喜ぶことができなかったのです。

同年8月、将軍・徳川慶喜と共に長州へ出征するため、渋沢栄一も従軍を命じられます。そして、江戸幕府の役職である「陸軍奉行支配調役」(りくぐんぶぎょうしはいしらべやく)に任命されたことで、渋沢栄一は、幕臣(ばくしん:御家人や旗本といった、将軍直属の家臣)に転じます。

さらに、渋沢栄一は京都で新選組の「近藤勇」や「土方歳三」と協力して、謀反の疑いがあった幕臣を逮捕したことで、武勇においても評価されることとなりました。

幕臣としてヨーロッパへ随行

渋沢栄一は幕臣となった直後、パリ万国博覧会の幕府使節に選ばれ、将軍・徳川慶喜の弟である「徳川昭武」(とくがわあきたけ)に随行し、フランスへ渡航することが決まります。

徳川家と自身の未来を不安に思っていた渋沢栄一にとって、海外への留学という、またとないチャンスが舞い込んできたのです。

そして、この任務は、渋沢栄一の未来だけでなく、近代日本の未来にもかかわる、重要なターニングポイントでした。

1867年(慶応3年)1月11日、徳川昭武一行29人の幕府使節を乗せたフランス商船「アルフィー号」が、横浜港を出港。同年3月にパリに到着した徳川昭武は、フランス皇帝「ナポレオン3世」に謁見しました。

同年5月にパリ万国博覧会を視察したあと、渋沢栄一は、徳川昭武に随行してスイスやオランダ、ベルギーなどを訪問。このとき、渋沢栄一に語学を教えてくれたのが、鎖国時代に日本で医学を教えていたドイツの学者「シーボルト」の長男「アレクサンダー」でした。

アレクサンダーと渋沢栄一はこの出会いをきっかけに、そののち、日本でも交友関係が続いていくこととなります。かつて、外国人排除を望む攘夷派だった渋沢栄一は、このヨーロッパ留学で考え方を大きく変えることとなるのです。

ヨーロッパ留学で学んだ資本主義の仕組み

蒸気機関車

蒸気機関車

ヨーロッパの各地を周りながら、渋沢栄一は外国の先進的な科学技術を目の当たりにします。

整備された水道設備や、蒸気機関車、エレベーターなど、どこを見ても日本にはない物ばかり。

そして、これらで形成されているヨーロッパの社会に比べて、日本社会が遅れていることを実感したのです。

しかし渋沢栄一は、ここで悲観したわけではありません。ヨーロッパの優れたところを持ち帰り、この知識を応用すれば、日本も追い付けるはずだと考えたのです。こうして渋沢栄一は、ヨーロッパ留学中に、どんな些細なことでも詳しい記録を残すことを心に決め、記録係としての仕事に没頭しました。

ヨーロッパで様々な体験をした渋沢栄一は、銀行や株式会社の仕組みに、特に心を打たれます。多くの人々から集めた資金で事業を行ない、利益を分け合う資本主義に感銘を受けたのです。この仕組みを教えてくれたのが、パリ滞在中に経理などの相談役を担ってくれていた、銀行家の「フリュリ・エラール」でした。

渋沢栄一が、フランス経済はどのように回っているのか疑問を抱いていたところ、フリュリ・エラールは、どんな質問にも一から丁寧に答えて解説したと言います。渋沢栄一を実際に銀行や証券会社などに招き入れ、実務の見学もさせてくれたのでした。

そして、経済の仕組みを学びながら、渋沢栄一は驚くべき発見をします。銀行家であるフリュリ・エラールが、徳川昭武に随行していたフランス陸軍大佐の「レオポルド・ヴィレット」と、対等な関係で交際していることに気が付いたのです。これは、日本に置き換えてみると、商人が武士に対して堂々と物言いできるということ。当時の日本ではあり得ない光景でした。

渋沢栄一はこの体験をもとに、士農工商のあり方を見つめ直す一方で、帰国後すぐに、資本主義経済の構築を進めていこうと決めたのです。

日本経済の発展を牽引

主君である「徳川慶喜」の将軍即位に伴い、幕臣となった「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)。江戸幕府使節団のひとりとしてフランスへ渡り、1年7ヵ月に及ぶ欧州留学を経験します。外国の先進的な産業や経済活動に刺激を受け、渋沢栄一は日本で自分のやるべきことが、何であるのかを掴むことができました。しかし、フランスで仕事に情熱を燃やす渋沢栄一に、日本から衝撃的なニュースが飛び込んでくることに。長期間に亘る欧州留学を終えた渋沢栄一が、帰国後、日本で行なった事業や新政府での経済政策を中心に振り返っていきます。

新しい国づくりの中核を担うリーダーへ

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」の弟「徳川昭武」(とくがわあきたけ)率いる幕府使節団の一員として、「パリ万国博覧会」に出席したあと、ヨーロッパ各国を視察していました。

日本を出国してから1年が経った1868年(慶応4年/明治元年)1月、渋沢栄一らは、フランスの新聞記事に掲載されていた、「将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ない、幕府が瓦解[がかい:ある小さな破れ目や乱れが広がって、組織全体が破壊されること]した」という衝撃的なニュースを目にします。愕然とした徳川昭武や使節一行は、そんなことは起こり得ないと信じていなかったのです。

しかし渋沢栄一は、幕臣になる以前の京都滞在時に、倒幕を目論んでいた長州藩(現在の山口県)や薩摩藩(現在の鹿児島県)が、強大な勢力となっていることを知っていたため、「ついに倒幕派が動き出す時が来たのだ」と確信したのです。渋沢栄一は、遠く離れた地で知った祖国の政変に驚きつつ、誰よりも冷静に事態を受け止めようとしていました。

帰国後、静岡で事業を設立

1868年(慶応4年/明治元年)3月、朝廷から帰国を命じられた渋沢栄一は、自分達が急いで帰国したところで、日本の状況は変わらないと判断します。そして、徳川昭武のフランス留学を延長すると共に、渋沢栄一自身もしばらくフランスに留まり、視察を続けることを決めています。

帰国を命じられてから半年後の1868年(慶応4年/明治元年)9月4日、フランスのマルセイユを出港した一行は、11月3日に横浜港に到着。渋沢栄一は、翌月の1日に、故郷である武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくにはんざわぐんちあらいじまむら:現在の埼玉県深谷市)へ帰っています。この帰郷は、1863年(文久3年)に京都へ出てから、実に6年ぶりのことでした。

徳川慶喜謹慎の地(宝台院)

徳川慶喜謹慎の地(宝台院)

公私の用務整理を終えた渋沢栄一は、今後の人生を旧主・徳川慶喜のもとで送ることを決意。

明治新政府の設立に伴い、「宝台院」(ほうだいいん:静岡市葵区)で謹慎していた旧主・徳川慶喜のもとへ向かいます。

そして、徳川慶喜に留学の報告を済ませた渋沢栄一は、フランスで学んだことを活かすために、静岡で事業を始めることにしたのです。

1869年(明治2年)、静岡藩の資金と地元豪商から募った出資により、宝台院近くに「商法会所」(しょうほうかいしょ)を設立。渋沢栄一は、フランスで見た銀行を手本に、農家に資金を貸し出す金融業と、米や肥料などの売買をする商社をかね備えた、新しい事業を始めます。

また、地域の農業振興にも注力していた渋沢栄一は、これから徳川慶喜と静岡藩のために一生懸命働こうと考えていたのです。

大隈重信からの熱心な勧誘で新政府へ出仕

1869年(明治2年)3月、渋沢栄一は妻子を静岡に呼び寄せ、商法会所の頭取として経営を指揮していました。ところが、明治新政府から民部省(みんぶしょう)への出仕要請を受け、渋沢栄一は同年10月に、東京へ赴くことに。このとき、静岡で事業を成功させるために邁進していた渋沢栄一は、新政府からの要請を辞退するつもりでした。かつて幕臣だった自分を、新政府で働かせることなどあるだろうかと、渋沢栄一は東京へ向かいながら疑念を抱いていたのです。

そんな渋沢栄一の思いとは裏腹に、新政府で実権を握っていた「大隈重信」(おおくましげのぶ)より、大蔵省(現在の財務省)への入省を強く勧められます。

大隈重信に説得された渋沢栄一は、静岡に心を残しつつも、事実上大蔵省と統一されていた民部省において、「租税正」(そぜいのかみ)の役職に就くことになりました。

そして渋沢栄一は、混沌としていた民部省内をどうにかしないといけないと、大隈重信に進言。この渋沢栄一の組織改編の提案によって、各部署から人員を集めた「改正掛」(かいせいがかり)が設けられることに。このとき大隈重信は、立案者である渋沢栄一を改正掛のリーダーに任命しています。当時29歳だった渋沢栄一は、まだ若手にもかかわらず、大役を任されることとなったのです。

当初は、渋沢栄一を中心とする組織改編に不満を抱く者もいましたが、渋沢栄一の熱心な仕事ぶりに感化され、省内は次第にまとまりを見せていったと言われています。こうして渋沢栄一は、租税正と改正掛長を兼任しながら、税制改革の企画立案などを行なっていくのです。

大蔵官僚として躍進

大蔵省時代の渋沢栄一

大蔵省時代の渋沢栄一

入省後の渋沢栄一は、税制改革に携わるだけでなく、革新的な制度をいくつも打ち出しました。

1870年(明治3年)3月には、租税や土地制度などを確立するために、長さや体積、重さを示す「度量衡」(どりょうこう)の単位基準を定めることを提案。

さらに同年5月には、郵便制度の土台となる事業を立案するなど、新しい日本の基盤づくりを懸命に取り組んでいったのです。

また渋沢栄一は、1871年(明治4年)、大隈重信と共に貨幣制度の整備に取り掛かります。こうして「円」が新たな単位として定められ、「新貨条例」が公布されました。これに伴い渋沢栄一は、紙幣の製造から発行までを管理する「紙幣寮」(しへいりょう)のトップに就任することに。そののち、「廃藩置県」など次々と新たな改革に携わっていた渋沢栄一は、入省からわずか2年で様々な要職を兼任することとなったのです。

渋沢栄一は、このように多くの案件にかかわりながら、「大蔵大丞」(おおくらだいじょう)に昇進します。しかし、政府で仕事をしながらも、民間事業の発展を思い描き続けていました。

そんななか、政府では、予算を取り仕切る大蔵省と経費増額を要求する各省の間で対立が起こり始めます。大蔵官僚としてこの問題を解決しようとしていた渋沢栄一ですが、予算編成を巡り、大蔵省事務総裁参議であった大隈重信や、太政大臣「三条実美」(さんじょうさねとみ)との対立が激化することに。

この対立をきっかけに、1873年(明治6年)5月に大蔵大輔(おおくらたゆう/おおくらたいふ:大蔵省の次官)「井上馨」(いのうえかおる)が辞表を提出。渋沢栄一もこれに続き、大蔵省を退官することとなりました。大蔵官僚まで昇りつめた渋沢栄一ですが、辞職する際には政府に未練はなかったと言われています。このときの渋沢栄一は、民間事業を通して、一刻も早く商業の発展に携わりたいと考えていたのです。

銀行の父

明治政府内での対立をきっかけに、大蔵省(現在の財務省)を退官することとなった「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、念願の実業界での仕事に挑戦していきます。渋沢栄一が民間人として最初に取り掛かったのは、日本で初めての銀行を設立することでした。これは、大蔵省にいた頃から基盤を作ってきた事業であり、銀行経営は渋沢栄一にとって、フランス留学時代からの夢でもあったのです。新しい日本の社会と未来のために、渋沢栄一が実業界に身を置いて、銀行経営を支えた時代を見ていきます。

日本初の銀行を設立!未来のための会社づくり

1871年(明治4年)、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は明治政府で要職を兼任しながら、民間に会社制度を普及させるため、自ら執筆した「立会略則」(りっかいりゃくそく)を大蔵省(現在の財務省)から刊行しました。

渋沢栄一は、この冊子に民間事業を通じて国を豊かにする思いを記し、商業を発展させることが社会全体の利益へ繋がることを説いたのです。

こうして、渋沢栄一が社会に「合本組織」(がっぽんそしき:現在の株式会社)による経営制度の導入を推進したことで、民間において、会社設立の気運が高まっていったのです。

こうした背景のなか、明治政府の大蔵省御用達であった豪商「三井高福」(みついたかよし)と「小野善助」(おのぜんすけ)が、有力な資本家として台頭します。それぞれ「三井組」、「小野組」と呼ばれ、当時の国庫出納機関である「為替方」(かわせかた)も務めていました。そして渋沢栄一は、2人の仕事ぶりを見て、彼らなら自分が思い描く銀行を経営できるのではないかと考えたのです。

そこで渋沢栄一は、大蔵大輔(おおくらたゆう/おおくらたいふ:現在の財務省事務次官)の「井上馨」(いのうえかおる)と共に、設立準備の計画を立て、井上邸へ三井高福と小野善助を呼び出します。

このとき、渋沢栄一は2人に対して、三井組と小野組が合本組織となって、銀行を設立するように話を持ち掛けましたが、三井組と小野組は、以前から競争相手として敵対していたため、両組をまとめて経営の指南することは簡単なことではありません。しかし渋沢栄一は、利益を独占しようとする三井組と小野組に、合本主義の重要性を説き、懸命に説得を続けたのです。

第一国立銀行の総監役から頭取へ

第一国立銀行跡(銀行発祥の地)

第一国立銀行跡(銀行発祥の地)

1872年(明治5年)8月、渋沢栄一は、三井組と小野組を説得するために、「三井小野組合銀行」の組織を編制し、為替方の仕事を移行させます。こうして両組は渋沢栄一の説得の末、共同経営で銀行を設立することを決定。

1872年(明治5年)11月、明治政府は渋沢栄一が立案した「国立銀行条例」を発布。そののち、1873年(明治6年)6月に三井小野組合銀行は政府の許可を受けて、「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)と改組し、日本で最初の国立銀行として設立されたのです。

渋沢栄一は、第一国立銀行が設立される前月に大蔵省を退官します。そして銀行設立と共に、三井組と小野組の役員を指揮する総監役に就任。両組から集めた従業員をひとつにまとめるため、引き続き指導に当たりました。

第一国立銀行は、大蔵省主導のもと発起した国立銀行ですが、資本家によって経営されている民間銀行であり、日本初の株式会社です。この株式会社の営業の仕組みを作り、その経営を安定させることは、民間人となった渋沢栄一が手掛ける初の大仕事でした。

そして渋沢栄一は、第一国立銀行の経営を軌道に乗せることが、これからの日本における、経済成長への第一歩だと確信していたのです。渋沢栄一は、この間にも銀行だけでなく養蚕業や製茶業、土木事業、そして小野組と行なっていた貿易業務など、多くの事業に携わっていました。

そんななか、1874年(明治7年)11月に三井組と共に、第一国立銀行の経営を支えてきた小野組が倒産してしまいます。渋沢栄一は、事態の収束に奔走しながら、1875年(明治8年)8月に第一国立銀行の取締役となり、さらには取締役会議によって頭取への就任が決まったのです。

数々の銀行設立を支援

渋沢栄一は頭取就任後、第一国立銀行の利益を上げるために役員を減らして、月給や経費を減額するなど様々な経営改革を行ないます。そして民間銀行の経営基盤を築きつつ、東北地方に支店を開くなど、地方における銀行経営も開拓していきました。

1876年(明治9年)10月、国立銀行条例改正に伴い、金禄公債(きんろくこうさい:政府が華族や士族に交付した公債)での銀行設立が可能になると、各地で国立銀行の経営志望者が増加します。

渋沢栄一は、頭取として第一国立銀行の経営に携わりながら、このような志望者による、新たな国立銀行の開業支援にも積極的にかかわっていきました。経営者達に、書簡や面会で経営方法を指南するだけでなく、第一国立銀行での実務研修なども取り入れて、日本の未来を担う経営者を育てていたと言われています。また渋沢栄一は、地方に根付いた銀行を設立することで、地方の発展にも繋げたいと考えていたのです。

1876年(明治9年)12月、渋沢栄一から経営指導を受けた豪商「中尾喜平」(なかおきへい)が、大分県に「第二十三国立銀行」(現在の大分銀行:大分県大分市)を開業。これに続き、長野県の「第十九国立銀行」(現在の八十二銀行:長野県長野市)、青森県弘前の「第五十九国立銀行」(現在の青森銀行:青森県青森市)、岐阜県の「第十六国立銀行」(現在の十六銀行:岐阜県岐阜市)など、渋沢栄一は地方における多くの国立銀行の開業に携わっていきました。

1878年(明治11年)12月には、仙台から経営指南を受けに訪れた「河田安照」と「渡邊幸兵衛」(わたなべこうべえ)によって、宮城県仙台に「第七十七銀行」(現在の七十七銀行)が開業され、渋沢栄一は、設立資金として30,000円(現在の金額で約1億5,000万円)を出資して大株主に。東北地方の開発に力を入れていた渋沢栄一にとって、仙台での銀行開業は自身の夢でもあったことから、開業時に手厚い支援をしたと言われています。

このように、明治時代前期に各地で国立銀行が設立された背景には、渋沢栄一と第一国立銀行による会社組織を越えた丁寧な指導と支援があったのです。このとき、渋沢栄一が考えていたことは、目先の利益ではなく、日本全国に国立銀行を発展させ、国民全体を豊かにするための利益を生み出すことでした。

こうして渋沢栄一は、銀行設立を中心に日本の実業界を支え、さらなる日本経済の発展のために、新たな事業に挑戦していくこととなります。

実業界の父

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、大蔵省(現在の財務省)を退官後、幕臣時代にフランス留学で学んだ会社経営術をもとに、日本初の銀行経営を軌道に乗せ、実業家の道を順調に歩み始めました。銀行頭取を務めながら、起業家や若手経営者に「合本主義」(がっぽんしゅぎ)を唱え、多くの事業を支援していくことに。こうして、近代日本の経済を支えた渋沢栄一は、「実業界の父」と呼ばれる存在になっていきました。私益を求めず、公益を追求し続けた渋沢栄一が最期に辿り着いた場所はどこなのか、携わってきた事業と共に、晩年まで行なっていた活動について振り返ります。

実業家として日本経済の発展に尽くす

渋沢栄一

渋沢栄一

1873年(明治6年)2月、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、豪商の「三井組」や「小野組」、「島田組」と共同出資をして、製紙業を営む「抄紙会社」(しょうしがいしゃ)現在の「王子製紙株式会社」(東京都中央区)を設立します。

製紙業は、銀行と共に渋沢栄一が携わった最初の事業。それまで紙は輸入に頼っていましたが、上質で安価な紙の製造のために国産化することは、日本経済の成長にとって重要な課題でした。

そして、抄紙会社の設立から3ヵ月後、渋沢栄一は大蔵省(現在の財務省)を退官し、銀行経営のかじ取りを行ないながら、抄紙会社の工場建設にも挑み始めたのです。

1875年(明治8年)6月、東京府下王子村(現在の東京都北区)に抄紙会社の工場が完成。ヨーロッパから最新機械を導入し、機械技師「フランク・チースメン」と製紙技師「トーマス・ボトムレー」を雇い入れました。

しかし、何もかもが日本初の試みだったため、外国人技師や最新機械を導入しても、工場を稼働させることは容易ではなかったのです。赤字続きの工場に頭を悩ませながらも、渋沢栄一は諦めることなく、従業員を叱咤激励し続けたと言われています。そして、工場開設から約2年経った頃、渋沢栄一の熱心な指導の甲斐があって、事業は軌道に乗り始めました。

そののち、渋沢栄一は紡績業にも携わります。1882年(明治15年)5月、渋沢栄一は、大阪財界の重鎮「藤田伝三郎」(ふじたでんざぶろう)らと共に出資して、日本初の民間経営による紡績会社「大阪紡績会社」現在の「東洋紡株式会社」(大阪市北区)を設立。

紡績業は江戸時代から行なわれていたものの、日本の綿製品は欧米で大量生産される安価な輸入品に勝つことができません。そこで渋沢栄一は、大坂紡績会社初代社長の「山辺丈夫」(やまのべたけお)をイギリスに派遣し、コストを抑えて大量生産する方法を調査させたのです。

1883年(明治16年)7月、大阪紡績会社の工場を完成させると、安価な中国製綿花の導入や夜間操業などを行ない、事業を軌道に乗せたのです。こうした渋沢栄一の知略によって、日本の紡績業は輸出が輸入を上回るまでに、成長を遂げていくこととなります。

事業で得た財産を社会貢献活動に

そののちも渋沢栄一は、日本の近代化を進めるため国内初事業の設立に、積極的に携わっていきました。1887年(明治20年)に、日本初の機械式レンガ工場を持つ「日本煉瓦製造会社」や、日本初の化学肥料製造会社である「東京人造肥料会社」現在の「日産化学株式会社」(東京都千代田区)、日本初のビール醸造所を備えた「札幌麦酒会社」現在の「サッポロビール株式会社」(東京都渋谷区)を設立。

そして、1890年(明治23年)には、外国人を接待するために「帝国ホテル」(東京都千代田区)を開業しました。このように渋沢栄一は、多岐に亘る事業の設立に携わり、その数は生涯で500社を超えると言われています。こうして、明治財界のリーダーとして名声を手にした渋沢栄一ですが、事業の成功で得た財産には興味がありませんでした。

1909年(明治42年)、70歳を迎えた渋沢栄一は、金融業以外の60社もの事業・団体の役職をすべて辞任することに。さらに、1916年(大正5年)には、創設から長年携わってきた「第一銀行」現在の「みずほ銀行」(東京都千代田区)の頭取も辞め、喜寿(きじゅ:77歳)を機に、実業界から引退しました。これ以降、渋沢栄一は、社会貢献活動に尽力していくこととなります。

東京都健康長寿医療センター

東京都健康長寿医療センター

そのなかでも、渋沢栄一が特に力を入れていた活動が、東京の「養育院」(よういくいん)現在の「東京都健康長寿医療センター」(東京都板橋区)の運営でした。

養育院は、1872年(明治5年)に、東京の生活困窮者などを支援するために設立された施設。渋沢栄一は、まだ大蔵官僚だった1874年(明治7年)から、養育院の運営に携わり続けていたのです。

そして、渋沢栄一は事業で得た財産を、養育院を通して病人や孤児などの弱者を救済することに活用しています。1890年(明治23年)、養育院の院長に就任した渋沢栄一は、実業界引退後も亡くなるまでその職務を全うしました。

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大往生を遂げ、かつての主君のもとへ

渋沢栄一の社会貢献活動は、福祉以外にも教育や国際交流、復興支援など様々な公共社会事業で行なわれています。その数は、実業界で携わった事業数を超えているほど。1923年(大正12年)に起こった関東大震災では、「大震災善後会」(だいしんさいぜんごかい)の副会長に就き、災害復興に尽力しています。こういったことから渋沢栄一は、実業界のなかでも、最も社会貢献活動に熱心な人物だったと言われているのです。

また、1904年(明治37年)に起こった「日露戦争」後、日米間で国民の対立感情が高まっていたことを危惧していた渋沢栄一は、アメリカ人宣教師の「シドニー・ギューリック」が提唱した「世界の平和は子どもから」というスローガンに共感します。これを受けて、1927年(昭和2年)に渋沢栄一は、「日本国際児童親善会」の会長として日米間での「人形交流」を主催することに。

この人形交流では、ひな祭りを祝う日本の子ども達のもとへ、アメリカの子ども達から「友情の人形」(通称:青い目の人形)が、また日本からも、アメリカへ「日本人形」が贈られました。このように渋沢栄一は、世界平和のために親善活動にも力を入れていたのです。

そして1931年(昭和6年)11月11日、渋沢栄一は、92歳で大往生を遂げました。当時、渋沢栄一が住んでいた、東京都北区飛鳥山の自宅から斎場へ向かう道には、100台もの車が列をなしたと伝えられています。また、沿道には、渋沢栄一を弔うため30,000人もの葬列者が集まりました。

谷中霊園

谷中霊園

埋葬された上野谷中(うえのやなか:現在の東京都台東区)にある渋沢家墓地のすぐ近くには、若き日の渋沢栄一が仕えていた旧主「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の墓所も。

亡くなる前の渋沢栄一は、かつての主君・徳川慶喜に寄り添って眠れることに、安心できたかもしれません。

こうして、「実業界の父」と呼ばれた渋沢栄一は、数えきれないほどの功績と共に、近代日本の歴史に名を残したのです。

渋沢栄一と西郷隆盛の出合い

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が、「西郷隆盛」の人となりに深く触れることになったのは、ある頼みごとをするために、西郷隆盛が渋沢栄一の家を訪ねてきたときです。渋沢栄一はこのときのやり取りから、西郷隆盛のことを「心から尊敬する素晴らしい豪傑である」と称しています。しかし、このやり取りでは当時、大蔵省(現在の財務省)の役人にすぎなかった渋沢栄一が、12歳も年上で、かつ明治新政府の参議(さんぎ:大臣の上の役職)だった西郷隆盛に対して、「もっと国全体のことを考えるべきだ」と諫めていたのです。それにもかかわらず、渋沢栄一は、なぜ西郷隆盛のことを尊敬に値する人物だと評価したのでしょうか。ある頼みごとの内容を含め、渋沢栄一と西郷隆盛はどのような関係であったのかについてもご説明します。

