備前伝
長船鍛冶の歴史
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「備前長船」(びぜんおさふね)とは、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)の刀工流派。今で言う、日本刀(刀剣)の一流ブランドです。中でも、「長光」(ながみつ)・「真長」(さねなが)・「景光」(かげみつ)の3人は、鋒/切先(きっさき)の中に刃文(焼刃)を入れる、大変難しい「帽子」(ぼうし)技術に優れていました。この3人に共通する帽子のことを、「三作帽子」と言い、この3人は「長船三作」と呼ばれます。また、この流派は「長船四天王」と呼ばれる4人の卓越した刀工も輩出しました。 これらの優れた備前長船の特徴や歴史、名工について詳しくご紹介します。

備前長船とは?

備前長船が拠点とする「長船」とは、現在の岡山県瀬戸内市。備前国は、吉井川下流域を主な領土とし、質・量ともに日本一と謳われる鉄資源(赤目砂鉄)に恵まれました。起源は、平安時代中期にはじまる古備前鍛冶。この古備前鍛冶の技法を受け継いで、時流に乗って繁栄したのが、備前長船なのです。

備前長船の祖である「光忠」(みつただ)が惣領(そうりょう)となったのは、鎌倉時代中期。世界史的には、13世紀、チンギス・ハンがモンゴル民族を統一して、中央アジアから南ロシアを征服した頃です。日本にも、チンギス・ハンの孫、フビライ・ハン率いる「元」(蒙古軍)が、1274年(文永11年)に「文永の役」、1281年(弘安4年)に「弘安の役」として襲来。備前長船では、ちょうど2代目惣領の長光へと代替わりしていました。

長光の太刀(たち)は、この元(蒙古軍)に立ち向かう意気盛んな鎌倉武士の質実剛健の気風を表したかのような、男性的で豪壮な姿と華やかな刃文でたちまち人気に。3代目惣領の景光も、景光が創案した刃文「片互の目乱れ焼き」(かたぐのめみだれやき)で一世を風靡(ふうび)します。

そして、南北朝時代になると、4代目惣領の「兼光」(かねみつ)は流行していた相州伝(そうしゅうでん)をうまく取り入れ、「相伝備前」と呼ばれる新しい鍛刀法を考案。この相伝備前は、「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりとなった「長義」(ながよし/ちょうぎ)や、「貞宗三哲」(さだむねさんてつ)のひとりとなった「元重」(もとしげ)にも波及し、当時の武士達に受け入れられてますます繁栄したのです。

日明貿易にも貢献・時代の波に乗った応永備前

日本刀は輸出品として人気

日本刀は輸出品として人気

室町時代、3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)は南北朝の統一に成功。戦がなくなり泰平な時代が訪れます。備前長船は、日本で初めて日本刀(刀剣)の大量生産に成功。これに目を付けた義満は、備前長船を「応永備前」(おうえいびぜん)と呼び、贔屓(ひいき)します。それが「三光」とも呼ばれた「盛光」(もりみつ)・「康光」(やすみつ)・「師光」(もろみつ)です。

応永備前は、平和な時代であった古備前や光忠・長光・景光といった長船初期の作柄がお手本。姿格好、身幅、焼幅などすべての点で手頃な万人向きの作柄で、応永年間に作られたので応永備前と呼ばれました。そして、1401年(応永8年)に義満は、中国の明国と行なう「日明貿易」の主要輸出品に、備前長船の日本刀(刀剣)を大抜擢するのです。

輸出品としたのは、大量生産した低品質の日本刀(刀剣)。日本で1貫文(現在の価格で10~15万円)程度の物が、明にて10貫文(現在の価格で100~150万円)で売れ、その数は15万振にも達したとのこと。幕府はたいへんな外貨利益を得ることに成功します。

数打ち物の出現と末備前

1467年(応仁元年)の「応仁の乱」を皮切りに戦国時代になると、1555年(弘治元年)「川中島の戦い」、1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」、1570年(元亀元年)「姉川の戦い」など、立て続けに戦が起こり、乱世となります。

