歴史上の人物と日本刀

刀 金象嵌銘 兼光と名君 黒田継高(長好)

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「黒田長政」(くろだながまさ)を初代藩主として約300年続いた福岡藩。筑前国(ちくぜんのくに:現・福岡県西部)のほぼ全域を領していましたが、300年のうちでその治世が51年にも及んだ武将がいます。それは、福岡藩第6代藩主「黒田継高」(くろだつぐたか)。歴代の福岡藩主の中で、継高が藩主であった期間は最長でしたが、その理由はどのようなところにあったのでしょうか。継高が元服の際に賜った刀「金象嵌銘 兼光」(かねみつ)をご紹介すると共に、「名君」と称された彼が行なった藩政改革の実像に迫ります。

継高が見舞われた最大のピンチ「享保の大飢饉」

誕生から福岡藩主になるまで

黒田継高

黒田継高

1703年(元禄16年)、継高は福岡藩の支藩であった直方(のおがた)藩の藩主「黒田長清」(ながきよ)の長男として生まれました。幼名は菊千代で、のちに「長好」(ながよし)と名乗っています。

1714年(正徳4年)には、継高の従兄で福岡藩第5代藩主「黒田宣政」(のりまさ)の養嗣子に。そして同年5月1日には、江戸幕府第7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)に謁見して元服し、従四位下筑前守を叙任。その際、家継の継の字の偏諱(へんき:貴人の名前の2文字のうち、通字でない1文字のこと。徳川将軍家から与えられるのは、格式の高い大名家のみに限られていた)を賜り、継高に改名しました。また、同時に松平姓も下賜されています。

そして1719年(享保4年)、宣政の致仕(ちし:官職を辞めて隠居すること)に伴い、家督を相続。福岡藩第6代藩主となったのです。

領民を窮地に追いやった大飢饉の発生

福岡藩は、継高が藩主になる以前から財政面において窮乏していました。1732年(享保17年)、その状況に追い打ちをかけるように、江戸四大飢饉のひとつ、享保の大飢饉が発生します。その原因は、冷夏と病害虫、洪水などによる米の凶作で、中国・四国・九州地方の西日本各地で猛威を振るったのです。

収入の大部分を年貢米の売却代が占めていた福岡藩の財政でしたが、平年45万石あった石高が、この年の収穫はたったの7万石ほど。この飢饉による領民の犠牲者の数は、一説には当時の福岡藩の人口約2割にあたる、6~7万人にも上ると言われています。

この享保の大飢饉のみならず、1729年(享保14年)の干ばつなどによる米の不作、1730年(享保15年)の疫病の大流行など、毎年のように災害に襲われていた福岡藩。領民達の生活は、筆舌に尽くし難いほどの困窮を極めていたのです。

領民ファーストの藩政改革で困窮からの脱却

享保の大飢饉

享保の大飢饉

「つんなんごう つんなんごう 荒戸(あらと)の浜まで つんなんごう」これは、福岡に伝わるわらべ歌。可愛らしい手繋ぎ遊びの歌ですが、享保の大飢饉の際、藩の米蔵から放出された「お救い米」(おすくいまい:災害時の困窮化防止のため、幕府や領主などから与えられる救援米)をもらいに行くときに、行き倒れにならないよう、人々が互いに手を繋いでいたことが歌われています。

領民達がどれほどの苦しみの中にあったかが分かる歌ですが、このとき継高は、幕府に嘆願し2万両の救援金と救援米を借りる手筈を整えました。それらは福岡藩の領民のために使われたのはもちろんのこと、近隣の藩にも授けたと言われています。

そして継高は、困窮化した藩の体制を立て直すため、家老「吉田栄年・保年」(よしだまさとし・やすとし)父子を登用し、様々な藩政改革に乗り出すのです。

改革その1:「用心除銀」の制定

用心除銀(ようじんよけぎん)は、備荒貯蓄(びこうちょちく:凶作や飢饉などの災害に備えて、米や金などを蓄えること)の制度。江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」にならって設置した目安箱の訴状に基づいて制定されました。領民の切なる願いを拾い上げたのです。

改革その2:「助郷役」の負担軽減

江戸時代には、参勤交代などの公的な貨客輸送のため、宿駅に人馬を常備させておく「伝馬役」(てんまやく)という課役がありました。そして、それが不足したときに補充させる助郷役(すけごうやく)という労役があらかじめ指定された周辺の村に課されており、農繁期と重なった場合など、農民にとっては非常に重い負担だったのです。

