「刀 無銘 伝長義」を所持していたとされるのは、尾張徳川家家老・竹腰家(たけのこしけ)です。竹腰家の初代「竹腰正信」(たけのこしまさのぶ)は、尾張徳川家の初代藩主「徳川義直」(とくがわよしなお)と異父兄弟の関係。竹腰正信と徳川義直は共に成長し、やがて竹腰正信は家老へ、徳川義直は藩主へと大きく躍進していきます。そして、刀 無銘 伝長義を作刀したとされるのは、南北朝時代の刀工「長義」(ながよし/ちょうぎ)。最年少で「正宗十哲」に名を連ねた名工です。竹腰家と刀 無銘 伝長義についてご紹介します。
竹腰正信
「竹腰正信」(たけのこしまさのぶ)は、1591年(天正19年)に「竹腰正時」(たけのこしまさとき)と「お亀の方」(おかめのかた)との間に誕生。
夫・竹腰正時が亡くなると、お亀の方は「徳川家康」のもとで奥勤めを始めました。
徳川家康は確実に子を産ませるために、出産経験のある女性を側室に迎えることが多かったのは有名な話。
竹腰家(たけのこしけ)の祖である竹腰正信の生母・お亀の方も、徳川家康に見初められて、のちに尾張徳川家の祖となる「徳川義直」(とくがわよしなお)を産みました。
そのため、竹腰正信は初代尾張藩主である徳川義直の異父兄なのです。このような縁で、竹腰正信も近侍として召し上げられ、1607年(慶長12年)に「成瀬正成」(なるせまさなり)と共に徳川義直の後見役を任されます。
1611年(慶長16年)には、跡継ぎのないまま亡くなった尾張藩執政「平岩親吉」(ひらいわちかよし)に代わり、竹腰正信は「名古屋城」(現在の愛知県名古屋市中区)の普請を監督。翌年は、2代将軍「徳川秀忠」の御前で砲術の腕前を披露して褒賞として10,000石を賜ります。
さらに1619年(元和5年)に、徳川義直より美濃国今尾藩(みののくにいまおはん:現在の岐阜県海津市平田町今尾)に30,000石を与えられ、以降は、成瀬正成と共に尾張藩の御附家老(おつけがろう:徳川将軍家の命を受けて家老になる者のこと)を務めることになります。
江戸幕府による幕藩体制下では、10,000石以上の領地を有する藩主は独立大名とする決まりがありました。
30,000石を持つ竹腰家は当然大名となるはずでしたが、竹腰家は江戸時代を通じて、大名として認められていません。なぜなら尾張藩の家臣であるため、竹腰家は江戸幕府より正式な藩として認められていなかったからです。
竹腰家と同じように、尾張国犬山藩(いぬやまはん:現在の愛知県犬山市)を与えられて「犬山城」を居所とした成瀬家をはじめ、紀州徳川家の御附家老である安藤家、水野家、水戸徳川家の御附家老・中山家など「徳川御三家」の御附家老5家は、大名として認められることはありませんでした。
竹腰正信の築いた今尾陣屋跡
そこに大きな変化が現れたのは、1868年(慶応4年)の明治維新直前のこと。
1868年(慶応4年)1月27日に明治政府により、ようやく御附家老5家にも立藩が認められ、竹腰家は10,000石を尾張藩に返還して20,000石の大名となりました。
ところが、翌年の1869年(明治2年)6月23日に「版籍奉還」(はんせきほうかん)が行われ、藩主が有していた土地や人民の支配権を朝廷に返還することになります。
明治政府の政治改革により、竹腰家が正式に大名を名乗ることができたのは、わずか1年半の間のことでした。これは、犬山藩の成瀬家や紀州・水戸御三家の御附家老5家も皆同じです。この5家は、のちに揃って男爵に叙せられました。
竹腰家が所有した「刀 無銘 伝長義」の作者とされる「長義」(ながよし/ちょうぎ)は、南北朝時代の備前国(現在の岡山県)長船派(おさふねは)の刀工です。相模国(現在の神奈川県)「正宗」(まさむね)の門人となり、「正宗十哲」に最年少で名を連ねました。
また、本来「ながよし」と読むところですが、「長吉」(ながよし)と名乗る別の刀工と区別するため「ちょうぎ」と呼ぶのが慣例となっています。
長義の作風は、身幅広く重ね薄く反りの少ない相州伝らしい姿が特徴。備前長船派でありながら、正宗の影響を強く受けた作風となっています。刀 無銘 伝長義も、長義の特色を余すことなく示しており、大互の目(おおぐのめ)や丁子刃など、様々な刃文の入り混じった非常に華やかな1振です。
その個性的な作風から、後世の刀工に与えた影響も大きく、新刀の祖と呼ばれる江戸時代の名工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)もその影響を受けたひとりとされています。
長義が打った刀剣には名物が多く、そのなかの「山姥切」(やまんばぎり)と号された刀剣の写しを堀川国広が作刀。
すると、このできが素晴らしかったことから堀川国広作の刀剣は、「山姥切国広」(やまんばぎりくにひろ)と呼ばれ、長義作の山姥切と共に重要文化財に指定されています。