日本刀の歴史

上古刀

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「上古刀」(じょうことう)とは、奈良時代以前に制作された「日本刀」で、反りのない直刀のことを指します。「大刀」(たち)の字が当てられ、厳密にはまだ日本刀とは呼ばれていませんでした。ここでは、便宜上上古刀も日本刀と表記し、その歴史や特徴について解説していきます。

上古刀の概要

上古刀は、文字通り「上古時代の刀」と言う意味です。「上古時代」とは、古墳時代から「大化の改新」までで、奈良時代より前と言うことになります。

神話の時代を含めることもあり、その時代の日本刀としては、天皇が譲位する際に用いられる「三種の神器」のひとつ、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)別名「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)や、奈良県天理市の「石上神社」に伝わる宝刀「七支刀」(しちしとう)などが有名です。

三種の神器

三種の神器

天叢雲剣は、のちの日本刀とはかなり形状が異なります。反りがない直刀で、片刃ではなく両刃。その断面は単純な三角形と言われ、も裸でそのまま用いました。七支刀は、左右両側の刃から3本ずつの枝刃が分かれて出てはいるものの、本体は天叢雲剣と同じく直刀です。

天叢雲剣や七支刀に対して時代が下った飛鳥時代。「聖徳太子」が佩刀したとの伝承を持つ「七星剣」(しちせいけん)や「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん)を観ると、同じ直刀でも刃は片刃で、その断面は五角形の「切刃造り」(きりばづくり)と呼ばれる形状になっています。

実戦での切れ味は、飛鳥時代の上古刀の方が勝っているため、時代を経て進化していると言えるのです。七星剣、丙子椒林剣の2振は、現在大阪府の「四天王寺」が所蔵しています。

上古刀の歴史

弥生時代後期には鉄器が生産される

上古刀の歴史がはじまる古墳時代とは、3世紀中頃から8世紀初めの500年間ほどのこと。

弥生時代の最後の頃とも重なりますが、「邪馬台国」(やまたいこく)の女王が「卑弥呼」(ひみこ)から「壱与」(いよ:または「台与」[とよ])に代わるのが3世紀中頃です。卑弥呼が中国の魏王朝(ぎおうちょう)から「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号を贈られるなど、日本は中国と交流し、その文明を積極的に取り入れています。

すでに国内では前時代の弥生時代後期(3世紀)に鉄を加工する鍛冶の技術が伝来し、鉄器が生産されるようになっていました。この時代の遺跡からは、鉄製の短剣が発掘されています。

古墳時代に入ってからは鉄そのものを作る製鉄の技術も日本に伝わり(※異説あり)、鉄が貴重な輸入品から、それまでよりは手に入れやすい国産へと切り替わるなか、鉄製武器の種類も増えていったのです。

半ば神話の人物とも言える、11代「垂仁天皇」(すいにんてんのう:在位は4世紀前期頃と推定)は、「倭鍛冶部」(やまとかぬちべ)の鍛冶技術者達に1,000振の日本刀を打たせました。

外国から渡来した鍛冶技術者は「韓鍛冶部」(からかぬちべ)と呼ばれていたため、当時日本でも独自の鍛冶技術者が育つほどに環境が整っていたと考えられます。

古墳から発掘される上古刀

4世紀後期に築造されたと推定される「一貴山銚子塚古墳」(いきさんちょうしづかこふん:福岡県糸島市)、5世紀末前後の「江田船山古墳」(えたふなやまこふん:熊本県玉名郡)などからは、「素環頭大刀」(そかんとうのたち)が掘り出されました。

これは中国の影響を大きく受けた形式の大刀です。

6世紀末前後に作られたと思われる「金鈴塚古墳」(きんれいづかこふん:千葉県木更津市)から出土した大刀群にはいろいろな形状の柄頭(つかがしら)が見られます。

時代が進むにつれ、権力者の経済力が向上し、技術の発展もあって、飾りや鍍金(めっき)など様々な加工が考案され、施されるようになりました。

「金銅装頭椎大刀」(こんどうそうかぶつちのたち)などがその代表です。

切刃造りと鎬造りの登場

その後、6世紀後期から7世紀にかけて、刃の幅が狭く勾配の急な切刃造りの大刀が登場します。さらに、「」(しのぎ)と言う刃と峰/棟(みね/むね)の間に鋒/切先(きっさき)まで刀身を貫く高い稜線を持つ「鎬造り」(しのぎづくり)の大刀もこの頃から用いられはじめました。