日本刀(刀剣)の需要は増大し、備前長船は西の軍需工業地帯として、「数打ち物」と呼ばれる日本刀(刀剣)の分業による組織的な大量生産をこなすようになりました。その数は、なんと100万振。これを行なったのが、「末備前」(すえびぜん)と呼ばれる、「勝光」(かつみつ)・「祐定」(すけさだ)・「清光」(きよみつ)です。

特に祐定は、一門揃ってみな祐定と名乗り、その数は50余人とも言われました。ただし、数打ち物と言う安い既製品だけでなく、「注文打ち」と言われる武将達の求めに応じたオーダーメイドも別途作刀。祐定は、大互の目乱れの頭が蟹のツメのように割れた刃文を焼くなど、特に傑出していました。

このように、備前長船は時代の波に乗って、全国一の数量と品質を誇り、一流品から廉価品まで揃える、一流大ブランドとなるのです。

しかし、天正18年(1590年)8月、吉井川の大洪水と熊山の山津波が起き、長船・畠田(はたけだ)・福岡の地は一瞬にして水没してしまいます。死者7千数百人。刀工、その家族のほとんどが亡くなり、日本刀(刀剣)の一大生産地としての備前長船は衰退してしまいました。

備前長船の名工:長船三作

長光:鎌倉時代後期に活躍(1274~1304年)

人物
備前長船の祖である光忠の子で、2代目惣領。元寇(蒙古襲来)の際に活躍した人です。
作風
蛙子丁子

蛙子丁子

踏ん張りが強く、鎬(しのぎ)が高く、猪首鋒/猪首切先(いくびきっさき)になった堂々たる姿の太刀で人気に。刃文は大丁子乱(おおちょうじみだれ)や蛙子丁子(かわずこちょうじ)を交え、互の目混じり(ぐのめまじり)で華やか。丁子映りの名人。また「長光姿」と呼ばれる、優美で上品な作風も。江戸時代には、長光銘が縁起の良い物として贈答品としても好まれました。

帽子
三作帽子(上品な小丸)
「長光」、「備前長船住長光造」、「備前国長船住左近将監長光造」
作品
「大般若長光」(だいはんにゃながみつ:国宝)など。鑑定された結果、大般若経(だいはんにゃきょう)の巻数と同じ「600貫」という破格の値が付いたことから、この名前に。

大般若長光

大般若長光

評価
大業物。国宝6振。重要文化財28振。重要美術品36振。

真長:1278~1306年頃に活躍

人物
光忠の子で、初代長光の弟。
作風
反りが浅く、おっとりと穏やかで大人しい、品格のある太刀姿。刃文は今までの備前正伝にはない直刃(すぐは)を基調として、下部にわずかに小乱が交わる静かな刃取り。青黒く冴えた落ち着きのある地金(じがね)は青江物(あおえもの)のようですが、澄肌ではなく、やわらかい味と奥ゆかしさがあります。
帽子
三作帽子(のたれて先尖りごころに短く返る)
「真長」、「備前国長船住真長造」、「備前国長船住人真長」、「備前国長船住人平真長造」
作品
「赤銅鳥頚太刀」(重要文化財)など。拵(こしらえ)に赤銅の金具が用いられ、柄の先端に鳥の頭の形をしたモチーフが付いていることから名付けられました。
評価
国宝1振。重要文化財6振。

景光:1306~1334年頃に活躍

人物
景光は、長光の子。備前長船の3代目の惣領。
作風
身幅は尋常な頃合で、重ねが厚く品格のある太刀姿。地鉄は清良で、父・長光にも勝ると言われています。「片落互の目乱れ」(かたおちぐのめみだれ)は景光創案。
帽子
三作帽子(わずかにのたれて小丸に返る)
太刀 銘 備州長船住景光 正和五年十月日

銘 備州長船住景光

「備前国長船住景光」、「備前国長船住左兵衛尉景光」、「備州長船住景光」、「景光」

作品
「小龍景光」(国宝)など。小さな倶利加羅龍(くりからりゅう)を浮き彫りにしていることから、この名前が付けられました。また、この日本刀(刀剣)を南北朝時代の武将・楠木正成(くすのきまさしげ)が愛用したことから「楠公景光」とも呼ばれることも。
評価
国宝3振。重要文化財15振。

