「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん)とは、明治時代に日本美術・工芸の保護を奨励する目的で定められた美術家であり、明治時代に日本が欧米化していく中で、日本の文化を現代に継承するために大きな役割を果たしました。ここでは帝室技芸員とは何か、そして刀工の帝室技芸員にどんな人物がいたのかについて解説します。
廃刀令
明治時代に入ると、「西洋文化に追いつき追い越せ」のスローガンの下「欧化主義」、「文明開化」の嵐が吹き荒れ、日本古来の文化は否定され、ないがしろにされていきました。
1868年(慶応4年)の「神仏分離令」、1870年(明治3年)の「大教宣布詔」(たいきょうせんぷのみことのり:天皇を神とし、神道を国教とする)の影響によって廃仏毀釈運動が起こり、全国のお寺が破壊されたり、仏像が廃棄されたりするなどして、貴重な文化財が失われました。
さらに1871年(明治4年)には「散髪脱刀令」(断髪令)でちょんまげをやめて自由な髪型にしても良い、華族(元の公家・大名)や士族(元の武士階級)がふだん日本刀を差すことをやめても良い、と「武士の命」である日本刀を否定する動きが始まります。
そしてついに、1876年(明治9年)の「廃刀令」によって政府要人の大礼服や軍人・警官の装備として以外の帯刀が禁止されました。
士族にとって、帯刀を禁じられるということは、見た目で平民(江戸時代の農民・職人・商人が、明治になるとひとまとめにしてこう呼ばれました)と区別がつかなくなります。武士の誇りをひきずる士族は、それが我慢できなかったのです。
そのため廃刀令は士族達の大反発を招き、神風連の乱・秋月の乱、そして西南戦争と、一連の士族による反乱の原因のひとつにもなりました。
しかし、これらの反乱が鎮圧されると、完全に武士の時代は終わり、一般の日本刀に対する需要もなくなっていきます。日本刀と刀工は、まさに冬の時代を迎えたのです。
皇室・公家に関連する刀剣の歴史などをご紹介します。
1890年(明治23年)10月、帝国博物館総長が招集した有識者(宮内大臣によって指名された推薦委員)会議で、最初の帝室技芸員10名が任命されました。
その内訳は、日本画家の「狩野永悳」(かのうえいとく)、仏師・彫刻家の「高村光雲」(たかむらこううん)、他に漆工・彫金と、日本の伝統美術や工芸の第一人者達です。
明治維新以降、軽んじられ忘れ去られていた日本の伝統美術・工芸は、1878年(明治11年)に来日したアメリカの哲学・政治学・経済学者の「フェノロサ」によって再注目されます。
彼は「狩野永悳」の弟子になるなど熱心に活動し、弟子の「岡倉天心」(おかくらてんしん)と共に、1887年(明治20年)東京美術学校を設立して低迷する伝統的日本美術の精神と手法を次代に伝える運動を軌道に乗せました。
ところが、「フェノロサ」は日本画と西洋画の融合による新たな芸術をこころざして1884年(明治17年)にそれまで関与していた「龍池会」と呼ばれる伝統美術の保護・保存・振興を目指す団体から離脱していたため、「龍池会」のメンバーは危機感を抱きます。
これを「旧派」と呼び、「フェノロサ」が立ち上げた「鑑画会」を「新派」と呼ぶのですが、「新派」が文部省の管轄で東京美術学校を発足させたのに対抗し、「旧派」は宮内省の協力のもと「日本美術協会」を立ち上げます。そして、1888年(明治21年)「宮内省工芸員」17名を選定しました。これが帝室技芸員の前身と言われています。
さらに2年後、帝室技芸員制度が開始されたのです。20名(のち25名に拡大)の技芸員の内に選出されれば、終生100円の年金が支給され、皇室から制作依頼を行なう際には制作費も支払われたので、それまで貧窮し不振におちいっていた芸術家にとっては救いにもなりました。
帝室技芸員は、勅任官(天皇の直裁をあおいで任命され、「閣下」と呼ばれます)の待遇であり、選出された優秀な美術工芸家たちは明治国家と天皇の権威によって顕彰され、その面でも伝統美術・工芸の保護復興に寄与します。
また、当時のヨーロッパでは1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会に当時の江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が出品したことをきっかけとして「ジャポニスム」と呼ばれる日本の美術・工芸ブームが起こっていました。
ゴッホやモネらが影響を受けたことでも知られる、芸術改革運動のきっかけです。帝室技芸員制度は、この機に便乗して美術・工芸品を外国へ輸出し、少しでも貿易赤字を解消しようという政府のもくろみもあったのです。