大刀の断面図

大刀の断面図

代表的な作品に「将軍山古墳」(埼玉県行田市)から発掘された大刀があります。

切刃造りと鎬造りは、のちの日本刀の原型となる仕様で、すでにこの頃中国や朝鮮半島から日本へ入ってきていたのです。

6世紀末からは飛鳥時代がはじまります。奈良の飛鳥(現在の明日香村周辺)に都があったと考えられている時代で、593年(推古元年)に即位した「推古天皇」(すいこてんのう)が「太刀ならば句礼(くれ)の真鋤(まささび)」と詠んだように、当時も大刀の最上級は中国の呉(くれ)産の伝来品でした。

なお、この場合の「太刀」(たち)は大刀と同じ直刀のことで、「真鋤」は剣を意味します。

ご紹介したように国産の大刀も数多く作られ、日本独自の仕様も少しずつ生み出されている時代ではあっても、やはり輸入品の品質にはまだまだ及ばなかったのです。

戦いの規模が大きくなり上古刀の需要が増大

「推古天皇」即位の6年前には、伝来の仏教を推す蘇我氏(そがし)と、日本古来の神道を支持する物部氏(もののべし)が戦いました。

聖徳太子も蘇我氏方で参戦し、物部氏はこの大規模な戦いに敗れて衰退。その後は、あまりにも権力を持ち過ぎた蘇我氏への反感が大きくなっていきます。

政治情勢が不穏となり、武力を充実させる必要が高まるなか、日本刀の需要や、その性能への期待も増す一方でした。

推古天皇は602年(推古10年)、朝鮮半島への進駐を目的として「来目皇子」(くめのおうじ)を九州へ派遣しますが、このとき2万5,000の兵が持つ武器を作らせるために、大和国(現在の奈良県)から「忽海漢人」(わしうみのあやと)らの刀匠を九州へ出張させます。

文字に「漢」が入っているように渡来人(中国や朝鮮半島から日本へ移住した人々)の鍛冶集団「漢鍛冶」(からのかぬち)が借り出されたわけです。

一方で、大刀の性能面もいっそう重視されるようになりました。聖徳太子が切刃造りの七星剣、丙子椒林剣を愛用したのは、このような背景があったからなのです。

聖徳太子の死後、蘇我氏の勢いはますます盛んとなりました。

これに対して645年(大化元年)に「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ:のちの「天智天皇」)と「中臣鎌足」(なかとみのかまたり:のちの「藤原鎌足」)が中心となって立ち上がり、「蘇我入鹿」(そがのいるか)を暗殺した政変が「乙巳の変」(いっしのへん)で、一般的には「大化の改新」と呼ばれています。

日本が統一と安定に向けて動く激動の時代、上古刀は武器として、あるいは権力の象徴として、欠かせない存在でした。

上古刀の詳細

古墳時代の上古刀のうち、有名な作品の仕様について、年代順に詳しく見ていきましょう。

七支刀

七支刀

七支刀

4世紀頃の制作と考えられ、朝鮮半島の百済(くだら)から倭(やまと:日本)へ献上されたと伝わる「七枝刀」(ななつさやのたち)と同じ1振であれば、それが奈良県天理市の石上神社に伝来したことになります。

この七支刀の刀身には「百済」、「為倭王」などの文字が金象眼(刻んだ文様に金を埋め込む工法)で入れられており、少なくとも七枝刀と同じ経緯で日本に伝わったと考えられる作品です。

全長74.8cmの両刃の直刀を基本として、そこから6本の枝刃が分岐しています。(なかご)の先端は先細りで、刃はやや内反りです。

素環頭大刀

4世紀後半から6世紀初めにかけての古墳から発掘された「素環頭大刀」は、柄の頭が輪になっており、この中に通した紐を手首に巻くことによって大刀を取り落としたり、敵に奪われたりしないように工夫されています。