備前長船の名工:長船四天王

長光:鎌倉時代後期に活躍(1274~1304年)

※長船三作の長光と同一人物

兼光:鎌倉時代後期~南北朝時代に活躍(1321~1361年)

人物
4代目惣領。景光の子。相伝備前の開祖で、正宗十哲のひとり。
作風
正宗の刃文を取り入れ、小沸の付いた「のたれ乱」を基本として覇気に満ち、刃中も金筋(きんすじ)や稲妻(いなづま)など動きも盛ん。杢目肌(もくめはだ)に板目が交り、肌立ち気味。彫刻もシャープ。
1mを超える長寸な物が多く、反りが浅く、身幅の広いわりに重ねが薄め。
帽子
三作帽子に似ているが、突心が現れるのが特徴。
「備前国長船住兼光」、「備前国長船兼光」、「備前長船兼光」、「備州長船住兼光」、「備州長船兼光」
作品
「波泳ぎ兼光」など。小早川秀秋(こばやかわひであき)が川のそばを歩いていたときに男に襲われ、この日本刀(刀剣)で切ったところ、男は川を泳いで逃げ、岸に辿り着いた途端に体が真っ二つになったと言う逸話があります。
評価
最上大業物。重要文化財13振、重要美術品6振。

長義:南北朝時代に活躍(1352~1381年)

人物
光忠の3男・真長の子である光長の子。正宗十哲のひとりで最年少。
作風
備前長船の本流(匂本位[においほんい]の丁子乱を基本とした杢目鍛え)とは離れて、個性的な独自の作風(荒沸本位[あらにえほんい]の板目鍛えを採用し、備前伝の杢目鍛えの遺風が残る)を生み出しました。太刀は反りが浅く、身幅が広く、中鋒/中切先の堂々たる相州伝の姿。「長義の耳形乱」という人間の耳に似た大きくたれた乱刃が得意。長寸のため、大磨上無銘が多いです。
帽子
焼きが強く大きく乱れこんで深く反ります。
「備前国長船住長義」、「備州長船住長義」
作品
「山婆切」(重要文化財)など。信濃国(しなののくに:現在の長野県)の戸隠山(とがくしやま)の山姥(やまんば)という化け物を退治したことから名付けられました。
評価
大業物。重要文化財5振。

元重:南北朝時代に活躍

人物
畠田系守重の子。貞宗三哲のひとり。作風は相伝備前の兼光系。
作風
兼光程の豪壮さはなく、おっとりとした作柄です。中直刃仕立に小互の目乱(こぐのめみだれ)が交り、刀身の中程に頭の揃った片落ち互の目乱を焼いています。平肉がたっぷり付くのが特長。
帽子
必ず横手の上が尖り、大丸風となり三作帽子とよく似ています。
作品
「見返り元重」(重要文化財)。この日本刀(刀剣)で斬った男が振り返った途端、真っ二つになったため命名。
評価
最上大業物。重要文化財8振、重要美術品3振。

備前国の地図

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長船鍛冶

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備前国(びぜんのくに:現在の岡山県南東部)は、古来より鉄資源に恵まれた刀剣王国です。質・量ともに全国1位を誇り、刀匠の数も突出して多く、現存する名刀の70パーセントが備前の物と言うことからも、その繁栄ぶりが窺えます。中でも「長船派」(おさふねは:備前長船)は、「長船物」(おさふねもの)と呼ばれ高く評価され、名刀の代名詞とされてきました。備前長船が刀剣王国として栄えたのは、長船一門の、各代の長の時代を見る眼が正しかったと言うことが挙げられます。祖である「光忠」(みつただ)は武士の時代に即した、実戦を重んじながらも芸術的で華やかな日本刀を作り出し、2代目「長光」(ながみつ)の経営者としての力量が大工房へと発展させました。3代目「景光」(かげみつ)は堅実に父の跡を引き継ぎながらも、「肩落互の目」(かたおちぐのめ)など、時代に合ったデザインを工夫し、長船派は発展していくのです。 ここでは、長船派の代表的な名工についてご紹介します。

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