名家に代々伝えられた日本刀

奥州伊達家伝来の脇差 大磨上無銘 伝義景
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猛者揃いの戦国大名のなかで、現在の東北地方に当たる奥羽地方(おううちほう)最大の勢力を誇っていた「伊達家」。同家は、17代当主で仙台藩(現在の宮城県仙台市)初代藩主である「伊達政宗」(だてまさむね)の時代に隆盛を極めました。「独眼竜」(どくがんりゅう)の異名を取り、伊達家歴代当主のなかでも高い人気を博す伊達政宗を始めとする伊達家の歴史を、その家系図と併せて紐解くと共に、同家に伝来した「脇差 大磨上無銘 伝義景」(わきざし おおすりあげむめい でんよしかげ)についても解説します。

伊達家の略史

伊達家のルーツはあの有力貴族から始まった

伊達氏のルーツを辿っていくと行き着くのは、平安時代前期の公卿(くぎょう)「藤原山蔭」(ふじわらのやまかげ)の子孫と称していた人物です。当初は、有力貴族の藤原家が領していた常陸国伊佐郡(現在の茨城県筑西市)や下野国中村(現在の栃木県真岡市)に住していたことから、その姓を「伊佐」(いさ)や「中村」と称していました。

伊達家の始祖・伊達朝宗

伊達家の始祖・伊達朝宗

そんななか、1189年(文治5年)に勃発した「奥州合戦」(おうしゅうかっせん)に、藤原山蔭の流れを汲む「常陸入道念西」(ひたちにゅうどうねんさい)が「源頼朝」(みなもとのよりとも)方として参陣。

常陸入道念西は、同合戦で大きな武功を挙げたことから、源頼朝より伊達郡(現在の福島県伊達市)を賜ります。

そして常陸入道念西は、これを契機に「伊達」姓に改めて「伊達朝宗」(だてともむね)と名乗るようになり、伊達家が誕生したのです。

伊達家が勢力を拡大した経緯

伊達朝宗が源頼朝に目を掛けられるようになったことで、源氏との結び付きを強めていった伊達家。鎌倉時代には、これまでの陸奥(むつ:現在の福島県、宮城県岩手県青森県)や下野(現在の栃木県)、常陸(現在の茨城県)以外にも、出雲(現在の島根県東部)や駿河(現在の静岡県中部、及び北東部)など、全国各地で地頭職を得ていました。1333年(元弘3年[南朝]/正慶2年[北朝])に鎌倉幕府が滅亡すると、伊達家は、奥州(現在の東北地方北西部)を代表する存在へと成長していきます。

南北朝時代に入り、7代当主「伊達行朝」(だてゆきとも)別称「伊達行宗」(だてゆきむね)は、96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)による「建武の新政」(けんむのしんせい)に際し、「奥州式評定衆」(おうしゅうしきひょうじょうしゅう)のひとりに任じられました。

そののち伊達家は、しばらくは同天皇率いる「南朝」方に属しています。しかしその勢力が弱ってくると、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が擁立した「北朝」方に与するように。これは、8代「伊達宗遠」(だてむねとお)の頃のことでした。

官位・大膳大夫(だいぜんのだいぶ:宮中や儀式の膳を担当する役の長官)であった9代「伊達政宗」(だてまさむね)の時代には、室町幕府と鎌倉公方(かまくらくぼう)が対立します。このとき9代・伊達政宗は同幕府と手を組み、鎌倉公方による奥州支配に敵対していました。

17代・伊達政宗

17代・伊達政宗

そしてこの頃までには、出羽国長井荘(現在の山形県置賜郡)などの地域に、伊達家の勢力が拡大していきます。

9代・伊達政宗は縁戚関係にあった京都公方と繋がるなどして、その巧みな交渉力を発揮し伊達家興隆の礎を築きました。

独眼竜(どくがんりゅう)で知られる17代「伊達政宗」(だてまさむね)は、このような9代の才能に尊敬の念を抱き、同じ名前を用いたと伝えられているのです。

1483年(文明15年)、12代「伊達成宗」(だてしげむね/なりむね)が上洛します。この際に伊達成宗は、室町幕府8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)などに馬95頭や太刀(たち)23振、砂金380両など莫大な量の進物を献上。これには守護職を置かない代わりに設けられた、奥州を統括する「奥州探題」(おうしゅうたんだい)職を得たい伊達成宗の思惑があったと推測されているのです。

伊達成宗が同職に任じられることは最後まで叶いませんでしたが、そののち、14代「伊達稙宗」(だてたねむね)が、奥州探題とほぼ同格である「陸奥守護」に任じられています。また、伊達稙宗は1536年(天文5年)、「伊達氏御成敗式目」とも呼ばれる分国法「塵芥集」(じんかいしゅう)を制定。これにより伊達家は統治機構の拡充を進め、伊達稙宗自身も陸奥国会津(現在の福島県会津若松市)を拠点としていた「蘆名盛高」(あしなもりたか)の娘と政略結婚するなどして、奥州での地位を確固たるものにしていきました。

ところが1542年(天文11年)に、伊達稙宗とその次男「伊達晴宗」(だてはるむね)の間で、「天文の乱」(てんぶんのらん)と呼ばれる内紛が繰り広げられます。6年に亘って行われたこの戦いは、最終的には伊達晴宗が優位のまま、和睦が成立。伊達稙宗は隠居し、伊達晴宗が15代当主となったのです。

伊達晴宗は1555年(天文24年)、室町幕府より奥州探題に補任されましたが、天文の乱によって配下の諸大名や家臣達との信頼関係が崩れたため、伊達家の勢力は一時的に衰退。

