鎌倉時代

鎌倉時代の文化とは

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鎌倉時代の文化は、これまでの貴族中心の「国風文化」(藤原文化)に、武士の精神や中国文化(宋や元)が新しく加わった「質実剛健な文化」へと変化しました。彫刻や文学、絵画などが発展し、新しい文化が多く生み出された鎌倉時代の文化について、詳しくご紹介します。

鎌倉時代に発展した「彫刻」

鎌倉時代は、「日本彫刻のルネサンス時代」とも呼ばれ、鎌倉時代を代表する「慶派」と呼ばれる仏師集団の活躍によって、写実的で力感あふれる仏像や肖像彫刻が数多く生み出されました。鎌倉時代の代表的な彫刻をご紹介します。

東大寺南大門/金剛力士像

金剛力士像

金剛力士像

鎌倉時代の代表的な彫刻と言えば、奈良県奈良市にある「東大寺南大門」の「金剛力士像」です。寺の守り神として南大門の左右に配置され、向かって左側の口を開けた像が「阿行」(あぎょう)、右側の口を閉じた像が「吽行」(うぎょう)と言い、仏敵や邪悪な者は金剛杵によって粉砕すると言われています。

金剛力士像は、もともと奈良時代に造立されましたが、「平重衡」(たいらのしげひら)らの「南都焼討」(なんとやきうち)によって焼失。その後、仏教寺院を再建しようという機運が高まり、仏師(仏像を専門に作る者)であった「運慶」(うんけい)、「快慶」(かいけい)、「定覚」(じょうかく)、「湛慶」(たんけい)らによって再建されました。

金剛力士像は、像高約8.4m、重さ約6.67t、左右合わせて一対の仏像となっており、「生と死」、「始まりと終わり」を表したとされています。

興福寺/無著菩薩立像・世親菩薩立像

興福寺の北円堂にある「無著菩薩立像」(むちゃくぼさつりゅうぞう)と「世親菩薩立像」(せしんぼさつりゅうぞう)も、鎌倉時代を代表する彫刻作品。仏師・運慶の指導の下、無著菩薩立像は運慶の六男「運助」(うんじょ)、世親菩薩立像は運慶の五男「運賀」(うんが)によって造られました。

2体の菩薩立像は、像高は2メートル近くある「寄木造り」で、目には「玉眼」(眼の部分に水晶を嵌入する技法)がはめられています。2人の表情は、心の動きまでが表現されているような写実的な姿で、いずれも国宝に指定されている「日本彫刻の傑作」です。

興福寺/天燈鬼像・竜燈鬼像

興福寺の西金堂に安置されている「天燈鬼像」(てんとうきぞう)と「竜燈鬼像」(りゅうとうきぞう)は、仏師・運慶の三男である「康弁」(こうべん)が造立しました。いずれもヒノキを使った寄木造りで、玉眼が用いられています。

通常、四天王の足下に踏み付けられている「邪鬼」を、仏前に奉る灯籠を持たせるという珍しい形式です。骨格や筋肉、血管などが写実的に表現されており、「鎌倉彫刻の傑作」と言えるでしょう。

鎌倉時代の「文学」

鎌倉時代になると、平安時代の「源氏物語」のような作り物語から、戦いをテーマにした物語へと変化し、武士同士の戦を描いた「平治物語」や、平家一門の栄枯盛衰の物語「平家物語」などの「軍記物語」が登場しました。

また和歌集では、三大和歌集のひとつ「新古今和歌集」などの勅撰和歌集(天皇や上皇の命によって編纂された和歌集)が編纂。日本語のもとになったと言われる、「和漢混淆文」(わかんこんこうぶん/和文体と漢文訓読体とが融合した文体)で書かれた「方丈記」が、鴨長明によって作られました。

軍記物語/平家物語

琵琶法師

琵琶法師

鎌倉時代の代表的な文学作品である平家物語は、全12巻の軍記物語です。源平合戦の描写を軸に、平清盛が太政大臣となり栄華を極めたときから、壇ノ浦で滅亡するまでの栄枯盛衰と様々な人間模様が描かれています。

作者は「信濃前司行長」(しなののぜんじゆきなが)が有力。そして、この行長の語りを平僧侶「琵琶法師」(びわほうし)が覚え、日本全国に広めたとされています。

実際にあった出来事をもとにしながら、平安時代のような詩的な表現を織り交ぜた新しいスタイルで、後世日本の文学や演劇などに多大な影響を与えました。

和歌集/新古今和歌集

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

「万葉集」や「古今和歌集」に並ぶ三大和歌集のひとつ「新古今和歌集」は、「後鳥羽上皇」の命によって編纂された「勅撰和歌集」です。「藤原定家」(ふじわらのさだいえ)含む6人の編者が、過去の和歌集には含まれていない和歌を中心に、選定を行なっています。