柄は長短の種類があり、短い柄の大刀は布や縄を巻いて片手で振り回しました。

刀身と鋒/切先との間に境目がない「平造り」(ひらづくり)で、刀身の峰/棟の厚みを「重ね」と言いますが、これも厚くありません。刃は内側に反っていて、鉾(ほこ)を細くしたような形状です。刀身に反りはない直刀でした。

この素環頭大刀の「素環頭」は、やがてこぶしのようにふくらんだ「頭椎大刀」(かぶつちのたち)やニワトリのとさかのように複数の円形を連続させた「鶏冠頭大刀」(けいかんとうのたち)など、多彩な意匠の柄頭に発展。

また金銅(こんどう:銅の表面に鍍金を施したり、金箔を押したりした物)や銀で輝く豪華な装飾も加えられるようになっていきます。

これらの刀の鋒/切先は、三角形に鋭くとがった「カマス鋒/切先」と呼ばれる仕様です。

金錯銘鉄剣

埼玉県の「埼玉古墳群稲荷山古墳」から出土した大刀、「金錯銘鉄剣」(きんさくめいてっけん)は、剣身の中央に金で115文字が刻み込まれていて、その内容から、471年(雄略天皇15年)の段階で「雄略天皇」(ゆうりゃくてんのう)の力が関東にも及んでいたことが明らかになりました。

この剣は、国宝に指定されています。全長73.5cm、身幅3.15cmで両刃直刀、柄はあまり長くありません。

切刃造り・鎬造りについて

平造りの大刀の刃は、刀身が徐々に薄くなっていき刃となる三角形の断面でしたが、これが切刃造りになると断面はホームベースのような形状です。

厳密に述べるとこれは「両切刃造り」(もろきりはづくり)で、鎌倉時代末期に作られはじめる「片切刃造り」(かたきりはづくり:ホームベースを縦に切ったような不等辺四角形)と区別されます。平造りの刃よりも切れ味が鋭く、実戦向きです。

刀身と刃の境は角になりますから、これが鎬へと発展していったと考えられています。

そして、鎬とは刀身の峰/棟と刃の間、やや峰/棟寄りに、鋒/切先まで高く隆起した1本の線です。相手の刃をはじく役割があり、戦う者同士が刃をまじえる際、刀身を打ち合わせて押し合うようなシーンは映画やドラマなどでもよく観ますが、それを表す「鎬を削る」と言う言葉は、まさにこの鎬の機能から生まれました。

あくまでも戦闘力の向上のために工夫された鎬ですが、これも後代、日本刀の美を追求する上で欠かせない要素となっていきます。

七星剣

国宝の七星剣は、62.4cmの刀身に北斗七星や雲、竜虎などが金象眼で描かれた、わずかに内反りの片刃を持つ直刀です。

峰/棟側は、逆にほんの少し外向きに反っています。

鋒/切先は、丸みがないカマス鋒/切先で、鎬の地に2筋、「」(ひ:刀の軽量化と、重量のバランスを取るための溝)が入っており、のちの日本刀に近い刀姿となりました。

茎の尾部は欠損していますが、孔(あな)の痕跡がかすかに認められ、かつては現存する以上の長さがあったことが分かります。

七星剣

七星剣

丙子椒林剣

同じく国宝の丙子椒林剣は、全体の長さ65.8cm、刀身の長さ65.1cmと言う切刃造りの直刀で、刃はやや内反り、峰/棟はやや外反りです。

鋒/切先は、七星剣よりも若干丸みを帯びているような形状で、茎の先端部は欠損していますが、孔の痕跡が認められ、現存する以上の長さがありました。

腰元に「丙子 椒林」と金象嵌(きんぞうがん)されていて、中国、または朝鮮で鍛造りされたと考えられています。

上古刀の中では、最も良い出来と評されるだけあって、すっきりとした刀身に、細い直刃(すぐは)の刃文が鋒/切先に向かってやや先細るように入れられており、細身で優美です。

上古刀

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