「黒田斉清」(くろだなりきよ)は、「黒田官兵衛」の子孫です。福岡藩(現在の福岡県)黒田家の10代藩主として、江戸時代後期に活躍。黒田家には、黒田官兵衛や「黒田長政」が蒐集した名刀が多数あったことで有名ですが、そのなかの1振、10代藩主・黒田斉清が佩用したという「刀 無銘 真長」が刀剣ワールドの所蔵刀となりました。黒田斉清と刀工「真長」(さねなが)について、詳しくご紹介します。
「黒田斉清」(くろだなりきよ)は、福岡藩(現在の福岡県)藩主「黒田斉隆」(くろだなりたか)の嫡男として、江戸時代後期の1795年(寛政7年)に誕生しました。
福岡藩主黒田家と言えば、戦国武将「黒田官兵衛」を祖先とする500,000石の大大名家。何不自由ない暮らしを約束された御曹司とばかりに思われがちですが、実は黒田斉清には出生直後から大きな苦難が待ち受けていたのです。
ひとつ目は、父・黒田斉隆が19歳という若さで病死してしまったこと。このとき、黒田斉清は生後4ヵ月。父・黒田斉隆は、一橋徳川家2代当主「徳川治済」(とくがわはるさだ)の三男で、福岡藩の養子となっていた人物でした。黒田斉清は急遽、祖父・徳川治済を後ろ盾とし、生後9ヵ月にして福岡藩黒田家10代藩主に就任することになったのです。
藩主就任にあたり、伯父である江戸幕府11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)の1字を賜り、幼名の「松次郎」、初名の「長順」(ながゆき)から、黒田斉清と改名。「おぎゃあ」と泣きながら藩主になったため、「ぎゃっと殿様」とも呼ばれました。この藩主就任時に佩用したのが、「刀 無銘 真長」であったと伝えられています。
また、黒田斉清に起こった2つ目の苦難が、目の病です。黒田斉清は、6歳で江戸に参府し、学問好きの名君に成長。蘭学や本草学(ほんそうがく:薬物[動植物、鉱物]を研究する学問)を得意としましたが、幼少期から眼病に苦しんだと言われています。
黒田斉清が23歳のときに起こったのが、1808年(文化5年)「フェートン号事件」です。これは、佐賀藩(現在の佐賀県)が警護していた長崎港に、当時入港を許可していたオランダ船ではない、イギリス船・フェートン号を誤って入港させてしまった事件。
当時、オランダとイギリスは敵対関係にあり、イギリス船・フェートン号はオランダ船のふりをして長崎港に不法入港。欺かれた長崎奉行ら2人はイギリス人に捕らえられ、港は荒らされ、薪水や食糧を要求されます。幸い、長崎奉行らは釈放され、フェートン号は退去。
しかし、事件を重く見た長崎奉行「松平康英」(まつだいらやすひで)は切腹し、これ以降、福岡藩が佐賀藩と共に長崎港の警護を行うという重責を担うことになったのです。
しかし、黒田斉清は蘭学や本草学に長けた聡明な藩主。足繁く長崎を訪問し「蘭癖大名」(らんぺきだいみょう:西洋に傾注する大名)と呼ばれるほどになりました。海防論を執筆し、鳥類や動植物の分野にも明るく、長崎出島のオランダ商館医「シーボルト」とも親交があったと伝えられています。しかし、40歳の頃には職務ができないほど眼病が進み隠居。享年は57歳と言われています。
「真長」(さねなが)とは、備前長船派の始祖「光忠」(みつただ)の子で、初代「長光」(ながみつ)の弟。鎌倉時代中期から後期にかけて活躍した名匠です。名物「無布施経真長」(ふせないきょうさねなが)が有名で、重要文化財に9振が指定されています。
作風は、品格のある落ち着いた太刀姿。地鉄(じがね)は青江物のように青黒く冴えて奥ゆかしく、備前長船派のなかでも一番と言われる美しさです。刃文は備前長船正伝系の丁子乱れではなく、匂本位の直刃(すぐは)を基調としているのが特徴。
ただし、刃縁が締まり、刃中の働きもよく、帽子は「三作帽子」(さんさくぼうし)わずかに湾れ(のたれ)て小丸に返る、真長の同系である長光や「景光」(かげみつ)にも共通する特徴で、備前長船正伝系が守られています。
福岡藩黒田家は多くの戦で武功を挙げ、その褒賞品として国宝「へし切長谷部」、国宝「日光一文字」など、多くの名刀を所有していたことで有名です。
1870年(明治3年)、福岡藩黒田家12代藩主「黒田長知」(くろだながとも)が福岡県知藩事を解任されるまで、100振以上の刀剣を所持していました。数多い刀のなかから、どうして、刀 無銘 真長が、福岡藩黒田家10代藩主・黒田斉清の藩主就任時の佩刀に選ばれたのでしょうか。
この刀を選んだと思われるひとりが、黒田斉清の祖父・徳川治済です。徳川治済の祖父は、刀剣好きで有名な江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」。徳川治済もまた、刀剣の知識に長けていたのではないかと思われるのです。
実は福岡藩黒田家は、長年、後継者問題に頭を抱えていました。6代藩主「黒田継高」(くろだつぐたか)は、4男11女に恵まれていたのですが、ほとんどの子どもが死亡。男系のみならず女系の血統も途絶えてしまい、江戸幕府の提案により、一橋徳川家の初代当主「徳川宗尹」(とくがわむねただ)の五男を1763年(宝暦13年)に7代藩主「黒田治之」(くろだはるゆき)として養子に迎えることとなったのです。
しかし、その黒田治之は30歳という若さで嗣子がないまま逝去。このため、多度津藩(たどつはん:現在の香川県)藩主「京極高慶」(きょうごくたかよし)の七男を1781年(天明元年)に8代藩主「黒田治高」(くろだはるたか)として養子に迎えますが、またもや29歳という若さで逝去。そして黒田斉清の父、9代藩主・黒田斉隆もまた早世となっていたのです。