新古今和歌集の制作には、1201年(建仁元年)から1216年(建保4年)と、15年以上の歳月がかかったとされ、収録された和歌の数は1,900首以上。

優雅で繊細な調べや、耽美的な歌風は、「新古今調」(しんこきんちょう/初句切れや3句切れ、体言止めが多い歌風)と言われています。

随筆/方丈記

方丈記は、兼好法師の「徒然草」や清少納言の「枕草子」と並んで、「日本三大古典」のひとつとされており、「鴨長明」(かものちょうめい)によって書かれた随筆です。

随筆とは、自分の考えや見聞きしたことなどをありのままに書いた文章のことで、鴨長明の生い立ちから、50歳で出家して体験したこと、そしてその無情観などが綴られています。

また、詠嘆表現や対句表現を多用した和漢混淆文で書かれており、「隠棲文学の祖」や「無常観の文学」とも言われています。

随筆/徒然草

徒然草は、「卜部兼好」(うらべかねよし/のちの吉田兼好)によって書かれたと言われており、日本の三大随筆のひとつです。

全244段で構成されており、友人や自然、恋愛のことなど、無常観に基づく人生観や世相観、趣味などが、切れ味の良い和漢混淆文と和文で書き記されています。

江戸時代になると、人生教訓の書として広まるなど、その後の文学に大きな影響を与えました。

絵巻物/紫式部日記絵巻

鎌倉時代における代表的な絵巻物として、「紫式部日記絵巻」があります。

紫式部日記絵巻は、平安時代に紫式部によって書かれた日記をもとに、作られた絵巻物。紫式部が、皇子出産とその祝賀の華やかな様子を中心に、平安貴族の様子を描き出した絵巻物で、「日記文学の傑作」と言われています。

鎌倉時代の肖像画「似絵」

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「似絵」(にせえ)と言われる肖像画が登場しました。

1156年(保元元年)に、後白河院が宮廷絵師の高能に「鳥羽天皇」を描かせたのが始まりとされ、「藤原信実」 (ふじわらのぶざね) によって完成したと言われています。

似絵は、大和絵の画風で描かれており、「後鳥羽天皇像」や「花園天皇像」など、天皇や僧侶、武家の肖像画が多いのが特徴です。

源頼朝像・平重盛像

源頼朝

源頼朝

立体的表現が美しい「源頼朝像」は、藤原隆信の作品であり、鎌倉時代らしい重厚さが感じられる肖像画です。

源頼朝像と共に京都の「神護寺」に置かれていた「平重盛像」も、藤原隆信により描かれた似絵で、国宝に定められています。

後鳥羽天皇像・花園天皇像

国宝に指定されている後鳥羽天皇像は、似絵の代表的な作品で、藤原野隆信の息子である藤原信実の作品です。

花園天皇像は、藤原隆信の子孫である「藤原豪信」(ふじわらのごうしん)によって描かれた似絵で、平安時代の絵画に比べ、写生的に描かれています。

鎌倉時代の「仏教」

平安時代末期から鎌倉時代の間に誕生した仏教は、「鎌倉仏教」と呼ばれています。民衆や武士の間で広まった「浄土宗」を始め、中国(唐)の影響を受けた仏教も多く誕生しました。

浄土宗・浄土真宗

浄土宗は、比叡山で天台宗を学んだ「法然」(ほうねん)が開き、「念仏を唱え続け、穏やかな生活を送ることこそが極楽浄土にいくための道である」と説き、主に貴族や武士に広まっていきました。

一方、「浄土真宗」は、法然の弟子である「親鸞」(しんらん)が開祖し、東本願寺の「大谷派」と西本願寺の「本願寺派」に分かれています。

「阿弥陀仏の救いを信じるだけで、善人はもちろん悪人のほうこそ当然往生できる」と教えを説き、武士や庶民を中心に広まりました。

時宗

時宗は、鎌倉時代末期に「一遍」によって開かれ、総本山は神奈川県に位置する「清浄光寺」です。「南無阿弥陀仏を唱え続けることで極楽浄土へ行ける」と説き、日本各地で布教活動を行なっていたことから、寺院が全国各地にあります。

踊りながら念仏を唱える「踊念仏」(おどりねんぶつ)というスタイルから、庶民に多く支持されました。

日蓮宗

日蓮宗は、「日蓮」(にちれん)が開いた鎌倉時代の仏教で、「日蓮法華宗」とも呼ばれています。仏の教えの中でも「法華経」(ほけきょう)を拠りどころにし、「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えることで救われると説きました。

日蓮宗は仏教でありながら、日蓮が考えた独創的な宗教であることが特徴です。

臨済宗・曹洞宗

臨済宗は、中国の僧侶である「明菴栄西」(みょうあんえいさい)により開かれました。

禅の概念を初めて日本に持ち込み、修行者達に激しい喝を与えたり、棒で打ったりする激しさが特徴です。

同じく禅宗の一派である「曹洞宗」は、中国の僧侶である「洞山良价」(とうざんりょうかい)により開かれ、「臨済宗」や「黄檗宗」とともに「日本三大禅宗」のひとつ。神奈川県の「総持寺」と福井県の「永平寺」を大本山とし、念仏を唱えず、ただ座禅の修行に打ち込むことが最高の修行と説きました。

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