さらに助郷役は、天領(てんりょう:江戸幕府の直轄領)、譜代大名領、外様大名領によって料金が異なる(黒田氏は外様大名)不公正なもの。継高は、貧困にあえぐ領民達の生活を少しでも楽にするために幕府に粘り強く掛け合い、最終的には大幅に軽減させました。

改革その3:堀川における開削工事の再開

堀川は洪水を繰り返していた遠賀川(おんががわ)の分水で、初代藩主・長政の時代である1621年(元和7年)から開削工事が行なわれていた運河。1623年(元和9年)に長政が亡くなると、藩が財政難に陥っていたこともあって工事は中断。再開の目処が立たないままになっていましたが、享保の大飢饉をきっかけに継高は再び工事を行なうことを決断しました。そして、1751年(宝暦元年)に堀川の開削工事が再開され、1762年(宝暦12年)、遂に運河が開通したのです。

これにより、洪水の防止や灌漑(かんがい)用水の確保だけでなく、年貢米や物資などの船による効率的な運送が可能になりました。

この他にも継高は、「運上銀」(うんじょうぎん)と呼ばれる租税体系の改編や、長政によって始められた、家臣達を集めて忌憚のない意見を交換し合う、月に一度の「異見会」(いけんかい:別名腹立たずの会)を復活させるなど、いろいろな改革を次々に実行し、飢饉後の藩の緊縮財政を再建することに尽力したのです。

継高が名君となるきっかけに!?刀「金象嵌銘 兼光」

このように、どんな困難に直面しても領民のことを第一に考え、名君と呼ばれるのにふさわしい治世を行なった継高。幕府からも高く評価され、1752年(宝暦2年)に左近衛権少将(さこのえごんしょうしょう)への官職昇進を受けました。

さらには、1768年(明和5年)、石高や家の格式によって決められていた参勤交代の装いを、対挟箱(はさみばこ:衣服などの身の回りの品を入れた長方形の箱。参勤交代などの道中に従者に担がせた) と槍2本の規模に拡充することを許可されています。

51年にも亘る治世期間において、見事な政治的手腕を見せた継高でしたが、その始まりは大人として、そして黒田家の跡取りとしての自覚を改めて持ったであろう、元服にあったのかもしれません。将軍に謁見しての元服の際には、引出物として日本刀を賜るのが慣わしで、継高は、徳川家継より刀「金象嵌銘 兼光」を譲り受けたのです。

刀 金象嵌銘 兼光

刀 金象嵌銘 兼光

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
鎌倉時代 特別重要刀剣 刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
詳細を見る

「兼光」は、鎌倉時代後期から南北朝時代中期にわたって作刀した(初代から2代にわたる説あり)、備前長船派(びぜんおさふねは:備前国長船 現・岡山県瀬戸内市を拠点とした刀工集団)の刀工。その技術力の高さは、日本刀の斬れ味のランクの最上位である最上大業物(おおわざもの)に列せられるほど。

作風は、初期には父・景光(かげみつ)の備前伝の正系を伝えるような肩(片)落ち互の目(ぐのめ)の刃文がよく見られましたが、後期には当時流行していた相州伝(そうしゅうでん:相州鎌倉で正宗が確立した作刀法)の特徴である湾れ(のたれ)調の物が始まっています。

このような作風は、備前伝に相州伝のものが加味されていることから「相伝備前」と称され、兼光はその代表工のひとりです。ちなみに、元来この刀は大太刀で、大磨上げ(おおすりあげ:銘が残らないほどに刀身を短くすること)されたと見られています。

大磨上げ

大磨上げ

また、もとは尾張徳川家に伝来していた物で、なんらかの理由で伊勢亀山藩(いせかめやまはん:現・三重県亀山市)藩主・板倉(いたくら)家に尾張徳川家より下賜。

そして、将軍徳川家の蔵刀を管理する台帳であった「御腰物台帳」(おんこしものだいちょう)によれば、1688年(貞享5年)に「板倉重常」(しげつね)より、将軍徳川家に献上されました。その後、兼光は黒田家に伝来する日本刀となりましたが、将軍家に献上されるほどの物であったことから、やはり名刀であることが窺えるのです。

刀 金象嵌銘 兼光と名君 黒田継高(長好)

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