江戸時代

江戸時代の文化とは

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江戸時代は、約260年にわたる天下泰平の世が続いたことを背景に、経済的余裕から、武士だけでなく町人も学問を学んでいます。また、歌舞伎や相撲といった娯楽も登場し、「町人文化」が発展していきました。そんな江戸時代の文化ついて、詳しくご紹介します。

江戸時代の「学問」

江戸時代は、第4代将軍「徳川家綱」の代から、武士でも学問を習うことが奨励されました。お金を払って寺子屋に通わせ、「読み・書き・そろばん」を学ばせるなど、学問が発展した時期です。

江戸時代の代表的な学問として、日本古来の思想を学ぶ「国学」や、医学的な知識を学ぶ「蘭学」などが、特に広がりをみせました。

国学

国学とは、和歌や古事記、源氏物語といった日本の古典を研究し、日本古来の精神や思想を明らかにしようとした学問で、別名「和学」、「皇朝学」、「古学」(古道学)とも呼ばれています。儒教や仏教といった外来の思想を批判し、日本古来の思想を追求した物で、主に町人層に支持を集めました。

この国学の基礎を築いたのが「賀茂真淵」(かものまぶち)です。賀茂真淵は、「万葉集」を読解して古代の日本語を研究し、日本古来の精神として高く評価しました。

この思考を受け継ぎ、国学を大成させたのが「本居宣長」(もとおりのりなが)です。「源氏物語」や「古事記」の研究を通じて、「もののあはれ」や日本人の「人の情(こころ)のありのまま」(大和心)を考察しました。

それまで一部の人にしか知られていなかった国学は、本居宣長の著した「古事記伝」を通じて広まり、本居宣長の下で国学を学んだ門人が増えたことにより、全国に広がっていきます。

その後、本居宣長を引き継いで国学の中心人物となったのが、「平田篤胤」(ひらたあつたね)です。平田篤胤は、本居宣長の古事記研究を「神道」の研究として発展させました。その門人には、神官だけでなく、豪農や下級武士など、身分の違いを越えて集まり、やがて「草莽(そうもう)の国学」として、尊王攘夷運動にも大きな影響を及ぼしました。

蘭学

徳川吉宗

徳川吉宗

江戸時代は、幕府の鎖国政策により、スペインやポルトガルなどのキリスト教国からの来航や、東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を制限していました。しかし、第8代将軍「徳川吉宗」が西洋の知識や技術を求め、オランダの書物の輸入緩和政策を取ります。

徳川吉宗は、「青木昆陽」(あおきこんよう)や医師の「野呂元丈」(のろげんじょう)らに、オランダ語を習得、及び翻訳させたことにより、オランダの学問「蘭学」に対する関心が高まり、蘭学が広まっていきました。

蘭学の分野は、オランダ語の語学や自然科学(医学、天文学、物理学、化学)、測量術、砲術など多岐にわたり、その中でも日本に大きな影響を与えたのが医学の分野です。

民間の医者であった「前野良沢」(まえのりょうたく)や「杉田玄白」(すぎたげんぱく)が、オランダ語で書かれた「ターヘル・アナトミア」という解剖学書を翻訳し、日本語の解剖学書「解体新書」を出版したことにより、日本の医学界に大きな進歩をもたらしました。

江戸時代の「浮世絵」

「錦絵」の登場

浮世絵は、江戸時代に完成した絵画様式のひとつ。江戸時代の始まりと共に誕生し、主に日常生活や流行、役者などをテーマにした風俗画で、町人を中心に大衆娯楽として人気を集めます。

江戸時代初期、浮世絵の始祖「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)から始まった浮世絵は、当時人気のあった読み物の挿絵から発展した、墨一色の「墨摺絵」(すみずりえ)でした。

その後、奥村政信(おくむらまさのぶ)が、西洋画の遠近法を用いて、役者だけではなく、芝居小屋の内部全体の様子を描いた「大浮絵」(おおうきえ)を完成させます。

その後、丹色(にいろ/赤土の色)を着色した「丹絵」(たんえ)が登場し、植物性の染料を用いて墨摺絵の上に紅を筆彩色した「紅絵」(べにえ)や、墨摺絵に紅や緑などの色版を摺り重ねた「紅摺絵」(べにずりえ)へと発展。そして、浮世絵の革命児「鈴木春信」(すずきはるのぶ)によって、木版多色摺りの「錦絵」が生み出され、華やかな錦絵は、瞬く間に浮世絵の定番の手法となりました。

