「新々刀」(しんしんとう)とは、江戸時代後期の1772年(安永元年)から1876年(明治9年)の廃刀令までに作刀された日本刀のことを言います。「古刀」を理想とした刀姿で、1830年(文政13年)までを「新々刀前期」、1876年(明治9年)までを「新々刀後期」と区分されました。「新々刀」が作刀された時代的背景と代表的な刀工について、詳しくご紹介します。
田沼意次
「新々刀」が誕生した1772年(安永元年)は、10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)の治世でした。しかし、実際は、老中「田沼意次」(たぬまおきつぐ)が、幕府の実権を掌握。田沼意次は、幕府財政を再建しようと試みましたが、役人と商人の間で不正をうみ、賄賂が横行したのです。
しかも、1782年(天明2年)には「天明の大飢饉」、1783年(天明3年)には「浅間山大噴火」という天災が起こり、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発。この影響で田沼意次の政治は行き詰まり、将軍・徳川家治の死とともに、1786年(天明6年)に失脚しました。
松平定信
つぎに、11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)の就任とともに、老中になったのが「松平定信」(まつだいらさだのぶ)です。松平定信は幕政を改革しようと「寛政の改革」を行ったことで有名ですが、倹約や風俗取り締まりなどの統制が厳しすぎたため、庶民から不満をよび失脚。幕府は適切な対策を立てることができず、衰退化していったのです。
こうした中で生まれたのが「化政文化」。厳しい統制の中で、人々は風刺や皮肉に笑いや救いを求めました。洒落本や滑稽本が流行し、浮世絵が隆盛したのです。
なお、一揆が起こったせいで、治安の維持と強化のために、日本刀は武器として再び注目されます。新刀は、鍛錬法が簡素なため折れやすかったことから、1772年(安永元年)に刀工「水心子正秀」(すいしんしまさひで)が「復古刀」(ふっことう)を提唱して作刀。
復古刀とは、新刀の簡素な鍛刀法ではなく、砂鉄から作刀する高度な古刀の鍛刀法に戻して作刀した物です。鍛刀法が変わったため、「新刀」から一線を画して、「新々刀」と区分されるようになりました。新々刀は、古刀の名刀を理想としているため姿・恰好が良く、バランスが取れた物が多いと言えます。
新々刀前期を代表する名工としては、水心子正秀、「伯耆守正幸」(ほうきのかみまさゆき)、「手柄山正繁」(てがらやままさしげ)などがいます。
多くの刀工が新々刀を代表して活躍しましたが、最初に挙げるべき名工が「水心子正秀」です。
出羽国(現在の山形県と秋田県)出身で、山形藩秋元家のお抱え刀工となった水心子正秀は、新刀時代の「津田助広」(つだすけひろ)の作風に、鎌倉時代以来の「相州伝」と呼ばれる刀身が長く幅広で、武骨かつ豪快な作りの「正宗」(まさむね)流を加え、さらに南北朝時代の「備前長船兼光」(びぜんおさふねかねみつ)以来の豪壮な「備前伝」も取り入れました。
「古刀」への回帰を唱えた刀工・水心子正秀は、「刀 銘 水心子正秀」や「天秀」(あまひで)など、生涯で369振もの名刀を世に送り出しています。
また、1819年(文政2年)に刊行した「刀剣武用論」で、「斬り合いになると、茎(なかご)が短い新刀は柄で折れてしまう」として、鎌倉・南北朝時代の長く丈夫な刀身を持つ日本刀が良いと説き、古刀に倣った新々刀を世に広める役割も果たしました。
刀剣ワールド財団所蔵で、「水心子正秀」の銘がある1振は、差表に「倶利伽羅」(くりから:不動明王の化身である、剣に巻き付いた竜)の彫刻が施された精緻な作品です。「彫同作」という添銘があることから、水心子正秀自身の手で彫刻されたと分かります。
「伯耆守正幸」(ほうきのかみまさゆき/まさよし)は、薩摩藩(現在の鹿児島県)島津家の刀工「2代 伊地知正良」の子で、若い頃から抜群の技量を見せました。奥本平とともに、薩摩新々刀の双璧と呼ばれた名工。相州伝の影響を受けた、刀身の幅が広くのびやかな作風で知られ、新々刀時代のさきがけとなります。
1791年(寛政3年)作の表銘に「神在此口」(たましいこのくちにあり)と切られた作品や、1811年(文化8年)頃の表銘「伯耆守平朝臣正幸」(ほうのきのかみたいらあそんまさゆき/まさよし)の1振など、やや反りが高い姿が特徴的です。
徳川家慶
「新々刀後期」にあたるのは、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)、13代将軍「徳川家定」、14代将軍「徳川家茂」、15代将軍「徳川慶喜」の治世、及び明治時代です。