西郷隆盛と明治維新

西郷隆盛

西郷隆盛

薩摩藩(現在の鹿児島県)の出身である「西郷隆盛」は、「大久保利通」(おおくぼとしみち)や、「木戸孝允」(きどたかよし)と共に江戸幕府を倒し、明治維新に尽力した「維新の三傑」(いしんのさんけつ)のひとりです。

この3人のなかでも、西郷隆盛が明治維新の最大の功労者だったというのが、当時の人々の感覚だったと言われています。

現代においても、明治維新が好意的に捉えられているのは、西郷隆盛が、江戸城(現在の東京都千代田区)を無血開城に導いたことが、大きな要因だったと考えられているのです。

明治新政府が樹立されると、西郷隆盛は1871年(明治4年)、参議に就任します。「参議」とは、当時の政府首脳が務めていた役職で、西郷隆盛や木戸孝允、「板垣退助」(いたがきたいすけ)、そして「大隈重信」(おおくましげのぶ)の4名で、その重職を担っていました。西郷隆盛が「ある頼みごと」を抱え、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の家を突然訪ねてきたのは、ちょうど参議の座に就いたこの年のことだったのです。

西郷隆盛の病気と怪我
「西郷隆盛の病気と怪我」をはじめ、戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

素直さをぶつけ合った渋沢栄一と西郷隆盛

1871年(明治4年)当時、渋沢栄一は、長州藩(現在の山口県)出身の「井上馨」(いのうえかおる)のもと、大蔵省(現在の財務省)のナンバー4にあたる「大蔵大丞」(おおくらのだいじょう)の役職を務め、財政改革に取り組んでいました。

西郷隆盛は、その渋沢栄一の勤め先にではなく、渋沢栄一の家までわざわざ訪ねてきたのです。

お偉い参議が一官僚の家を訪ねて来たため、渋沢栄一は非常に驚きます。このとき、西郷隆盛が渋沢栄一に持ちかけた相談は、「興国安民法」(こうこくあんみんほう)のことでした。

興国安民法は、江戸時代末期に関東から南東北の農村復興に尽力した「二宮尊徳」(にのみやそんとく/にのみやたかのり)が、相馬藩(そうまはん:現在の福島県)に提案した財政や産業などに関する施策のこと。これにより相馬藩は繁栄を得ましたが、当時の大蔵省では廃止の議論がなされていました。それを知った相馬藩は廃止を阻止するため、西郷隆盛に頼み込み、その結果、西郷隆盛が渋沢栄一のもとへ相談をしに訪れたのです。

渋沢栄一の著書「論語と算盤」(ろんごとそろばん)には、西郷隆盛が当時、事実上の大蔵省の長官だった井上馨ではなく、一官僚にすぎない渋沢栄一のもとを訪れたのは、おそらく次のような理由だったと記しています。

「今清盛」(いまきよもり)と呼ばれるほどの権勢を振るっていた井上馨の性格では、興国安民法の廃止を阻止する提案は受け付けて貰えずにガミガミと言われ、撥ね付けられて終わり。そこで、直属の部下である渋沢栄一を口説けば、廃止せずに継続できると考えたのではないかと、同書のなかで渋沢栄一が推測しています。興味深いのは、同書に掲載されている興国安眠法を巡る2人のやり取りです。

(西郷隆盛) 「せっかくの良い法を廃止してしまうのも惜しいから、渋沢の取り計らいでこの法が廃止されないように、相馬藩の力になってくれないか」
(渋沢栄一) 「あなたは、二宮尊徳先生の興国安民法が、どのような内容なのかご存じでしょうか」
(西郷隆盛) 「それはまったく知らない」

渋沢栄一の、どんな時の権力者であっても忖度せず、是是非非(ぜぜひひ)の態度による素直な問いかけも見事ですが、その一方で、頼みに来たにもかかわらず、自身はどんな法かもまったく知らないと言い切る西郷隆盛も、ある意味すごいと思わざるを得ません。

渋沢栄一は、「まったく知らない要件のことを、頼みに来るとは分からない話だ」と思いながらも、「知らないのなら仕方ない」と、西郷隆盛に興国安民法の内容について説明。「確かに良い法ではありますが」と前置きしたうえで、「相馬藩は、それで引き続き上手くいくかもしれません。しかし、一国をその双肩[そうけん]に担い、国政の采配を振るう大任にあたっているあなたが、相馬藩一藩のために奔走するだけで、この国の興国安民法をいかにすべきかのお考えがないのは、理解に苦しみます。本末転倒ではないでしょうか。」と熱く語ったのです。

西郷隆盛は、この渋沢栄一の直言(ちょくげん:思っていることをありのまま言うこと)に対して何も言わず、静かに帰っていったと伝えられています。

西郷隆盛の人物像に感嘆した渋沢栄一

論語

論語

渋沢栄一は、この逸話を論語と算盤のなかで紹介したあと、西郷隆盛について、尊敬の念を持って「素晴らしい豪傑である」と称しました。

よく知らないことを頼みに来た西郷隆盛を、滑稽な人物だと評価しなかった理由は、渋沢栄一が経済のことを学び、考えていくうえで、そのバイブルとしていた「論語」の存在がありました。

論語は、春秋時代における中国の学者であり、「儒教」(じゅきょう)の祖でもあった「孔子」(こうし)と、その弟子達の言行を、孫弟子や曾孫弟子らがまとめた書物です。

「日本における資本主義の父」と評され、生涯に約500もの会社を設立し、商工業の発達に尽力した渋沢栄一が、その過程で何より重要視したことが、「現代語訳 論語と算盤」にも書かれています。

「国の富をなす根源は何かと言えば、社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富なのだ。そうでなければ、富は完全に永続することができない。」

「現代語訳 論語と算盤」より

渋沢栄一は、「算盤[経済]は、論語によって支えられる」とする独自の考えを持ち、「論語の教えに基づいて、商売を成功させてみせる」との有言実行を果たしたのです。

また論語のなかには、「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」という言葉があります。これは、簡単に言うと、「知らないことは知らないと自覚する。これが本当の意味での知るということである」という意味。

渋沢栄一は、興国安民法にまつわるできごとを通じて、「明治維新の豪傑のなかで、誰よりも知らないことは知らないと素直に言え、ほんの少しも虚飾のなかった人物が西郷さんだ」と、西郷隆盛のことを心から尊敬したのです。

渋沢栄一と徳川慶喜の出合い

「徳川慶喜」は、江戸幕府最後の将軍です。「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は幕末期に、この徳川慶喜に仕えていました。徳川慶喜に家臣としての忠誠を誓っていた渋沢栄一は、1893年(明治26年)頃に自身で企画し、25年もの月日を費やして編纂(へんさん)した著書「徳川慶喜公伝」のなかで、徳川慶喜を慕っていた理由や、徳川慶喜に対する尊敬の念を綴っていました。2人の関係性や、渋沢栄一が徳川慶喜にどのような思いを抱いていたのかをご説明します。

主君・徳川慶喜への深い忠誠心

徳川慶喜

徳川慶喜

徳川慶喜」は、江戸幕府15代将軍にして、最後の将軍となった人物です。

1837年(天保8年)、「徳川御三家」のひとつ「水戸徳川家」が領していた水戸藩(現在の茨城県)9代藩主、「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男として誕生しました。

幼い頃から聡明であった徳川慶喜は、御三家と同様に将軍の跡継ぎを送り出すことを目的に創設された「御三卿」のひとつ、「一橋徳川家」の跡継ぎに切望され、1847年(弘化4年)に同家の家督を相続していたのです。

1858年(安政5年)、実際に14代将軍候補として、徳川慶喜の名前が挙がったものの、結局は紀州藩(現在の和歌山県)13代藩主の「徳川家茂」(とくがわいえもち)が就任。徳川慶喜は、これを悔しがるどころか、「骨が折れる将軍になって失敗するより、最初から将軍にならなくて良かった」と手紙にしたためています。

徳川慶喜は将軍職へのこだわりはない一方で、幕政には積極的にかかわっていました。尊王思想(君主、すなわち天皇を尊ぶ思想)も旺盛で、1858年(安政5年)の「日米修好通商条約」への調印に関しては、天皇の許可を得ずに進めた大老「井伊直弼」(いいなおすけ)の勝手な行動を批判。

1862年(文久2年)には将軍後見役となり、黒船来航以来、大きく揺れていた江戸幕府の体制を立て直すべく、「文久の改革」(ぶんきゅうのかいかく)を実行します。

1866年(慶応2年)に14代将軍・徳川家茂が病死すると、徳川慶喜の将軍待望論が再び持ち上がることに。しかしこのとき江戸幕府は、薩摩藩(現在の鹿児島県)・長州藩(現在の山口県)連合軍と対立していた真っ最中であり、危機的状況を迎えていました。

こういったことを背景に、徳川慶喜のなかで「このまま徳川家がなくなっていくのも忍びない」という思いが芽生え、幾度となく出た将軍職就任要請への固辞から一転、1866年(慶応2年)12月、15代将軍に就任します。

ここから日本は、明治維新へと動き出します。薩長軍の勢いが日に日に増していくなか、徳川慶喜は政権を朝廷に戻すことを決め、世に言う「大政奉還」の実施に踏み切ったのです。

井伊直弼
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京都で出会った渋沢栄一と徳川慶喜

徳川慶喜が、まだ将軍後見役を務めていた1863年(文久3年)、江戸幕府の将軍としては230年ぶりに、徳川家茂が上洛することになると、徳川慶喜がひと足先に京都へ入ります。そして、1864年(文久4年/元治元年)に、徳川慶喜は江戸幕府公認の禁裏(きんり:京都御所)を警護する「禁裏御守衛総督」(きんりごしゅえいそうとく)に就任し、京都における幕府勢力の中心的な存在となったのです。

徳川慶喜と「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、この京都で出会います。

渋沢栄一は、1840年(天保11年)に現在の埼玉県深谷市に住していた裕福な農家で誕生。幼い頃から父親に本を与えられていた渋沢栄一は、学問に精を出し、尊王攘夷思想(そんのうじょういしそう:天皇を敬い、外敵を退けようとする思想)に、従兄達と共に傾倒。そして渋沢栄一は、尊王攘夷運動を起こすために、彼らと連れ立って江戸に出ました。

江戸で数々の刺激を受けた渋沢栄一達は、ますます「江戸幕府の腐敗を洗濯せねば」という思いを強くします。1863年(文久3年)には、倒幕のためにクーデターを目論見ますが失敗。江戸幕府に追われることを恐れ、京都への亡命を考えたとき頼りにしたのが、一橋徳川家の家臣で、渋沢栄一達が江戸に出てから出会った「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)。平岡円四郎は、徳川慶喜のお供で京都に出向いていた人物。

この縁により、一橋徳川家に仕官した渋沢栄一は、1864年(文久4年/元治元年)、徳川慶喜への拝謁が実現したのです。

徳川慶喜と懇意に話す仲となる

渋沢栄一は一橋徳川家で順調に出世し、「勘定組頭」の座に就きます。勘定組頭は、現在の財務省における事務方のトップに相当する役職。藩のレベルではありましたが、言わば経済システムの取り扱い責任者のような役割を担ったのです。

特に渋沢栄一が提案した、財政改革構想は画期的な政策でした。一橋徳川家の藩札であれば、流通させることができれば立派に通用するはずだと、世の中に流通させることを考えたのです。そして、現在の日本において、「造幣局」(大阪市北区)と「日本銀行」(東京都中央区)、そして「民間金融機関」が行なっているような、通貨発行の仕組みを実践。

徳川慶喜は、こういった渋沢栄一の類まれな能力に目を付け、2人は直に話をし合う懇意な間柄になりました。

渋沢栄一が編纂した「徳川慶喜公伝」

江戸城

江戸城

渋沢栄一は、1893年(明治26年)頃に自身で企画し、そののち25年もの歳月を経て、1918年(大正7年)、全8巻から成る「徳川慶喜公伝」の編纂を成し遂げます。

渋沢栄一が常日頃から語っていたのは、「徳川慶喜公の名誉を回復しなければいけない」ということでした。

1868年(慶応4年/明治元年)3月14日、徳川慶喜の命によって、「勝海舟」が「西郷隆盛」と会談し、「江戸城」(現在の東京都千代田区)を、戦うことなく新政府に明け渡すことが決まります。

江戸無血開城」と呼ばれるこのできごとは、江戸幕府が新政府に対して負けを認めたことを意味していました。そのため徳川慶喜は、「逆賊」とまで言われるほどの悪評を残すことになったのです。

しかし現在では、この決断こそが東京を守る結果になったと評価されています。徳川慶喜は、江戸約100万人の市民が殺されるようなことにだけはしたくないという信念を持ち、江戸無血開城を決めたのです。
 
渋沢栄一は、徳川慶喜の思いを誰よりも深く理解していた家臣のひとり。徳川慶喜公伝では、徳川慶喜のことを「侮辱されても、国のために命を以って顧みざる、偉大なる精神の持ち主」と評し、最高の敬意を表しています。

渋沢栄一と近藤勇の出合い

幕末の歴史にその名を残す剣豪集団「新選組」。江戸幕府存続のために倒幕派達と戦い、最後は賊軍として滅びる運命を辿りますが、今もその人気は、幕末の偉人達のなかでもトップクラスを誇っています。その新選組局長として、「土方歳三」や「沖田総司」を始めとする志士達をまとめたのが、「近藤勇」です。「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と近藤勇は、尊王攘夷(天皇を守り、外敵を打つとする思想)の風が吹き荒れていた京都の街で出会います。実はこの2人、同じ武蔵国(現在の埼玉県、東京都23区、神奈川県の一部)の農家の出身。そんな2人の間には、どのような交流があったのでしょうか。

道は異なれど、行動は非常に似ていた2人

幕府直轄地で生まれた近藤勇
近藤勇

近藤勇

近藤勇」幼名「勝五郎」は、1834年(天保5年)、農家の家系である「宮川家」の三男として、武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)で生まれます。

近藤勇が生まれた多摩周辺は、江戸幕府の直轄地であったことから、農民達のなかにも「幕府のため、将軍のために戦う」という意識が自然と芽生えており、豪農家庭では剣術を習う農民も多く、勝五郎もそのひとりでした。

1848年(弘化5年/嘉永元年)勝五郎が15歳のときに、江戸の甲良屋敷(こうらやしき:現在の東京都新宿区)にあった、天然理心流剣術道場「試衛館」(しえいかん)に入門。その創設者である「近藤周助」(こんどうしゅうすけ)に、剣術の腕を認められた勝五郎は、近藤家の養子となり、近藤勇として天然理心流を継ぐ身分となったのです。

1863年(文久3年)、江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が、将軍としては230年ぶりとなる上洛(京都へ入ること)が決まると、幕府は、徳川家茂の上洛警護のための集団「浪士組」(ろうしぐみ)を募ります。

試衛館からは、近藤勇のみならず、近藤勇と同じく試衛館で剣術を学び、のちに「新選組」の隊士として活躍する「土方歳三」、「沖田総司」らを含む8人が浪士組に参加。これにより、近藤勇は京都へと上るのです。

近藤勇と新選組

約200人もの志士が集まり、京都に入った浪士組。その目的は前述した通り、徳川家茂の警護にありましたが、それは表向きの理由。真の目的は、浪士組の発案者である「清河八郎」(きよかわはちろう)が、尊王攘夷派の先鋒(せんぽう:主張や運動などの先頭に立つ者)となることにあったのです。これを知った近藤勇らは、「自分達はあくまで江戸幕府のために働きたい」と考え、浪士組は2つに分かれます。

近藤勇達は、京都守護職を務める「松平容保」(まつだいらかたもり)が藩主を担っていた会津藩(現在の福島県)預かりとなり、京都守護職の配下に「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を結成し、京都での治安維持活動を開始。これが新選組の前身です。

そののち、新たに新選組の名を賜ると、近藤勇は、そのリーダーである局長に就任。新選組は、最盛期には200人を超える集団として、尊王攘夷運動の弾圧で活躍しました。

幕府の腐敗を洗濯しなければと動いた渋沢栄一

「日本資本主義の父」と称され、明治時代の大実業家として知られる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)もまた、近藤勇と同じく武蔵国の農民から武士になった人物。

渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の豪農に生まれ、幼い頃から家業を手伝う一方で、父からは学問の手解きを受け、従兄弟からは本格的に「論語」などを学びます。

このような教育と家業で得た知識や経験を以って、権力者である江戸幕府が極端な身分制度を制定するなど、理に外れた行ないをしていることを感じ取り、22歳で従兄と共に江戸へ出ることにしたのです。

江戸では、儒学者の「海保漁村」(かいほぎょそん)の塾に入り、「千葉道場」で「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)の剣術を学ぶなどするなかで、渋沢栄一は尊王攘夷の思想に傾倒し、倒幕の思いを強くしていきました。

「幕府の腐敗を洗濯したうえでなければ、とうてい国力を挽回することはできない。我々は農民とはいいながら、いやしくも日本の国民である以上は、わが本分の務めでないからと言って傍観してはいられない」

渋沢栄一自伝「雨夜譚」(あまよがたり)より

このような熱い思いのもと渋沢栄一は、1863年(文久3年)、塾や道場などで知り合った70人ほどの集団で、「高崎城」(たかさきじょう:群馬県高崎市)の乗っ取り、そして横浜の焼き討ちを計画します。これらはつまり、幕府を混乱させて倒してしまおうという考え。

しかし、この計画は決行直前に、尊王攘夷派が起こした「天誅組の変」(てんちゅうぐみのへん)などが失敗に終わったことなど、京都の情勢に基づき、同志のなかで最も急進派と思われていた「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)の「残念ながら犬死するだけだ」との説得を受けたことにより、やむなく断念したのです。

現代に残る武士の風習
現代まで残ってきた武士の風習をご紹介します。
京都で出会った渋沢栄一と近藤勇

渋沢栄一と近藤勇は、年齢で言うと渋沢栄一が6歳下。この2人は、渋沢栄一が尊王攘夷派、一方で近藤勇は「尊王攘夷派を統制する側」として、一見すると、まったく異なる思想を持ち動いていたかに思えます。

しかし、幕末における渋沢栄一と近藤勇の動きは実はとてもよく似ていたのです。当時、人々の思いは、尊王攘夷派と「幕府存続派」の真っ二つに分けることはできず、非常に入り組んでいました。そんななかで、渋沢栄一も近藤勇も、日本の世を良くしていきたいという思いのもと、それぞれの思想を持って行動し、どちらも武蔵国の田舎から江戸へ、さらには江戸から京都へ上った結果、京都の地で2人は出会うのです。

近藤勇は、もともと清河八郎と同じ尊皇攘夷派であったものの、清河八郎が江戸幕府よりも朝廷を優先する意を強く持っていたのに対し、近藤勇は、江戸幕府と朝廷を一体化させ、政局を安定させる「公武合体論」(こうぶがったいろん)的な思想を持っていたと言われています。

「倒幕派」に対し、江戸幕府を補佐する役割を担った人達を「佐幕派」(さばくは)と呼びますが、江戸幕府のなかにも公武合体の意向があり、近藤勇率いる新選組も、江戸幕府が政権を握っていた、現状の体制を良しとする集団ではなかったのです。

平岡円四郎

平岡円四郎

一方の渋沢栄一は、仲間との焼き討ち計画を中止したあと、大きな転機を迎えます。

江戸遊学のさなかに出会っていた「一橋徳川家」の家臣「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)の推挙により、25歳のとき、同家に仕えて武士に転身したのです。

しかし、一橋徳川家はいわゆる「徳川御三家」と同様に、将軍の跡継ぎを世に送り出すことを目的に創設された、「徳川御三卿」のひとつ。

倒幕を考えていた渋沢栄一が、その家臣になったのはどうしてなのでしょうか。

その理由のひとつには、焼き討ちを計画したために、江戸幕府に追われる可能性もあった渋沢栄一達が、京都への亡命を考えていたこと。また、平岡円四郎は、相手が農民の身分であっても「見込みのある若者だ」と胸襟(きょうきん)を開き、議論するような広い視野を持つ人物で、渋沢栄一は、平岡円四郎と親交を深めていたのです。

とは言え、渋沢栄一にとって仕官を決めるには大きな葛藤がありましたが、世の中を良くするための意見を出させて貰うこと、また、京都での「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」への拝謁を条件に、仕官を決意するのです。

そして1866年(慶応2年)8月、一橋慶喜が江戸幕府15代将軍に就任。その家臣団は自動的に幕臣となり、最終的に渋沢栄一と近藤勇は、どちらも江戸幕府に仕える身となりました。

渋沢栄一は近藤勇をどう見たか

渋沢栄一と近藤勇の最初の出会いは、1866年(慶応2年)10月のこと。「陸軍奉行支配調役」(りくぐんぶぎょうしはいしらべやく)として、京都に赴任していた渋沢栄一は、幕臣のひとりに薩摩藩(現在の鹿児島県)との内通疑惑があるとの情報により、その捕縛に向かいます。その際、助っ人として行動を共にしたのが新選組でした。

渋沢栄一は、自著「実験論語処世談」のなかで、近藤勇について、次のように語っています。

「幕末の末路に勇名を轟かした[とどろかした]新選組の近藤勇は、世間では非常に無鉄砲な向こう見ずの猪武者のように見られているが、実際には、存外温厚な人物で、無鉄砲な人ではない。よく物事の分かる人であった。」

1868年(慶応4年/明治元年)、近藤勇は35歳で、新政府軍により斬首刑に処されます。このとき渋沢栄一は、パリ万国博覧会へ参加するため、徳川慶喜の弟「徳川昭武」(とくがわあきたけ)の随行者のひとりとして、フランスのパリにいました。幕臣として渡仏した渋沢栄一は、帰国後、明治時代にすでに突入していた、日本の土を踏むことになったのです。

このように、渋沢栄一と近藤勇の運命は、明治新政府樹立の際に大きく分かれてしまいました。

渋沢栄一と徳川昭武

明治維新へ突入寸前の幕末に、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)はフランスのパリにいました。渋沢栄一が渡仏した目的は、1867年(慶応3年)に開催されたパリ万国博覧会へ、江戸幕府が派遣する「パリ万博使節団」の一員として参加すること。このときの経験が近代日本における「資本主義の父」と呼ばれるほどの偉業を成し遂げることに繋がるのです。そして、このパリ万博使節団の団長が、「徳川慶喜」の弟である「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)でした。当時の徳川昭武は、まだ14歳。渋沢栄一が、なぜパリ万博使節団の一員に選ばれたのかを含め、徳川昭武との関係をご紹介します。

徳川慶喜の弟であり水戸藩最後の藩主・徳川昭武

徳川昭武

徳川昭武

「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)は、水戸藩(現在の茨城県)9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の十八男で、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」の弟です。

1866年(慶応2年)に、「徳川御三卿」のひとつである「清水徳川家」の当主となり、のちに水戸藩最後の藩主となります。

徳川御三卿とは、「水戸徳川家」と「尾張徳川家」、「紀州徳川家」から成る「徳川御三家」に次ぐ地位を持ち、御三家同様、徳川将軍家に嗣子がない場合に、将軍を世に送り出す資格を有していた「田安徳川家」と「一橋徳川家」、そして清水徳川家のこと。大名のように独立した領地を持つことがない代わりに、「江戸城」(現在の東京都千代田区)内に屋敷があり、家臣は江戸幕府から派遣され、将軍家とは家族のような間柄でした。

14歳の初々しいパリ万博使節団団長

1867年(慶応3年)、当時、民部公子と呼ばれていた徳川昭武に、日本を背負う大きな役割が託されます。フランスのパリにおいて、春から秋にかけて、かつてない規模で開催されるパリ万国博覧会に、江戸幕府15代将軍となった徳川慶喜の名代(みょうだい:ある人物の代わりを務める者)として、派遣されることになったのです。

このパリ万国博覧会への日本の参加は、幕末期における列強諸国の間で起こっていた派遣争いが絡んでいました。駐日フランス公使の「レオン・ロッシュ」が、日本もフランスと通商条約を結んでいる以上、皇帝ナポレオン3世主催のパリ万国博覧会へ代表使節を派遣することが国際的儀礼であると、江戸幕府に対して熱心に建言。

徳川慶喜はこれを了承し、その団長に弟の徳川昭武を選んだのです。徳川昭武は、このときまだ14歳でした。

渋沢栄一がパリ万博使節団に参加した理由

徳川昭武率いるパリ万博使節団には20数名が随行し、そのひとりとして経済に明るい「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が選ばれます。渋沢栄一が27歳の頃でした。

これは、渋沢栄一が「尊王攘夷」(天皇を敬い、外敵を排除しようとする思想)論者の一農民から、一橋徳川家に仕官する武士となり、さらには、幕臣になってわずか4年ほどのこと。