この制度は太平洋戦争で日本が敗れたあと、1947年(昭和22年)に廃止されましたが、その間、13回にわたって計79名の技芸員が選定され、現在では文化勲章授与、重要無形文化財(人間国宝)認定、日本芸術院会員制などに顕彰と奨励の精神が受け継がれています。
帝室技芸員に日本刀の名工が任命されたのは1906年(明治39年)4月4日。制度が発足して16年後のことです。指名されたのは、次の2名でした。
伯耆国は、古刀時代の名工・安綱を生んだ土地で、それに憧れた宮本包則は古刀の聖地・備前国長船に赴きます。伊勢守祐平の子で、備前新々刀の名工「横山祐永」(よこやますけなが)に師事しようとしましたが断られ、同じ長船の祐永の兄の養子あるいは弟子の「横山祐包」(よこやますけかね)に入門します。「包則」と言う名は、この横山祐包から一字を拝領したものです。
横山祐包の下で修行を積んだあと1857年(安政4年)に伯耆へ戻った宮本包則は、鳥取藩の家老で大柿のある倉吉を領する荒尾家に召し抱えられ、その後は京で作刀に励みました。
勤王の志士たちの日本刀を数多く手がけたことで彼は、のちに旧幕勢力を討つ東征大総督、元老院議長などを歴任する「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)にその才能を認められ、1866年(慶応2年)に「孝明天皇」(こうめいてんのう)の日本刀の鍛造にたずさわり、その功で翌年「能登守」の受領名を賜ります。
1868年(慶応4年)に始まった戊辰戦争では、熾仁親王や鳥取藩士の日本刀需要に応えるため、東征軍に参加しました。
「明治天皇」の太刀・短刀も鍛造した宮本包則でしたが、1876年(明治9年)の廃刀令以降は日本刀の注文が激減してしまい、一般庶民相手の鍛冶仕事でやっとその日を過ごすようなありさまとなります。
その窮地を抜け出すきっかけとなったのは、1886年(明治19年)に3年後の伊勢神宮式年遷宮で奉納する宝刀などの大量注文でした。上京し靖国神社の境内で槌をふることになった宮本包則は、この期待に見事こたえます。
これによって「明治天皇」からもその技量を高く評価され、1906年(明治39年)帝室技芸員に任命されるに至ったのです。
1915年(大正4年)、「大正天皇」の大元帥刀も鍛え上げるなど、皇室・皇族関係の作刀に多く携わった宮本包則は、1926年(大正15年)97歳という長寿をまっとうして他界。
宮本包則は、「五箇伝」のうち特に備前伝を取り入れた作刀を得意とし、相州伝や山城伝にも通じていました。
備前伝は匂出来(刀身の地の粒子が見えないもの)で高い腰反りの優美さを特徴としていますが、宮本包則の作刀は質素なものが主ですが奇をてらわない品格の高さを備えています。
その正統な日本刀の美しさや迫力が、愛刀家から高い評価を受けました。
本名は「塚本弥五郎」(つかもとやごろう)と言います。彼は7歳のときに大阪の刀匠「月山貞吉」(がっさんさだよし)の養子となるのですが、この月山貞吉は出羽国の月山(がっさん:現在の山形県鶴岡市他)のふもとの寒河江(さがえ)で平安時代から続いた月山一族の末裔で、途絶えていた月山派の日本刀を復興した名工で、まず江戸に出て「水心子正秀」(すいしんしまさひで)に師事し、その後大阪に移って刀造りに励んでいたのです。
月山貞吉から作刀の技術を学んだ月山貞一は、早くからその才能を発揮し、諸藩の依頼で作刀に励みます。明治維新後も1869年(明治2年)に35歳の若さで明治天皇の御剣を鍛える一世一代の大仕事を成し遂げるなど、その力量は他を圧するものとなっていました。
1876年(明治9年)の廃刀令以降も逆境にめげず技術を磨いて作刀に励んだ月山貞一は、1885年(明治18年)その日本刀の刃の冴えに感心した明治天皇が買い上げたことでいっそう高い評価を得ました。
ついに1906年(明治39年)、帝室技芸員の任命を受けて宮内省の御用刀匠にもなり、皇室・皇族から著名人の日本刀、陸軍大学校を卒業するときの成績優秀者に贈る恩賜の軍刀などの日本刀を多く手がけることとなったのです。
その作刀作業は物に憑かれたかのような異様な集中力で行なわれ、日本刀を抱いて寝、起きるとまた鍛えるということもあったそうです。1918年(大正7年)、83歳で死去。
月山貞一は、月山派の綾杉肌(柾目の一種で、大きく波打っているもの)を得意としましたが、彼もまた五箇伝に通じ、様々な技法を駆使して変化に富んだ日本刀を世に出しました。特に優雅な刃文や精緻な彫刻で人気を集め、美術的な価値では宮本包則をしのぎます。
日本刀に関する基礎知識をご紹介します。