1565年(永禄8年)に家督を継ぎ、16代当主となった伊達晴宗の次男「伊達輝宗」(だててるむね)が、権勢を誇っていた有力家臣達を排除したことで領国における覇権を握り、伊達家の勢力を再び回復させたのです。

17代当主・伊達政宗の登場とその功績

1584年(天正12年)に伊達輝宗が隠居すると、嫡男の伊達政宗が17代当主の座に就きます。伊達家の拠点は、伊達政宗の祖父・伊達晴宗の時代に伊達郡から出羽国米沢(現在の山形県米沢市)へ、さらに伊達政宗の時代に、陸奥国玉造郡(現在の宮城県大崎市)へ移されました。

仙台城・大手門脇櫓

仙台城・大手門脇櫓

当主となった伊達政宗はまず、武蔵国(現在の埼玉県東京都23区、及び神奈川県の一部)の「畠山家」(はたけやまけ)、陸奥国岩瀬郡の「二階堂家」(にかいどうけ)といった主要な戦国大名を次々と滅亡させます。

そして伊達政宗は、主君「豊臣秀吉」が「北条氏」を討った「小田原の役」(おだわらのえき)や「関ヶ原の戦い」など、戦国時代における主要な合戦に参陣し、多大な戦功を残したのです。

1603年(慶長8年)に伊達政宗は仙台城仙台市)を居城とし、620,000石を領する大名となりました。

奥州伊達家 家系図

奥州伊達家 家系図

伊達家の家紋から分かること

伊達家の定紋は仙台笹だけではなかった?

家紋には、各家で定めている「定紋」(じょうもん)とそれ以外の「替紋」(かえもん)の2種類があります。武家の定紋は嫡男のみが継ぐことを許されていたため、時代を経るにつれて替紋が増えていきました。なかでも伊達家は多くの替紋を用いていたことで知られ、その数は、伊達政宗が当主であった時代が最大であったと伝えられています。

  • 仙台笹(竹に雀)
    仙台笹(竹に雀)
  • 三つ引両
    三つ引両

伊達家の定紋として有名な「仙台笹紋」は、円状の竹笹の中に向かい合った雀が配された「竹に雀」の意匠。これはもともと14代・伊達稙宗が、「上杉家」と姻戚関係にあった蘆名盛高の娘と結婚する際に、婿引出物として上杉家から贈られました。

竹と雀の取り合わせは竹が常緑であることに加え、雀が餌を食べる様が厄をついばむ意味に例えられることから、一族の繁栄などの象徴として用いられていた吉祥紋。この竹と雀の意匠をもとにした仙台笹紋が、15代・伊達晴宗の代に使われるようになったのです。

伊達政宗も用いていたことにより、伊達家の家紋と言えば仙台笹のイメージがありますが、実はそれ以前に同家では、別の意匠が定紋であったと伝えられています。それは、「三つ引両紋」(みつひきりょうもん)。伊達家の始祖・伊達朝宗が奥州合戦に従軍した際、その武功が認められて源頼朝より下賜された意匠です。

家紋の多さは処世術に長けていた証しだった

伊達政宗が当主になると、伊達家における替紋の種類は一気に増加。豊臣秀吉が、皇室の紋章であった「菊紋」と「桐紋」の使用を許可されたことがきっかけとなり、伊達政宗は、「十六葉菊紋」(じゅうろくようぎくもん)と「五七桐紋」(ごしちのきりもん)を拝領。これらを替紋として使用していたのです。さらに伊達政宗は、深い交友関係を築いていた「細川忠興」(ほそかわただおき)に懇願し、「細川家」の家紋である「九曜紋」(くようもん)を譲り受けました。

蟹牡丹

蟹牡丹

また、20代「伊達綱村」(だてつなむら)は、1680年(延宝8年)には公家における「五摂家」(ごせっけ)のひとつ「近衛家」(このえけ)より、「牡丹紋」(ぼたんもん)を拝領。

21代「伊達吉村」(だてよしむら)がこれにアレンジを加え、「蟹牡丹紋」(かにぼたんもん)の意匠を自身の家紋に用いています。

このように伊達家における家紋は、勢いのある戦国大名や格式の高い家などの有力者達から賜っていました。

つまり、多種多様な伊達家の家紋からは、伊達家に世渡り上手な武将が多くいたことが窺えるのです。

伊達家伝来の「脇差 大磨上無銘 伝義景」

伊達家に伝来したと伝わる本脇差(わきざし)は、「備前長船派」(びぜんおさふねは)の支流に属した刀工「義景」(よしかげ)が手掛けたと推測されています。

古来、同工は備前長船派本流の名工「兼光」(かねみつ)や「長義」(ながよし/ちょうぎ)の門弟であったと考えられていましたが、逆鏨(ぎゃくたがね:普通の[めい]字とは逆に右から左へ彫った銘)に切る銘振り(めいふり)や作風などから、同派支流の刀工とする説が有力視されているのです。

本脇差の姿(すがた)は、大きな鋒/切先(きっさき)や広い身幅(みはば)など、南北朝時代の特長をよく示しています。また、本脇差は大磨上げ(おおすりあげ)となっていますが、小板目肌(こいためはだ)がよく詰み(つみ)、地景(ちけい)が盛んに見られる地鉄(じがね)のみならず、小互の目(こぐのめ)や小湾れ(このたれ)といった、多彩な変化が現れる刃文(はもん)などの作風から、義景作と極めることが可能です。

脇差 大磨上無銘 伝義景
脇差 大磨上無銘 伝義景
無銘
鑑定区分
重要刀剣
刃長
56.4
所蔵・伝来
伊達家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

奥州伊達家伝来の脇差 大磨上無銘 伝義景

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