驚くべき急展開ですが、渋沢栄一のフランス行きは、徳川慶喜直々のお声がかりによるものでした。

一橋徳川家中で出世した渋沢栄一は、藩のレベルではありますが、今で言う財務省の事務方トップに当たる、「勘定組頭」(かんじょうくみがしら)に就任。そして、藩札を刷って世の中に流通させる構想を打ち立て、実際に藩札引き換えの会所も設立。荷為替手形(にがわせてがた:輸出代金の決済のために、買主を支払人として、売主である輸出者が振り出した為替手形)に関する貸金の手続きを行なったり、お金の貸付業務をしたりするなど、現代の日本経済における「造幣局」(大阪市北区)や「日本銀行」(東京都中央区)、そして「民間金融機関」が担う役割を、自ら構築して実践したのです。

パリ万国博覧会のあと、そのまま現地での留学も予定されていた14歳の徳川昭武が、長期のフランス滞在を滞りなく行なうためには、勘定方(かんじょうかた:江戸幕府や各藩において、金銭の出納を担当した役職)が十分に務められ、徳川昭武の身の回りにおける雑事も扱う者が必要。渋沢栄一は、まさにその適任者でした。

さらには、徳川昭武のお付きとして水戸藩から7人の藩士のお供が要望として出されため、外国人を敵対視する頑固な水戸藩士と、他の随行者との仲介役も必要。そこで徳川慶喜は、「渋沢栄一を派遣するのが良い。渋沢栄一ならば思慮があり、臨機応変の対応が取れる。学問の心得もあり、人間性もしっかりしている。それに前途有望な人物だから、渋沢栄一自身が海外を知ることも大事だ。」と語り、渋沢栄一を推挙したのです。

このパリ万博使節団派遣がなければ、渋沢栄一の運命は大きく変わっていたかもしれません。

なぜなら、このとき渋沢栄一は、自身が仕える一橋慶喜が江戸幕府15代将軍の座に就いたことで、例えようのない大きな葛藤を抱えていました。

のちに渋沢栄一は、「自分は実に逆境の人となった。」と語っていますが、これは、「もともと倒幕を志していた自分が、一橋徳川家に仕官しただけでも自己矛盾なのに、徳川慶喜が将軍になることで自動的に幕臣にまでなってしまった。これほど初志に反することはない。」ということを意味しています。

しかし、その思い以上に渋沢栄一を悩ませていたのは、様々な状況から判断して、いずれ江戸幕府は、倒れる運命にあることに強い確信を抱いている自分が、江戸幕府を延命させるため、倒幕派の征伐に乗り出す立場にならざるを得ないということ。一時は農民に戻ることさえ考えたほどの葛藤が、渋沢栄一のなかにあったのです。

そんな思いを抱えたまま、渋沢栄一は心ならずも幕臣として、「陸軍奉行支配調役」(りくぐんぶぎょうしはいしらべやく)に任じられます。そして、京都の屯所(とんしょ)に勤務していた渋沢栄一のもとに舞い込んだのが、パリ万博使節団の一員への要請。渋沢栄一は、「喜んでフランスに行かせて頂きます」と、二つ返事で承諾します。のちに渋沢栄一が果たした活躍を考えると、パリ万博使節団への参加を決めたこの瞬間は、渋沢栄一にとってこれからの道が一気に開けた瞬間でした。

渋沢栄一は、「私はもう攘夷論者ではありません。今は、外国のことを知りたいと強く願っております。」と答え、徳川慶喜直々の要請であると聞かされると、その期待に応えるべく、徳川昭武の洋行(欧米への旅行、または留学)に、心魂(しんこん)を傾けることを誓ったのです。

ヨーロッパの発展に目を見張り学んだ2年間

徳川昭武率いるパリ万博使節団一行は、1867年(慶応3年)1月に、横浜港を出港。上海や香港、ベトナムのサイゴン、シンガポール、スリランカなどに立ち寄り、当時、掘削(くっさく)工事が進められていたスエズ運河なども見聞しつつ、フランスのマルセイユ、リヨンを経てパリに入りました。

パリ万博使節団一行が訪れた地

パリ万博使節団一行が訪れた地

そして彼らは、パリ万国博覧会への参加を終えたのち、欧州各地を視察。

スイスやオランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどを訪れ、欧州列強のすさまじい産業の発展や軍事力に驚嘆しながら、近代国家の社会や経済の仕組み、様々な分野における最新技術など、多くのことを学んだのです。

そして渋沢栄一は、日本がこれらの列強諸国に追い付くためには、欧州各国などの海外で、すでに始められていた新しい社会構造や経済活動の仕組みなどを、早急に取り入れなければならないと痛感しました。

渋沢栄一達が、約2年間の洋行を終えて帰国したのは、1868年(慶応4年/明治元年)の終わりでした。1867年(慶応3年)に「大政奉還」が行なわれ、明治新政府からの帰国命令を受けてのことです。渋沢栄一は、予測していたこととは言え、パリの空の下で「江戸幕府が倒れた」との報を受け取った際の驚きは、言語に絶するような思いだったことを、のちに語っています。

徳川昭武は帰国後、水戸藩最後の藩主に。1876年(明治9年)には、アメリカ大博覧会の御用掛(ごようががり)として渡米し、そののち、再びフランスに留学しました。帰国後は、長年に亘って「明治天皇」に奉仕する道を歩みます。

渋沢栄一は明治政府に招かれ、欧州で学んだことを存分に活かし、大蔵省(現在の財務省)の一員として新しい国づくりに深くかかわりました。そして、1873年(明治6年)に大蔵省を辞したあとは、民間経済人として大いに活躍していくのです。

渋沢栄一とフリュリ・エラール

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、明治時代に経済や商工業の面で日本を近代国家にすべく奔走した、「日本の資本主義の父」と呼ばれる人物です。驚くのは、生涯に何と500もの会社を設立したこと。渋沢栄一が立ち上げにかかわった会社を紹介すると、みずほ銀行やサッポロビールなど誰もが知っている会社がズラリと並びます。まさに渋沢栄一は、日本経済の礎を築いた人物と言えるのです。
渋沢栄一の経済を見る才能が大きく花開いたきっかけとなったのは、明治維新前後の約2年間、パリ万博幕府使節団の一員としてフランスをはじめとする欧州各国を訪問したこと。特に、パリの銀行家「フリュリ・エラール」との出会いは、渋沢栄一の「近代日本経済の発展に一生を捧げよう」という意思を力強く後押ししたものでした。そんな2人の出会いと、渋沢栄一がフリュリ・エラールから学んだポイントを紹介しましょう。

フリュリ・エラールから経済のイロハを学ぶ

銀行家のフリュリ・エラールと渋沢栄一の出会い
フリュリ・エラール

フリュリ・エラール

「フリュリ・エラール」は、フランスの銀行家であり、幕末期に在仏日本名誉総領事を務めた人物です。

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)がフリュリ・エラールに初めて出会ったのは、1867年(慶応3年)のフランス。

この年の4月に開催されたパリ万国博覧会において、日本はフランスから出品と将軍親族の派遣を求められ、江戸幕府第15代将軍になったばかりの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、当時まだ14歳だった弟の「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)を派遣します。徳川昭武率いるパリ万博使節団には20数名が随行し、渋沢栄一はそのひとりとして選ばれ、庶務・会計を担いました。

渋沢栄一がパリ滞在中、庶務・会計という雑務を一手に処理するにあたり、最も頼りにしたのが、日本名誉総領事のフリュリ・エラールだったのです。パリで銀行家としての経歴を持つフリュリ・エラールは、様々な経済知識を渋沢栄一に授けました。

渋沢栄一はフリュリ・エラールと知り合ったことで、近代日本経済の発展に一生を捧げる人物へと邁進していくことになります。

渋沢栄一の「資本主義の家庭教師」となったフリュリ・エラール

パリ万博使節団に徳川昭武が派遣されたのは、ヨーロッパにおいて積極的な幕府外交を繰り広げるため、また、パリ万博が終了したあとも徳川昭武にフランスで留学経験を積ませようという思惑がありました。

渋沢栄一は、厳しい財政事情のなかで、徳川昭武に勉学を続けさせつつ、使節団の生活を営むために資金運用を行ないました。そのときのアドバイザーがフリュリ・エラールだったのです。

渋沢栄一は、近代国家における金融のプロであるフリュリ・エラールから、銀行の仕組みや業務内容、株式会社の設立要件や組織を学びました。さらに、フリュリ・エラールはフランス流の日々の細かい会計上の処理や資金運用方法を、実際の現場を見せながら渋沢栄一に教えたのです。渋沢栄一は、実務を通じて西欧の経済や金融に関する知識を習得していきました。

実際、渋沢栄一は20,000両でフランスの公債を購入し、鉄道会社の株を買うということも行なっています。これは、徳川昭武の留学費用や生活費を工面するための実務でもありました。渋沢栄一が購入した公債は、銀行よりも高い利息が付いたのです。また、株は購入した会社の営業成績が良ければ株価が上がり、配当金が多くなることを実体験として学びます。

欧州での実務も含めた学びの経験によって、渋沢栄一は明治維新後すぐに、日本における銀行や株式取引所などの金融機関を設置。そして、数多くの会社の創設にかかわりました。

身分解放に情熱を注いだ渋沢栄一

渋沢栄一がフリュリ・エラールから学んだ大切なこと

渋沢栄一にはフリュリ・エラールとの交流を通じて、経済だけでなく、もうひとつ、日本の社会にぜひ取り入れたいと意を強くしたことがありました。それは人と人の対等な関係です。

徳川昭武の教育係を担当したフランスの軍人「ヴィレット中佐」とフリュリ・エラールとの間には、上下の意識が全くありませんでした。

この2人はいわゆる「士」と「商」の関係にあたり、当時の日本にはこの2つの身分の間に、決定的な格差があったのです。しかし、渋沢栄一がこの2人を見ていると、ヴィレット中佐がフリュリ・エラールに対して一目置くこともありました。渋沢栄一は、ヴィレット中佐とフリュリ・エラールが接する姿から、身分や職業が違っていても平等な関係の社会作りを行なうことの重要性を強く感じたのです。

そして、のちに官僚となった渋沢栄一は、実際に四民平等や士族の解体を進め、身分解放の実施に動きます。特に、日本の商工業を発展させるためには、根強く残る「官尊民卑」(かんそんみんぴ:官民格差、政府や役人を尊び、庶民を卑しむこと)の打破こそ、自分に課せられた大きな役割だと考えていたのです。

日仏の若き才能が出会い育まれた、日本の民主主義の礎

フリュリ・エラールは、渋沢栄一が日本の民主主義の父と呼ばれる礎を築いた人物であり、幕末の日仏交流史に大きな足跡を残しました。しかし、裕福な銀行家で大の親日家であったこと以外には、全くと言っていいほど日本における公式記録が残されていません。

そこで、「渋沢栄一 算盤篇」の著者「鹿島茂」(かしましげる)氏がフランスにおいて調べた情報をもとに簡単に紹介しましょう。

フリュリ・エラールの正式な名は「ポール・フリュリ・エラール」。フリュリ・エラールが経営していた銀行は、彼の親あるいは祖父の代から受け継いだ物で、まさに家名のままの「フリュリ・エラール銀行」と言います。フランスの外交官は、皆この銀行に口座を持つ外務省御用達銀行でした。フリュリ・エラールが在仏日本名誉総領事に任命された背景には、もとより外務省との深いかかわりがあったからだと推察できるのです。

最後に、フリュリ・エラールと渋沢栄一が懇意になった理由のひとつを、鹿島茂氏はこう推察しています。フリュリ・エラールは、1836年(天保7年)にパリで誕生しており、1867年(慶応3年)のパリ万博時は31歳。渋沢栄一に経済のイロハを教えた人物と聞くと、もっと年上を想像しますが、2人が出会った当時、フリュリ・エラールはまだ青年と言ってもいい年齢でした。

一方、1840年(天保11年)生まれの渋沢栄一は、フリュリ・エラールより4歳年下で、弱冠27歳。ある意味、日仏の若き才能が出会い、大いに気が合ったことで日本の資本主義、そして民主主義は開かれていったのかもしれません。

渋沢栄一と大隈重信の出合い

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と「大隈重信」(おおくましげのぶ)は、明治政府において、部下と上司の関係で仕事をした間柄です。渋沢栄一が「大蔵省租税正」(現在の財務省主税局長)着任を要請されたとき、「大蔵大輔」(おおくらたいふ:現在の財務省事務次官)を務めていたのが大隈重信でした。

渋沢栄一は当初、大蔵官僚として新政府で働くという要請を断るため、大蔵省に出向きますが、「浩然の気に満ちた人」(こうぜんのき:天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気のこと)であった大隅重信に説得されて受諾。結果的に、渋沢栄一が広く社会で活躍するきっかけを作ったのが大隈重信と言えるのです。この2人の間にどのようなやりとりがあったのでしょうか。また、渋沢栄一が評する「浩然の気に満ちた大隈重信」とはどういう人物だったのでしょう。

渋沢栄一と大隈重信が出会うまでの歩み

2度の総理大臣をはじめ、明治政府で重要ポストを歴任した大隈重信

「大隈重信」(おおくましげのぶ)は、佐賀藩士出身で、幕末期には尊王攘夷派志士として活動した人物です。

明治維新後は外国事務局判事などを経て、1870年(明治3年)参議(太政官に置かれた官名のひとつ、政府の要職)になります。

そののちは、大蔵卿(おおくらきょう:大蔵省[現在の財務省]の長官)、外務大臣、農商務大臣などを歴任。

1898年(明治31年)には、「板垣退助」(いたがきたいすけ)とともに初の政党内閣を組織し、総理大臣に就任しました。1914年(大正3年)には2度目の総理大臣を務めています。

他にも、大隈重信が今日に残す功績は数多く、グレゴリオ暦の導入、鉄道の敷設、貨幣制度の整備、東京専門学校(のちの早稲田大学)の開校など、日本の近代化のために様々なことに取り組みました。

帰国後、静岡で株式会社を設立した渋沢栄一

一方、明治維新の前後、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が身を置いていたのは、フランスのパリでした。渋沢栄一は、1867年(慶応3年)に開催されたパリ万国博覧会に、江戸幕府から派遣されたパリ万博使節団の一員として、団長の「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)に随行し、パリ万博終了後もヨーロッパ各地を歴訪。徳川昭武は、江戸幕府第15代将軍「徳川慶喜」の弟です。

パリ万博使節団で、主に庶務・会計を担っていた渋沢栄一は、約2年に亘る渡欧期間中、銀行家であり在仏日本名誉総領事であった「フリュリ・エラール」から様々な経済知識を学びました。

しかし、渋沢栄一達がパリにいる間、日本では「大政奉還」が起こり、渋沢栄一の直接の主人であった徳川慶喜が天皇に政権を返上。日本は開国し、明治時代へと突入していたのです。

のちに渋沢栄一は、「このときの驚きは言語に絶する」とこの知らせを受けた際の心境を語っています。

渋沢栄一達が帰国したとき、徳川慶喜は駿府(すんぷ:現在の静岡県)に蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込め謹慎させる刑罰)していました。渋沢栄一も、徳川慶喜の側で一生を送ろうと考え、駿府に身を置きます。

そして、1869年(明治2年)に静岡藩となったこの地で、地元の商人とかかわり合いながら、金融システムのアイデアを静岡藩に提案。これはいわゆる銀行業務で、殖産興業(日本の産業の発展を考えた明治期の産業政策)を図ったものです。

渋沢栄一は、商売をひとりの力で盛んにすることは難しくとも、合本組織(公益を追求した株式会社)であれば実現しやすいことをパリで学んでいました。そこで、1869年(明治2年)に、合本組織の「商法会所」を設立。これは半官半民の金融商社で、商品や生産物を担保にお金を貸したり、預かったりする銀行のような存在でした。

帰国後、渋沢栄一は西欧で学んだことをすぐに実地に移す行動に出たのです。

渋沢栄一が広く世のために活躍するきっかけを作った大隈重信

浩然の気に満ちていた大隈重信と渋沢栄一の出会い

明治政府は、静岡の地で奔走する渋沢栄一に、大蔵省の役人になるよう打診しました。しかし、渋沢栄一としては、商法会所の経営がようやくうまく行き始めたところ。パリで思い描いた「株式会社による社会改造の実現」も夢ではないと思えてきた矢先のことです。

大蔵省の役人になるということは、権力側に奉仕するということ。やはり、自分は静岡にいようと考え、この申し出を正式に断るために、大蔵省に出向きます。そこで初めて、当時の「大蔵大輔」(おおくらたいふ:現在の財務省事務次官)だった大隈重信に出会うのです。

大隈重信は、渋沢栄一に「あなたは元々新政府を創るという希望を抱き、苦労に苦労を重ねた人ではないか。私達は同志なのだから一緒にやろう」と、熱く語りかけます。渋沢栄一は、辞退する意を伝えることもできず、結果、大蔵省の役人になる道を選んだのです。

太陽の論法で説得

太陽の論法で説得

具体的に紹介すると、大隈重信が渋沢栄一の説得に成功した論法は、イソップ童話の「北風と太陽」で言う「太陽の論法」。

意思の強い渋沢栄一のような人物は、行動しない場合に起こりうるマイナス面について脅しをかける「北風の論法」を用いても、比較的耐えることができます。

そこで、北風の論法をまずは一度ちらつかせてから、一転して、行動した場合に作用するプラス面を説く太陽の論法で押しまくったのです。

渋沢栄一は、後日2歳年上の大隈重信の印象を「ものすごく元気な人」と評しています。勢いある熱弁と太陽の論理で、渋沢栄一は二つ返事で大蔵省の役人になることを承諾するに至りました。これはある意味、渋沢栄一がいち早く日本社会全体のために活躍するきっかけを作ったのは、大隈重信だったとも言えるのです。

渋沢栄一は、さらに大隈重信のことを「まさに中国の孟子が言う浩然の気に満ちた人物」だと語っています。浩然の気とは、天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気のこと。中国では、浩然の気が全身に満ちていると、志を高く持ち、立派なことも成し遂げると考えられていました。

渋沢栄一は大隈重信のなかにある浩然の気を感じ、ともに歩みたい人物と思ったに違いありません。

渋沢栄一と伊藤博文

「伊藤博文」(いとうひろぶみ)は、日本の初代内閣総理大臣です。「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が明治新政府の大蔵省(現在の財務省)の官僚として勤務することになったとき、伊藤博文は大蔵少輔(おおくらしょうゆう:現在の大蔵省事務次官である大蔵大輔の次席)役で、言わば部下と上司として出会います。そののち、2人は金融面だけでなく、明治時代の日本の近代化に大きな影響を与える数々の新規事業に共に携わりました。興味深いのは、お札の肖像にまつわる2人の関係です。渋沢栄一は、令和で10,000円札の肖像に選ばれますが、実は、1963年(昭和38年)発行の1,000円札においても肖像の最終候補でした。結果、このときに選ばれたのは伊藤博文ですが、2人の間にはどのような裏話があるのでしょう。

それぞれの立場から新時代を開いた伊藤博文と渋沢栄一

立憲政治の扉を開いた初代総理大臣「伊藤博文」
伊藤博文

伊藤博文

「伊藤博文」(いとうひろぶみ)は、1841年(天保12年)に、江戸時代の長州藩(現在の山口県)で、農家の長男として誕生しました。

「松下村塾」(しょうかそんじゅく)で「吉田松陰」(よしだしょういん)の教えを受け、先輩である「高杉晋作」(たかすぎしんさく)らと尊王攘夷運動を起こし、次いで倒幕運動を展開。明治維新後は、大蔵少輔などの重職を歴任します。

1871年(明治4年)に政府から欧米に派遣された「岩倉具視」(いわくらともみ)を正史とする「岩倉使節団」に「大久保利通」(おおくぼとしみち)や「木戸孝允」(きどたかよし)らと共に参加。そののち、伊藤博文は大久保利通の信頼を得て、彼を支えていきます。

工部省(こうぶしょう)の初代工部卿となった1873年(明治6年)から1878年(明治11年)においては、日本の近代国家建設の社会基盤整備と殖産興業を推進。自由民権運動が高まると、政府内で立憲政治への移行が浮上し、その方針をめぐり「大隈重信」(おおくましげのぶ)と対立することになります。

「明治14年の政変」で大隈重信を退けると、1885年(明治18年)に内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任しました。憲法作成にも着手し、1889年(明治22年)に「大日本帝国憲法」(明治憲法)を発布。伊藤博文は、計4度も内閣総理大臣を務めます。

「日露戦争」後、韓国を事実上の保護国とした際には、初代韓国統監も務めましたが、1909年(明治42年)、中国のハルピン駅で韓国人に暗殺され、その生涯を終えました。

日本の資本主義の父「渋沢栄一」

1840年(天保11年)に、現在の埼玉県深谷市にある豪農の家に生まれた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、伊藤博文と1歳違いです。

実は渋沢栄一も、徳川幕府による統治の未来に限界を感じ、若い頃は過激な尊王攘夷論者として横浜の外国人居留地区焼き討ちなどを計画。

結果的に実行に及ばず、そののち、渋沢栄一に惚れ込んだ一橋家家老待遇「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)の推挙により、25歳のときに一橋家に仕官。のちの江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」に、武士として仕えます。

1867年(慶応3年)、渋沢栄一が27歳のときに、徳川慶喜の弟「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)率いるパリ万博使節団の一員として渡欧。欧州で学んだ、金融や株式会社の仕組みなど経済の諸制度の知識を活かして、帰国後は大蔵省(現在の財務省)の官僚となり、貨幣制度や金融財政改革を行なっていきます。

しかし、1873年(明治6年)、緊縮財政案が政府の中枢に受け入れられなかったことなどをきっかけに大蔵省を退官。直前に設立していた「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)の頭取に就任します。

そののち、「王子製紙株式会社」や「東京ガス株式会社」、「東京海上火災保険株式会社」、「サッポロビール株式会社」など、現代において誰もが知る企業も含めた約500社もの会社設立に携わりました。渋沢栄一が日本の近代化にもたらした功績は大きく、「日本の資本主義の父」と称されています。

晩年、汽車内で渋沢栄一と伊藤博文が交わした会話とは

渋沢栄一と伊藤博文は、近代日本の経済と政治をそれぞれの立場から育てた人物です。この2人の交流は様々ありますが、渋沢栄一は、晩年に伊藤博文と交わした会話が心に深く残っていると語っています。

1901年(明治34年)頃、渋沢栄一は神奈川県の大磯から帰る汽車のなかで伊藤博文と偶然出くわします。このとき伊藤博文は、「渋沢さんはいつも徳川慶喜公を誉めたたえておられますが、実は私は立派な大名のひとりくらいに思っておりました。しかし最近、徳川慶喜公は非常に優れた立派な方であることを知りました。」といった内容を語りだしました。渋沢栄一は、なかなか人を信用せず、認めない伊藤博文が、なぜ今、このような話をするのか疑問に感じ、そう思った理由を尋ねます。

2人が汽車に乗り合わせた一昨夜、有栖川宮家でスペインの王族を迎えた晩餐会がありました。伊藤博文は、ともに招かれた当の徳川慶喜と次のような会話をしたと語ったのです。

伊藤博文は徳川慶喜に、維新の初めの頃、尊王を大事に考えていた動機について尋ねました。すると徳川慶喜は迷惑そうに、「水戸家の教えを守ったに過ぎない」と答えます。水戸家は義公(ぎこう:水戸光圀[みとみつくに]の尊称)の時代から皇室を尊ぶことをすべての基準にしていたのです。徳川慶喜の父「徳川斉昭」(とくがわなりあき)も同様の志を貫いていました。そして徳川慶喜は、常々「今後、朝廷と徳川本家との間で戦争という大変なことにもなったとしても、水戸家は朝廷に対してを引くようなことはしてはいけない」と教えられて育ったと続けます。

徳川慶喜は、幼いとき、この言葉をそれほど重要に捉えていなかったと言いますが、20歳になり、再度父から念を押されたと言うのです。「黒船が来航するなどし、こののち、世の中はどのように変わるか分からない。先祖代々受け継がれてきた水戸家の家訓を忘れるではないぞ」と。徳川慶喜は、「この言葉がいつも心に刻まれていたので、ただそれに従ったまでです。」と伊藤博文に語ったのです。

この返答に感銘を受けた伊藤博文は、徳川慶喜を奥ゆかしく、本当に偉大な人物だと、渋沢栄一に話しました。渋沢栄一は、伊藤博文が徳川慶喜の真の思いを深く理解してくれたことに心を熱くしたと言います。

そののち、1909年(明治42年)に渋沢栄一は、伊藤博文がハルビン駅で暗殺されたという訃報をアメリカで受け取りました。当初は容易に信じられず、「もし事実とするなら」と伊藤博文の功績を語りながらも、哀哭(あいこく:声を上げて泣き悲しむこと)して言葉に詰まったと伝わっています。