1853年(嘉永6年)に、「ペリー」が浦賀に来航すると、尊王攘夷の抗争が起こりました。1860年(安政7年)には「井伊直弼」が「桜田門外の変」で暗殺され、討幕運動が盛んとなり、1867年(慶応3年)には「大政奉還」が行われ、江戸幕府は消滅。すぐに「王政復古の大号令」が発令され、天皇を中心とした明治新政府が樹立しました。ところが、旧幕府側は新政府に反発し、1869年(明治2年)には「戊辰戦争」が起こるなど、激動の時代を迎えます。
なお、日本刀は、江戸時代末期に、「勤王刀」(きんのうとう)と呼ばれる、刀身も柄も長い反りのない武骨な日本刀が登場しました。いかにも混乱の時代の日本刀と言えます。
しかし、明治維新を経た1876年(明治9年)に「帯刀禁止令」(廃刀令)が発令。日本刀は無用の長物とみなされ、刀工は廃業。新々刀の時代は終わりを告げたのです。
新々刀後期を代表する名工として、江戸では、「源清麿」(みなもときよまろ)、「藤原清人」(ふじわらのきよんど)、「大慶直胤」(たいけいなおたね)「固山宗次」(こやまむねつぐ)、「水心子正次」(すいしんしまさつぐ)、「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)。大坂では、「月山貞吉」(がっさんただよし)、「月山貞一」(がっさんただかず)。その他、「左行秀」(さのゆきひで)などがいます。
信濃国(現在の長野県)出身で、信濃上田藩松平家のお抱え刀工「河村寿隆」(かわむらとしたか)に入門した兄「真雄」(さねお)から作刀を学び、のちに自らも河村寿隆の弟子となった「源清麿」(みなもときよまろ/すがまろ)。本名は「山浦環正行」(やまうらたまきまさゆき)です。
源清麿は江戸へ出ると、剣術家で幕臣の「窪田清音」(くぼたすがね)に師事し、相州伝を身に付けて新々刀の第一人者となります。恩師である窪田清音に贈った「為窪田清音君」という表銘のある作品は、通常より10cm近く長い2尺6寸(約78.78cm)の豪壮な作りが特徴です。
また、「山浦環正行」の銘が切られた1振は、江戸町奉行、勘定奉行、外国奉行を務めた幕末の幕府高官「小栗上野介忠順」(おぐりこうずけのすけただまさ)の家に伝来しました。地刃の出来栄えが優れた、1839年(天保10年)頃作の名刀です。広く腕前を認められた源清麿は、江戸の四谷に住んだため、「四谷正宗」などとも異称されました。
出羽国出身の「大慶直胤」(たいけいなおたね)は、鎌や日本刀を作っていた父「安光」(やすみつ)に作刀を学んだあと、江戸で水心子正秀に入門。
大慶直胤の作風は、古式な備前伝が特徴で、反りが比較的少ない傾向があり、「喜翁」の表銘が切られた優美な姿が印象的な1854年(嘉永7年)作の1振など、数多くの名刀を残しています。その腕は師匠の水心子正秀を凌ぐとさえ言われ、のちに水心子正秀から独立すると、1804年(文化元年)頃、水心子正秀と同じ山形藩秋元家のお抱え刀工となりました。
この大慶直胤と、水心子正秀、源清麿は、新々刀期の「江戸三作」と呼ばれています。
大慶直胤は、脇差でも傑作を残しました。「直胤」の花押(かおう:署名代わりの記号や符号)が切られた1振には、欄間透彫(らんますかしぼり)で倶利伽羅が施されており、この彫刻は、大慶直胤の作品としては唯一と言われています。
1836年(天保7年)生まれの「月山貞一」(がっさんさだかず)は、近江国(現在の滋賀県)の出身。刀工「月山貞吉」(がっさんさだよし)の養子に迎えられて早くからその才能を発揮し、古刀期の出羽国月山鍛冶による「月山伝」の特徴だった「綾杉肌」(あやすぎはだ)の復元に取り組みました。綾杉肌とは、柾目(まさめ:杉板に似た肌目)模様のうねりが、独特の美を生み出す刀身の地肌のこと。
月山貞一の鍛えた日本刀は、「明治天皇」をはじめ、多くの人々に愛され、「帝室技芸員」(すぐれた芸術家を顕彰する制度によって宮内省が指名。現在の重要無形文化財にあたる)に任じられましたが、帯刀禁止令によって新々刀最後の大物となってしまったのが惜しまれます。
1865年(元治2年)作の表銘「月山源貞一」の短刀は、板目の地肌に綾杉風の模様が浮いており、若い時代の逸品です。また、1869年(明治2年)の表銘「月山雲龍子貞一造」(がっさんうんりゅうしさだかずぞう)の日本刀は、密度の高い綾杉肌に規則的で美しい刃文が浮き、やや低い反りによってすらりとした印象を与えてくれます。
月山貞一が78歳のときに手がけた作品も、若い頃に勝るとも劣らない名刀です。ゆるやかにうねる波のような刃文「湾刃」(のたれば)が美しく、茎に刻まれた「菊水紋」も目を惹きます。
この他、水心子正秀とともに刀剣復古運動を提唱した山城国(現在の京都府)の「南海太郎朝尊」(なんかいたろうちょうそん)や、備前伝の第一人者として脚光を浴びた出羽国米沢の「長運斎綱俊」(ちょううんさいつなとし)ら、各地に新々刀の名工が現れ、人気を集めました。