錦絵は、鈴木春信が、狂歌師「巨川」 (きょせん)などの助言を受けながら、新しく生み出した木版による多色摺の浮世絵です。今までの浮世絵に比べ、複雑な色を表現できるようになりました。

錦絵のテーマは、歌舞伎や遊里だけでなく、婦女子の日常生活や恋愛など。その絵が、錦のような美しさだったことから錦絵と呼ばれるようになり、浮世絵の発展に大きな影響をもたらしたと言えます。

刀剣ワールド 浮世絵刀剣ワールド 浮世絵
浮世絵の歴史や有名な浮世絵師など、浮世絵に関することをご紹介します。

江戸時代の「演劇」

江戸時代の中期になると、江戸の町に暮らす町人も経済力を付け、娯楽のためにお金を使うことができるようになり、「歌舞伎」、「遊郭」、「相撲」が三大娯楽となっていきました。

「歌舞伎」の誕生

江戸時代の文化 歌舞伎

江戸時代の文化 歌舞伎

歌舞伎は、出雲大社の巫女を名乗る「阿国」(おくに)という女性が、1603年(慶長8年)、京都で踊ったのが始まりだとされています。

阿国が男装してかぶき者に扮し、猿若(道化)が扮する奴(やっこ)を連れて女郎屋へ行き、狂言師の扮する茶屋の女房と戯れる姿を、おもしろおかしく踊りにして演じた「かぶき踊り」は、大変な評判を呼びました。

その後、歌舞伎は幕府によって一時禁止されますが、若衆らしく前髪をそり落とし、「野郎頭」にすること、「物真似狂言尽」(ものまねきょうげんづくし/かぶき踊りではなく、役者が演技する芝居のこと)に限定して上演することを許されるようになり、「野郎歌舞伎」が登場します。

この野郎歌舞伎が、現在の歌舞伎の原型となっていきました。

相撲

江戸時代の文化 勧進相撲

江戸時代の文化 勧進相撲

江戸時代の三大娯楽のひとつが「相撲」でした。相撲の歴史は古く、原型は弥生時代にまで遡ります。もともと相撲は、豊穣を願う農耕儀礼でしたが、奈良時代になると天皇家に取り上げられ、年中行事として七夕に相撲が行なわれるようになりました。

平安時代になると、その年の五穀豊穣を占う「国占」(くにうら)へと形を変え、宮廷儀式の「相撲節」(すまいのせち)として、300年ほど続きます。

鎌倉時代末期から室町時代になると、寺社建立のための資金調達を目的として、人々から募金活動をする「勧進相撲」(かんじんずもう)が行なわれるようになりました。

江戸時代に入ると、相撲を仕事とする人々が登場します。名前はそのまま「勧進相撲」のままでしたが、目的は人々に見せることに変化し、2場所制で、1場所晴天8日(のちに10日)の興行が決まりでした。

徳川家斉

徳川家斉

18世紀半ばには、今のような番付表も作られ、江戸の人々にとって、力士はより身近な存在になっていきました。

18世紀末には、「小野喜三郎」(おのきさぶろう)や「雷電為右衛門」(らいでんためうえもん)などの超人気力士が登場。

江戸城の吹上御所で、第11代将軍「徳川家斉」による上覧相撲が開催されました。

江戸時代の文化とは

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武家諸法度

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「武家諸法度」(ぶけしょはっと)は、江戸幕府の2代将軍「徳川秀忠」が公布した全国の大名達に規範を示した法令です。3代将軍「徳川家光」の時代には「寛永令」(かんえいれい)が出され、「参勤交代」(さんきんこうたい)の制度化などが追加されました。以降も、武家諸法度は、徳川将軍家の歴史と共に歩みを進めます。武家諸法度についてと武士とは何であるのかを見ていきましょう。

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天保の大飢饉

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天下泰平の世と言われた江戸時代は、和のファッション文化が熟成された時代でもあります。職業に応じた衣服が誕生し、武士や町人など、身分に応じたバリエーション豊かな服装が生まれました。装飾品も多彩になり、庶民の間にもオシャレや流行を楽しむ習慣が広がっていきます。一方、戦闘服だった甲冑(鎧兜)は、戦いがなくなったことにより、美術品や防具としての価値が高まっていきました。そんな江戸時代の衣服や装飾品・甲冑(鎧兜)について、ご紹介します。

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