徳川十五代将軍一覧
徳川家康を含む、江戸幕府を治めた徳川家15人の将軍についてご紹介します。

1963年改訂版1,000円札の候補となった渋沢栄一と伊藤博文

2024年度から発行の10,000円札

2024年度から発行の10,000円札

1963年(昭和38年)11月に新しく発行された1,000円札の肖像には、「明治天皇」、伊藤博文、岩倉具視、「野口英世」、渋沢栄一、「内村鑑三」(うちむらかんぞう)、「夏目漱石」、「西周」(にしあまね)、「和気清麻呂」(わけのきよまろ)という9人の候補が挙がりました。

そのなかから、最終候補に絞られたのが、伊藤博文と渋沢栄一の2人。結果的に、昭和38年の新1,000円札の肖像には伊藤博文が選ばれたわけですが、実は、この決定の裏にあったのは、「髭」(ひげ)の存在だったと言います。

当時の技術では、偽造防止のために髭をたくわえた人物の方が良いと言うことで、髭がなかった渋沢栄一は伊藤博文に敗れたのです。現在は、偽造防止の技術も向上。渋沢栄一は、令和における10,000円札の肖像に採用されるに至りました。

渋沢栄一と井上馨

幕末に長州藩士として活躍した「井上馨」(いのうえかおる)は、明治政府では「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の直属の上司となった人物です。渋沢栄一が「大隈重信」(おおくましげのぶ)の強い説得により大蔵省(現在の財務省)の官僚になった際、大蔵大丞(おおくらたいじょう)と言う実務のトップを務めていたのが井上馨でした。井上馨は、理財(財貨の有効運用)の才能が突出していたと言われています。渋沢栄一は、井上馨の右腕として活躍。度量衡(どりょうこう)や租税制度の改正、貨幣・禄制の改革、鉄道敷設など、次々と重要案件を手掛け、スピード出世していきます。そんな2人の関係を物語る逸話を紹介しましょう。

明治新政府で共に奔走した渋沢栄一と井上馨

井上馨

井上馨

長州藩(現在の山口県)、藩士の子として生まれた「井上馨」(いのうえかおる)は、やがて藩主「毛利敬親」(もうりたかちか)の側近となります。

幕末期当初は、「松下村塾」(しょうかそんじゅく:山口県萩市)の門下生と「尊王攘夷運動」(そんのうじょういうんどう:江戸時代末期に起こった反幕排外運動)に加わり、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)らと「イギリス公使館襲撃」なども共謀。

しかし、1863年(文久3年)に「伊藤博文」(いとうひろぶみ)らとイギリスへの留学を経験すると、開国論に転向しました。

明治維新後の1871年(明治4年)、明治政府では大蔵大輔(おおくらたいふ:現在の財務省事務次官)となり、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)らと共に、国の金融システムを大きく変える一大プロジェクト「貨幣制度改革」を実施します。

1873年(明治6年)に大蔵省(現在の財務省)を辞職後、一旦、実業界に身を置きますが、2年後には伊藤博文の強い要請もあり、政界に復帰。1885年(明治18年)の第1次伊藤内閣では、外務大臣に就任しています。

そののち、各種大臣職を歴任しました。突出した理財の才能があった井上馨は、大蔵省時代から三井財閥をはじめ、実業界とも深いかかわりを持ち、「三井物産」(東京都千代田区)の前身となった会社を設立した他、「日本郵船」(東京都千代田区)の設立にも尽力。鉄道事業などにも関与しました。

予算公表制度のきっかけを作った渋沢栄一と井上馨

渋沢栄一は、大蔵省でこの井上馨を直属の上司として新しい制度を創り、様々な改革を実行していきます。2人は大蔵省内でそれぞれ大きく出世。しかし、井上馨が大蔵省の実質的なトップである大蔵大輔、渋沢栄一が大蔵大丞として実務トップを担っていた1873年(明治6年)、2人は共に大蔵省をすっぱりと辞めるのです。渋沢栄一が33歳のときでした。

財政政策を巡る対立

財政政策を巡る対立

辞職の要因となったひとつには、大蔵省から内閣に入った「大隈重信」(おおくましげのぶ)との財政政策を巡る対立がありました。

大隈重信は財源を無視して積極財政を推し進めようとし、一方、井上馨と渋沢栄一は緊縮財政を主張。

その結果、大蔵省にあった予算編成権が正院(内閣)に移されることになり、これに抗議する形で井上馨と渋沢栄一は辞任したのです。

具体的に言うと政府首脳陣は、学校制度や司法制度の整備などの急激な近代化に着手するため、全国に学校や裁判所などを設置する予算を大蔵省に要求します。

これに、井上馨と渋沢栄一は反対の意を示したのです。反対の理由は明白で、1871年(明治4年)の廃藩置県により明治政府は旧藩士の家禄や藩債を引き継ぎ、さらに1873年(明治6年)1月の徴兵制により軍事費も増大。

当時、日本の財政は非常に厳しく、井上馨と渋沢栄一らは、地租(土地を対象に賦課された租税)による安定した税源の確保と家禄処分による歳出カットを目指すことなどで奮闘しており、「入ヲ量リテ出ヲ制スル」という立場は、何が何でも譲れないものでした。財政を鑑み、早急な近代化のための出費は受け入れられなかったのです。

結果的に大隈重信らの主張に敗れた井上馨と渋沢栄一は、大蔵省を去るわけですが、このできごとは、現在の日本政府が毎年の予算を公表する予算公表制度のきっかけに大きくかかわっています。

井上馨と渋沢栄一は、辞表を提出すると共に、政府の方針には1,000万円もの歳出超過があることを指摘した政府財政に関する「建言書」(けんげんしょ:官庁などに対して意見をまとめた文書)を連名で提出。新聞にも公表したことから、大きな物議を醸し、政府はこれを鎮静化させるために、1873年(明治6年)の歳入出見込会計表を発表。ここから我が国の予算公表制度が始まったのです。

渋沢栄一による井上馨の評価

1840年(天保11年)生まれの渋沢栄一と、1835年(天保6年)生まれの井上馨は、井上馨が5歳年上。井上馨は非常に弁が立つ人物で、ガミガミ屋としても知られていました。また、大蔵大輔のときには、事実上の大蔵省のトップとして「今清盛」と呼ばれるほどの権勢を振るったとも言われています。井上馨と大隈重信は、大隅重信の仲介で結婚するような間柄でしたが、その大隈重信とも真っ向から対立。信念を曲げない気性の持ち主であったことが窺えます。

渋沢栄一自身は井上馨のことを、感情家で失敗に対して容赦がなく、人や物事の良いところではなく、悪いところを見る面があると評価。著書のなかで、井上馨との関係について「井上候はすこぶる機敏の人で、見識も高く、よく私を諒解[了解]して下されたのみならず、また至って面白い磊落[らいらく:度量が広く、小事にこだわらないこと]なたちで、私と一緒になって楽しむいわゆる遊び仲間にもなられたので、井上候と私とは肝胆[かんたん:心の奥底]相照らす親しい間柄にまで進んだ」と書いています。

また、財政政策の方針では2人の意見は一致しており、渋沢栄一が大蔵省を辞める決意をしたとき、井上馨は「下野[げや:官職を辞め民間に下ること]して好きなようにするのも良い」と共感。渋沢栄一は井上馨に対し、同志としての思いを強く抱いていたと予測できます。

ただ、渋沢栄一と井上馨の大蔵省を去ったあとの道は違っていました。再び政府に戻った井上馨に対し、渋沢栄一は民間人であり経済人としての道を歩み続けたのです。

渋沢栄一著「論語と算盤」には、「もちろん私も井上さんと同じく、内閣と意見は違っていたけれど、私の辞したのは喧嘩ではない。主旨が違う。当時の我国は、政治でも教育でも着々改善すべき必要がある。しかし、我が日本は商売が最も振るわぬ。これが振るわねば、日本の国富を増進することができぬ。」と記されています。

渋沢栄一はこうした思いから政界に戻らず、経済界から日本の近代化に貢献したのです。

渋沢栄一と大久保利通

薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の「大久保利通」(おおくぼとしみち)は、幕末に「西郷隆盛」と共に、長州藩(現在の山口県)と「薩長同盟」を締結するなど、討幕や明治維新において活躍した人物です。明治政府では初代内務卿(太政官制における首相)として実権を握り、近代国家の建設をけん引しました。

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、大久保利通について「お互いに相手が嫌いだった」と表現すると同時に、大久保利通は達識(たっしき:物事を広く深く見通す見識)の人物であり、「公の日常を見るたびに、器ならずとは大久保公のごとき人を言うのであろう」とも語っています。大久保利通の「器ならず」とはどのようなものか、2人の関係性と共に紹介しましょう。

幕末から明治の日本をけん引した大久保利通

下級藩士から首相まで走り抜けた鹿児島の雄
大久保利通

大久保利通

「大久保利通」(おおくぼとしみち)は、1830年(文政13年/天保元年)、薩摩藩(現在の鹿児島県)の下級藩士の子として生まれました。

青年となった大久保利通は、囲碁を通じて藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)の目に留まるようになり、幼馴染だった「西郷隆盛」と共に、幕末の表舞台に登場することになります。

薩摩藩では「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外敵を斥けようとすること)を唱える若手藩士のリーダー的存在に成長し、やがて31歳という若さで島津斉彬の異母弟、「島津久光」(しまづひさみつ)の側近に抜擢。「公武合体」(こうぶがったい)策を進める藩政にかかわるようになります。

そして大久保利通は、西郷隆盛と共に薩長同盟締結に奔走し、倒幕の中心人物として活躍。ついには、王政復古により徳川の世を終わらせたのです。

江戸幕府終焉後の大久保利通は、明治新政府でも中枢を担い、西郷隆盛や「木戸孝允」(きどたかよし)別名「桂小五郎」(かつらこごろう)、「岩倉具視」(いわくらともみ)らと政治を主導。廃藩置県など明治時代前期における大改革を成し遂げます。

1871年(明治4年)、41歳のときには、「岩倉遣外使節団」の副使として欧米を視察。西洋の進んだ技術や文化に圧倒され、「富国強兵」(ふこくきょうへい:資本主義化と近代的軍事力創設を目指した政策)の必要性を痛感したと言います。

帰国後は初代内務卿に就き、現在、世界遺産に認定されている「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう:群馬県富岡市)の創始など、殖産興業による日本の近代化に向けて尽力しました。

しかし活躍の最中、不平士族に襲われ、1878年(明治11年)に非業の死を遂げたのです。

大久保利通を嫌うも、偉大さを痛感していた渋沢栄一

歳費問題で対立した2人

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、1840年(天保11年)生まれで大久保利通から見て10歳年下です。当時の10歳差は、今の感覚とは大きく異なるもの。

渋沢栄一は、かなり上の立場だった大久保利通について、自著で「大久保利通に嫌わる」と見出しを付けて書いています。

1869年(明治2年)から大蔵官僚として働いていた渋沢栄一に対して、大久保利通は1871年(明治4年)に大蔵卿(大蔵大臣)として就任。就任早々、大久保利通は、渋沢栄一を同列の大蔵大丞(おおくらたいじょう:実務上の最高位)と共に呼び出します。

話の内容は、陸軍省の歳費額を8,000,000円、海軍省の歳費額を2,500,000円とする政府の決議について、「大蔵省[現在の財務省]としては受けるつもりだが良いか」と尋ねるものでした。可否を尋ねる体裁は形式上のことで、大久保利通のなかではすでに決定事項です。

渋沢栄一は大久保利通の思考を理解しつつ、明確に反対の意を伝えました。政府の方針に沿うことが希望ではあるものの、当時、大蔵省は全国の歳入額の把握に努めている最中。まだ正確な額が掴めておらず、現状から考えて政府が巨額な軍事費を安易に定めるのは財政上危険だと考えたのです。

また、陸軍と海軍が額を決めてしまうと、他の省からも予算要求が舞い込み、そうなれば国家財政が破綻しかねません。渋沢栄一は、論理的な理由から歳費額は歳入額に応じて決めるしかなく、今回の決定はしばらく見合わせて欲しいと大久保利通に述べたのです。

自分の意に反する渋沢栄一の主張に大久保利通は激昂し、色を帯びた顔と激しい口調で「渋沢は我が国の陸海軍がどうなっても構わないのか」と詰問したと言います。

渋沢栄一も負けず、「我が国の陸海軍の早急な近代化が必要であることは十分に承知している。しかし、歳入額が明らかでない今、巨額の支出を決めるのは会計の理に反している。ご質問があったゆえ、意見を述べたまで。」と返答。しかし、結果的には渋沢栄一以外の反対がなかったため、政府の決定に沿って進められました。

渋沢栄一の著書「渋沢、大久保に反抗す」によると、腹の虫が治まらなかった渋沢栄一は、ただちに辞表を提出しようと直属の上司であった「井上馨」(いのうえかおる)のもとを訪れますが、このときは井上馨に慰留され大蔵省に残ることに。

渋沢栄一はのちにこの件を振り返る際、大久保利通について大蔵省の主権者でありながら財政が分かっていないという不信が芽生えたと書いています。また、渋沢栄一は大久保利通の偉大さを認めつつ、「なんだか嫌な人だと感じたものである。大久保公もまた、私を嫌な男だと思われたと見え、私は大変、公に嫌われたものである」と表現。

しかし渋沢栄一は、大久保利通との「嫌い嫌われる関係」を語るなかで、「私などは特にそうだが、若いうちは遠慮なく思ったままを言ってしまい、人に嫌われたりすることにもなる。しかし、長いうちには結局、本当のところが人にも知られるようになるから、青年諸君はこのあたりを心得ておくことが大事だ」とも綴っています。

器ならずな大久保利通を物語るエピソード

渋沢栄一は、歳費案の一件で辞任も考えるほど大久保利通に憤慨しつつ、著書「実験論語処世談」で「大久保公は、私にとって虫の好かぬ嫌な人であったにしろ、公の達識には驚かざるを得なかった。私は大久保卿の日常を見るたびに、器ならずとは、公のような人を言うのだろうと、感嘆の情を禁じえなかった」と書いています。渋沢栄一にとって、大久保利通は全く底の知れない人であり、素直に偉大だと思うと共に、何となく気味悪くも思え、それが大久保利通を嫌な人だと思う一因かもしれないと考えていたのです。

「器ならず」とは、「君子は器ならず」と言う、特定のことだけで役立つのではなく、様々な方面で自由に才能を発揮できることが望ましいという意味の論語です。

大久保利通の暗殺理由のひとつに、「国の金を無駄遣いしている」との糾弾がありました。しかし死後の調査で、大久保利通の銀行口座に預金はほぼなく、逆に現在の価値で1億円以上もの債務を負っていたことが分かっています。

実は、大久保利通は改革を進めるなかで、必要な資金が足りなかった場合に、身銭を切って賄っていたのです。そして大久保利通の死後、その債権を取り立てる者は現れませんでした。渋沢栄一が感じた器ならずな大久保利通は、私利私欲のためではなく、新しい日本のために尽くすことだけを考えていた人物で、周囲にもその想いが伝わっていたことを物語っています。

渋沢栄一と渋沢平九郎

「渋沢平九郎」(しぶさわへいくろう)は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の従兄であり義弟、そしてのちに養子となった人物です。1868年(慶応4年)7月、渋沢平九郎は「飯能戦争」(はんのうせんそう)で新政府軍と戦い、黒山(くろやま:現在の埼玉県入間郡越生町)で自刃(じじん:刀物で自分の生命を絶つこと)し、わずか20歳でその生涯を終えたのです。このとき、渋沢栄一は「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)を団長とするパリ万博使節団の一員として欧州に滞在していました。渋沢栄一と渋沢平九郎の関係、そして渋沢平九郎の生涯について紹介します。

渋沢平九郎とは

渋沢平九郎

渋沢平九郎

「渋沢平九郎」(しぶさわへいくろう)は、1847年(弘化4年)、武蔵国榛沢郡下手計村(むさしのくにはんざわぐんしもてばかむら:現在の埼玉県深谷市)の尾高家に生まれました。

渋沢平九郎の母は「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の父と姉弟。渋沢平九郎にとって、渋沢栄一は7歳上の従兄にあたります。

尾高家は名主(江戸時代の村役人)を務めるほどの豪農で、渋沢平九郎は、6、7歳のときに学問を、10歳頃には渋沢栄一も通った「神道無念流」の剣術を習い始めます。剣術を得意とし、18歳頃には人に教えるほどの腕前に成長。渋沢平九郎の非凡さは他でも発揮され、幼少時、父の浄瑠璃を聞いただけで、周囲の大人が驚くほど上手に謡ったというエピソードも残っています。

兄の「尾高惇忠」(おだかあつただ/おだかじゅんちゅう)や「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)、従兄弟の渋谷栄一や「渋沢喜作」(しぶさわきさく)のちの「渋沢成一郎」(しぶさわせいいちろう)などの影響もあり、「尊皇攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外敵を斥けようとすること)の思想を抱いて、自身も国事に奔走することを夢みていたのです。

1867年(慶応3年)に、渋沢栄一の「見立養子」(みたてようし)となり、このときから渋沢姓を名乗ります。見立養子とは、当時、幕臣が海外へ出向く際、万一に備えて自分の後嗣(こうし:あとつぎ)を指名していくというもの。渋沢栄一もパリ万博使節団の一員となった際、渋沢平九郎を見立養子としました。

また、渋沢平九郎の兄・尾高惇忠は、渋沢栄一より5歳上。幼少期から学問に秀で、17歳で自宅に私塾「尾高塾」を開講。渋沢栄一も、尾高塾で教えを受けたひとり。尾高惇忠は、明治時代に入ると実業家として活躍し、世界遺産「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう:群馬県富岡市)の初代所長も務めています。また、尾高惇忠の妹「尾高千代」(おだかちよ)は、渋沢栄一の最初の妻です。渋沢平九郎は、渋沢栄一の従兄であり、義弟、そして養子という関係性でした。

徳川慶喜の護衛「彰義隊」の一員に
大政奉還

大政奉還

渋沢平九郎は、渋沢栄一の見立養子になったことで、1867年(慶応3年)の夏以降、江戸で幕臣の子弟として文武の修行に励みます。

しかし、同年10月、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が「大政奉還」(たいせいほうかん:江戸幕府の統治権を朝廷に返上したできごと)を行なったことで、自身の進退に迷い、郷里に戻ることを決意。実家に戻った渋沢平九郎は、兄の尾高惇忠に「開国し、海外の文明を取り入れて国を富ますことが大事で、徳川慶喜公の決断は国家を思っての行為。この徳川慶喜公に尽くし、男子の本懐を全うしよう」と叱咤激励されたと言います。

しかし、1868年(慶応4年)、薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)が中心となった「新政府軍」と江戸幕府との内戦「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が勃発。徳川慶喜は、同年2月の「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍に敗れたあと、徳川家の菩提寺「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区)で謹慎する道を選びます。新政府に対して恭順(きょうじゅん:命令に謹んで従う態度)の姿勢を示したのです。

そして、同年3月15日、江戸幕府側の「勝海舟」と新政府軍の「西郷隆盛」は膝を突き合わせて会談し、同年4月11日に「江戸城」(現在の東京都千代田区)は無血開城となりました。江戸時代は完全に終止符が打たれたのです。

この頃、徳川慶喜の護衛を目的に、旧幕臣らにより軍事組織「彰義隊」(しょうぎたい)が結成されました。頭取は、渋沢栄一の従兄、渋沢成一郎。旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで敗れたあとも、あくまで江戸幕府に忠義を貫き、幕府を再興することを目論んでいました。兄である尾高惇忠の言葉を深く胸に刻んでいた渋沢平九郎は、兄と共に彰義隊に入隊。

一方で、フランスにいた渋沢栄一に、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れたこと、早く「徳川昭武/民部公子」(とくがわあきたけ/みんぶこうし)と共に帰国して欲しいといった、切実な思いに溢れる書簡を送っています。

上野戦争により彰義隊壊滅

明治維新が進むなか、彰義隊内部で意見の対立が起こり、渋沢平九郎は兄の尾高惇忠と従兄の渋沢成一郎と共に彰義隊を離れ、別に「振武軍」(しんぶぐん)を結成。振武軍は江戸を出て組織の立て直しを図ります。

一方、彰義隊は1868年(慶応4年)5月15日、上野で政府軍と衝突し「上野戦争」(うえのせんそう)が勃発。衝突の知らせを受けた渋沢平九郎達は、もとは同志の彰義隊を援護しようと、夜を徹して上野へ向かいます。しかし、田無(たなし:現在の東京都西東京市田無町)まで来たところで、彰義隊はすでに敗れ壊滅状態であることを知ったのです。

渋沢平九郎の最期

能仁寺

能仁寺

彰義隊の残党を吸収して総勢1,000~1,500人とも言われた振武軍は、再び江戸を離れ、一橋家の領がある飯能(はんのう:現在の埼玉県飯能市)に入り、「能仁寺」(のうにんじ:埼玉県飯能市)に本陣を構えます。

しかし、1868年(慶応4年)5月23日、新政府軍は飯能まで侵攻し、「飯能戦争」(はんのうせんそう)が勃発しました。

渋沢平九郎は、振武軍隊長の渋沢成一郎らと共に150人ほどで出陣しますが、最新装備の新政府軍を前に勝敗は明らかで、振武軍はあっという間に敗れて離散。兄とも離れてしまった渋沢平九郎は落ち延びて、故郷を目指します。

ひとりで郷里を目指す渋沢平九郎に、運命の分かれ道が訪れました。峠の茶屋でしばし休憩を取った渋沢平九郎は、茶屋の主人から落ち延びやすい道を勧められます。しかし、一刻も早く故郷に戻るためか、渋沢平九郎は提案を聞かず、予定していた黒山村(現在の埼玉県入間郡越生町)に降りる道を選択。

道中で新政府軍の兵と遭遇し、争ったものの「もはやここまで」と観念し、自刃に至ったのです。渋沢平九郎は、わずか20歳でした。

渋沢栄一が帰国後、渋沢平九郎の最期が判明
全洞院

全洞院

渋沢平九郎は斬首され、「法恩寺」(ほうおんじ:埼玉県入間郡越生町)門前でさらし首になったのち弔われました。

身近な者が誰も知らないまま、胴体は黒山村の人々によって「全洞院」(ぜんどういん:埼玉県入間郡越生町)に埋葬されたのです。

日本に戻ってきた渋沢栄一は、渋沢平九郎の消息が得られないまま、5年余りを過ごします。

1873年(明治6年)、渋沢平九郎の最期を知る黒山村の人々の情報が入り、ようやく渋沢平九郎の遺骨の存在が判明。渋沢平九郎は、渋沢栄一らによって谷中(やなか:現在の東京都台東区)にあった渋沢家の墓地に改葬され、渋沢平九郎が最期を迎えた場所には、自刃碑も建てられました。

渋沢平九郎が若い命を捧げた彰義隊や振武軍は、ひとつには徳川慶喜の汚名をそそぐことを掲げていました。現代では、徳川慶喜の大英断とも言われる大政奉還ですが、当時は徳川幕府が自ら負けを認めたと、徳川慶喜は逆賊の扱いを受けていたのです。

しかし、徳川慶喜の英断は、「いたずらに権勢を慕えば、世を騒乱に陥れることになる。戦いは断固避けねばならぬ」と熟考の末に至ったもの。渋沢栄一はフランスにありながら、幕末期に徳川慶喜の側近だった経験から、徳川慶喜の思いを十分に理解していました。そして渋沢栄一の養子となった渋沢平九郎は、徳川慶喜の名誉挽回のために立ち上がったのです。

一族から将来を有望視されていたことが窺える渋沢平九郎の夭逝は痛ましい限りですが、渋沢平九郎は渋沢栄一の思いと共に戦ったと言えます。

渋沢栄一の功績 銀行

日本近代資本主義の父と呼ばれる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の大きな功績のひとつに、日本初となった銀行の創設があります。1873年(明治6年)6月11日、渋沢栄一の手によって「第一国立銀行」が誕生しました。「国立」という文字が入っていますが、民間の銀行であり、のちの「第一勧業銀行」、現在の「みずほ銀行」の前身となった銀行です。渋沢栄一は、生涯に約500社もの企業を興し、日本の経済発展に尽力しましたが、その活動の中心となったのが銀行業と言われています。渋沢栄一が銀行に掛けた思いを紹介しましょう。

社会全体に金融を図るべきと日本初の銀行を創設した渋沢栄一

ヨーロッパ歴訪で西洋の合理的な金融システムを学ぶ

幕末期、武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくにはんざわごおりちあらいじまむら:現在の埼玉県深谷市)に、農民の息子として生まれた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、一時期、尊王攘夷(そんのうじょうい)派の志士として活動。

しかし縁あって「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)の家臣となり、一橋家では家政の改善などで活躍しました。そののち、一橋慶喜が第15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)となったことで、意図せず幕臣に。渋沢栄一は、江戸幕府の「パリ万博使節団」の一員に選ばれ、ヨーロッパ各地を歴訪し、最先端の知識に触れます。

特に西洋の合理的な金融システムに感銘を受けた渋沢栄一は、ヨーロッパ滞在中、使節団の庶務・会計という雑務を担当。使節団一行の案内役を務めたフランス人銀行家「フリュリ・エラール」から経済のイロハを学んだのです。

明治政府で大蔵官僚として活躍

渋沢栄一が訪欧中、日本では大政奉還が行なわれ、明治政府が誕生しました。

約2年ぶりに帰国した渋沢栄一は、徳川慶喜が居た駿府(すんぷ:現在の静岡県)に身を置きます。

そののち、明治政府から招かれて、1869年(明治2年)11月、29歳のときに官僚となりました。渋沢栄一が民部・大蔵両省の一員であった約3年半の間に、日本は近代国家への躍進に必要な法や制度の多くが整備されましたが、その多くに渋沢栄一がかかわっています。

主な取り組みを挙げるだけでも、度量衡(どりょうこう:長さなどの物理単位)の統一、廃藩置県に伴う藩札引換、簿記法の整備、貨幣法の整備、租税制度や郵便制度の導入、国家予算の大綱設定、国立銀行条例の制定等々と、枚挙にいとまがありません。

そして、1873年(明治6年)に大蔵省(現在の財務省)を辞めた渋沢栄一は、民間経済人として活動を始めました。そのスタートとなったのが、大蔵省時代の1872年(明治5年)に立案した国立銀行条例に基づく、日本初の銀行として創設した「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)の総監役(のちの頭取)だったのです。

第一国立銀行の設立

銀行発祥の地

銀行発祥の地

実は、渋沢栄一がまだ大蔵大丞(おおくらたいじょう:大蔵省における実務のトップ)のとき、江戸時代から両替商として力のあった豪商「三井組」や「小野組」が、それぞれ独自で銀行設立に向け、大蔵省に働きかけていました。

しかし渋沢栄一達大蔵省側は、銀行業務の独占に反対。渋沢栄一は、自宅に三井組、小野組の両首脳を招き、合同資本による銀行運営を勧め、一般公募でも出資者を募って、第一国立銀行を設立したのです。

大蔵省の官僚として第一国立銀行の創設を主導した渋沢栄一は、1873年(明治6年)、退官と同時に、第一国立銀行の創立総会を開き、日本全体の近代化への下支えとなる民間経営の銀行を誕生させました。第一国立銀行は、日本最古の銀行であると共に、日本で最初の株式会社でもあります。

銀行設立における渋沢栄一の理念

渋沢栄一が、第一国立銀行を創立した理由のひとつは、企業を興すための資金を必要な人に融資する仕組みを日本に導入するためでした。「鹿島茂」(かしましげる)氏の著作「渋沢栄一 上 算盤篇」によると、第一国立銀行を創設した際、渋沢栄一自身が株主布告において、次のように語っています。

「そもそも銀行は大きな川のような物だ。役に立つことは限りがない。しかしまだ銀行に集まってこないうちの金は、溝にたまっている水や、ぽたぽた垂れている滴と変わりがない。

ときには豪商豪農の倉のなかに隠れていたり、日雇い人夫やお婆さんの懐にひそんでいたりする。それでは人の役に立ち、国を富ませる働きは現わさない。水に流れる力があっても、土手や丘にさまたげられていては少しも進むことはできない。

ところが銀行を立てて上手にその流れ道を開くと、倉や懐にあった金が寄り集まり、大変多額の資金となるから、そのおかげで貿易も繁盛するし、産物もふえるし工業も発達するし、学問も進歩するし、道路も改良されるし、すべての国の状態が生まれ変わったようになる。」

「渋沢栄一 上 算盤篇」より

この理念を持って、渋沢栄一は第一国立銀行を足掛かりに、日本の未来に必要な企業についても自身が中心となって順次設立していくこととなります。最終的に、渋沢栄一は約500社もの企業の誕生にかかわりました。

また、日本の銀行業は第一国立銀行設立後、条例の改正に伴い、全国に153の国立銀行が生まれます。そののち、多くが普通銀行に転換しますが、「七十七銀行」(宮城県仙台市)や「百五銀行」(三重県津市)など、現在も当時の名を残す銀行も。

1883年(明治16年)の国立銀行条例の改正では、それまで国立銀行が発行した紙幣は「日本銀行券」に置きかえられ、1899年(明治32年)には、政府紙幣と共に通用停止となります。そして日本における流通紙幣は、日本銀行券に統一されたのです。

道徳経済合一説で日本を近代化へ導いた渋沢栄一

日本銀行本店を見守る渋沢栄一像

日本銀行本店を見守る渋沢栄一像

渋沢栄一が、銀行を核とした実業家の活動において、もうひとつ特筆すべき事柄があります。

渋沢栄一は「論語で一生を貫いてみせる」とまで言い切り、常に人生の柱としたのが「論語」。

論語とは、中国の春秋時代後期の思想家で、教育者、政治家でもあった「孔子」(こうし)と弟子達の会話を記した書物です。

渋沢栄一は、「仁義道徳に基づかないと、利殖[会社の利益]はうまくいかない」、「個人の富は国の富であるから、自分だけが儲かれば良いという考えではダメだ」といった言葉も残しています。渋沢栄一の業績の根幹にあったこの思想こそが、幕末からわずか数年の間に日本に資本主義を定着させる道を開くことができた大きな要因だと高く評価されているのです。

渋沢栄一の業績を考えれば、渋沢財閥が作れたはず、と自他ともに認めていますが、渋沢栄一はその道を選びませんでした。三菱財閥の創始者「岩崎弥太郎」(いわさきやたろう)から、「2人が固く手を結び事業を経営すれば、日本の実業界を思う通りに動かすことができる。大いにやろうではないか。」と誘われたときも、岩崎弥太郎の才覚には深い尊敬を抱きつつ、大きな富を独占しようという結論は自身の考えとは真逆だと断ります。

渋沢栄一が様々な事業を興したのは、大勢の人が利益を享受すると共に、国全体を富ませたいという思いに他ならなかったと言えるのです。

バンクを「銀行」と訳した由来
渋沢栄一の伝記によると、「バンク」を「銀行」と訳す際、渋沢栄一は、中国で同業承認組合を意味する「洋行」の「行」の1字に「金」を加え、「金行」と提案します。しかし、金行案に対して、幕末維新期に「三井の大番頭」として活躍し、三井財閥の中興の祖とされる「三野村利左衛門」(みのむらりざえもん)が、「交換」には銀も含むと異を唱えます。そして、金行よりも発音しやすい銀行になったのです。

渋沢栄一の功績 ライフライン

明治時代に入ると、それまでろうそくや行灯(あんどん)の灯りしか知らなかった日本人に、衝撃を持って迎えられたのが「ガス灯」です。当時のガス灯の明るさは15W程度のものでしたが、夜の街が真っ暗だった時代。ガス灯の明るさに人々は驚き、ひと目見ようと、多くの見物人がガス灯の周りに集まりました。ガス灯は、文明開化の象徴として人々の心にも明るさを灯したのです。

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、こうした暮らしの生命線とも言えるライフラインの供給にも率先して取り組み、1885年(明治18年)に「東京瓦斯会社」(とうきょうがすがいしゃ:現在の東京ガス株式会社)を創立。1906年(明治39年)には、自身も設立に尽力した「東京電灯会社」(1882年・明治15年設立)などを吸収する形で「東京電力株式会社」を設立しました。渋沢栄一がかかわった日本のライフライン整備について紹介しましょう。

庶民に「文明開化」を強く印象付けた「ガス灯」

横浜のガス灯

横浜のガス灯

日本初となった西洋式のガス灯は、1871年(明治4年)、現在の大阪府大阪市にある「造幣局」に設置されたと言われています。

機械の燃料として用いられていたガスを流用し、造幣局の工場の敷地内で灯されました。世界初のガス灯がロンドンで誕生してから約60年後のこと。

そして、日本の街中に初めてガス灯が現れたのは、1872年(明治5年)の神奈川県横浜市です。数十基のガス灯が横浜の外人居留地(現在の神奈川県庁から馬車道付近)に設置されました。

実は、横浜にガス灯が設置される前年の1871年(明治4年)、東京でもガス灯の導入が検討され、当時の東京府知事が新吉原にガス灯を整備するという計画を立案。東京府の共有金を充ててガス製造と供給のための機械一式を輸入しました。しかし、機械が日本に到着したときには計画が立ち消えとなっており、機械一式は東京都江東区深川にあった倉庫に据え置かれることになったのです。

そののち、1873年(明治6年)に、任意の経済団体だった「東京会議所」から、わざわざ輸入した機械を放置しておくのはもったいないと言う声が上がり、東京府内に500基のガス灯を設置することが決まりました。

ガス製造所の建設は、横浜にガス灯が設置された際、フランス人技師「アンリ・プレグラン」の指導のもと工事を請け負った「高島嘉右衛門」(たかしまかえもん)が引き受け、1874年(明治7年)12月から営業を開始。以降、ガス灯は盛り場に数多く設置されるようになり、東京の夜を格段に明るいものに変えました。

公の利益に徹しつつ、民間のガス会社を設立した渋沢栄一

1876年(明治9年)に東京会議所が廃止されたため、ガス事業は東京府の直轄に移管し、「東京瓦斯局」(とうきょうがすきょく)が経営にあたりました。しかし、当時のガス製造の能力は格段に低く、さらに割高のガス料金がネックになって利用者は増加せず、収支は赤字続き。

当時、すでに民間で活躍していた「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、その手腕を買われて、東京瓦斯局の局長を嘱託で任されることになります。局長として様々な改善を行ないますが、ガス製造の能力そのものに問題があったため、収支の好転にはなかなか至りませんでした。

さらに追い打ちをかけたのが、電灯の出現です。東京府は、ガス事業を継続すれば赤字は無限大になると憂慮し、1881年(明治14年)にガス事業から撤退し、民間へ払い下げをする方針を打ち出します。その払い下げ価格は、ほとんど捨て値であるばかりか、無利息、10年以上の割り賦という条件。民間企業側にとってみれば非常に好条件です。しかし、これに断固反対の異を唱えたのが渋沢栄一でした。

「事業の民間へ払い下げ自体は良いことだが、今はその時期ではない。東京府はガス事業に対し巨費を投じ、ここに来てようやく需要が増加し、あと数年で黒字化のめどが付き始めた。捨て値での払い下げは、貴重な税金をすべてどぶに捨てたことになる。まだ数年間は東京府の事業とし、利益が上がるようになってから払い下げれば、東京府は損失を被らずに済む」と主張したのです。この意見が府知事にも府会にも承諾され、払い下げは中止。引き続き、渋沢栄一が東京瓦斯局長として事業を担当しました。

「東京瓦斯会社」のパンフレット

「東京瓦斯会社」のパンフレット

そののち、東京府の瓦斯事業は、渋沢栄一のもと基礎の確立に努め、生産費の削減、需要の増加、利用方法の普及などにも取り組みます。

その努力の甲斐あって、1884年(明治17年)には、わずかながらも利益を計上するまでになりました。

渋沢栄一は、「今こそ民業に移す最適期である」と府知事に述べ、結果的に高値での民間への払い下げが実行されました。

さらに、渋沢栄一は、自分が手塩にかけて育てた事業であり、経営の基礎が定まったこのガス事業が中途で挫折することなく続くように、自身が委員総代となって事業を引き受け、経営していく道を選びます。

こうして渋沢栄一は、1885年(明治18年)に240,000円で瓦斯局の払い下げを受け、「東京瓦斯会社」(とうきょうがすがいしゃ:現在の東京ガス株式会社:東京都港区)を創立したのです。明治30年頃の1円は現在の貨幣価値だと、3,800円ぐらいに相当します。事業譲渡の金額ですから一概に言えませんが、それでも当時の240,000円は、現在の9億円を超えるほどの価値になるため、渋沢栄一はかなりの高額で購入したことになります。

あくまで「公」を忘れない「民」

東京ガスの歴史「ガスミュージアム」

東京ガスの歴史「ガスミュージアム」

一般的な資本家であれば、好条件の捨て値のときにこれを拾おうとします。

実は、1881年(明治14年)に東京府知事と府会は、払い下げを希望する業者が渋沢栄一と懇意であることも含み、資本家・渋沢栄一が業者側にとっての好条件を良しとするだろうと考え、無料同然での払い下げ方針を打ち出したのです。

しかしその予想に反し、反対した渋沢栄一に、東京府側は心底驚いたと言われています。渋沢栄一はなぜ、あえて高値で払い下げを受けることを選んだのでしょう。

渋沢栄一は、決して「官」を優先する実業家ではありませんでした。どちらかと言うと、「民」の方が官より優れていると確信を持っていた人物です。なぜなら、己の利益に返らないときには誰も一生懸命に努力しないという心理をよく分かっていたからです。だから渋沢栄一は、官営に民営で対抗できると、民の育成に最大限の力を入れました。

そんな渋沢栄一でしたが、あくまで彼の生き方の根底にあったのは「論語」の教えで、実業家としても終生、道徳と経済は両立させることができると言う「道徳経済合一説」の考えを持ち続けていました。渋沢栄一にとって、いくら民間に有利な話であっても、払い下げを受ける者と許可する者が馴れ合いでこれを行ない、「公」に不利益を与えてはいけないと考えていました。だからこそ安値ではなく、高値による払い下げを応じたのです。

名古屋瓦斯株式会社の誕生

渋沢栄一は、1906年(明治39年)の「名古屋瓦斯株式会社」(なごやがすかぶしきがいしゃ:現在の東邦瓦斯株式会社:本社は愛知県名古屋市)設立の発起人としても名を連ねています。愛知県名古屋市では、「奥田正香」(おくだまさか)ら財界人が、日露戦争後の好況期でのガス事業に意欲を燃やし、ガス会社の設立を計画。そこに東京の渋沢栄一も加わったのです。

また、渋沢栄一は九州の「門司瓦斯株式会社」(もじがすかぶしきがいしゃ)設立にもかかわっています。

全国の電力会社設立にも尽力

さらに渋沢栄一は、日本の電力事業発展にも大きく貢献。明治時代の初め、「工部大学校」(現在の東京大学工学部の前身のひとつ)の英国人教師と学生らは、実業家に電気事業の創設を提案しました。渋沢栄一らはその提案を受け、1882年(明治15年)に「東京電灯会社」を設立し、東京に火力発電所を建設して電力供給を開始。

そののち、各地の電力会社設立にも尽力した渋沢栄一は、1906年(明治39年)に東京電灯を吸収し、「東京電力株式会社」(現在の東京都千代田区)を設立するに至ります。

渋沢栄一の功績 学校

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、幕末期から大正時代前期にかけて実業家として活躍し、「日本資本主義の父」と呼ばれる人物ですが、自身が幼い頃から「論語」を学び、それを人生の指針としたように、教育支援にも熱い情熱を注ぎました。渋沢栄一がかかわった学校の代表例に、「東京高等商業高校」(現在の一橋大学:東京都国立市)や「日本女子学校」(現在の日本女子大学:東京都文京区)、「東京女学館」(東京都渋谷区)などがあります。「公益財団法人渋沢栄一記念財団」の「渋沢栄一伝記資料」によると、渋沢栄一が生涯に亘って支援した教育機関は合計で164校にも及んでいるのです。渋沢栄一が教育にかけた想いを紹介しましょう。

プロデューサー的役割を果たした渋沢栄一の学校支援

生涯に約500社もの会社の設立にかかわった「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)ですが、会社を興す際に最も力を注いだのは、「プロデューサー」としての役割でした。つまり、株主を募り資金を集め、会社を設立し、その経営に最適な人材を配置。そのため、日頃から幅広い人脈を持つように心掛け、その事業にふさわしい人物を登用したのです。

渋沢栄一が民間人になって最初に興した「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)は、日本初の銀行であり、かつ日本初の株式会社でした。この第一国立銀行でも渋沢栄一により、年齢などに関係なく評価・抜擢された、たくさんの人物がその後中心的存在となって活躍しています。

日本女子大学

日本女子大学

こうした渋沢栄一のプロデュースやマネジメントの能力が顕著に発揮されたのが、教育へのかかわりにおいてです。

例えば、1901年(明治34年)に開校した「日本女子大学校」(現在の日本女子大学:東京都文京区)。

新しい時代には新しい女子教育が必要であると考えていた渋沢栄一は、日本女子大学校の設立者「成瀬仁蔵」(なるせじんぞう)の教育方針に強く共感します。

成瀬仁蔵は、本格的な女子高等教育機関の設立を強く目指し、「女子教育」と言う著書を出版。そこに「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」という女子教育の方針を示したのです。それまで女子教育はあっても、それは良妻賢母となり家のなかで活躍する女性を育成しようというもの。

渋沢栄一は、成瀬仁蔵が著書も出し、「女性が人として自立し活動できるよう世論を喚起しよう」という考えに熱い思いを抱きました。渋沢栄一自身、国力を増強するためには、国民の半分を占める女性の才能や、知恵を育てる教育が必要だと考えていたからです。

渋沢栄一は、日本女子大学校の設立発起人のひとりに加わり、創立委員及び会計監査を担当。開校準備に際しては、建築委員や教務委員も引き受け、開校後に財団法人に変更された際には評議員になっています。

そして、何より特筆すべきは、学校の運営資金のために多額の寄付をしていることです。「渋沢栄一伝記資料」によると、1899年(明治32年)、1904年(明治37年)、1907年(明治40年)の3回だけでも計27,500円を寄付。物価換算で、明治30年頃の1円が今の3,800円ぐらいであることを考えると、現在の1億円を超える額に相当し、渋沢栄一がいかに莫大な額を寄付していたかが分かります。

また、渋沢栄一はプロデューサーとして、学生の良き暮らしにも思いを馳せ、学生寮も寄付しています。もっと言えば、渋沢栄一は自ら寄付するだけでなく、成瀬仁蔵らと共に募金のため地方へも足を運びました。とにかく必要とあらば、渋沢栄一は驚くべきスピード感で行動し、教育事業への尽力を惜しまなかったのです。

女子教育について渋沢栄一は、まず1887年(明治20年)に初代内閣総理大臣でもある「伊藤博文」(いとうひろぶみ)や三菱財閥創業者「岩崎弥太郎」(いわさきやたろう)の弟「岩崎弥之助」(いわさきやのすけ)、英国聖公会主教「エドワード・ビカステス」、カナダ人宣教師「アレキサンダー・ショー」らと共に「女子教育奨励会」を創設。

これをもとに、1888年(明治21年)に開校したのが、「東京女学館」(東京都渋谷区)です。開校後、渋沢栄一は会計監査や館長、理事長を務めました。

実業教育への熱き視線

一橋大学「兼松講堂」

一橋大学「兼松講堂」

また渋沢栄一は、日本の近代化に向けて産業を盛んにするためには、商工業で才能溢れる人材を育成する必要があるという信念を持ち、「実業教育」にも尽力しています。

そして、「東京商業学校」(現在の一橋大学:東京都国立市)、「大倉商業学校」(現在の東京経済大学:東京都国分寺市)、「工手学校」(こうしゅがっこう:現在の工学院大学:東京都新宿区)、「横浜商業学校」(現在の横浜商業高等学校・横浜市立大学:神奈川県横浜市)、「高千穂商業学校」(現在の高千穂大学:東京都杉並区)などの設立にかかわりました。

こういった商業学校の大学昇格は、文部省(現在の文部科学省)の反対などがあり容易に進みませんでしたが、まず、1920年(大正9年)に東京商業学校が「東京商科大学」への昇格を果たし、これが現在の一橋大学へとつながります。

そののち、渋沢栄一がかかわった実業教育を主にした商業学校のいくつかは渋沢栄一の没後、大学に昇格したのです。

早稲田大学でも重役を担った渋沢栄一

大隈重信

大隈重信

「早稲田大学」(東京都新宿区)は、「大隈重信」(おおくましげのぶ)が創設した大学として広く知られていますが、渋沢栄一なくしては「私学の雄」と称されるまでには至っていなかったとも言われています。

渋沢栄一は、早稲田大学設置の際、自らも多額の寄付をしただけでなく、寄付金を広く集める先頭に立ち活躍しました。

さらに、早稲田大学の基金管理委員長や維持員、校規改正調査委員会長、終身維持員、故大隈侯爵記念事業後援会会長、校規改正審議委員長といった様々な役割を長年に亘り担っていたのです。

教育と合わせ振興した「文運」

「日本資本主義の父」としての印象が強い渋沢栄一ですが、このように教育にも非常に熱心だったのは、単に産業振興だけを考えてのことではありません。渋沢栄一は、明治維新を成就させた日本がまず進めるべきは、「文運」(ぶんうん)だと考えていました。文運とは、学問や芸術が盛んな状態のこと。教育を振興すると共に、情報を流通させて国民を啓蒙し、日本により良い新しい文化が生まれる基盤を整えたいと考えていたのです。

成瀬仁蔵を大きく支援したのも、その思想と共に、成瀬仁蔵が女子教育を出版して、世論を喚起しようと素早く動いたところにも共感を覚えたからでしょう。「小貫修一郎」(こぬきしゅういちろう)編の「渋沢栄一自叙伝」には、次のような言葉が記されています。

「私の考える処[ところ]では、維新の大業が成就した当時において、第一に進むべきものは文運であると思い、かつ文運の発達には製紙事業を興して、廉価な洋紙を供給し、図書及び新聞雑誌等の出版を盛んならしめることも重要な要素のひとつである。」

「小貫修一郎 編 渋沢栄一自叙伝」より

渋沢栄一は、この考えを実行に移すように、「抄紙会社」(しょうしがいしゃ)のちの王子製紙、現在の「王子ホールディングス株式会社」(東京都中央区)の創立にもかかわっています。新聞・出版を盛んにするため、印刷に最適で廉価な紙を供給することを目指して、製紙事業を興したという訳です。教育や文化を経済でしっかりと支えるという渋沢栄一の心意気が感じられます。

渋沢栄一の功績 飲料メーカー

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、「第一国立銀行」を皮切りに、生涯で500社に近い企業を興し、日本の近代化、そして経済発展に尽力しました。渋沢栄一が手掛けた事業のひとつに、ビール事業があります。具体的に言うと、渋沢栄一は、直接的に2つの麦酒(ビール)会社の設立にかかわりました。「ジャパン・ブルワリー・カンパニー・リミテッド」(現在のキリンビール株式会社)と「札幌麦酒会社」(現在のサッポロビール株式会社)です。両社共、現在はそれぞれグループ経営を行ない、ビール会社の枠を越え、日本有数の飲料メーカーに成長。その発端となった日本のビール事業と渋沢栄一とのかかわりを紹介します。

日本のビール事業・飲料事業が飛躍する礎を築いた「渋沢栄一」

ジャパン・ブルワリーの醸造所(1885年頃)

ジャパン・ブルワリーの醸造所
(1885年頃)

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、生涯に亘って一企業の隆盛よりも産業全体の発展を重視していました。その考えがあったからこそ、渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれたのです。

現に渋沢栄一は、紡績業や海運業などでもライバルとなる複数の会社を同時に支援しており、麦酒醸造業においても同様でした。

「ジャパン・ブルワリー・カンパニー・リミテッド」(現在のキリンビール株式会社:東京都中野区)には、中堅財閥である大倉財閥の創始者「大倉喜八郎」(おおくらきはちろう)らと共に、1885年(明治18年)の創立当初から出資。株主理事員を務め、1889年(明治22年)には、「重要な審議を除いては重役会への出席は要請されない」と言う条件付きではありましたが、重役にも就いています。

一方で、1887年(明治20年)には「開拓使麦酒醸造所」(かいたくしびーるじょうぞうしょ)を引き継いだ「札幌麦酒会社」(現在のサッポロビール株式会社:東京都渋谷区)の発起人に加わり、委員長として経営に携わっていたのです。渋沢栄一は、設立当初の両社をそれぞれに支援し、麦酒醸造業の発展に尽力しました。

大日本麦酒株式会社の設立

ビール

ビール

現在、飲料メーカーの大手3社とされるのは、キリンビール株式会社、「アサヒビール株式会社」(神戸市中央区)、「サントリーホールディングス株式会社」(大阪市北区)ですが、渋沢栄一はキリンビール株式会社の他に、アサヒビール株式会社にもかかわりを持っています。

アサヒビール株式会社のルーツは1889年(明治22年)に誕生した「大阪麦酒会社」(おおさかびーるがいしゃ)。

創立時点でのかかわりはありませんが、1906年(明治39年)年に、札幌麦酒会社は、大阪麦酒会社と、現在の「エビスビール」のルーツでもある「日本麦酒」(にっぽんびーる)と合併し、「大日本麦酒株式会社」(だいにっぽんびーるかぶしきがいしゃ)として生まれ変わります。

渋沢栄一は、合併後の大日本麦酒株式会社で、1909年(明治42年)まで取締役を務めました。そして、この大日本麦酒株式会社は、1949年(昭和24年)に「日本麦酒株式会社」(にっぽんびーるがぶしきがいしゃ)と「朝日麦酒株式会社」(あさひびーるがぶしきがいしゃ)の2社に分かれ、現在のサッポロビール株式会社とアサヒビール株式会社へと発展を遂げたのです。

明治時代のビールとは?

明治20年代、日本に国産ビールが生まれた当初のビールとは、どのような物だったのでしょう。明治時代初期に輸入されていたビールのほとんどはイギリス産でした。しかし、最初に造られた国産ビールの多くは、ドイツ風ビールだったのです。1890年(明治23年)5月の日刊新聞「時事新報」にこんな記事があります。

「一口に評すれば英国ビールは濃くして苦味十分に含み、独逸[ドイツ]ビールは淡くして吞口さらさらと好し」。

日刊新聞「時事新報」より

当時の日本人は、イギリス風ビールに比べて、淡白で苦味が少なく飲みやすいドイツ風ビールに魅力を感じたようです。輸入業においても、当初はイギリス産ビールが主流でしたが、日本人好みの飲みやすさから、だんだんとドイツ産ビールへと移行。その流れから最初の国産ビールもドイツのビール醸造法を参考に造られたのです。

北海道開拓として誕生した「札幌麦酒」

国産のドイツ風ビールの製造について、札幌麦酒会社を例にすると、札幌麦酒会社の前身であった開拓使麦酒醸造所は、1869年(明治2年)に明治政府が北海道開拓のため「開拓使」(かいたくし)を設置したことに始まります。

同年、それまで「蝦夷地」(えぞち)と呼ばれていた北の大地を北海道と改称。開拓使は、1869年(明治2年)~1882年(明治15年)の間、北海道の開拓経営のために置かれた日本の行政機関です。開拓使では、北海道の気候や地勢、資源などの調査をもとに事業を展開。開拓使が廃止されるまでに30以上の開発事業が実を結び、そのなかにビール醸造も含まれていました。

発売当初の「札幌ビール」のラベル

発売当初の「札幌ビール」のラベル

開拓使によるビール醸造事業では、本場のドイツで修業した初の日本人「中川清兵衛」(なかがわせいべえ)を迎え、1876年(明治9年)に開拓使麦酒醸造所を開設。

1877年(明治10年)に誕生した北海道初のビールは、「冷製札幌ビール」と名付けられ、東京で発売されました。

この「冷製」と言うのがドイツ醸造法の特徴で、低温で発酵・熟成させたビールという意味です。

現在も、開拓使のマーク「北極星」は、サッポロビール伝統のシンボルとなっています。

1882年(明治15年)3月に開拓使が廃止されると、開拓使麦酒醸造所は農商務省工務局所管の「札幌麦酒醸造所」に、さらに1886年(明治19年)には新設された北海道庁に移管。そして北海道庁では、本土資本の導入を奨励するため、札幌麦酒醸造所を民間へと払い下げることにします。

こうして1886年(明治19年)、北海道道庁から札幌麦酒醸造場の払い下げを受けたのが、大倉喜八郎の大倉組でした。大倉喜八郎は日本のビール事業が大きく飛躍する基礎をしっかりと固めたいと考え、翌年の1887年(明治20年)に渋沢栄一、そして1代で浅野財閥を築いた実業家「浅野総一郎」(あさのそういちろう)らと共に新会社「札幌麦酒会社」を設立。

そののち、大倉喜八郎が考えたように、渋沢栄一達の参画と尽力によって日本のビール事業は大きく飛躍、現代へとつながっているのです。

渋沢栄一の功績 倉庫業

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)と言えば、日本で初めて株式会社を設立した人物です。生涯でかかわった企業は500以上。そして、日本経済の未来を見据え、常に先見の明を持っていた渋沢栄一が、積極的に設立を進めた事業が「倉庫業」です。渋沢栄一は、なぜ倉庫業を発展させようと考えたのか。渋沢栄一の倉庫業への想いと共に、設立に携わった主な倉庫会社をご紹介します。

渋沢栄一が唯一名を残した「澁澤倉庫株式会社」

倉庫業の必要性を見抜いていた渋沢栄一

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、1873年(明治6年)に大蔵省(現在の財務省)を退官したあと、日本初の銀行を設立して金融業を牽引していきました。そののち、日本の近代化を進めるため、ヨーロッパ留学で得た知識をもとに、あらゆる分野の事業設立に携わっていきます。

そんななか、渋沢栄一は日本経済の発展のために、早々に物流業を充実させなければいけないと考えました。そして、物流業を発達させるには、近代的な倉庫業が必要だろうという展望を持っていたのです。こうして渋沢栄一は、日本の商工業育成には、銀行や保険といった事業と共に、運送業や倉庫業の発達が不可欠であるという信念を掲げ、1877年(明治10年)頃から倉庫業の創設運動を始めました。

鉄筋コンクリート造倉庫と深川本店

鉄筋コンクリート造倉庫と深川本店

渋沢栄一は、政府関係者や経済界に倉庫業の必要性を説き続け、1897年(明治30年)3月30日に東京深川区(現在の東京都江東区)の渋沢家別邸の倉庫を利用して「澁澤倉庫部」を発足させます。

渋沢栄一自身が営業主となり、長男の「渋沢篤二」(しぶさわとくじ)が倉庫部長に就任。

そして、1905年(明治38年)に別邸の土地を澁澤倉庫部専用地として拡大させると、1907年(明治40年)に日本初の鉄筋コンクリート造倉庫を建設。そののち、1909年(明治42年)には、現在へ続く「澁澤倉庫株式会社」(東京都江東区)に改組されます。

渋沢栄一の精神を受け継ぐ
澁澤倉庫株式会社

澁澤倉庫株式会社

渋沢邸の倉庫から始まった澁澤倉庫株式会社は、1915年(大正4年)に深川を本店として地方にも進出し、業務を拡大。

なお、この背景には銀行業務に伴う担保品を保管するための倉庫が必要になったため、地方銀行からも近代的倉庫の設置が求められていたという事情があります。

こうして、澁澤倉庫株式会社は北海道の小樽と福岡県の門司(もじ)に支店を設置。しかし、深川に設置されていた倉庫は、1923年(大正12年)に起こった関東大震災によって、大きな被害を受けます。そののち、澁澤倉庫株式会社は本店を深川から南茅場町(現在の東京都中央区日本橋)へ移転し、再建への道を歩み始めるのです。

渋沢栄一が亡くなった1931年(昭和6年)以降も、澁澤倉庫株式会社は渋沢栄一の経営理念をもとに、事業拡大に向けて突き進みます。1933年(昭和8年)、関西地方への拡大を図り、兵庫に本店を置く鈴木商店経営の「浪華倉庫株式会社」と合併。これを機に、神戸や横浜などの主要港に進出することとなり、全国に支店を拡大します。

そののちは、戦後の困難も乗り越え、高度成長期を通じて倉庫業の供給が高まると、陸上運送業・港湾運送業・航空国際運送業に業務を拡大。澁澤倉庫株式会社は、総合物流業企業として日本の経済成長と共に発展を遂げていきました。

2009年(平成21年)、澁澤倉庫株式会社は原点である江東区永代(えいたい:かつての深川)に本拠を戻し、創業者・渋沢栄一が掲げていた「道徳経済合一説」(道徳と経済は一致する)や、倉庫業の基本である信用の重大さを表した「信為万事本」(信を万事の本と為す)という信念を受け継ぎながら、現在も事業展開を続けています。

渋沢栄一に由来する社章

澁澤倉庫株式会社は、多くの企業に携わってきた渋沢栄一が唯一「シブサワ」という名前を冠した会社です。また、澁澤倉庫株式会社の社章には、渋沢栄一の生家と関連した記章が採用されています。

澁澤倉庫株式会社が掲げる赤い記章は、糸巻や鼓を立てて、横から見た形であると言われており、「りうご」や「ちぎり」と呼ばれる記章です。これは、渋沢栄一の生家が染料である藍の葉を固形化した藍玉(あいだま)の製造や販売をしていたときに使用していた記章で、澁澤倉庫部が設立された際、渋沢家が用いていたこの記章を受け継ぎ、印半纏(しるしばんてん)や倉庫の壁に掲げていたと言われています。

なお、この記章にちなんで、当初の澁澤倉庫部は「りうご蔵」と呼ばれていました。本記章は、澁澤倉庫株式会社に改組してから現在に至るまで、社章として使用されています。

渋沢栄一が相談役を務めた「東陽倉庫株式会社」

名古屋の倉庫業拡大を目指し設立
東陽倉庫株式会社

東陽倉庫株式会社

倉庫業の全国展開を目指していた渋沢栄一は、商業が盛んな名古屋における倉庫会社の設立にも携わっていました。

現在、愛知県名古屋市中村区に本社を置く「東陽倉庫株式会社」もそのひとつです。

1906年(明治39年)12月5日、渋沢栄一は東陽倉庫株式会社の前身である「東海倉庫株式会社」の創立に株主として賛助します。

名古屋商業会議所(現在の名古屋商工会議所:愛知県名古屋市)で行なわれた創立総会で相談役を委嘱された渋沢栄一は、1909年(明治42年)6月までその職に就きました。

この東海倉庫株式会社は、名古屋銀行(現在の三菱UFJ銀行:東京都千代田区)を設立して頭取を務める実業家「滝兵右衛門」(たきへいえもん)と、同じく名古屋銀行を設立して取締役を務める実業家「瀧定助」(たきさだすけ)によって、名古屋天王崎町(現在の愛知県名古屋市中区栄)に設立された会社です。

当時、名古屋には「名古屋倉庫株式会社」という倉庫会社がありましたが、1社では処理しきれないほどの委託貨物を抱えていたと言われています。そこで、名古屋の倉庫業発展のために、渋沢栄一をはじめとする財界人によって東海倉庫株式会社が設立されたのです。

東海倉庫株式会社は、設立当初、名古屋倉庫株式会社と競合するライバルという関係でしたが、1926年(大正15年)に2社が合併し、東陽倉庫株式会社となりました。

こうして東陽倉庫株式会社は、愛知県を中心に倉庫会社として発展していったのです。現在は国内外の物流業や不動産業に携わりながら、社会を支える総合物流企業として展開を続けています。

渋沢栄一の功績 海運・陸運

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、明治時代の幕開けとともに、海外の企業に追い付くように日本の近代化を進めました。しかし、開港によって国際的な競争が始まると、日本は深刻な貿易赤字に苦しむことになります。そこで、渋沢栄一は国内の海運業育成に注力し、日本の海運業の発展に努めました。また渋沢栄一は、当時日本に導入されていなかった地下鉄道路線の建設にも携わり、日本の陸運業にも大きく貢献。渋沢栄一が携わった海運・陸運の物流業についてご紹介します。

渋沢栄一と岩崎弥太郎による海運業「日本郵船株式会社」

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が設立に携わった海運業と言えば、日本を代表する海運会社である「日本郵船株式会社」(東京都千代田区)です。日本郵船株式会社のルーツには、渋沢栄一と実業界における最大の宿敵「岩崎弥太郎」(いわさきやたろう)が深くかかわっており、開国後の困難をライバルと乗り越えたというエピソードがあります。

はじめに、日本郵船株式会社の前身で、明治時代前期に日本最大の海運会社となった、岩崎弥太郎率いる「郵便汽船三菱会社」の歴史をご紹介します。

岩崎弥太郎

岩崎弥太郎

幕末時代の開港後、明治新政府によって改めて正式に開国が定められてからも、日本は不平等条約による不利な貿易のため、深刻な赤字に悩み続けていました。

そんななか、政府は外国との競争に勝つための海運会社や、商社の育成計画を立て、軍事輸送を行なっていた岩崎弥太郎の「三菱商会」を保護会社に定めます。

こうして、三菱商会の海運部門は郵便汽船三菱会社として、政府の支援を受けながら日本最大の海運会社へと成長することとなりました。

岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社は、アメリカやイギリスの海運会社との競争にも打ち勝つほど強大な力を持つ海運会社となり、日本の海運業を独占します。しかし、1881年(明治14年)に三菱の後ろ盾となっていた「大隈重信」(おおくましげのぶ)が政府から追放されると、政府は一転して三菱抑圧へと乗り出すのです。

これには、すでに大蔵省(現在の財務省)を退官して実業界に身を置いていた渋沢栄一が、独裁的に事業を進める岩崎弥太郎を危惧していたという背景がありました。

政変が起こる3年前の1878年(明治11年)、渋沢栄一は岩崎弥太郎に招待されて、向島の料亭で会談をしています。このとき、岩崎弥太郎は「才能ある者だけで独占経営を行なうべきだ」と渋沢栄一に協力を求めました。しかし、渋沢栄一は道徳と経済の合一を目指す人間であったため、岩崎弥太郎の意見を否定して誘いを断ります。

こうして、政府は岩崎弥太郎とは対照的だった渋沢栄一と協力して、1882年(明治15年)に郵便汽船三菱会社に対抗するために「共同運輸会社」を設立しました。

海運業の未来のために手を取り合う

政府から後援を受けた渋沢栄一の共同運輸会社は、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社の独占を阻止するために対抗し、顧客獲得を巡って値下げをするなど、熾烈な競争を展開。

ところが激しい張り合いを続けるうちに、両社とも経営危機に陥ってしまいます。1885年(明治18年)、岩崎弥太郎が胃がんの末に病没すると、郵便汽船三菱会社は弟の「岩崎弥之助」に引き継がれました。そして、政府と渋沢栄一は海運業の未来のために、岩崎弥之助と手を取り合うことを決意します。

日本郵船株式会社

日本郵船株式会社

こうして、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社は合併し、1885年(明治18年)10月1日に両社の資産を継承した「日本郵船会社」を設立。

また、1893年(明治26年)には日本郵船会社は日本郵船株式会社になり、そののち、日本初の遠洋定期航路であるボンベイ(現在のムンバイ)航路を開設する際には、渋沢栄一が調整役として尽力します。

日本郵船株式会社は日本を代表する海運業として発展を遂げ、近年は新たな事業も展開するなど、世界最大手の海運会社に数えられる企業となりました。

現在、日本郵船のシンボルとして知られている「二引の旗章」は、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併した際に誕生した社旗です。白地に引かれた2本の赤い線は、2社が合同したことを意味しており、「これから日本郵船株式会社の航路が地球を横断する」という決意も込められていると言われています。

アジア初の地下鉄路線を建設した「東京地下鉄道株式会社」

「東京メトロ」の愛称で親しまれている「東京地下鉄株式会社」(東京都台東区)は、2004年(平成16年)に特殊会社として設立された鉄道事業社です。東京地下鉄株式会社のルーツである「東京地下鉄道株式会社」の設立にも、渋沢栄一はある若手実業家を後援する形で携わっていました。

早川徳次

早川徳次

東京地下鉄道株式会社は、1920年(大正9年)8月に「早川徳次」(はやかわとくじ)によって創立された会社です。

当時の日本には地下鉄がなかったため、地下鉄道路線を建設することは画期的な事業でした。

創立者の早川徳次は、1908年(明治41年)、早稲田大学卒業後に「南満州鉄道株式会社」に入社し、1911年(明治44年)に「佐野鉄道」(現在の東武鉄道佐野線:東京都墨田区)に赴任して経営再建を成功させます。

1912年(明治45年)には「高野登山鉄道」(現在の南海電気鉄道高野線:大阪市浪速区)の再建にも貢献し、鉄道事業の経営で才能を発揮していました。

しかし、1914年(大正3年)のヨーロッパ視察で訪れたイギリスで、早川徳次は発達した地下鉄を目の当たりにして衝撃を受けます。「東京にも地下鉄が必要だ」と思い立った早川徳次は、帰国後に鉄道省や自治体に路線建設を働きかけますが、早川徳次の先見性に理解を示す者はいませんでした。

そんななか、私営での建設を働きかけ始めた早川徳次に、賛同する人物が現れます。早稲田大学在学時代に書生として世話になった政治家「後藤新平」や、早稲田大学創立者で当時の首相・大隈重信、そして実業界を牽引する渋沢栄一が、早川徳次の考えに理解を示しました。渋沢栄一は、イギリスの地下鉄に感銘を受けた早川徳次の姿と、かつて幕臣時代にフランスの生活を見て日本の近代化を進めてきた自身の姿を重ねたのです。

渋沢栄一らは地下鉄路線建設を斡旋し、早川徳次の地下鉄道免許取得と事業設立を後援しました。こうして、1920年(大正9年)8月、東京地下鉄道株式会社が設立。そののち、1925年(大正14年)に地下鉄工事を開始すると、災害や事故などの困難を乗り越え、1927年(昭和2年)に現在の東京メトロ銀座線と同区間となる「浅草駅」から「上野駅」までの地下鉄を開業させました。

日本だけでなく、アジア初となる地下鉄路線を建設し、地下鉄を導入した早川徳次は「地下鉄の父」と称えられるようになりました。「実業界の父」と呼ばれ、日本の未来のために走ってきた渋沢栄一は、早川徳次の先見性を誰よりも評価していたのです。

渋沢栄一の功績 造船・土木

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、あらゆる分野の事業に携わり、江戸時代から続く歴史ある会社や、日本の未来に必要な会社など、多くの企業を支えました。渋沢栄一が経営危機を救ってきた会社のなかでも、特にかかわりの深い造船業と土木業についてご紹介します。

渋沢栄一が会長も務めた「株式会社IHI」

平野富二

平野富二

東京都江東区に本社を構える「株式会社IHI」は、幕末時代の1853年(嘉永6年)に創設された「石川島造船所」をルーツとする、日本の三大重工業のひとつ。石川島造船所を設立したのは「平野富二」(ひらのとみじ)。

平野富二は、「長崎製鉄所」(現在の三菱重工業長崎造船所:長崎県長崎市)で経験を積み、若くして経営責任者となった人物です。

1876年(明治9年)、平野富二は海軍省から借用した石川島修船所跡地(現在の東京都中央区佃)に、「石川島平野造船所」を設立。そして、民間洋式造船所の草創期を切り拓いた石川島平野造船所は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)による支援を受けていくこととなります。

石川島平野造船所は、東京で唯一洋式ドックを用いて船舶修理を行なっていたと言われていますが、造船業における多額の投下資本に加え、潤沢な運営資金が必要であったため、常に資金不足に悩まされていました。そんななか、平野富二は当時「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)頭取であった渋沢栄一に造船業の重要性を訴え、賛同を得ます。

こうして、渋沢栄一及び「第十八国立銀行」(現在の十八親和銀行:長崎県長崎市)頭取の「松田源五郎」から融資を受け、石川島平野造船所は資金難を乗り越えました。

1889年(明治22年)、石川島平野造船所は組合の資金をもとに、個人会社から「有限責任石川島造船所」へと改めます。このとき、渋沢栄一は委員会の常任委員を務めており、そののち、1893年(明治26年)に「株式会社東京石川島造船所」へ改組した際には、取締役会長に就任。

また、渋沢栄一は筆頭株主でもあったため、実業界の引退を決意した1909年(明治42年)まで、取締役会長として東京石川島造船所の経営を支え続けました。なお、渋沢栄一の次男「渋沢武之助」(しぶさわたけのすけ)や三男「渋沢正雄」(しぶさわまさお)、孫の「穂積律之介」(ほづみりつのすけ)も、東京石川島造船所の役員を務めています。

そののち、東京石川島造船所は海洋業にも事業を拡大。造船業以外にも様々な大型機械製品を製造する会社へと成長を遂げました。1945年(昭和20年)、総合機械メーカーとして名称を「石川島重工業株式会社」に改名。1960年(昭和35年)には、「株式会社播磨造船所」と合併して「石川島播磨重工業株式会社」となりました。また、航空エンジンや宇宙機器などの新事業にも挑み、2007年(平成19年)に現在の株式会社IHIの社名に改称。

明治時代から渋沢栄一とともに日本の造船業を支えた株式会社IHIは、2013年(平成25年)に創業160年を迎えました。

渋沢栄一とともに近代建築を生んだ「清水建設株式会社」

日本を代表する大手総合建設会社のひとつである「清水建設株式会社」(東京都中央区)は、1804年(文化元年)江戸の神田で大工棟梁「清水喜助」(しみずきすけ)が創業した歴史ある企業です。

明治時代から大正時代にかけて渋沢栄一とともに歩み、清水家4代60年に亘って関係を築き上げました。清水建設株式会社の創業者である初代・清水喜助は、栃木県日光市にある「日光東照宮」や、東京都千代田区にあった「江戸城」の再建に携わった人物です。

2代目 清水喜助(藤沢清七)

2代目 清水喜助(藤沢清七)

初代・清水喜助から指名されて2代目・清水喜助となったのは、江戸城再建に参加していた「藤沢清七」。

2代目・清水喜助は、近代化の流れをいち早く汲み取った人物で、幕末時代に外国人のもとで西洋建築を学び、和洋折衷の新しい近代建築様式を収得。

そして、1872年(明治5年)には、渋沢栄一が設立した日本初の銀行である第一国立銀行を手掛けます。

第一国立銀行は、木造2層の洋風建築でありながら、日本ならではの天守閣を備えており、一風変わったこの外観は大きな話題を呼び、近代日本の幕開けの象徴となりました。渋沢栄一は、この建造物を見て「日本初となる唯一無二の銀行建築だ」と、2代目・清水喜助の仕事を高く評価したと言われています。

そののち、2代目・清水喜助は第一国立銀行の建築で渋沢栄一から信頼を得たことで、渋沢栄一にとって最初の邸宅を手掛ける棟梁に抜擢。2代目・清水喜助は、渋沢栄一の期待に応えるため、大工人生をかけて邸宅の建設に取り掛かり、1878年(明治11年)に深川区福住町(現在の東京都江東区永代)に渋沢邸を竣工。邸宅は、地上2階建ての床面積1,810平方メートル。日本の伝統的な建築様式をベースとしながらも、玄関にはステンドグラスが使用されている他、応接室には暖炉が設置されるなど、和洋折衷の洋館となっています。

晩香廬

晩香廬

2代目・清水喜助から始まった渋沢栄一と清水組の関係は、建造物を通して深くなっていきました。

1887年(明治20年)、幼くして跡を継ぐこととなった4代目「清水満之助」の代には、渋沢栄一を相談役として迎え、経営指導を受けます。

1915年(大正4年)、清水組は個人経営から「合資会社清水組」へ改組。1917年(大正6年)には、渋沢栄一の喜寿の祝いとして洋風茶室の「晩香廬」(ばんこうろ:東京都北区)を建設します。晩香廬は、国内外の貴賓を招待するレセプションルームとして使用されていたと言われています。

1937年(昭和12年)8月には、新たに「株式会社清水組」を設立し、合資会社清水組を合併。そして、1948年(昭和23年)に現在の清水建設株式会社に改称されました。清水建設株式会社は、現在でも渋沢栄一の教えである「論語と算盤」(ろんごとそろばん)を社是に掲げ、渋沢栄一が生涯大切にしていた道徳と経済の合一をもとに、日本の未来創造に貢献することを経営理念として歩み続けています。

渋沢栄一の功績 放送・通信

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、数多くの日本初となる事業を軌道に乗せ、日本における情報通信業の黎明期に尽力した人物です。特に、大正時代には放送業の設立に携わり、晩年は自ら講演放送も行なっていました。また、19世紀になって産業革命が起こると、渋沢栄一は電気通信網の発展で通信業が発達していた欧州に追い付かねばならないと考え、日本の通信業発達にも率先してかかわっていきます。

渋沢栄一が顧問を務めた「日本放送協会」

NHK放送センター

NHK放送センター

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、日本の放送業を支えたことで知られていますが、「NHK」という公式略称でお馴染みの「日本放送協会」の歴史にもかかわりがある人物です。

現在のNHKは、放送法に基づき公共放送を行なう特殊法人ですが、渋沢栄一がかかわっていた設立当初、社団法人として運営されていました。

日本放送協会の設立は、渋沢栄一が海外交流に注力していた大正時代初期に遡ります。1926年(大正15年)8月6日、東京・大阪・名古屋で設立されていた3つの放送局が合併し、3拠点の放送局の施設や従業員を継承したまま、社団法人「日本放送協会」が設立されました。当時、86歳だった渋沢栄一は、新たにひとつの社団法人として誕生した日本放送協会の顧問に就任。以後、亡くなるまで顧問を務め、放送業の支援を続けていきました。

設立時の1926年(大正15年)11月11日には、当時、愛宕山(あたごやま:東京都港区愛宕)にあった東京中央放送局において「平和記念日について」と題する講演放送を実施。以後、渋沢栄一は第一次世界大戦終結を祝して、世界平和記念日とされている11月11日に毎年、講演放送を行ないました。

また、渋沢栄一は1931年(昭和6年)の7月から8月にかけて起こった中国大水害の折には、「中華民国水災同情会会長」に就き、9月6日に「中華民国の水害について」という題目の講演放送を行なっています。渋沢栄一の晩年における民間外交は、こうして日本放送協会を通して国民に広まっていきました。

さらに、このときの放送は、東京都北区西ヶ原にあった渋沢栄一の「飛鳥山邸」の病床より放送されたと言われています。この放送が行なわれた2ヵ月後の1931年(昭和6年)11月11日に、渋沢栄一はこの世を去りました。

そののち日本放送協会は、1950年(昭和25年)に放送法が施行されたことにより、特殊法人の日本放送協会となります。1951年(昭和26年)には「NHK紅白歌合戦」の第1回が放送され、1953年(昭和28年)には日本初のテレビ本放送が開始。こうして、日本放送協会は時代を超えて国内外の情勢を伝えながら、国民に愛される放送局として現代まで発展し続けます。

渋沢栄一が賛助した「日本電報通信社」

日本における通信社の歴史は江戸時代中期から始まりますが、本格的に機能し始めたのは明治時代以降です。そして、日本の通信社の発達は、現在、日本最大手の広告代理店である「株式会社電通」の前身である「電報通信社」の誕生と渋沢栄一の貢献によって進められました。

光永星郎

光永星郎

1901年(明治34年)7月、従軍記者の経験を持つ「光永星郎」(みつながほしお)は、通信事業の資金調達のため「日本広告株式会社」を設立。

渋沢栄一は、日本広告株式会社の賛助員となり広告業を支援しました。

そして、設立から4ヵ月後の1901年(明治34年)11月、光永星郎は、この広告代理店に併設する形で「電報通信社」を設立。

このとき、光永星郎は日清戦争で記者として中国に渡った際、通信不備で記事掲載が大幅に遅れたことをきっかけに、自ら通信社を設立することを決めたと言われています。

1906年(明治39年)12月には、電報通信社を改組して「株式会社日本電報通信社」となり、1907年(明治40年)8月に日本広告株式会社と合併して、通信業と広告業を併せ持つ会社となりました。渋沢栄一は、日本電報通信社の賛襄員(さんじょういん)となり、引き続き支援を続けていくこととなります。

1908年(明治41年)12月3日、創立7周年記念式典を日本初の洋風劇場である「有楽座」(現在の東京都千代田区有楽町2丁目付近)で開催。このとき、逓信省(ていしんしょう:郵便や通信を管轄していた中央官庁)通信局長の「小林謙二郎」とともに、渋沢栄一も祝辞を述べに式典に参加しました。

また、渋沢栄一は1921年(大正10年)4月7日の「日本電報通信社20年記念祝賀会」に出席して祝辞を述べるなど、賛襄員として日本電報通信社の行事に度々参加していたことが記録として残っています。

渋沢栄一が設立支援した対外的通信社と電通の競争

日本電報通信社が日本でのシェアを獲得していくなか、渋沢栄一は1914年(大正3年)2月に設立された「国際通信社」の支援にも注力していきました。この国際通信社設立の背景には、渋沢栄一の日本における対外的通信社の確立という強い気持ちが込められていたのです。

1909年(明治42年)、渋沢栄一が渡米実業団の団長として、アメリカとの民間外交を行なった際のこと。アメリカでは、日本を蔑むような悪意ある記事が報じられていました。渋沢栄一は、「対外的通信社を設立しなければならない」と痛感し、アメリカで長年研究を行なっていた「高峰譲吉」(たかみねじょうきち)とともに対外発信の必要性を主張。こうして、1914年(大正3年)に日本を世界に発信する「国際通信社」が設立されたのです。

渋沢栄一が相談役に就いた国際通信社は、1926年(大正15年)に「東方通信社」と合併して「日本新聞聯合社」(にっぽんしんぶんれんごうしゃ)となり、日本の有力通信社として台頭した電報通信社とライバル関係となります。

電通

電通

1931年(昭和6年)10月、渋沢栄一の容態が悪化すると、日本電報通信社を通じて各新聞社に発表されました。

そののち、電報通信社は1936年(昭和11年)に通信部門を日本新聞聯合社の後身である「同盟通信社」に移譲して、広告代理店専業となります。

本社を京橋区(現在の東京都中央区銀座)に構えて、1955年(昭和30年)に株式会社電通と改称したあと、創立100周年を迎えた2001年(平成13年)に東証一部に上場しました。

こうして株式会社電通は、渋沢栄一とともに日本における通信社の歴史を築き、現代に続く広告業の発展に貢献したのです。

渋沢栄一の功績 帝国ホテル・病院

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、明治新政府で近代日本経済の中枢を担いながら、弱者のための保護施設を設立するなど、近代日本における福祉事業の発展に大きく貢献した人物です。渋沢栄一が官僚時代から実業家時代にかけて行なった福祉事業は、現代日本にも広く受け継がれています。また、外国人との交流が急増した明治時代には、外国人を接待するための近代ホテルの建設にも深くかかわりました。近代国家として日本が成長していくために、渋沢栄一が先導して設立にかかわった代表的な病院とホテルについてご紹介します。

渋沢栄一が院長を務めた「地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センター」

前身である「養育院」のルーツとは?
東京都健康長寿医療センター

東京都健康長寿医療センター

東京都板橋区にある地方独立行政法人「東京都健康長寿医療センター」は、病院と研究所が一体となって高齢の患者を中心に、高度医療を提供している大規模総合病院です。

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、東京都健康長寿医療センターの前身である「養育院」(よういくいん)の運営に深く関係していたのです。

養育院は、1872年(明治5年)に生活困窮者や病人、孤児、老人、障がい者などの弱者を保護するための施設として開設されました。

現在の福祉事業の原点ともなる養育院設立のルーツは、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」の治世に、「小石川養生所」(こいしかわようじょうしょ:現在の東京大学大学院理学系研究科附属植物園:東京都文京区)という無料の医療施設が江戸に設立されたことに始まります。

松平定信

松平定信

小石川養生所は、貧民救済施設として機能し、江戸時代中期に開設してから幕末時代まで、約140年もの長い期間、幕府によって運営されていました。

この運営の仕組みを作ったのが、徳川吉宗の孫にあたる「松平定信」(まつだいらさだのぶ)です。

松平定信は、老中在任中に打ち出した「寛政の改革」のなかで「七分積金」(しちぶつみきん)という積立制度を作りました。

この制度は、江戸の町費倹約を命じ、節減分の7割を積立して貧民救済などに割り当てた積金政策です。この積金政策によって、小石川養生所は長期間運営することができました。

そののち、明治維新によって小石川養生所が閉鎖されたあと、七分積金による積立金を市民のために有効活用することが決められ、小石川養生所のような救済施設である養育院が設立されます。そして、養育院の設立当時に七分積金の管理を担当していたのが渋沢栄一だったのです。

松平定信の遺志を継いだ渋沢栄一

渋沢栄一は、名君・松平定信を尊敬していたと言われています。1874年(明治7年)、松平定信の遺志を受け継いだ渋沢栄一は、養育院の運営に関与することになり、1876年(明治9年)には養育院事務長に任命されたのです。

しかし、養育院の運営は決して順風満帆ではありませんでした。養育院は当初、上野に設置されましたが移転を繰り返し、関東大震災後に現在の板橋の地に定着しました。その間、度々東京府(現在の東京都)の議会では廃止論に晒されただけではなく、やがて公費支出も停止。厳しい財政での委託運営を迫られていたのです。

渋沢栄一は、運営資金を確保するために「鹿鳴館」(ろくめいかん:現在の東京都千代田区)でのバザーを開催するなど、養育院の存続のために奮闘しました。1890年(明治23年)に養育院は東京市営となり、渋沢栄一は養育院長に就任。院長として約50年間、養育院の地盤固めに尽力しました。

そののち渋沢栄一は、銀行や証券をはじめとする様々な事業から引退したあとも、亡くなるまで養育院長として、その役職をまっとうします。そして、松平定信の命日にあたる13日を選んで養育院を毎月訪れ、入所する子供や患者を励ましたと言われています。

渋沢栄一の銅像

渋沢栄一の銅像

1986年(昭和61年)、養育院は「東京都老人医療センター」となり、2009年(平成21年)に研究所と統合されて現在の名称である東京都健康長寿医療センターへと改名。

現在、病院入口近くに建つ渋沢栄一の銅像は、養育院長として分院・専門施設を開設して事業を拡大させ、優秀な研究者を世に多く輩出したことを記念して1925年(大正14年)に建立され、この銅像の除幕式には、渋沢栄一本人も出席していました。

渋沢栄一が手掛けた「株式会社帝国ホテル」

財界人が考えた「日本の迎賓館」
帝国ホテル

帝国ホテル

東京都千代田区に建つ「帝国ホテル」と言えば、東京都港区の「ホテルオークラ」、及び東京都千代田区の「ニューオータニ」と共に、ホテル界の「御三家」のひとつに数えられる、日本を代表する高級ホテルです。

明治時代に誕生した帝国ホテルもまた、渋沢栄一によって手掛けられた事業のひとつ。

帝国ホテルは、渋沢栄一をはじめとする財界人によって設立され、近代日本における外交の場として、約150年という長い歴史を紡いできました。

帝国ホテルの誕生は、明治維新による混乱が落ち着いてきた時期まで遡ります。明治新政府は、諸外国と対等な外交関係を築く場所を作るために、ホテルの建設計画を立てました。渋沢栄一は、時の閣僚「井上馨」(いのうえかおる)からの呼びかけで、実業家「大倉喜八郎」(おおくらきはちろう)と共に、国家の威信をかけた一大プロジェクトに挑むことになります。

渋沢栄一らは、1888年(明治21年)に「有限責任帝国ホテル会社」(設立当初は、有限責任東京ホテル会社)を設立し、当時、外国人との重要な社交場であった鹿鳴館に隣接する場所でホテルの建設を開始。こうして、着工から2年後の1890年(明治23年)11月3日、接遇所をかねた「日本の迎賓館」として、帝国ホテルが開業しました。

そののち、渋沢栄一は理事長就任を経て、1893年(明治26年)に帝国ホテル初代会長に就任。1909年(明治42年)に会長職を退いたあとも、渋沢栄一は度々帝国ホテルに足を運び、従業員へ激励の言葉をかけたと言われています。

「渋沢栄一伝記資料」のなかには「ホテルは一国の経済にも関係する重要な事柄。外来の客を接伴して満足を与えるようにしなければならない」という言葉が残されており、渋沢栄一のこの言葉通り、帝国ホテルは開業以来、ランドリーサービスやホテルウェディングといった日本初のサービスを導入しただけではなく、ホテル直結のショッピングアーケードの設置、バイキングスタイルのレストランなど、画期的なサービスを次々と考案して顧客満足度向上を追求しました。

帝国ホテルの革新的なサービス展開は、まさに渋沢栄一が掲げる「道徳経済合一」の理念と重なります。帝国ホテルは現在も、渋沢栄一が築いた歴史と共に「日本の顔」である一大ホテルグループとして世界に通じるサービスを提供し続けているのです。

渋沢栄一の功績 絹織・製紙・印刷

2014年(平成26年)に世界文化遺産に登録された群馬県富岡市の「旧富岡製糸場」は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)によって明治時代前期に設立された工場施設です。当時の日本には大規模な工場はまだなかったため、富岡製糸場の設立は渋沢栄一が政府の人間として取り組んだ巨大プロジェクトのひとつとなりました。渋沢栄一が明治新政府と手掛けた絹織業の富岡製糸場と共に、官僚退官後に携わった製紙業や印刷業について見ていきましょう。

日本の未来のために設立された「富岡製糸場」

世界遺産に登録された日本初の官営大規模工場
富岡製糸場

富岡製糸場

明治新政府は、当時、日本を代表する輸出品であった生糸を大量生産するために、官営の模範工場を群馬富岡に建設することを計画していました。

ちょうど、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が入省してすぐに民部省(のちの大蔵省:現在の財務省)租税正(そぜいのかみ)に任命され、税制改革などに取り組んでいた頃のことです。

このとき政府は、農家出身で養蚕業を営んでいた渋沢栄一に目を付け、「富岡製糸場」設立の担当に選任。こうして、富岡製糸場設置主任となった渋沢栄一を中心に設立計画は進み、1872年(明治5年)9月に富岡製糸場は操業開始しました。

富岡製糸場の初代場長には、渋沢栄一と共に設立準備に尽力していた民部省の「尾高淳忠」(おだかあつただ)が就任。工場建設にあたって現場を取り仕切っていた尾高淳忠は、渋沢栄一の従兄で幼少期からの学問の師でもある人物です。渋沢栄一は、長年信頼と尊敬の念を抱いていた尾高淳忠となら、このプロジェクトを遂行させられると考えていたのでしょう。尾高淳忠はその期待に応えるように、初代場長となってからも工女の教育に熱心に取り組むなど、1876年(明治9年)に場長の職を退くまで富岡製糸場の労働環境の整備に努めました。

富岡製糸場は、操業時にフランス人技師の「ポール・ブリューナ」を指導者として迎え入れると、国内初の大規模な機械工場として日本に技術革新を起こします。富岡製糸場で生産された生糸は海外でも評判を呼び、日本の生糸輸出量が増加したことで、富岡製糸場に続いて日本各地で製糸工場が設立されました。

こうして、富岡製糸場は日本における機械工業の先駆者となり、渋沢栄一は大規模工場の導入を手掛けたひとりとして功績を残したのです。そののち、官営工場だった富岡製糸場は、民間に払い下げられることとなりましたが、1987年(昭和62年)までの115年間稼働し続けました。

渋沢栄一が礎を築いた「王子グループホールディングス株式会社」

富岡製糸場を設立して製糸工場を軌道に乗せた渋沢栄一が、次に構想を練っていたのが製紙業の発達です。当時、大蔵省で「紙幣寮」現在の国立印刷局(東京都港区)の初代紙幣頭を務めていた渋沢栄一は、紙幣印刷用の国産洋紙や、国民のための新聞や書籍に使用する印刷物用の洋紙の必要性を強く感じていました。

そこで、安価で上質な紙を大量製造するために、渋沢栄一は三井組などと共に製紙業の合本組織設立を計画します。そして1872年(明治5年)に会社設立を出願し、1873年(明治6年)に認可されて「抄紙会社」(しょうしがいしゃ)が設立されました。

王子ホールディングス株式会社

王子ホールディングス株式会社

この抄紙会社は、のちの「王子製紙株式会社」であり、現在製紙業界において国内最大手のグループとなった「王子ホールディングス株式会社」(東京都中央区)の前身です。

国内トップの売上を誇るまでに成長した王子グループですが、創業当時の抄紙会社は苦難の道のりを歩んでいました。

抄紙会社の設立直後、渋沢栄一は大蔵省を退官して、製紙工場を下王子村(現在の東京都北区)に建てます。渋沢栄一はヨーロッパから最新機械を導入して、フランス人技師を迎え入れましたが、機械は思ったように稼働せず、また技師達との意思疎通もうまくいきません。

しばらく頭を悩ませていた渋沢栄一ですが、根気よく人材と技術の育成を続けていきました。そして、渋沢栄一の指導と共に様々な困難を乗り越えた抄紙会社は、日本の製紙業界を牽引する存在へと成長していったのです。

抄紙会社は、1893年(明治26年)に創業地の名を冠した王子製紙となり、そののち、多数の製紙会社との合併を経て、2012年(平成24年)に純粋持株会社制に移行して、王子グループホールディングス株式会社と改称しました。現在も創業時、渋沢栄一が掲げていた「道徳と経済の合一」の精神を受け継ぎ、王子グループは資源環境ビジネスなどの事業拡大や、グローバル展開を行ないながら発展し続けています。

渋沢栄一が印刷業発展のために援助した「秀英舎」

佐久間貞一

佐久間貞一

日本を中心に全世界に拠点を置き、印刷・情報の技術を中心に様々な事業を展開する「大日本印刷株式会社」(東京都新宿区)。そのルーツにも、渋沢栄一はかかわっています。

大日本印刷の前身である「秀英舎」(しゅうえいしゃ)は、幕末期に渋沢栄一と同じく幕臣であった「佐久間貞一」(さくまていいち)と仏教学者の「大内青巒」(おおうちせいらん)らによって、明治時代前期に設立された会社です。

佐久間貞一は、1873年(明治6年)に大教院(教部省が設置した教導職の機関)で宗教新聞発行に携わったことをきっかけに「人々の知識や文化の向上に貢献したい」と考え、1876年(明治9年)に共同出資で東京銀座に活版印刷の秀英舎を設立。当時、印刷設備を整えるためには多額の資金が必要だったため、渋沢栄一の援助で第一国立銀行(現在のみずほ銀行)内にあった製紙会社「東京分社印刷工場」の印刷機械を借用して操業開始しました。

秀英舎という社名は「英国より秀でるように事業を伸ばせ」という思いを込めて「勝海舟」が名付けたと言われています。そして、設立直後には英国の著述家「サミュエル・スマイルス」の「Self-Help」を翻訳した「中村正直」(なかむらまさなお)の「改正西国立志編」の印刷を行ないました。西国立志編は、明治三大名著のひとつに数えられる大ベストセラーで、本書の再販本印刷は秀英舎にとって初の大仕事だったのです。秀英舎は日本で初めて活版印刷を行ない、国産洋装本として出版された本書は話題を呼びました。

そののち秀英舎は、1886年(明治19年)に東京市ヶ谷にある5,000坪の土地に印刷工場を建設。1894年(明治27年)に「株式会社秀英舎」へ改組すると、京橋区(現在の東京都中央区銀座)に本舎を構えます。

1928年(昭和3年)には日本初の本格的なグラビア印刷を開始し、新聞や雑誌の活版印刷と共に高度な印刷技術を発展させるなか、1935年(昭和10年)には「日清印刷」と合併して大日本印刷株式会社となりました。そののち、時代の変化に合わせて、マルチメディア分野やソリューション事業にも展開を広げ、日本を代表する総合印刷会社として現在も発展し続けています。

渋沢栄一の功績 経済団体・取引所

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、大蔵省(現在の財務省)を3年半ほどで退官して、日本初の銀行や大規模工場の設立に尽力しながら日本の近代化を推し進めていました。日本よりも先に近代化を実現していた欧米と対等に貿易交渉するためには、何が必要か、渋沢栄一はかつて訪れた欧州で得た知識を頼りに、日本の商工業の発展を目指して思案を巡らせます。渋沢栄一が日本実業界のために設立した経済団体と、日本初の公的取引所について見ていきましょう。

商人の世論をまとめるために発足「東京商法会議所」

明治時代前期、政府は開国後に欧米との間で結ばれた不平等条約の撤廃のために、欧米と交渉を行なっていました。その際「不平等条約は日本の世論が許さない」と主張していた政府でしたが、イギリス公使の「ハリー・パークス」から「日本には多数が協議する組織がないから、世論というものがない」と反論されてしまいます。

欧米と対等に交渉をするためには、まず世論をまとめなくてはいけないと感じた内務省長官「伊藤博文」(いとうひろぶみ)と大蔵省(現在の財務省)長官「大隈重信」(おおくましげのぶ)は、渡欧経験のある「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)に意見を求めました。そこで、渋沢栄一は商工業者達の意見を取りまとめる団体の設立を提案したのです。

東京商工会議所

東京商工会議所

1877年(明治10年)12月、渋沢栄一は三井財閥の「益田孝」(ますだたかし)や、ジャーナリストの「福地源一郎」(ふくちげんいちろう)、海外視察経験を持つ実業家の「大倉喜八郎」(おおくらきはちろう)などと共に経済団体の設立準備を進め、東京府知事に請願。

こうして、翌年の1878年(明治11年)3月に認可されて「東京商法会議所」(現在の東京商工会議所)が設立されました。

同年8月1日には、東京の日本橋駿河町(現在の東京都中央区日本橋室町)の「三井銀行」(現在の三井住友銀行)で初集会が開かれ、発起人である渋沢栄一は初代会頭と内国商業事務委員に就任。10月7日に会議所規則・議事規則を取り決め、伊藤博文と共に東京府知事に提出しました。

1879年(明治12年)8月には、アメリカ合衆国前大統領の「ユリシーズ・グラント」将軍の来朝に合わせて、渋沢栄一をはじめとする東京商法会議所のメンバーが中心となって歓迎会を行ない、手厚い接待で将軍夫妻をもてなしたと言われています。

そののち、東京商法会議所は60名ほどの会員で維持され、商工業の景況報告や様々な議論をしながら「商人の世論」を取りまとめました。

1883年(明治16年)10月に一時解散したあと、翌月11月に「東京商工会」を発足し、1890年(明治23年)9月の商業会議所条例の公布に合わせて「東京商業会議所」に改めることに。いずれも、渋沢栄一が発起人となり、会頭を務めています。1911年(明治44年)には、設立当初の目標であった条約改正が一部行なわれ、欧米諸国との間で対等な国際関係が築かれ始めることとなりました。

そして、1928年(昭和3年)1月から現在の名称である東京商工会議所となり、1999年(平成11年)には会員数100,000件を突破。現在も東京商業会議所は、商工業を発展させるために経営支援や地域振興などの活動を中心に行なっています。

渋沢栄一が兜町に夢を描いた「東京株式取引所」

渋沢栄一は東京商業会議所設立を計画していた頃、同時に取引所制度の整備を進めていました。当時、明治新政府は公債発行を行ない、国立銀行と士族による公債売買が盛んになったことで、取引所設立の需要が高まっていたのです。

渋沢栄一はこの動きにいち早く反応し、横浜から東京日本橋堺町(現在の東京都中央区日本橋人形町)に進出して来た両替商「今村清之助」(いまむらせいのすけ)と共に取引所設立を計画します。準備当初は、渋沢栄一と今村清之助は反りが合わず、設立計画は難航。今村清之助の熱心な説得に根負けした渋沢栄一は、1877年(明治10年)に合同で取引所の創立出願をすることとなりました。

東京証券取引所

東京証券取引所

渋沢栄一の尽力によって、1878年(明治11年)6月1日、日本初の公的な株式取引所となる「東京株式取引所」(現在の東京証券取引所)が日本橋兜町に開業。

当初は東京株式取引所の他に、兜町に渋沢栄一が設立した「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)と「東京兜町米商会所」、日本橋の「東京蛎殻[かきがら]町米商会所」の4銘柄が上場しましたが、仲買人と取引所職員を合わせても100人に満たない小規模な市場だったと言われています。

明治期の起業ブームが起こると、次第に兜町には企業や銀行、証券市場が集まるようになり、兜町は「商業の街」へと変化を遂げていきました。

東京株式取引所の大株主であった渋沢栄一は、1886年(明治19年)に同所株式をすべて手放し、新たな企業設立支援の道を歩み始めました。そして、1888年(明治21年)にはイタリア・ベネチア風の建築様式の立派な邸宅を建て、渋沢栄一自身も兜町に居を構えることに。渋沢栄一はこの頃、兜町を中心に東京の商業都市構想を描いていたのです。

そののち、1943年(昭和18年)に戦時統制機関への改編に伴い、東京株式取引所をはじめとする全国の11取引所が「日本証券取引所」に統合されますが、戦後に日本証券取引所は解散。1949年(昭和24年)4月1日、東京株式取引所は、証券業者を会員とする東京証券取引所として再開され、2001年(平成13年)に株式会社へと改組されました。

設立時はたった100人ほどで始まった取引所でしたが、現在はアメリカの「ニューヨーク証券取引所」とイギリスの「ロンドン証券取引所」と共に「世界三大市場」のひとつに数えられるほど大規模な取引所となっています。

こうして、東京証券取引所がある兜町は日本経済を象徴する場所となり、渋沢栄一がかつて夢見たように、東京は日本最大の商業都市へと成長を遂げました。

渋沢栄一の功績 製薬・電気機器製造

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が、実業家として奔走していた富国強兵を掲げる明治期の日本において、医学・薬学の発展と、大量の物資や人員をすみやかに運ぶ交通網の発達は喫緊の課題でした。近代日本の発展のため、渋沢栄一が後進に託した製薬業とのかかわりや、鉄道電化に伴う事業の展開を目指した渋沢栄一による電気機器製造業創立の歴史を見ていきましょう。

渋沢栄一が若手実業家を指導した「三共株式会社」

三共株式会社のルーツとは?

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、1867年(慶応3年)にフランスのパリで開催された万国博覧会に、幕府使節として視察に訪れています。このときに化学試験所を見学した経験を活かして、帰国後に日本国内の医薬品製造業の発展にも関与しました。

第一三共株式会社

第一三共株式会社

1887年(明治20年)に設立された「東京薬品会社」の顧問を務めた他、現在、製薬大手である「第一三共株式会社」(だいいちさんきょうかぶしきがいしゃ:東京都中央区)の前身会社のひとつ「三共株式会社」(さんきょうかぶしきがいしゃ)の勃興にも携わっています。

三共株式会社のルーツは、1899年(明治32年)に実業家の「塩原又策」(しおばらまたさく)、「西村庄太郎」(にしむらしょうたろう)、「福井源次郎」(ふくいげんじろう)の3名により設立された医薬品販売業「三共商店」。

高峰譲吉

高峰譲吉

この三共商店は、アメリカで「バイオテクノロジーの父」と呼ばれている科学者「高峰譲吉」(たかみねじょうきち)が発見した消化酵素「タカヂアスターゼ」の輸入販売権を獲得しています。

1902年(明治35年)には、高峰譲吉による副腎髄質ホルモン剤「アドレナリン」の輸入販売権も獲得し事業を拡大させると、1909年(明治42年)に「三共合資会社」へと改称。

そして、1913年(大正2年)に三共株式会社として改組し、開発者である高峰譲吉を初代社長に迎えました。

日本のために頑張る者達を応援

この株式会社への改組と、高峰譲吉が社長として迎え入れられた経緯に、渋沢栄一がかかわっています。

高名な科学者であった高峰譲吉は、三共株式会社初代社長就任前の1886年(明治19年)に、渋沢栄一の後援を受けて「東京人造肥料会社」(現在の日産化学株式会社:東京都中央区)を設立していました。

塩原又策

塩原又策

そこで、塩原又策は事業拡大のための後援を求めて、かねてより交流のあった高峰譲吉に頼み、渋沢栄一を紹介して貰うこととなったのです。

こうして渋沢栄一は、塩原又策の所見に賛同し、当時の財界と業界の有力者達を集めて、三共株式会社への援助を行ないました。

また、株式会社改組による初代重役の推薦にも携わり、渋沢栄一は塩原又策のような若手実業家を熱心に指導しました。塩原又策は、このときの渋沢栄一の対応を、自分のような若者にも熱心に指導してくれて感激だったと綴っています。

そののち三共株式会社は、医薬品開発の他にも事業の多角化を図り、農業・自動車販売代理店・モーターサイクル事業・ベークライト(石炭酸樹脂)事業も手掛けました。しかし、事業は再び製薬業に集中され、2005年(平成17年)に「第一製薬株式会社」との共同持株会社である第一三共株式会社を設立し、2007年(平成19年)に完全統合。

こうして、渋沢栄一の後援を礎とする歴史を紡ぎながら、第一三共株式会社は製薬会社業界の大手企業として現在に至ります。

渋沢栄一が創立した「東洋電機製造株式会社」

鉄道車両用電機品の国産化計画の発起
東洋電機製造

東洋電機製造

東洋電機製造株式会社」(とうようでんきせいぞうかぶしきがいしゃ)は、東京都千代田区に本社を置く東証一部上場企業で、鉄道車両用電機品のリーディングカンパニーです。渋沢栄一は、この会社の創立にも深く関係しています。

東洋電機製造株式会社の歴史は、渋沢栄一と「京阪電気鉄道」(現在の大阪市中央区)の役員を務めていた「渡邊嘉一」(わたなべかいち)、衆議院議員の「久保田与四郎」(くぼたよしろう)らによって、鉄道車両用電機品の国産製造が企画されたことに始まりました。

渡邊嘉一

渡邊嘉一

1907年(明治40年)、この計画の発起人として渋沢栄一は、渡邊嘉一と共に計画発表を行ない、「東洋電機」を創立。

そののち、1918年(大正7年)に東洋電機製造株式会社へと改組され、渋沢一族が株主となり、長きに亘り会社経営に参画していくこととなるのです。

東洋電機製造会社の設立経緯には、1914年(大正3年)に勃発した「第一次世界大戦」によって、海外からの電気機器の輸入が困難になり、様々な機械類の急速な国産化の機運が高まったことがあります。渋沢栄一らはそこに着目し、電車用及び一般の電気機器、器具の制作・販売・輸出入を行なう企業として、東洋電機製造会社を立ち上げたのです。

これを踏まえ、初代社長の渡邊嘉一は、イギリスの総合電機メーカーであり、当時世界の電機産業を牽引していた「ディック・カー・アンド・カンパニー」こと、通称「デッカー社」の技術を導入し、鉄道電化の国産化を進めました。

会社設立にあたり、渡邊嘉一が作成した東洋電機製造株式会社の設立趣意書によれば、「国産化を成すことで、第一次世界大戦による輸入が途絶えた我が国の需要窮乏を補い、諸外国からの輸入を防止することで、資金の流出を防ぎ、さらには国産化した製品を東洋各国へ輸出して外貨を獲得し、国家の助成に貢献するために会社を設立する」とあり、この「東洋各国へ」の部分が社名の由来となっています。そして、渋沢栄一はこの設立趣意書に賛同の意を表明し、後援しました。

東洋電機製造株式会社は、1921年(大正10年)に国産初の鉄道用パンタグラフを開発。1926年(大正15年)にはトロリーバス電機品、1936年(昭和11年)にディーゼル電気電車を完成させるなど、数多くの国産初となる電機製品や装置の開発を行ないました。1964年(昭和39年)に開通した東海道新幹線用のパンタグラフも納入しています。

そののち、欧米諸国をはじめ、中国、タイ、インドにも多種の電機品を輸出する企業に発展。2018年(平成30年)には創立100周年を迎え、現在も発起人である渋沢栄一が築いた歴史と共に歩み続けています。

渋沢栄一賞

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、明治時代から大正時代にかけて約500社もの企業設立に携わり、実業界を牽引するリーダーとして日本の近代化に最も貢献した人物だと言えます。現代においても「実業界の父」、あるいは「近代日本経済の父」と称えられる渋沢栄一ですが、ただ経営手腕が優れていただけではありません。渋沢栄一は、福祉や教育といった社会貢献活動や、国際交流でも自身の力を発揮し、人々のために尽くす慈善家としての顔も持っていました。私益よりも公益を大切にしていた渋沢栄一のように、社会事業に尽力した企業経営者には「渋沢栄一賞」という賞が贈られています。

全国の経営者に贈られる「渋沢栄一賞」

渋沢栄一の精神を受け継ぐ経営者を表彰

2002年(平成14年)に始まった渋沢栄一賞は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の出身地である埼玉県が、優れた企業経営者を表彰する賞です。

対象は、埼玉県内だけではなく全国とし、①「企業倫理に則り健全かつ優れた経営を行なっている」、②「社会貢献や地域貢献を行なっている」という選考基準を満たす企業経営者の中から選ばれます。

選考方法は国や地方公共団体、関係団体などから推薦や情報提供を募り、渋沢栄一賞選考委員会の審査を経て、埼玉県知事が受賞者を決定。2002年(平成14年)の初開催以降、先駆的な企業活動を行ない、様々な支援活動を実施している経営者が毎年2~3名選ばれています。

渋沢栄一賞は、現代における企業家のあるべき姿を示すための賞でもあるのです。

現代の渋沢栄一! 渋沢栄一賞受賞者紹介

井村屋グループ株式会社 代表取締役会長・浅田剛夫氏
あんまん・肉まん

あんまん・肉まん

2018年度(平成30年度)の第17回渋沢栄一賞を受けた「井村屋グループ株式会社」(三重県津市)の代表取締役会長「浅田剛夫」(あさだたけお)氏は、井村屋グループを代表する「あずきバー」や「肉まん・あんまん」などをロングセラー商品として育成したことや、海外事業進出、グループ経営などの事業展開が高く評価されました。

それと共に、幼児を対象とした食育活動やグループが行なう環境保全活動である「アズキキングの森」(三重県津市)などの社会貢献活動も受賞理由のひとつになっています。

株式会社特殊衣料 代表取締役会長・池田啓子氏

第17回渋沢栄一賞を受けた「株式会社特殊衣料」(札幌市西区)の代表取締役会長「池田啓子」(いけだけいこ)氏は、リネンサプライ業から始まった同社の事業を、福祉用具製造業や清掃業へと拡大させました。

その間、障害者用の頭部保護帽「アボネット」の開発・製品化に成功。現在では冬場の転倒事故から子どもやお年寄りを守るための製品として広く愛用されています。

その一方で、身体障害者だけでなく社内に知的障害者を受け入れる小規模作業所を設置し、障害者雇用の促進に努めると共に、2004年(平成16年)には「社会福祉法人ともに福祉会」(北海道札幌市西区)の理事長に就任し、設立資金を寄付して障害者就職支援活動を行なったことが評価されています。

株式会社バローホールディングス 代表取締役会長兼社長・田代正美氏

第17回渋沢栄一賞を受けた「株式会社バローホールディングス」(岐阜県多治見市)の代表取締役会長兼社長「田代正美」(たしろまさみ)氏は、中部地方を中心に食品スーパーやドラッグストアなどを多店舗展開し、社長就任時から売上・利益を大幅に拡大して株式市場への上場を果たしました。

こうした業績拡大に合わせて、財団法人を通じて行なっている奨学金支給額を年々拡大させていることも高く評価され、受賞に結び付いています。

伊那食品工業株式会社 最高顧問・塚越寛氏
造り酒屋文化を支援

造り酒屋文化を支援

2017年度(平成29年度)の第16回渋沢栄一賞を受けた「伊那食品工業株式会社」(長野県伊那市)の最高顧問(受賞時は代表取締役会長)「塚越寛」(つかこしひろし)氏は、日本における伝統的な寒天作りをもとに独自の製造技術を開発し、寒天産業の発展に貢献。

創業以来、社員の幸せを追求する「年輪経営」を掲げ、2006年(平成18年)には48年間連続の増収増益を達成しています。

また、2014年(平成26年)には、地元長野県の老舗酒造会社を支援するために清酒事業を展開し、村の伝統的な造り酒屋の文化を継承する活動に尽力。この他、地域で開催される能と狂言「伊那能」(いなのう)や「春の高校伊那駅伝」への協賛など、積極的な地域貢献活動も受賞理由となりました。

浜松ホトニクス株式会社 名誉会長・晝馬輝夫氏

第16回渋沢栄一賞を受けた「浜松ホトニクス株式会社」(浜松市中区)の名誉会長「晝馬輝夫」(ひるまてるお)氏は、創業時から中心メンバーとして尽力、世界的な光技術専業メーカーに成長させ、国内外の物理学者のノーベル物理学賞受賞に貢献。

それと共に、1988年(昭和63年)に「光科学技術研究振興財団」(浜松市中区)を設立し、研究助成や研究表彰を実施した他、2004年(平成16年)に「光産業創成大学院大学」(浜松市西区)の創立を支援して、初代理事長に就任したことも高く評価されています。

六花亭製菓株式会社 亭主・小田豊氏

2014年度(平成26年度)の第13回渋沢栄一賞を受けた「六花亭製菓株式会社」(北海道帯広市)の亭主(受賞時は代表取締役社長)「小田豊」(おだゆたか)氏は、菓子商品の質を落とさないために販売店舗を北海道に限定しました。

同時に、道内トップの菓子メーカーに成長させるため、社内新聞を発行して組織の一体感醸成に取り組んでいます。

その一方で、敷地内に美術館やレストランが点在する「中礼内美術村」(なかさつないびじゅつむら:北海道河西郡)などの観光施設を運営し、また児童詩誌「サイロ」の発行など文化・芸術活動に力を入れていることも受賞の理由です。

中部ガス株式会社 元代表取締役会長・神野信郎氏

2007年度(平成19年度)の第6回渋沢栄一賞を受けた「中部ガス株式会社」(現在のサーラエナジー株式会社:愛知県豊橋市)の元代表取締役会長「神野信郎」(かみののぶお)氏は、長年に亘って中部ガス株式会社の社長・会長を務め、中部地方のガス事業発展に貢献。

さらに、代表を務めたサーラグループの経営基盤を築き、住宅関連など幅広い事業拡大を実現しています。

これら本業の他にも、日本青年会議所会頭や、豊橋商工会議所会頭、中部経済連合副会長などの要職を歴任して、中部地方の財界活動に励んだこと、アマチュアオーケストラの支援活動、ジュニアサッカーやミニバスケットボールの大会開催など、地域経済、文化、スポーツ、教育の振興にも尽力したことが評価されました。

渋沢栄一が紙幣に!

2024年度(令和6年度)から、日本の紙幣の「顔」が変わります。1,000円札が「北里柴三郎」(きたざとしばさぶろう)、5,000円札が「津田梅子」(つだうめこ)、そして10,000円札が「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)です。新紙幣には、世界初となる偽造防止技術が採用されます。実は渋沢栄一は、1963年(昭和38年)発行の1,000円札の最終候補にも挙がっていましたが、そのときは残念ながら「伊藤博文」に先を越されてしまいました。今回は、渋沢栄一の他に、新紙幣に登場する北里柴三郎、津田梅子の2人についてご紹介しましょう。

紙幣に肖像画を施すのはどうしてか?

日本に限らず、多くの国が紙幣に肖像画を採用しています。これはどうしてなのでしょうか?

現在、人間の顔を自動的に識別・抽出するデジタル技術を使った「顔認識システム」が誕生しています。

今後さらに高度な技術へと発展していくと考えられますが、この原理の根本は、人間が生まれつき備え持っている知的センサーです。

人間は、それこそ子どもの頃から、知っている人と知らない人を容易に識別できる能力を持っていると言われています。それは誰もが実際に経験していることではないでしょうか。

この機能を応用したシステムのひとつが、紙幣に肖像画を施すということ。私達は、実際の人間を識別できるのと同様に、見慣れた肖像と偽物を瞬時にして見分ける能力があります。いわゆる「勘」と呼ばれるものです。つまり、紙幣の肖像は、基本的な偽造防止に非常に大きな役割を果たしていると言えます。

日本の紙幣はこれに加え、「すき入れバーパターン」、「超細密画線」、「マイクロ文字」、「特殊発光インキ」、「深凹版印刷」(ふかおうはんいんさつ:インクを高く盛り上げる加工)、「ホログラム」、「潜像模様」(せんぞうもよう:肉眼で見えにくい加工)、「パールインキ」、「識別マーク」など、世界に誇る偽造防止のための印刷技術が施されているのです。

新1,000円札肖像-近代日本医学の礎を築いた「北里柴三郎」

北里柴三郎

北里柴三郎

新1,000円札に採用される「北里柴三郎」(きたざとしばさぶろう)は、近代医学の礎を築いた人物として知られています。

すでに紙幣の肖像画に使われた「野口英世」と比べると、一般的な知名度は低くなりますが、ペスト菌を発見し、破傷風の治療法を開発したことなどで、「日本の細菌学の父」とも呼ばれ、世界の医学界では非常に著名。

そんな北里柴三郎ですが、実はもともと「医者と坊主にだけはなりたくない」と考えていたとのことですから驚きです。

北里柴三郎は、1853年(嘉永6年)、肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇小国町北里)で、代々庄屋を務める家に生まれました。ペリー来航のわずか半年前のことです。

母が豊後国森藩の藩士の娘であったことから、その影響を強く受け、少年時代は武士になることを夢見て育ち、熊本藩の藩校「時習館」(じしゅうかん)に入学。しかし、1870年(明治3年)に廃校となると、侍から軍人へ目指す道を変え、大阪にできた兵学寮(陸海軍の士官学校の前身)への入学を希望します。しかし、これに父母が大反対。仕方なく、「熊本医学校」(現在の熊本大学医学部:熊本市中央区)へ入学し、医学を学ぶこととなりました。

前述したように、医者と坊主にだけはなりたくないという気持ちですから、とりあえず語学を身に付け、そのあとに兵学を学ぼうと考えます。そのためオランダ語は懸命に勉強し、ずば抜けて良い成績を残しましたが、医学の方はさっぱりだったのです。

そんな北里柴三郎に転機が訪れます。オランダ人医師「マンスフェルト」との出会いです。熊本医学校に新たに赴任してきたマンスフェルトは、オランダ語だけができる北里柴三郎に大きな関心を持ち「なぜオランダ語だけに熱心なのか?」と尋ねます。これに対し「これからの文明開化を見据えて学んでいる」と答えた北里柴三郎。元来、正直者であった北里柴三郎の当時の偽らざる思いでした。

そんな北里柴三郎にマンスフェルトは、「ヨーロッパでは、ペスト[黒死病]という細菌が伝染する病気で何千万人もの人が亡くなっている。今日、不治の病と言われる病気のなかに細菌が原因の種類があり、治療のできるものがある。君はそうした前人未到の新発見をしなさい。」と説いたのです。マンスフェルトは北里柴三郎の好奇心旺盛な性格と、やるならとことん取り組む姿勢を見抜いていたのでしょう。

その気になった北里柴三郎は、1874年(明治7年)、「東京医学校」(現在の東京大学医学部:東京都文京区)に入学し、予防医学を生涯の仕事にすることを決意します。そして卒業後、内務省衛生局に入局した北里柴三郎は、1886年(明治19年)から6年間、ドイツに留学。病原微生物学研究の第一人者「ローベルト・コッホ」に師事します。

留学中の1889年(明治22年)には、破傷風菌の純粋培養に成功。さらにその毒素に対する免疫抗体を発見した北里柴三郎は、それを応用して血清療法を確立し、世界的な研究者として頭角を現すことになりました。

北里柴三郎は帰国後の1892年(明治25年)、のちに国立となる「私立伝染病研究所」を設立。1893年(明治26年)には日本最初の結核専門病院も開設し、伝染病予防と細菌学の研究に取り組みます。そして1894年(明治27年)、ペストが香港で蔓延したことから原因調査のため現地へ赴き、ペスト菌を発見するのです。

1914年(大正3年)、「北里研究所」を創立。現在の「北里大学」(東京都港区)はこの系譜から生まれています。さらに1917年(大正6年)には「慶應義塾大学医学科」(東京都新宿区)を創設するなど、北里柴三郎は、1931年(昭和6年)に脳溢血(のういっけつ)によりその生涯を閉じるまで、感染症の撲滅と科学の進展に心血を注ぎました。

新5,000円札肖像-津田塾大学を創立した「津田梅子」

津田梅子

津田梅子

新5,000円札の肖像画になる「津田梅子」(つだうめこ)は、「津田塾大学」(東京都小平市)の創立者であり、日本初の女子留学生です。

「ヘレン・ケラー」や「ナイチンゲール」とも親交を深め、女子高等教育に生涯を捧げました。6歳という若さで海外に留学した津田梅子の生涯を振り返りましょう。

津田梅子は、1864年(元治元年)に、江戸の牛込で生まれます。父は、明治時代前期の西洋農学者「津田仙」(つだせん)。

父の津田仙は、下総佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の藩士出身で、藩主「堀田備中守正睦」(ほったびっちゅうのかみまさよし)が「蘭癖」(らんぺき)とあだ名が付くほどの開明派であったことから、津田仙はオランダ語と英語を習得。1861年(文久元年)には、幕府外国奉行の通訳に採用されます。

そういった父の影響が大きかったのか、1871年(明治4年)に明治政府が不平等条約の改正を目指して欧米視察に派遣した「岩倉使節団」と共に、津田梅子は渡米します。北海道開拓使が募集した日本最初の女子留学生5人のうちのひとりでした。当時6歳で、女子留学生のなかでも最年少だったのです。

津田梅子は、アメリカではワシントンDC近郊のジョージタウンに住む日本弁務使館(のちの公使館)書記官の「チャールズ・ランマン」の家に預けられます。そののち11年間の長きに亘ってアメリカ生活を送るのです。

このランマン夫妻は、高い教養を持つと共に非常にあたたかな人柄で、津田梅子とランマン夫人は実の母娘のように仲が良かったものの、ランマン夫人をママと呼ぶことはなく、ミセス・ランマンとして通しました。幼くして渡米した津田梅子の心のなかには、常に実の母の面影があったのだろうと言われています。

アメリカの初等・中等教育を受けた津田梅子は、1882年(明治15年)に帰国。帰国後は、「伊藤博文」の勧めで新設された「華族女学校」(のちに学習院[東京都豊島区]へ併合)で英語教師として働きますが、上流階級の女子限定の教育方針に失望してしまいます。アメリカと違う日本の現状に、逆のカルチャーショックを受け、1889年(明治22年)、津田梅子は再びアメリカ留学へと旅立つのです。

アメリカの「ブリンマー大学」で生物学を学んだ津田梅子は、1892年(明治25年)に帰国。1894年(明治27年)には、カエルの卵の発生について共同研究で出した論文がイギリスの学術雑誌に発表されるなど、元祖「リケジョ」(理系女子)としても活躍します。

1898年(明治31年)には、アメリカのデンバーで開催された「万国婦人連合大会」に日本代表として参加し、日本における女子教育の必要性を堂々と語りました。そののち、いよいよ日本の新しい女子教育の道を開くべく、女子専門の私塾の準備に入ります。そして1900年(明治33年)、「女子英学塾」を創立し、自ら塾長となりました。津田梅子、37歳のときです。

津田塾大学

津田塾大学

実は、この女子英学塾は、政府や財界からの支援を求めずスタートした私塾で、最初の入学者はわずか10人でした。

「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」を目指した女子英学塾は、のちに津田塾大学となり、日本を代表する女子大学へと成長。時代を支える女性達を輩出しています。

津田梅子は生涯独身を貫き、1929年(昭和4年)、享年66でこの世を去りました。

渋沢栄一の紹介

渋沢栄一の紹介では、渋沢栄一が設立と経営にかかわった約500の会社など、渋沢栄一に関する事柄をご紹介。渋沢栄一の旧邸「曖依村荘」(あいいそんそう)跡に建つ東京都北区の渋沢資料館、渋沢栄一の妻子達が描かれた家系図や子孫達になどついて分かりやすく解説します。また、「渋沢栄一訓言集」などから厳選された渋沢栄一の名言、「雨夜譚」(あまよがたり)、「論語と算盤」といった後世に多くの影響を与えた著者についてもまとめました。NHK大河ドラマ第60作「青天を衝け」で注目を集めた渋沢栄一をより深く知ることができます。

「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は近代日本の経済発展に大きく寄与し、「日本資本主義の父」と称されている人物です。畑作や養蚕、藍玉の製造などを行っていた農家の出身でしたが、家業を手伝いながら学問にも励んでいました。 20代の頃に天皇を尊んで外敵を退けようとする「尊王攘夷/尊皇攘夷」(そんのうじょうい)論者となるも、江戸幕府15代将軍となる「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)に京都にて出会ったことで、人生が一変。幕末期には徳川慶喜に仕えて幕臣となり、明治維新後は、大蔵省(現在の財務省)の官僚となって、大蔵大輔(おおくらたゆう)であった「井上馨」(いのうえかおる)の腹心として活躍します。 そののち「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)を始めとして、500以上に及ぶ会社の創立に奔走し、実業家としての才覚を発揮。さらには学校の設立や様々な社会事業にも積極的に携わったのです。渋沢栄一は生涯を通じて日本経済のみならず、日本社会全体の発展にも尽力しました。 また渋沢栄一は、2021年度(令和3年度)のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)の主人公に選ばれたり、その肖像が新10,000円札のデザインに採用されたりするなど、現代においても高い評価を受けている歴史的偉人だと言えます。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、生涯で約500社もの会社設立と経営に携わり、およそ600もの社会公共事業や民間外交に尽力しました。渋沢栄一が携わった会社は多岐に亘り、現在でも、数多くが経営活動を続けているのです。時代を超えて現在に残る渋沢栄一が関連した代表的な会社を業界別にご紹介します。
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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、在官中に製紙会社を起業し、現在の東京都北区王子に工場を設立しました。渋沢栄一が実業家としての第一歩を歩み始めた東京都北区は、そのあとも渋沢栄一にとって特別な町となっていきます。渋沢栄一が実業家人生を送ったゆかりの町である「東京都北区」と、晩年を過ごした旧邸跡に建つ「渋沢史料館」について見ていきましょう。
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近代日本経済の礎を築き、日本の近代化のために奔走しながら91歳まで人生を全うした「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、次代に向けて多くの言葉を遺しています。その言葉の多くが、日本国内の実業家や経済界だけでなく、世界中のあらゆる人々に影響を与えたのです。尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士、幕臣、新政府官僚、実業家と、様々な視点で生きた渋沢栄一が、自身の経験から語る名言の数々をご紹介しましょう。
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「近代資本主義の父」と呼ばれる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が遺した言葉は、後世に大きな影響を与えました。そんな渋沢栄一の金言は、現代においても多くの本で学ぶことができるのです。大正時代から100年以上続くベストセラーである渋沢栄一の著書「論語と算盤」を中心に、渋沢栄一の経営術や思想に触れていきましょう。
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近代日本を代表する実業家となった「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)。渋沢栄一は、2人の妻との間に7人の子供に恵まれ、多くの子孫を残しました。その子孫達は渋沢栄一の遺志を受け継ぎ、様々な事業で活躍して、功績を残したのです。今回は渋沢栄一の家系図と共に、現在の日本人に影響を与え続けている、渋沢一族の子孫を紹介します。
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2021年(令和3年)放送のNHK大河ドラマ第60作「青天を衝け」(せいてんをつけ)では、幕末から明治時代までの日本の動乱期を舞台に、主人公である「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の人生が描かれています。本作はNHK大河ドラマとしては珍しく、「明治の財界人」である渋沢栄一が主人公の近代史で、ドラマ放送前から注目を集めていました。渋沢栄一を中心に激動の時代を描く青天を衝けの基本情報をご紹介します。
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刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」は、美術的に価値の高い刀剣や甲冑に関するコンテンツを公開しています。
こちらでは、東京都北区を中心に活躍した渋沢栄一の幅広い情報をご紹介。渋沢栄一がどんな人か紐解くとともに、かかわった会社・銀行をはじめ現代でも見られる功績などを解説しています。
刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」の掲載内容は、刀剣・甲冑の基礎知識をはじめ、日本刀の歴史や雑学、日本刀にまつわる歴史人や合戦、名刀を生み出した名工達の紹介など盛りだくさん。日本刀に関する各種アプリゲーム、刀剣・お城川柳、四文字熟語といった楽しむコンテンツも充実。刀剣や甲冑に関する様々な情報を、あらゆる角度からバーチャルの世界でお楽しみ頂けます。

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